先にも取り上げた「この国のかたち一」を読んでいる。
歩んできた時代について、よくこんなとらえ方をし、私たちに書き下して解説ができる、とつくづく感心するしかない。
以下、臨書するように、自分のための引用です。
ルネサンス以後の個人の自覚のたかまりについては私ども日本人はずいぶん読まされてきたが、江戸期の日本にも似たような現象があらわれはじめていた。かすかながらも個人が成立しはじめるたとえば中世では、ひとびとはブドウの房のように一族としてぶら下がっていたが、商品経済のさかんな世になると、モノの売買もカネの貸借も、すべて個人が矢面に立つのである。
そういう社会にあっては神仏を敬しても加護は頼めず、家格の権威も役にたたず、ついにはひとびとは現世的な人間主義やおのれの一個を戒める自律性をもたざるをえなくなるのである。
また、、モノの価値をきめるのは権力ではなく相場である。ひとびとは知らずしらずに合理主義にならざるをえない。江戸中期ごろから、ひとびとの自覚なしに、゛近代゛という潮が腰まできていたのである。
突然、こんな引用文では、読みたくもないでしょうね。
ひとり、司馬さんの分析に悦に入っています。
失礼。
そういえば、私の読書時代のスタートにも、夏目漱石だから、舶来のでしょうが、「個人主義」とか自我についての云々の文章からだったように思います。
そういう社会にあっては神仏を敬しても加護は頼めず、家格の権威も役にたたず、ついにはひとびとは現世的な人間主義やおのれの一個を戒める自律性をもたざるをえなくなるのである。
流れはそういう方向にあったのですね。納得いかないことが多かったりしましたが、先取りしていたためだったのか、時代が下った(60代の)、今のほうが生きやすいです。
歩んできた時代について、よくこんなとらえ方をし、私たちに書き下して解説ができる、とつくづく感心するしかない。
以下、臨書するように、自分のための引用です。
ルネサンス以後の個人の自覚のたかまりについては私ども日本人はずいぶん読まされてきたが、江戸期の日本にも似たような現象があらわれはじめていた。かすかながらも個人が成立しはじめるたとえば中世では、ひとびとはブドウの房のように一族としてぶら下がっていたが、商品経済のさかんな世になると、モノの売買もカネの貸借も、すべて個人が矢面に立つのである。
そういう社会にあっては神仏を敬しても加護は頼めず、家格の権威も役にたたず、ついにはひとびとは現世的な人間主義やおのれの一個を戒める自律性をもたざるをえなくなるのである。
また、、モノの価値をきめるのは権力ではなく相場である。ひとびとは知らずしらずに合理主義にならざるをえない。江戸中期ごろから、ひとびとの自覚なしに、゛近代゛という潮が腰まできていたのである。
突然、こんな引用文では、読みたくもないでしょうね。
ひとり、司馬さんの分析に悦に入っています。
失礼。
そういえば、私の読書時代のスタートにも、夏目漱石だから、舶来のでしょうが、「個人主義」とか自我についての云々の文章からだったように思います。
そういう社会にあっては神仏を敬しても加護は頼めず、家格の権威も役にたたず、ついにはひとびとは現世的な人間主義やおのれの一個を戒める自律性をもたざるをえなくなるのである。
流れはそういう方向にあったのですね。納得いかないことが多かったりしましたが、先取りしていたためだったのか、時代が下った(60代の)、今のほうが生きやすいです。