前記事に書いた長時間バスのことですが、バス移動時間が7時から16時までというのは、ちょっと覚悟が要りそうです。笑
自己負担をしてもいいから、飛行機や新幹線でという人もいらっしゃると思うのですが、皆さん口になさらないところが、おとな。(出欠表には「できれば新幹線で」と念じるように添え書きしていた人もあったとか。苦笑
母の顔を見にいくバス旅の北陸行は4時間半ぐらいでしょうか。
そういえば、深夜バスに乗って広島の原爆ドームまで行ったことがありました。
夏でした。次女が高校1年で長女が自宅通学の大学生。長男は浪人中でしたでしょうか。その二人を連れて、まだ一度も訪ねたことがない被爆地を訪れたかったのです。
節約モードの時でしたから、片道は深夜バスで早朝到着、一泊して帰りは新幹線という行程でした。
23時も後半ぐらいに乗車。深夜長距離専用バスなので、ひとり用リクライニングシートが3列並びのバスでした。乗ってすぐに毛布が配布され、照明を消しておやすみなさい、という塩梅です。
それではハイお休み、というわけにもいかず、寝ないと翌日が大変、という気持ちで目を閉じながら焦ったりしていたのを覚えています。
ようやくバスが到着した時は、早朝ながらも、これから一日照らし続けるぞ、といった日差し燦々の中でした。
すぐに原爆ドームが目の前に現れました。
何度も教科書やらニュースで目にしていた建物がこんなふつうの生活の場にあったのだ、という印象を受けました。
そうですよね、現役時代は産業○○館とかなのですものね。
平和祈念館に入って、資料の前に立ってなにより先に身体が反応したのか背筋がヒヤッとしたことも記憶にあります。
階下にあった被爆者の皆さんが原爆投下時の被災者の様子を描かれた絵も印象に残っています。祈念館で販売されていた文庫本、大江健三郎のルポタージュ「ヒロシマノート」を購入し、帰宅後に読んだことも、理解を深めるのに役立ったと記憶しています。
炎暑の中、深夜バスの疲れもものともせず、被災した旧小学校など、あたりの旧跡を見て回ったのですが、、、娘たちは記憶に残っているでしょうか。苦笑
近場のホテルに宿泊。翌日は宮島へ向かいました。厳島神社の周りは鹿でいっぱい。こんな場では動物好きの次女の本領発揮。鹿せんべいを目当てにしつこく押し寄せる鹿軍に泣き出す子供たちもいる中、楽しくせんべいやりをしていました。
心残りは、実は朝早くからの行動を起こせば、海軍兵学校のあった江田島にも行けたのですが、二つを回る元気がなくて、江田島を端折ってしまったのです。人間魚雷が出陣するとき、島を一回りして別れの挨拶をしていった、という、惨い史実の場所にも、という気持ちがあったのですけれども、、、。というわけで、その時行かなかったという思いとともに、行く機会があったら、という気持ちは今も持っています。
そのころは40代半ばでした。こうして綴り始めると、当時抱えていた問題なども、走馬灯のように思い出されます。ひとつひとつ向き合い消化しながら今日に至っているのだと、その道のりに感慨深いものがあります。文字に綴らなくてもかけがえのない自分史なんですものね。そして、自分史は死ぬまで続くわけですから、またままだこれからも、という意欲?(欲?)はあります。苦笑
あのころから20年後になります。
縁あって、またバス旅。有意義な旅にしたいものです。
このたび、広島で外交官サミットがあり、原爆投下したアメリカのケリー国務次官が、参加者の皆さんと平和祈念館を訪問なさったと新聞にありました。予定になかった原爆ドームまでも足を運ばれたとか。アメリカ国内では原爆投下は戦争を終わらせるための得策だったという意見が半数を超える世論であることから、政府としての訪問は微妙な要素もあるそうなのですが、実際に足を運んで資料に接してくださったということは大いに意義があることだと、時の流れを思います。そして来月のオバマ大統領の来日時の広島訪問も実現するのではないかと思っている一人です。