日々の暮らしから

「街中の案山子」「庭にいます。」から更にタイトル変更します。

小春日和の一仕事。障子の張り替え。

2018-11-14 09:26:18 | 家政・料理
小春日和の穏やかな日が続く。

先日購入した障子紙も揃っていることだし、張り替えをしようと思う。

子どものころの毎年の障子の張り替えは、もっと北風が冷たかったイメージ(多分師走に入っていた)けれど、庭で障子戸を洗うのに冷たい風はいやだから、早目に実行します。

たった2本だけ。




子どものころの張り替える障子はもっと沢山だったし、障子紙も幅1尺程度の巻紙を下から段状に貼っていったものです。
反対だとつなぎ目にホコリが溜まるからと、母が教えてくれたものです。今は昔。

今は、大きな紙を一枚貼るだけ。障子戸の2枚分長さにすでに切ってあるのが多いのですが、なぜか我が家の障子戸はながいらしく、それでは丈足らずになるのです。で、前回は接ぎをしていた。苦笑

なので、今回は4枚の長さのものを購入。うまくいくかしら?

とりあえず、きれいにはがせました。

庭で、桟をザブザブ雑巾でこすり洗いしたところ。



今日は、11時過ぎにはホットヨガに出かけるので、帰ってから、貼りたいと思っています。

今日の庭

ハッサク


ビオラ


ヒメツルソバ


障子戸を外したので、ガラス戸も拭いておいたほうがいいですね。



以下、見解の相違、というか愚痴です。

↑ に書いた、接ぎのしてあった障子のほうに、夏に帰省した3歳児が、虫取り網の柄を突き刺して、穴をあけました。うっかりです。そのことを気にして、しばらくいじけて、外に出て行ってしまってなかなか室内に戻ろうとしませんでした。勿論、1度は注意したけれど、叱ったりはしていません。子供だし、そんなものだと思って。
で、主婦の私には、お正月に来る時までに、張り替えておかないと、だらしないと思う感覚は私にはありました。
別に、普通の感覚だと思うのです。
どころが、夫に話題にすると、「キミのその考え方はいけない」というのです。
3歳児でも、自分のしたこと(破ってしまったこと)に、改めて向き合うことが大事、だと。
ええっ!なんで?
あの時、恐縮して家に入ってこられないほどしょげていたのに、まだ、反省を求めるの?

私は、そっと、直しておいたほうが、そして、話題にしなくても本人もわかると思うのです。
人間関係って、そんなものです。

違うかな~。

ずっと、若かった時に、指先のケガをしたとき、出血を防ぐために布で塞いでいたのを、「しっかり自分で傷口を見るべきだ」と主張しました。そして、傷口をみた私は、そのまま貧血で倒れてしまいました。
あの時に通じるのを感じます。

甘えを許さないというのはわかりますが、自分だけじゃなく、しっかり恐縮している3歳児にも、痛みのさなかにあるものにも、さらに熟視すべき!、なんだから、そんな考え方はどうなのだろう。

きっと、障子の張り替えが年末の風物詩というイメージ、ないのでしょうね。


反省するとすれば、
こんなこと、話題にしないで、ひとりで済ませておくべき、が正解なのでしょうね。













コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

昨日のひとり学習。笑

2018-11-14 06:49:46 | 私の雑感あれこれ
お城についてWeb学習。

居ながらにして検索できる恩恵を享受しています。

いろんなことがわかりました。

自分用に綴っている雑文です。

車での土日旅行で、高速を伊勢方面へ走っているとき、小高い山の中腹に、お城(のかたちの比較的新しい建築物)が見えました。
あれはなんだろう。成功したお金持ちが建てた家なのだろうか。あれが自分の家だったらちょっと奇抜すぎて恥ずかしいけれど、成功して超お金持ちになった人って、周りの人の意見を聞かないところがあるからね~、などと話していた。

それ、何だったかわかりました。

伊勢の安土桃山城らしいです。
本来の安土桃山城は城跡しか残っていませんが、資料をもとに復元した建物らしいです。
(安土桃山城を検索すると、そちらのほうが先に出てくることから判明)
観光地らしいです。

で、私が知りたかったのは、
織田信長の安土桃山城のこと。1576年から3年がかりで、羽柴秀吉が陣頭指揮をとって建てた城で、近江の琵琶湖が望める高地に建てた。結構な山城で、もう数年前に杖をつきながら天守閣跡地まで登ったものです。

そして、今回行った、松坂城(跡)は、1588年に蒲生氏郷が築城しています。
蒲生氏郷は13歳の時に織田信長の岐阜城で人質として過ごした時代があった、と。
その信長は1582年6月2日に本能寺の変で命を落としています。

そんな時代の城だから、防衛への備えも十二分に考えられた城であり、蒲生氏郷という武将の勢力の大きさをも表している。私みたいな素人には、耳慣れない武将なのですけど。トホホ

日本の3大名城として並んでいるのは、名古屋城、大阪城、姫路城とのこと。①~③と順番をつけていいものやらどうやら。
おなじみの名古屋城が一番目に来ていたのに、あ~そうなんだ、といまさらながらに、思う。

名古屋城
もともと那古野荘という荘園があったところに、那古野城が築城されていて、一時信長も那古野城を居城にし、その後清州城を築城してそこに移ったとのこと。その那古野城は1582年に廃城になった(本能寺のあと、でしょうね)。
その場所に、徳川家康が1610年に名古屋城築城を命じた、という流れ。この城は西国の大名らに命じて工事をさせた天下普請によるもの。

大阪城
豊臣秀吉が1583年に築城をはじめ、1585年に完成
ただし、秀吉の作った大阪城は1615年の大坂夏の陣で炎上。
その後1620年の徳川時代になって、天下普請によって、秀吉の大阪城の石垣などは埋められて、石垣なども含めて新たに作られたもので、1626年に完成している。

姫路城 
1580年に黒田官兵衛が、秀吉に築城を持ちかけてできた。

熊本城
1591年から加藤清正が築城を計画、関ヶ原の合戦後の1601年から築城を開始し、1607年に完成。
加藤清正って、秀吉の7本槍だったはず、なのに、徳川の時代に築城を?、、、寝返っているのです。歴史通は当然に知っていることなのに、浅学の私はようやくここで認識するオソマツです。
関ヶ原で勝利をおさめた徳川幕府から、外様の島津(薩摩藩)の暴挙を抑える役目を担ったことから、鉄壁の防御が施されている、と。
加藤清正が移封になった後は、細川氏が城主になった。

彦根城
1603年築城(関ヶ原の後です)し始め、1606年に完成。
豊臣氏の反逆に備えての築城でした。これも天下普請による。


こうして、復習してみると、ひとつひとつに理由があり、歴史の動きを表しているのだと納得する。
天下統一にしのぎを削っていた勇者たちの、命の保障もどこにもない、ぶつかり合いの世界だったのでしょう。



私、徳川幕府の運営方針とされた、武家諸法度や禁中並びに公家諸法度も、その実情を学びたい、とか、気が多くて扱いかねる節があります。




時代の制約の中で、人々がどうチョイスして生きていたか、関心のあるところは、そこなんです。


文字が読めるって、いいことですね。







コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする