東福寺駅を下りると東福寺方面を目指す人の三々五々の観光客として歩く。
思っていたほど満員ではない。
東福寺は鎌倉時代に創建された禅寺。ときの摂政関白藤原(九条)道家の時代に九条家の菩提寺として造営。
相次ぐ火災にあいながらも、足利、豊臣、徳川家によって保護修理が加えられてきた、とのこと。
私はあまりにも浅学なのですが、今の時代に比べてGDPははるかに低い時代、政権の変遷があっても寺院の維持に熱心だったのですね。
現代人の精神構造との違いを思います(当たり前だろう、と叱責されそうですが、苦難からの救いを神仏への祈りとしていた、福祉政策の要素も?)
観光案内で紹介されている「通天橋」も、混み合ってもいず、紅葉もまだ半分は緑色でかつ、日差しも当たっていないので、ここが話題のところね、という目で眺める感じ。
方丈のお庭も観る。4面にお庭が配されている。南庭は石庭。市松模様に石を配したお庭もあり、結構斬新さを感じた。
たくさんの観光客を迎えるために、毎日箒目を新たにしているのでしょう。整えられた白砂には落ち葉の1枚も落ちていない。きっと、8時頃は準備で大忙しなんだろうな~、とも想像する。
東福寺を後にして、その裏手にあるという泉涌寺(せんにゅうじ)に向かう。
裏手というから簡単に行けるものと思っていたけれど、それなりに距離はあった。かつ、道筋もすんなり行かず、グーグルアースでチェックしたり、道行く人に尋ねたりしながらたどりついた。
皇室の菩提寺。
東福寺のあとで、ここまで訪ねる観光客は少ないこともあって御座所庭園を座ってゆったり眺めた。
そのあと、東福寺駅から京都駅に戻る。
京都駅から近鉄で東寺まで電車。京都駅から歩いて15分。東寺駅から10分。だいぶ疲れも感じており、電車を選択。
10分歩いたころに、五重塔が見えてくる。やっぱり圧巻です。
堂内は撮影禁止です。
東寺は平城京へ都を移した際に、王城の南に配した羅城門の東西に建造した大寺の東の寺です。
嵯峨天皇の時代に空海に下賜されて以降は密教寺院として、空海の時代に五重塔や行動が整えられていった。
何度も焼失しているが、再建されて現在がある。
ちなみに五重塔(国宝)は徳川家光の寄進により再建されたもの。
金堂(国宝)は豊臣秀頼が発願して再興させたもの。
講堂(重要文化財)は、当初の講堂は空海が完成させた。現在のものは1492年に再興されたもの。堂内には大日如来を中心に各如来、菩薩、明王、外側には帝釈天などの国宝、重文の像が鎮座しています。
実は、空海が作ったこともあり、講堂って、学僧たちが密教を学ぶ学問所かしらと想像していたのですが、沢山の仏像で満員でした。
空海の時代から、こうだったのか知りたいものです。
ここで12時はすっかり過ぎています。
昼食の話題は出ずに、抹茶と和菓子でエネルギー補給。「懐石料理は予約をしておかないと無理ね」と何度も口にしていた彼女は、ゆっくり京料理を食べたそうでした。
東寺から京都駅戻って、地下鉄を二条城前まで乗車。
下車して地上に出ると、目の前に世界遺産の二条城が見えます。
歩き疲れた足には、大助かりです。
外国人観光客の姿も目立ちます。
家康が1603年に天下普請により築城。天皇の守護のためもあり、大阪城の豊臣の監視、威圧の役割でもあった。
3代家光の時に後水尾天皇行幸に際して大規模な改修工事が行われ壮麗な城のかたちとなった。
にわか勉強の知識と解説を読みながら、二の丸御殿を歩く。
ひよひよと鳴く足元に、中学時代の修学旅行の時の『これが鴬張り』と歩いた記憶がよみがえる。
関ヶ原の合戦から数年後、大阪夏の陣の前。徳川も征夷大将軍に任じられたとしても、周りからの攻撃がいつ起こるかもしれず、最大の防衛に腐心していたであろう時代を思う。
狩野探幽をはじめとする狩野派の襖絵を堪能。西洋の場合は、勇者の人物像が飾られているのに、日本は虎や鷹、老松、牡丹など、描く対象物が違うものだと、そんなことを考えながらの二の丸御殿めぐりでした。
襖を画布として見立てる感覚、これが日本文化なんだと、浸らせてもらいました。
襖絵とは別物ですが、掛け軸という縦長の画布に奥行きのある広い世界を描くというのも、素敵(これは中国伝来の描法なのでしょうが)。
私たちの育った時代は、西洋文化を学ぶことを優先した時代だったのか、西洋絵画に重点がありました。
この年齢になって、日本建築物の中の美を目の前にすると、先人の美意識の洗練具合につくづく敬服します。
二条城をでて、そそくさと京都駅に戻る。
すでに4時頃。
お腹もすいたし、疲れもピーク。どこかで落ち着きたい、と京都駅ビルの中の日本食店で遅い食事。
観光地としては、リーズナブルな値段で十分美味しかったです。満足。
で、スムーズに5時前には新幹線ひかりに乗る。3列シートの空席があって、ラッキー!
帰路の人になりました。
思っていたほど満員ではない。
東福寺は鎌倉時代に創建された禅寺。ときの摂政関白藤原(九条)道家の時代に九条家の菩提寺として造営。
相次ぐ火災にあいながらも、足利、豊臣、徳川家によって保護修理が加えられてきた、とのこと。
私はあまりにも浅学なのですが、今の時代に比べてGDPははるかに低い時代、政権の変遷があっても寺院の維持に熱心だったのですね。
現代人の精神構造との違いを思います(当たり前だろう、と叱責されそうですが、苦難からの救いを神仏への祈りとしていた、福祉政策の要素も?)
観光案内で紹介されている「通天橋」も、混み合ってもいず、紅葉もまだ半分は緑色でかつ、日差しも当たっていないので、ここが話題のところね、という目で眺める感じ。
方丈のお庭も観る。4面にお庭が配されている。南庭は石庭。市松模様に石を配したお庭もあり、結構斬新さを感じた。
たくさんの観光客を迎えるために、毎日箒目を新たにしているのでしょう。整えられた白砂には落ち葉の1枚も落ちていない。きっと、8時頃は準備で大忙しなんだろうな~、とも想像する。
東福寺を後にして、その裏手にあるという泉涌寺(せんにゅうじ)に向かう。
裏手というから簡単に行けるものと思っていたけれど、それなりに距離はあった。かつ、道筋もすんなり行かず、グーグルアースでチェックしたり、道行く人に尋ねたりしながらたどりついた。
皇室の菩提寺。
東福寺のあとで、ここまで訪ねる観光客は少ないこともあって御座所庭園を座ってゆったり眺めた。
そのあと、東福寺駅から京都駅に戻る。
京都駅から近鉄で東寺まで電車。京都駅から歩いて15分。東寺駅から10分。だいぶ疲れも感じており、電車を選択。
10分歩いたころに、五重塔が見えてくる。やっぱり圧巻です。
堂内は撮影禁止です。
東寺は平城京へ都を移した際に、王城の南に配した羅城門の東西に建造した大寺の東の寺です。
嵯峨天皇の時代に空海に下賜されて以降は密教寺院として、空海の時代に五重塔や行動が整えられていった。
何度も焼失しているが、再建されて現在がある。
ちなみに五重塔(国宝)は徳川家光の寄進により再建されたもの。
金堂(国宝)は豊臣秀頼が発願して再興させたもの。
講堂(重要文化財)は、当初の講堂は空海が完成させた。現在のものは1492年に再興されたもの。堂内には大日如来を中心に各如来、菩薩、明王、外側には帝釈天などの国宝、重文の像が鎮座しています。
実は、空海が作ったこともあり、講堂って、学僧たちが密教を学ぶ学問所かしらと想像していたのですが、沢山の仏像で満員でした。
空海の時代から、こうだったのか知りたいものです。
ここで12時はすっかり過ぎています。
昼食の話題は出ずに、抹茶と和菓子でエネルギー補給。「懐石料理は予約をしておかないと無理ね」と何度も口にしていた彼女は、ゆっくり京料理を食べたそうでした。
東寺から京都駅戻って、地下鉄を二条城前まで乗車。
下車して地上に出ると、目の前に世界遺産の二条城が見えます。
歩き疲れた足には、大助かりです。
外国人観光客の姿も目立ちます。
家康が1603年に天下普請により築城。天皇の守護のためもあり、大阪城の豊臣の監視、威圧の役割でもあった。
3代家光の時に後水尾天皇行幸に際して大規模な改修工事が行われ壮麗な城のかたちとなった。
にわか勉強の知識と解説を読みながら、二の丸御殿を歩く。
ひよひよと鳴く足元に、中学時代の修学旅行の時の『これが鴬張り』と歩いた記憶がよみがえる。
関ヶ原の合戦から数年後、大阪夏の陣の前。徳川も征夷大将軍に任じられたとしても、周りからの攻撃がいつ起こるかもしれず、最大の防衛に腐心していたであろう時代を思う。
狩野探幽をはじめとする狩野派の襖絵を堪能。西洋の場合は、勇者の人物像が飾られているのに、日本は虎や鷹、老松、牡丹など、描く対象物が違うものだと、そんなことを考えながらの二の丸御殿めぐりでした。
襖を画布として見立てる感覚、これが日本文化なんだと、浸らせてもらいました。
襖絵とは別物ですが、掛け軸という縦長の画布に奥行きのある広い世界を描くというのも、素敵(これは中国伝来の描法なのでしょうが)。
私たちの育った時代は、西洋文化を学ぶことを優先した時代だったのか、西洋絵画に重点がありました。
この年齢になって、日本建築物の中の美を目の前にすると、先人の美意識の洗練具合につくづく敬服します。
二条城をでて、そそくさと京都駅に戻る。
すでに4時頃。
お腹もすいたし、疲れもピーク。どこかで落ち着きたい、と京都駅ビルの中の日本食店で遅い食事。
観光地としては、リーズナブルな値段で十分美味しかったです。満足。
で、スムーズに5時前には新幹線ひかりに乗る。3列シートの空席があって、ラッキー!
帰路の人になりました。