日々の暮らしから

「街中の案山子」「庭にいます。」から更にタイトル変更します。

「あの時」のワタシ

2021-07-05 19:24:18 | 家族
病院の一室で、だったと思う。
事故から2週間は経っていただろうか。
1週間目のお医者さんとの面談では、抗生物質を継続投与するかどうか、の判断を聞かれた。
その問題が山を越えて、まだ記憶が戻っていない娘が、妊娠中の赤ちゃんを月満ちて出産をしたとしても、ひとりで育てられるかどうか、高次脳機能障害が残る可能性があり、そうなるとたとえ出産はできても、日中赤ちゃんと二人での子育てができない状態も予想されます、と担当医は意見を述べた。
そこにいるのは、時に覚醒してもまだほぼ意識のないベットの上の娘と娘婿さんと私。

10年前の私はまだ身体の衰えを感じることはなかったから、私の口から出たのは
「私はできる限り娘を助けることはできます」
そして、娘婿さんに
「でも、今の仕事(自営)は抜けることができないから、貴方たちが我が家の近くに住んでくれたら、になるけれど、貴方(娘婿さん)の仕事を変わっても大丈夫?」と聞いた。
彼も、お医者さんから聞いた病状を受け止め、そして住む環境まで変わるかも、という提案にも、混乱していただろうけれど、彼はしっかりと頷いたように思えた。

お医者さんはどちらかというと最悪を伝えるところがある。
10月末に退院した娘は、3月末に出産し、私の助っ人を必要としないで育てている。



なんで、今日、こんな話題を思い出したかというと、
某YouTubeを見ていて、耳の聞こえない(スーパー)女性(30代半ば)が出産した赤ちゃんが障害児だとわかって落ち込んだ時、母親が「あなたが赤ちゃんを育てる自信がなくてもいいよ。大丈夫。私が育てるから」と言ってくれたことも支えになっている、というシーンがあった。彼女の母親は難聴児を育てた経験者です。だから耳が聞こえないのを克服して生きてきた娘が落ち込んでいるなら自分が変わってやろう、と。
10年前の私は、大丈夫助っ人するからね、という気持ちアリアリだったけれど、昨今の体力ではもう無理だろうな、と今の自分に重ねてみたからです。

近くに住んでいて、頼ってくれたらいいのだけれど、誰も頼ってこない。
私、交流欠乏症に陥っています。











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