日々の暮らしから

「街中の案山子」「庭にいます。」から更にタイトル変更します。

アメリカ人留学生

2005-04-16 09:07:50 | 私の雑感あれこれ
反日デモが問題になっていますが、国を越えると問題理解の基盤そのものが違ってくるから難しい。

先日書いた娘の体験談「講義中にサイレン(※)が…」の話を友人たちにすると、普通の顔が「やっぱりねー」の顔に変わります。「だから中国は…」と続くのがでしょうか。
(※)戦争中南京虐殺があった日の犠牲者を悼むサイレン
その時、つい言ってしまいます。
「だって、日本でも8月6日に広島で黙祷するじゃない」と。

国を置き換えると、今でもアメリカではパールハーバー(真珠湾奇襲)は忘れることの出来ない日であり、スミソニアン博物館で日本の広島や長崎の原爆展の企画が持ち上がるとクレームが出るという現実。

ほんの少しだけのかかわりなのですが、こんなこともありました。
昨日書いたソ・ヨンと一緒に我が家に来たアメリカ人学生ジェニファー。
彼女は短い3ヶ月間の大学生活は日本文化を学ぶために来たのであって、日本語学習には関心がないと主張し仲間のアメリカ人学生からの評判がイマイチだったのですが、帰国前になって、ひとりで広島に行ってきたそうです。
勿論日帰りでは無理な距離。
日本にとけこむ努力をしていたとは思えないのに。
きっと、日本行きの目的の一つに「広島行き」があったんだろうなと思い、彼女の日本観はどう印象づけられたかは知る由もないけど、見て来たことは忘れないだろう。

そして、行きたいといって広島に向かったはにかみ屋のアメリカの若者がいたことが、今もこのオバサンの心に残っている。



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韓国の先生

2005-04-15 19:55:33 | 私の雑感あれこれ
また娘からの電話の話です。
「久しぶりにソ・ヨンと長く話した」と。
ソ・ヨンは交換留学生として娘の通っていた大学に1年間来ていたときの友人。
大学卒業後は釜山で小学校の先生をしている。
韓国では親から教師への贈答が絶えなくて困っているとのこと。
「そこで、ソ・ヨンは頂きものをクラスの全員に配ったんだって。そうしたら、それからは来なくなったって」
親はげんきんなものです。
ソ・ヨンは24歳。

そういえば随分前、夫が国家公務員だった時、贈答品を受け取るわけにはいかないと宅急便で返送しようとしたら、割れ物は扱えないと断られ(中味は洋酒らしかった。当時は中味がこぼれたら他の品物に迷惑がかかると駄目だった)、とことこ乳母車を押しながら戻ったことがありました。
ビニールやら厚紙やらで包装し直したものの、再度とことこ乳飲み子と荷物を乳母車に乗せてお店に。
ゆすると中で揺れる感触だけはどうにもならず「缶詰です!」といってお願いしました。
その時私達夫婦27歳だったかな。

ソ・ヨンを我が家に夕食に招待した時、和室をみて
「あ、これって切れているんだね。写真でみたことあったけど、つながっていると思っていた」と畳の切れ目を指でなぞっていたソ・ヨン。
浴衣を着て喜んでくれたソ・ヨン。
きっと魅力的な先生やっているだろうな。



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新聞記事のコピー

2005-04-15 12:37:38 | 母のことなど
母から久しぶりの手紙。新聞記事のコピー在中。
地方紙の戦後60年の特集として母の戦中の苦労の体験が記事として写真入で載っている。
「読んだよ」と電話したら、またまた夫が出征したあとの1歳児と姑の3人の生活費を稼ぐための話を語りだした。
リヤカーに牛乳を積んで毎日10時間も配達したときの喉が渇いて仕方なかった話。見る見るうちに痩せたこと。次には初めての砂利運びの土方仕事しかなかったこと。背中の荷が重くて気を失うほどだったと。
私は娘だから、これまでに幾度も聞いている。
電話の母は言った「語ることは出来るけど、よう書けない。こうして新聞に語ったことを出してもらって、こういうこと(戦争のもたらした苦労を伝えること)もあろうかと、今まで生かせてもらえたのかもしれない」と。
母88歳。
新聞では母の語った内容の記事は他の60代70代の人たちよりも少し多かった。
「もっと、いっぱいしゃべったのでしょう」というと、「新聞社の人は10時から11時半まで居られた」と。
取材する記者達にとっての戦争は、親世代ではなく祖父母世代の遠い話に聞こえただろう。
お腹を満たすことがとても困難な時代、姑と幼児と自分のの食い扶持を工面するために堪えた7年か8年。
「(弁当のご飯分を助けてやろうと)空の弁当箱を持っておいで」といわれ、土方の飯場でご飯を詰めてもらったこともきっと語ったことだろう。
記者の人が上手く纏めてくれたとはいっていたけど、母には新聞から溢れた話がいっぱいある。
シベリヤ抑留を経て父が帰り、24年に私が生まれる。
私は「兄とは九つ違い」という言い方をずっとしてきた。
その9年間の月日は88歳になった母にとって忘れることの出来ない日々なのだろう。
「こうして新聞に出してもらって、こういうこと(戦争のもたらした苦労を伝えること)もあろうかと、今まで生かせてもらえたのかもしれない」
母の手紙に
「この世は自分を探しに来たところ。この世は自分を見に来たところ」との言葉も添えてあった。
母は88年生きて、命を与えられたことを自覚し、その命をどう生かしてきたか、としっかりと振り返っている。

なんと、いまどきの中年は(私のこと)、甘い甘い!
私の世代では介護の話題になることも多いけど「年寄りはねー」という話が出る。
そして私は、いくつになっても「自分の立ち居地」を自覚している母を思う。
そして離れて暮らしているから「元気でいてほしい」と願っている。





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まったく ささやかなこと

2005-04-14 15:27:00 | その他
「ローマでね、地下鉄のホーム間違えて、丁寧に案内してもらった」「街中で目的のホテルが見当たらなくて、たどたどしい英語と身振りでたずねたの」と、帰国してから電話で一人暮らしの娘に話すと、「そんなこと、どこにでもあることじゃない。私も東京で外国人に訪ねられたら教える。それだけのことだよ」
全く、そうです。
その翌日、駅でで滅多に地下鉄に乗らないという老人からホームを訪ねられたら、自分がいつもより丁寧になっているので、我ながら可笑しかった。自動券売機のところまで同行したりして…。

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年金未納のこんな場合

2005-04-11 07:38:37 | 社会問題
今朝の朝日の記事に社会保険庁は悪質な年金未納者からの徴収を徹底するとの記事があった。
所帯所得500万円以上で滞納は悪質であると。
まだ、基準の訂正はないのだろうか。
想像してみてください。
親の年収が500万円超、仮に600万円であり、息子、娘が何らかの目的で勉強中だったとしたら。
親は息子・娘の40年後の生活保障より、彼らの現在の夢に協力(援助)をするほうを選択すると思いませんか。
この場合の息子・娘が低収入、または無収入を理由の免除申請は認められるのでしょうか(6年前までは学生であった場合にも、免除は認められず滞納扱いでした)。
65歳になって支給される年金の掛金納付の基準が何故所帯の収入を単位とするのか理解できません。
20歳で成人と認めるのであれば、その時点から各人の義務であり権利であるという考えかたは出来ないものでしょうか。世帯主に義務を課すのはいかがでしょうか。

便宜的と思われる徴収方法をとりながら、「悪質滞納者」という文字を紙面に見た時、すべてではないけれど、「理由があって夢に挑戦している20代の若者を抱えた世帯もあるだろうに」と思いました。

「一定以下の収入しかない主婦」には納めなくても納めたこととして扱うという、理解の困難な仕組みもOKとする社会保障制度を運用していながら、上記のような場合も「悪質な滞納者」と表現されるのかと思うと理不尽に思いました。

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講義中にサイレンが・・・

2005-04-08 16:52:19 | 私の雑感あれこれ
これも娘から聞いた話。
お正月休みを利用して留学中の南京に娘を訪ねたとき、夜の雨降りの中、彼女は両親を大学内の寮へ案内しながら語ってくれた。
「このあいだね、講義中に突然サイレンが鳴ったの。音が鳴り止むまでは講義が一時止まったけど、その後普通に講義が続いたので、何のサイレン?と尋ねたら、『今日は南京虐殺があったことを悼む日で、そのためのサイレン』と、答えが返ってきたの。きっと、周りの皆は日本人の私への気遣いもあって、さりげなくその時は過ぎたのかもしれない」と。
「インドネシア人の留学生から『貴女はひとりで行かないほうがいい』と忠告されていたけど、南京大虐殺記念館にもひとりで行ってきちゃった。
中国人のおばあさんが、日本人のしたこととして連れの孫に説明していたよ」と、少し前の電話で語っていたこともある。

机を並べて学ぶ仲間になってしまえばお互いを配慮し合えるのに、接することのないときは、一度出来た溝はなかなか埋まらない。

娘の話を聞いたとき、彼女の中学頃の国語の教科書で読んだ話を思い出した。

猪口邦子(前国連軍縮大使)さんが南米で過ごした小学生時代の話。
歴史の授業で真珠湾攻撃の話が出てきたとは、日本人である彼女は加害者側だとして、周りの子供達の視線が集まったとき、先生はいまここに学ぶ彼女の存在をきちんと子供達に説明してくれたことなどが書かれていて、彼女の記事を新聞で読む毎に思い出している。

きっと娘はその教科書の話を覚えてはいないと思う。二十歳の時を中国で過ごし、追悼のサイレンを聞いた彼女が、猪口邦子さんのその文章を読むと、きっと今度は心にしみるだろうな、と思うのだけど、いまその文章にどうやって出会えるか判らない。




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3月のハーモニカ

2005-04-04 07:45:13 | 子育ての周辺
まだ風は冷たい。ジャンパーの下に何か隠し持った息子が帰ってきた。
「この間ね、僕達の教室に卒業する6年生が来たの。その時小学校でお世話になったクラスの皆で御礼にハーモニカを吹いたの。僕の一番お世話になった6年生のお兄ちゃんは、森下君だから、僕ハーモニカ聴いてもらいたい。
だけど、何回行っても、森下君いないの」
ジャンパーの下は1年生が音楽の時間に使っているハーモニカだったのだ。
この一年間、登校のとき連れ立って通学してくれたお兄ちゃん。ドッチボールの時、あたっても外野に出なくていい「ひよこ」として、仲間に入れてくれたお兄ちゃん。
自分の家には二つ上のお姉ちゃんしかいないから、6年生は随分おおきく、たくましい人に見えたのだろう。
そして、学校で教わったお世話になったという気持ちの表し方を、近所のお兄ちゃんにも同じやり方で伝えようとしている7歳の少年。
冷たい風で赤くなったほっぺたをしながら、「森下君の家、何回もいったのだけどな…、お兄ちゃん留守な
の」と、ひとりごとのように繰り返しつぶやいている。夕暮れ時の玄関先で桜の春がすぐ近いことを思った。


もう巣立っていった巣箱に、転がっていた小さい石ころです。どこにでもある小石かもしれませんが、ちょっと、母親には光って見えたりするから不思議です。


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公教育のゆくえ

2005-04-02 11:23:54 | 社会問題
つい数年前に「ゆとり教育」の必要性が議論され実施されたと思ったら、今度は「学力低下」。
議論するのは、国会議員やキャリアの文部科学省の立法や行政に携わる人たち。
彼らの身内の義務教育適齢期の学童といったら、お子様だろうか、お孫さんだろうか。
東京では義務教育期間から私立学校への進学率が高いという。
授業時間を増やせと指示したり、減らせと支持したり、その時々で、良くあって欲しいとのお考えかもしれませんが、それではご自分達の身内であるお子さんやお孫さんたちは、公立学校に通学しておられるのだろうか。
勿論、選択の自由があるからご自由なのだけれども、身内も通わせていない公立学校の教育内容を実際には影響を受けない人たちに、「こうあるべきです」などと、教育内容を増やされたり、減らされたりするのは、なんか説得力に欠けると思いますが。
そこで、公教育関係者の二親等が三親等以内の学齢期の進学情況調査はいかがなものでしょうか。
勿論プライバシー保護のために無記名で。


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