日々の暮らしから

「街中の案山子」「庭にいます。」から更にタイトル変更します。

すっかり秋です。 たらたらと過ごしています。

2006-11-10 14:19:01 | 私の雑感あれこれ
訪ねるのは月に一度程度だけれど、お気に入りに入れている神戸女学院の先生「内田樹」さんの、今日の記事。

彼は、非常に捉え方の上手い方です。
(こんな先生の講義だったら、面白いだろうなと、かつての自分の大学の講義風景を回想しながら思います)
言われてみて納得、目から鱗、って思うことがしばしばあります。

一部、そのまま拝借します。

  ―― 以下引用 ――

男性作家であっても「女性らしい」感受性や思考は想像的に構築できるだろうけれど、「おのれの女性性をうまく処理できないでいる女性」をいきいきと造型することはかなりむずかしそうである。
「おのれの女性性とうまくなじむことができずにいる少女」たちはどのような作品においても「自分の性に完全に調和している少女たち」よりも魅力的に描かれる。
制度的に強いられる性差を自然のものとして受け容れることに抵抗し、因習的な性別役割を拒絶しようとするふるまいを通じて、「因習的に構築されたのではない、より根源的な性差」が露出する・・・という一回ひねりのドラマツルギーをおそらく私たちは愛しているからであろう。

  ―― 以上引用 ――

自分のブログに訪問者が多いと、確かに嬉しいから、文章はできるだけ伝わるように書かなくては、そう努めているところがあります。
でも、今日のこの引用は、自分のためのものです。
トンチンカンな引用文、と思われる方もいらっしゃるでしょうね。
多分、私によく似たタイプも珍しくはないのだけれど、内田先生の文字による表現で、そういうことだったのか、と頷いています。




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詩集 再読 - 「すこしゆっくり」征矢泰子詩集 -

2006-11-04 12:35:22 | 私の雑感あれこれ
久しぶりに書棚にハタキをかける。
夫が随分本の処分をしたこともあって、今まで目が止まることもなかった本を久しぶりに引っ張り出す。

 『 すこしゆっくり 』  征矢泰子詩集

  おわりに(から以下抜粋)

時間は、逃すまい、喪くすまいと追えば追うほど、よりはやく過ぎ去っていくものであることに、わたしは今やっと、気がついたところです。
 今日からは、もっとゆっくり、そしてその分もっと深く、生きていこうと思います。時間を追わず、時間に囚われず、生きていくつもりです。
1984年秋

 この詩集が発刊されたとき、省略した文面から、この時、お子さんが大学生らしいから、22年経った、今頃は70代なのでしょうか。

この本を買い求めた、22年前の自分を思う。
22年なんて、すごく長いのに、好みの捉え方って、ちっとも変わってやしない(笑い)。
これひとつと、取り出すのは難しいのだけれど、今日の私の気持ちとして、書き写すとしたらこれをひとつ。

- マザーテレサに -

ひとめ見たときから
あなたは空っぽだった
あなたはそこ テレビジョンの中にいて話しつづけ
ときどき あたたかく微笑みさえしたが
なおまぎれもなく
あなたは空っぽだった
なくしたのでなくこわしたのでなくあきらめたのでなく
樹木が育っていくような果実が熟れていくような
そのすこやかな空っぽの
あなたのなかにはもうあなたがいなかったので
いつでもだれでもが
あなたのなかにははいることができるのだった
どうやって
あなたと他人(ひと)を区別できよう
あなたをみたしているのは
いつもいっぱいの他者であるときに
あなたははやあなたのものではなく
あなたをもとめる他人々々(ひとびと)こそが
あなただったので
ひと目 みたときから
あなたは空っぽだった
完璧な至福のように
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声を挙げにくい、いじめられている側の立場

2006-11-01 08:03:48 | 社会問題
いじめによる自殺のニュースをテレビでみました。
取材する側の、告発するようなスタンスが嘘っぽくて、あんまりこの手の報道は好きではありません。
自殺という結末にまでは至っていないけれど、今現在いじめに悩んでいる人もいるんだろうなと、そのことが気にかかります。

集団生活していると、得て不得手が出てくるし、お荷物になる人もいるでしょう。多分それは、かつての時代も同じだったと思います。地域で小さい頃から異年齢の子供と様々な遊びを繰り返しているうちに、おのずと相手に対する力加減や、自分の立ち居地を理解してきたのではないでしょうか。
それが、親(母親)と子という、保護者・被保護者の立場で大きくなるまで育つものだから、子供同士の場合の、弱い人を守る感覚が育っていないのではないかと思います。

親や教師に励むように期待されている子供。
それに沿える子もあれば、不向きでストレスに感じる子もいると思います。
たまったストレスはどこか発散、それがより弱いものへと向かうのではないか、そう考えるのです。

息子が幼稚園の時、こう言いました。
「運動会の練習のとき、後ろの○○君、背中を押したり、足をふんづけたりして、いじわるするの」
いつもは、そういじわるでもないのです。
ただ、「きちんと整列したり」、「遊戯を覚えたり」をドンドン押し付けられると、その「おもしろなさ」が募って、弱いところにストレスを発散する。

いじめの発生はこれなのだと思っています。
「得意でもないのに、がんばらなくてはならない」ところから、生まれてくるストレスを弱いところで発散。
弱い人は、ココロの中には悲鳴をあげられても、外には出せません。
そ知らぬ振りして、ちょこっと、その加害者と被害者の鎖から、引っ張り出せる役回りの人も、周りにはいるはずです。

加害者、被害者、これらは固定しているものではありません。
加害者のいない世の中は理想でしょうけれど、それはなかなか困難です。
だけれども、「被害者を加害者の鎖から引っ張りだす役回り」の人もいるはずです。先生たちは、そして親たちも、時には「被害者を引っ張りだす役回り」になれる子供を育成してほしいものです。
教師や親が保護する立場として、引っ張り出すのではなく、身近に接している者たちの仲で、その役回りができる人が、混在していることが大事なのです。

私の通学時代は随分昔のことですが、校長先生に守られているなんて、子供本人は思ったことありませんでした。
校長先生が、よい謝り方をしたかしないか、そんな論評で糾弾しているマスコミは、本当に子供のことを考えているのでしょうかね。
ま、浅はかな謝り方をした校長先生にも、あいた口がふさがりませんが…。
コメント (2)
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