訪ねるのは月に一度程度だけれど、お気に入りに入れている神戸女学院の先生「内田樹」さんの、今日の記事。
彼は、非常に捉え方の上手い方です。
(こんな先生の講義だったら、面白いだろうなと、かつての自分の大学の講義風景を回想しながら思います)
言われてみて納得、目から鱗、って思うことがしばしばあります。
一部、そのまま拝借します。
―― 以下引用 ――
男性作家であっても「女性らしい」感受性や思考は想像的に構築できるだろうけれど、「おのれの女性性をうまく処理できないでいる女性」をいきいきと造型することはかなりむずかしそうである。
「おのれの女性性とうまくなじむことができずにいる少女」たちはどのような作品においても「自分の性に完全に調和している少女たち」よりも魅力的に描かれる。
制度的に強いられる性差を自然のものとして受け容れることに抵抗し、因習的な性別役割を拒絶しようとするふるまいを通じて、「因習的に構築されたのではない、より根源的な性差」が露出する・・・という一回ひねりのドラマツルギーをおそらく私たちは愛しているからであろう。
―― 以上引用 ――
自分のブログに訪問者が多いと、確かに嬉しいから、文章はできるだけ伝わるように書かなくては、そう努めているところがあります。
でも、今日のこの引用は、自分のためのものです。
トンチンカンな引用文、と思われる方もいらっしゃるでしょうね。
多分、私によく似たタイプも珍しくはないのだけれど、内田先生の文字による表現で、そういうことだったのか、と頷いています。
彼は、非常に捉え方の上手い方です。
(こんな先生の講義だったら、面白いだろうなと、かつての自分の大学の講義風景を回想しながら思います)
言われてみて納得、目から鱗、って思うことがしばしばあります。
一部、そのまま拝借します。
―― 以下引用 ――
男性作家であっても「女性らしい」感受性や思考は想像的に構築できるだろうけれど、「おのれの女性性をうまく処理できないでいる女性」をいきいきと造型することはかなりむずかしそうである。
「おのれの女性性とうまくなじむことができずにいる少女」たちはどのような作品においても「自分の性に完全に調和している少女たち」よりも魅力的に描かれる。
制度的に強いられる性差を自然のものとして受け容れることに抵抗し、因習的な性別役割を拒絶しようとするふるまいを通じて、「因習的に構築されたのではない、より根源的な性差」が露出する・・・という一回ひねりのドラマツルギーをおそらく私たちは愛しているからであろう。
―― 以上引用 ――
自分のブログに訪問者が多いと、確かに嬉しいから、文章はできるだけ伝わるように書かなくては、そう努めているところがあります。
でも、今日のこの引用は、自分のためのものです。
トンチンカンな引用文、と思われる方もいらっしゃるでしょうね。
多分、私によく似たタイプも珍しくはないのだけれど、内田先生の文字による表現で、そういうことだったのか、と頷いています。