詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ナボコフ『賜物』(31)

2010-12-18 10:09:31 | ナボコフ・賜物
ナボコフ『賜物』(31)

 文学のなかに文学がある--小説のなかに詩があり、その詩についての批評があり……というような入れ子細工はナボコフの「好み」だと思うが、そういう「作品の構造」だけではなく、諸説の細部においても、もう一度ナボコフは「入れ子」をつくる。

彼女は柔らかな胸に腕を君で立っていたので、その姿を見るとたちまちぼくの中に、その題材をめぐる文学的連想のすべてが展開した--からりと晴れた埃っぽい夕べ、街道沿いの居酒屋で、退屈した女が注意深いまなざしを何かに向けている。
                                 (69ページ)

 ここからストーリーが展開するわけではない。ただ主人公が「文学的連想」をした、ということが書かれているだけなのだが、この「文学」への「逸脱」が不思議におもしろい。
 なぜか、そこに「短編小説」を感じるからである。女を主人公とした短編小説が、そのことばのなかにひそんでいる。何も書かれていないのに、短編小説を感じさせる。

 他方、次の、変な逸脱もある。

 ヤーシャは日記をつけていて、その中で自分とルドルフとオーリャの相互関係を「円に内接した三角形」と的確に定義していた。円というのは、正常で清らかな、彼の表現によれば「ユークリッド的な」友情のことで、それが三人を結び合わせていたので、それだけだったら彼の絆は何の心配もなく幸せなまま、解消されこともなかっただろう。しかしその円に内接する三角形の方は(略)--こんなことから短篇だの、中篇だの、一冊の本だのをつくりだすことはとうていできない、とぼくは思ってしまうのだ。
                               (69-70ページ)

 ナボコフは、ここで主人公に「短篇」「中篇」ということばを語らせている。非文学的(?)な円と三角形の比喩--文学的連想から遠いものは、短篇、中篇には向かない、といわせている。
 あるいは。
 それは逆説的には、文学的連想から遠いものは「長篇」になる、ということを意味しないだろうか。短篇、中篇は、「文学的連想」のことばとともに動く。「文学的連想」から動くことばは自然に短篇、中篇を作り上げてしまう。
 ここには、ナボコフの「自戒」がこめられているかもしれない。





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ナボコフ『賜物』(30)

2010-12-16 10:52:50 | ナボコフ・賜物

アレクサンドル・ヤーコヴレヴィチは部屋の隅で明るく電灯に照らされた自分の机に向かって、ときおり咳払いをしながら、仕事をしていた。彼はドイツの出版社に頼まれて、ロシア語の専門用語辞典を編纂していた。小皿の上で、サクランボの砂糖煮(ヴァレーニュ)の跡が灰と混じり合っている。
                                 (62ページ)

 ふいに登場してくる「小皿の上で、サクランボの砂糖煮(ヴァレーニュ)の跡が灰と混じり合っている。」という文章に驚く。「サクランボの砂糖煮」についての説明は何もない。「灰」についても何の説明もない。何もないのだけれど、私には「わかる」。もちろん、この「わかる」は「誤読」かもしれないが、「わかる」のである。
 辞書の編纂をしながら、サクランボの砂糖煮を食べたのだ。その小皿が机の上に残っている。そして、その小皿を灰皿にして、アレクサンドル・ヤーコヴレヴィチは煙草を吸ったのだ。煙草の灰は、サクランボの砂糖煮の汁(?)の跡の形でこびりついている。
 何の説明もないだけに、その「存在」が、独立して、そこにある。「世界」と切り離されて、それでいて「世界」の中心のようにして、そこにある。
 こういうところに、私は「詩」を感じる。そして、そういう瞬間がとても好きだ。

 引用した文章は主人公が参加している詩のサークルで出会った女性について書いている部分に出てくる。彼女は、死んだ息子と主人公が似ていると感じ、主人公にあれこれと話しかけてくる。それが、まあ、うるさいなあ、という感じで描写される。人間関係が、うるさい。つまり、「気持ち」がうるさい。
 そのうるささを吹っ飛ばすようにして、突然割り込んできた「もの」。しかも、その「もの」には不思議な「過去」というか「時間」というか「歴史」がある。手触りがある。誰でも、食器が汚れる瞬間を知っている。小皿でなければ、たとえばコーヒーカップが、あるいは飲料水のボトルが、空き缶が「灰皿」になって汚れることを知っている。そこには単に「もの」の汚れだけではなく、それを汚してしまう「ひと」の「暮らし」がある。「暮らし」が「もの」として、そこに生きている。

ロシア文学講義
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ナボコフ『賜物』(29)

2010-12-13 09:27:13 | ナボコフ・賜物
ナボコフ『賜物』(29)

 それでも彼は座って煙草をふかし続け、爪先をぶらぶら揺らしていた。そして他の人たちが話をしている最中も、自分が話をしている最中も、いつどこででもそうしていたように、他人の内面の透明な動きを想像しようと努め、ちょうど肘掛け椅子に座るように話相手の中に慎重に腰をおろして、その人のひじが自分の肘掛けになるように、自分の魂が他人の魂の中に入り込むようにした。
                                 (59ページ)
 
 話し相手の話を真剣に聞く。そのとき、ナボコフの主人公は「論理」を追っていない。「魂」を追っている。「魂」と自分の「魂」を重ねあわせる。そしてその「魂」を「透明な動き」と呼んでいる。この「透明な」はとても重要なことばかもしれない。なぜなら、もしその動きがそれぞれに「青」とか「赤」とかの「色」を持っていたら、「自分の魂が他人の魂の中に入り込」んだその瞬間に、そこに色の衝突、あるいは色の混合がはじまる。「紫」という新しい色がでてきてしまう。そういう色の変化を追うのも楽しいが、ナボコフの主人公は「透明」にこだわる。色ではなく「動き」に関心があるからだ。
 そして、このとき「肉体」が大切に扱われている。「魂」に触れるには肉体も大切にしなければならないのだ。自分と他人の「魂」の「透明な」「動き」を一致させるとき、主人公は「肉体」の力を借りる。「その人のひじが自分の肘掛けになるように」とナボコフは具体的に書いている。まるで「魂」と「肉体」の細部、その動きそのもののなかにあるかのようだ。
 だからこそ、ナボコフは「肉体」の動きをていねいに書く。ひとつの動きに、別の動きを重ねる。(続ける。)そうすることで、「肉体」の内部の、つまり「魂」の動きがより明確になる。少なくともひとつの動きから別の動きへとつづき、そのつづきのなかに、ひとつのものを別のものとつなげるための「根源的な意識=魂」が浮かび上がる--そう考えているらしい。

それでも彼は座って煙草をふかし続け、爪先をぶらぶら揺らしていた。

 煙草をふかしつづけるか、爪先をぶらぶらゆらすか、簡潔な小説なら、動きをひとつにするだろう。けれどナボコフはふたつの動きを書く。ナボコフにとって、ふたつを書くことは、複雑になることではなく、単純になることなのだ。ある動きと別の動きの「間」にある「動き」--「透明な」動きになることなのだ。
 ことばは(動きを描写することばは)、重なることで、その重なりの「間」に、運動の主体である人間の「魂」を浮かび上がらせる。
 文章が複雑になればなるほど、ナボコフは「透明」な運動を書きたいと思っているのだ。書けたと思っているのだ。
 単純と複雑は、ナボコフにとっては、私たちがふつうつかうのとは逆な「意味」をもっている。

 その「単純」の過激性は、次の部分に強烈に出ている。先の引用につづく文章である。

するとどうだろう、突然、世界の照明ががらっと変わり、彼は一瞬、実際にアレクサンドル・ヤコーヴレヴィチや、リュボーフィ・マルコヴナや、ワシリーエフになるのだった。
                                 (59ページ)

 「自分」ではなく「他人」に「なる」。「私」と「他人」がいるのではなく、そして二人が対話しているのではなく、そこには「他人」という「ひとり」だけがいる。そこで話すことばは「対話」ではなく、「ひとり」の「独白」になる。
 これは「見かけ」は「ひとり」だから単純だが、実際は「単純」な世界ではなく、とても複雑である。丁寧に書こうとすると、どんどん矛盾に陥っていくしかない。
 たとえば……。
 このとき「見かけ」は「複数」の人間が「ひとり」に集約するのだから「単純」である。しかし、そのとき「肉体」の内部、つまり「魂」は複雑である。ある内容を語る「魂」と「ひとり」になったと認識する「魂」の「ふたつ」がないと、ある人間が「別な人間」に「なった」と書くことはできないからである。
 これは、矛盾である。



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世界の文学〈8〉ナボコフ (1977年)
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ナボコフ『賜物』(28)

2010-12-06 10:03:05 | ナボコフ・賜物
 ナボコフの文体は感覚的なように見えて、実は非常に論理的なのかもしれない。詩的に見えて、非常に散文的なのかもしれない。

 客間は俗っぽい家具の並んだとても小さな部屋で、証明の具合が悪いせいで隅には影が居すわり、手の届かない棚には埃をかぶったタナグラ風の花瓶が載っている。
                                 (54ページ)

 これが「詩」ならば、たぶん、

 客間は俗っぽい家具の並んだとても小さな部屋で、隅には影が居すわり、棚には埃をかぶったタナグラ風の花瓶が載っている。

 という具合になるかもしれない。「証明が悪いせいで」「手の届かない」ということばは省略されるかもしれない。「手の届かない」は「手の届かないせいで」と言い換えることもできる。つまり、ナボコフの描写はいちいち「理由」を積み重ねて「もの」を浮き彫りにする。「理由」は「もの」の「過去」である。
 小さな部屋の家具は、証明が悪いという日常的な「過去」の積み重ねによって、影が隅っこで動かなくなっている。「手が届かない」という「過去」、つまり磨き込まれない(掃除されない)という「過去」によって埃がいっぱいになっている。
 私たちは「もの」ではなく、「もの」とともにある「過去」をナボコフのことばから知るのだ。
 「過去」を踏まえて「いま」がある。この時間の積み重ね方、常に「過去」を踏まえながら進む文体が「散文」的である。「散文」とは前に書いたことを踏まえながら先へ進む文体のことである。「詩」は「過去」にとらわれない。かってに飛躍する。「時間」をこわして飛躍することばが「詩」である。
 ナボコフの文体は、常に、あることがらを踏まえ、きちんと「時間」を描く。言い換えると、何かがかわるとき、そこには必ず「時間」の変化、過去→いまという因果関係が含まれる。
 引用文のつづき。

最後の客がようやくやって来て、アレクサンドラ・ヤコーヴレヴナが(略)お茶を注ぎ始めると、部屋の狭さもなにやらしみじみとした田舎風の居心地のよさに似たものに変貌した。
                                 (54ページ)

 小さくて家具が狭苦しく並んだ部屋、薄暗く、埃もある部屋が、「お茶を注ぐ」という「時間」を経過し、「田舎風の居心地のよさに似たものに変貌した。」
 ここには、絶対、「お茶を注ぐ」という「過去」が必要だ。これがないと「変貌」は起きない。
 この部分は、最初に引用した部分にならっていえば、「お茶を注いだために」、部屋がいごこちのいいものに変わったのだ。
 実際に「……のために」ということばが毎回つかわれるわけではない。原文を読んでいないので、はっきりとは断言できないが、しかし、ナボコフの描写には「……のために」が隠されている。「……のために」という考え方、ことばの動かし方は、ナボコフの「肉体」そのものになっているために、ナボコフはそれを省略してしまうのだ。ナボコフにはわかりきったことなので、そのことばを省略してしまうのだ。

 「……のために」は、ナボコフの「散文」のキーワードである。




ナボコフのドン・キホーテ講義
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ナボコフ『賜物』(27)

2010-12-04 10:34:34 | ナボコフ・賜物
ナボコフ『賜物』(27)

 ナボコフのことばには乱暴と繊細が同居している。

 にわか雨が止んだ。恐ろしく単純に、なんの仕掛けも芝居気もなく街灯が一斉に点った。(略)街灯の湿っぽい光に照らされて、自動車が一台、エンジンをかけたまま停まっている。車体の水滴は一つ残らず震えていた。
                               (50-51ページ)

 これ以上短くはいえないというくらい短く「にわか雨が止んだ。」と言い切ってしまう。「恐ろしく単純に、なんの仕掛けも芝居気もなく」というのも「乱暴」な表現である。そこにはどんな繊細な感覚も入ってくることはできない。繊細さを拒絶した、剛直なことばの運動である。それが車の上に残る水滴の描写になると一転して繊細になる。
 「車体の水滴は一つ残らず震えていた。」の「一つ残らず」が、ナボコフの視覚の強さを、繊細さを浮き彫りにする。そして、その振動(震え)によって、水滴が落ちる、ということを書かないことが、とても魅力的だ。ボンネットはまっ平らではない。エンジンによって震え、水滴が震えているなら、その車体からこぼれ落ちる水滴があってもいいはずだが、ナボコフは、それは書かない。
 時間が止まる--のではなく、たぶん、あらゆる時間がその「震え」のなかになだれ込むのだ。
 車と、その車の上の水滴の描写なのに、なぜか、車の「過去」(来歴)が見えるような、不思議な気がする。その車は、だれを乗せてきたのか、なぜそこに止まっているのか--そういうことを、思わず想像してしまう。



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ナボコフ『賜物』(26)

2010-12-02 11:50:26 | ナボコフ・賜物
ナボコフ『賜物』(26)

 ナボコフの描写が鮮烈なのは、そこに視覚の自由があるからだ。

彼が自分の詩について夢想している間にどうやら雨が降ったらしく、通りは見渡す限りその果てまで磨かれたようにつやつやしていた。すでにトラックの姿はなく、さきほどまでその牽引車(トラクター)があって場所では、歩道の際に、鳥の羽のように彎曲し、真紅を基調として虹のようにきらきら光る油の染みが残されている。アスファルトの鸚鵡だ。

 雨上がり。歩道(車道)にこぼれた油。油膜。その強烈な色彩を虹にたとえるところまでは、よくある「比喩」である。光を受けていくつもの色に輝く--それはたしかに虹である。光の反射、光の屈折--それはたしかに虹である。だが、

アスファルトの鸚鵡

 ふいにやってくる「鸚鵡」。それはどこからやってきたのか。「鳥の羽のように彎曲し」ということばが直前にあるが、まさか、その「鳥の羽」が「鸚鵡」を呼び込んだということはないだろう。逆だろう。「鸚鵡」が先にやってきて、それからそれを説明するために「鳥の羽」が選ばれているのである。
 これが「散文」である。
 詩は、意識のままに書いていくから、「鸚鵡」を先に書き、それから「鳥の羽」のように油膜の色彩が彎曲していると書くだろうけれど、視覚の運動をわかりやすくするために、ことばの衝動を制御しというか、整え直してしまうのが「散文」なのだと思う。
 そして、そうやって「散文」でことばを整え直しても、わけのわからない「鸚鵡」が詩として残ってしまう。

 ここには視覚の自由がある、としかいえない。
 ナボコフの視覚は、そこにあるものから自由に離脱する、逸脱するのである。最初の方はていねいに、雨上がりの道を近景から遠景へと動かしている。まず、近景。足元の濡れた色。それから「見渡す」という動きで「遠景」へと視線が動く。そこからまたもどってきて中景。トラックのいた場所。そうやって一通り描写した後、描写にこだわることで、いっきに「いま」「ここ」とは無関係な、虹のように雨と関係があるものとも無関係な、鸚鵡へ飛躍する。
 ナボコフの視覚は、視覚独自の「過去」をもっている、ということになるのかもしれない。


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ナボコフ『賜物』(25)

2010-11-30 11:16:47 | ナボコフ・賜物
ナボコフ『賜物』(25)

果たして書評家は実際に詩のすべてを理解し、そこには悪名高い「絵画性」の他にもなお特別な意味というものがあって(理性の彼方に隠れた心が新たに発展した音楽とともに帰ってくるということだ)、それだけが詩を人の世に出すことになる、ということを理解したのだろうか。
                                 (47ページ)

 このことばはナボコフの「音楽」に対する意識を明確に語っている。この作品の詩の部分は、たとえば直前に書かれている詩をみると、

磁器の蜂の巣が青、緑、
赤の蜜を蓄えている。
最初はまず鉛筆の線から
ざらざらと庭が形づくられる。
白樺の木、離れのバルコニー--
すべては陽光の斑点の中。ぼくは筆先を
絵の具に浸し、ぐるっと回して
オレンジがかった黄色でたっぷりくるもう。
                              (46-47ページ)

 色が次々に出てくる。はっきりした名詞で存在が書かれ、いかにも絵画的な詩である。そうであることを認めて、ナボコフはなおここで「音楽」について語っている。そのことばの音楽そのものについては、訳文を読むのとロシア語の原文を読むのでは違うだろうが、「ざらざらと庭が形づくられる。」や「ぐるっと回して」「たっぷりくるもう。」ということばのなかに何か刺激的な音楽が隠れているのかもしれない。「ざらざら」は視覚でも(絵画でも)伝えられるが、日本語の場合、触覚に属する。視覚から触覚への移行があり、その移行を聴覚がとらえる「ざらざら」という音が後押しする。そういうことがロシア語でもおこなわれているのかもしれない。 
 私は詩も小説も音読はしないが、音読はしなくても、発声器官や聴覚は無意識的に動く。そのときたしかに音楽というもの(音というもの)の効果は大きい。音楽的ではないことばを読むのは、とてもつらい。
 音の中に「隠れた心」があるというナボコフの指摘は、とてもうれしい。


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ナボコフ『賜物』(24)

2010-11-29 22:44:17 | ナボコフ・賜物
 この小説に書かれている詩に対する「批評」がおもしろい。

これらはもちろん小品には違いないが、並外れた繊細な名人芸によって作られた細密画のようで、髪の毛一本一本まではっきり見えるほどである。とはいうものの、それは過度に厳格な筆によってすべてが丹念に描き込まれているからではなく、この著者には芸術上の契約がすべての条項にわたって著者によって遵守されることを保証する誠実で信頼できる才能が備わっており、どんなに些細な特徴でさえもそこにあるかのように、読者は知らず知らずのうちに思いこまされるからなのだ。
                               (44-45ページ)

 ナボコフのナボコフ自身によるナボコフのための批評である。ナボコフは厳格な細密描写を否定している。厳格な細密描写が作品にリアリティーを与えるのではなく、文学のリアリティーは「芸術上の契約」を「遵守」することで成立する。それは、文学のことばは、文学のことばの運動を遵守することによって成立するというのに等しい。
 ナボコフは、そのことばの運動を「古典」によって支えているのだ。ナボコフのことばはすべて「古典」なのだ。どんなに新しいことをしても、そこにはかならず「古典」が引用されているのだ。
 ナボコフは古典に精通し、あらゆる文学に精通しているのだ。
 先の文につづくプーシキンの詩に関する言及(45ページ)は、その「証拠」である。


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ロリータ (新潮文庫 赤 105-1)
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ナボコフ『賜物』(23)

2010-11-27 10:50:51 | ナボコフ・賜物
ナボコフ『賜物』(23)

 その代わり再現されているのは、駅から出たとたん最初に覚える感じのような、春の印象の数々だ。地面は柔らかく、足に近く、まったく遠慮のない空気の流れが頭を取り巻く。
                                 (41ページ)

 この春の描写は、私にはとても懐かしく感じられる。私が雪国育ちだということと関係している。「地面は柔らかく、足に近く」。これは雪が消えているからである。雪の凍った道に比べると地面は柔らかい。そして何よりも「足に近い」。地面と足の間に雪がない。それだけではない。いや、正確ではない。足が感じるのは「もの」ではないのだ。「もの」の感触なのだ。雪があるとき、雪とともにある感触。冷たい、滑る--などの感触がない。それを足という肉体がはっきり感じる。それは、なんといえばいいのだろう、自分自身の「感触」を脱いだ感じなのだ。自分の肉体が自然にまとってしまう緊張感を脱いで、地面に直接触れる感じ。それが「近い」。それは地面と足の間に雪が挟まっているか挟まっていないか以上の違いなのだ。「物理」ではなく「生理」の近さである。
 同じことが「遠慮のない空気の流れ」にも言える。「遠慮がない」ということばそのもので言えば冬の空気も遠慮がない。人間に配慮しない。平気で頭を殴ってくる。帽子や耳当てがないと、とてもつらい。冷たい空気は痛くてたまらない。春の空気の遠慮のなさは、それとは違う。空気が触れるのは同じだが、人間が、「さあ、遠慮しないでもっと愛撫して」と要求するものなのだ。空気に遠慮がないのではなく、人間の方に遠慮に対する意識がない。どんなに触られたって、どんなにぶしつけにふいに襲ってきたってうれしいのだ。ここに書かれているのは「気候」ではなく「心理」なのだ。
 ナボコフは、生理や心理を、すばやくことばにもぐりこませるのだ。

ちょっと離れたところでぼくたちを待っていたのは、内側も外側も真っ赤なオープンカーだった。スピードの観念のせいですでにそのハンドルは傾斜していたが(ぼくの言いたいことは、海辺の崖の木々にはわかってもらえるだろう)、全体の外観はまだ--偽りの礼儀からだろうか--幌馬車の形と卑屈な関係を保っていた。
                                 (41ページ)

 (ぼくの言いたいことは、海辺の崖の木々にはわかってもらえるだろう)がおもしろい。人間に、ではなく、海辺の崖の木々。風にあおられつづけて傾いている(傾斜している)木々。ナボコフの視力は、いま、ここにない、遠くのものをすばやく引き寄せる。そして視力で引き寄せたものは、それぞれに「肉体」をもっている。だからこそ、その「肉体」が「わかる」と信じることができるのだ。崖の木々は「頭」でナボコフの書いたことばを理解するのではない。肉体で、風と、スピードが引き起こす風と肉体の傾斜の関係をわかるのだ。
 この自然との一種の一体感がナボコフの肉体そのものにあるような感じがする。そのことが、ナボコフのことばを伸びやかにしている。
 他方、人工のものに対しては、こういう親和感はない。「全体の外観はまだ--偽りの礼儀からだろうか--幌馬車の形と卑屈な関係を保っていた。」オープンカーも幌馬車も、車のひとつ。オープンカーは幌馬車の外観を真似ている(似ている)。それは後輩が先輩のスタイルを礼儀として真似るのに似ていて、そこには一種の「卑屈さ」がある。
 ナボコフは人工物に対して親和力ではなく批判力を発揮する。




賜物 (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集2)
ウラジーミル・ナボコフ
河出書房新社


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ナボコフ『賜物』(22)

2010-11-26 10:53:36 | ナボコフ・賜物
ナボコフ『賜物』(22)

 ナボコフのことばは、「透明」である。これは内部に「濁り」(不純物)がないという意味である。--と、きのう書いた。
 ただし、これには補足しなければならないことがある。
 「濁り」(不純物)はないが、「異物」はある。混ざっている。たとえば、「黒いもの」が。しかし、その「黒」も透き通って、どこまでも見通せる。そこから始まるのは「黒--抽象的な黒、透明な黒」なのである。その黒は、いわばサングラスの「黒」かもしれない。自分の目を他者から隠しながら、しかし、対象をしっかり見てしまう。

あの瞬間、私はおよそ人間に可能な最高度の健康に到達していたのではないかと思います。私の心は危険な、しかしこの世のものとは思えないほど清らかな暗黒に浸され、洗われたばかりだったからです。
                                 (38ページ)

 「清らかな暗黒」と書いて、そのあと、すぐ次の文章がつづく。

そしてこのとき、身じろぎもせず横たわったままでいると、目を細めもしないのに、心の中に母の姿が見えたのでした
                                 (38ページ)

 「目を細めもしないのに」は、この文章の中でとても重要な表現である。「心の中に」何かを見るとき、人はたいてい「目を閉じる」。けれどナボコフは「目を閉じもしないのに」ではなく、「目を細めもしないのに」と書く。
 「目を細める」は、実は、近眼の人間が「遠く」を見るときにする一種の「癖」である。きのう読んだ文章のなかに「遠く」ということばがあったが、ナボコフは「遠く」を見るときの視線と、母を見る視線を対比していることになる。
 ナボコフは、母を「遠く」ではなく、「近く」に見たのである。そして、その「近く」というのは「心の中」であるのだが。
 「心の中」と言えば、きのうの、ベッドの中でみた「どことも知れない遠く」も心象風景、つまり「心の中」の風景であろう。「心の中」で見るものでも、ナボコフは「遠く」と「近く」を区別する。
 そして「近く」を見るとき、そこに「危険」と「暗黒」が親和するのである。
 先にサングラスのことを少し書いたが、サングラスが目を隠すのは「近く」の人に対してである。「近く」から隠れるためにサングラスがある。
 主人公が「近く」に見た母というのは、買い物に出かける母であり、そのとき叔父(母の弟)に声をかけられたのに気がつかない母である。そして、その母は叔父と一緒に歩いていた男にも目撃されている。それはそれだけでは「秘密」にするようなことではないかもしれないが、その知らない男に目撃されているということを、ナボコフの主人公は「危険」、ただし「清らかな・暗黒」との親和力のなかにつかみ取るのである。

 ナボコフには、あるいはナボコフの主人公には、自己の内と外の区別はない。ただし、その自己の外そのもののなかに「近く」と「遠く」がある。その「近く」と「遠く」を意識するのがナボコフの主人公である、ということになる。





ナボコフ短篇全集〈1〉
ウラジーミル ナボコフ
作品社

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ナボコフ『賜物』(21)

2010-11-25 10:24:41 | ナボコフ・賜物
ナボコフ『賜物』(21)

 私は--いやはや、本当のところ--虚弱で、わがままで、透明でした--そう、水晶の卵のように透明でしたね。
                                 (37ページ)

 ナボコフのことばは、「透明」である。これは内部に「濁り」(不純物)がないという意味である。
 そういう透明な存在と世界との関係はどうなるか。

青みを帯びた夕闇が幾重にも層を織りなしている部屋の中でベッドに平らに横たわった私の内には、信じがたいほどの明るさが秘められていました--それは、黄昏時の空間に輝かしく青白い空が彼方まで帯のように延び、そこにどことも知れない遠くの島々の岬や砂州が見えるかのようで、さらに自分の軽やかなまなざしをもうちょっと遠くに飛ばすと、濡れた砂の上に引き上げられたきらめくボートや、遠ざかっていく足跡を満たすまばゆい水まで見わけられるのではないかと思えるような、そんな明るさでした。
                                 (38ページ)

 近くと遠くの関係がなくなる。消える。自己と自己の外の世界の垣根がなくなる。「透明」の反対は「不透明」ではなく、「枠」(垣根、区切り)というようなことばであらわすことのできる何かなのかもしれない。
 「枠」(区切り)がないから、それは「どことも知れない」場所である。しかし、それは「遠く」であることはわかる、という矛盾した世界である。「どことも知れない」なら、それは「近く」である可能性もあるのだ。私たちは「どことも知れない」ところを「遠く」と考える習慣があるが、これは、知らないのは行ったことがないから--つまり、「遠く」だからと考えるが、それは単なるずぼらな精神がそうさせるだけのことである。ナボコフのように、どこまでもことばにしてしまう作家の精神にとって、「どことも知れない」が「遠く」と簡単に結びつくはずがない。
 では、なぜ、ナボコフはここで「遠く」ということばを使っているのか。
 それにつづいて出てくる「さらに」が重要なのだ。

さらに自分の軽やかなまなざしをもうちょっと遠くに飛ばすと、

 「さらに」「遠く」。自己と自己の外の区切りはなく、この小説の主人公は、ベッドのなかにいながら、遠くを見る。そして、その遠くを見る視線を「さらに」遠くへ飛ばす。自己と自己の外との区切りはない、つまり、そこに距離がないにもかかわらず、その外のある一点と他の一点との間に「距離」はある。そういう「距離」を無意識の内に見てしまう。
 「どことも知れない」は、それがどこであっても構わないということを意味する。そして「さらに」は、そのどこであってもかまわない場所であっても、ナボコフは、そこに「距離」を、「空間」を見てしまう。「隔たり」を見てしまう。
 どこまでも「透明」なナボコフは、ある一点と他の一点を隔てる「透明」な「空間」(距離)に親和してしまう。(親和する--という動詞があるかどうかもわからずに、私は、ふと書いてしまったのだが……。)
 そして、この「親和力」が「青みを帯びた夕闇が幾重にも層を織りなし……」というような、美しいことばの光景になる。--美しい光景がことばになる、というより、美しいことばが光景を美しく調え、それからナボコフと親和する。


ロリータ、ロリータ、ロリータ
若島 正
作品社

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ナボコフ『賜物』(20)

2010-11-23 13:47:28 | ナボコフ・賜物
ナボコフ『賜物』(20)

 ことば、その「音楽」へのこだわりは次の部分にも見ることができる。

  散水の燦々たる滑降台にのぼり……

 (スロープに撒くための水を入れたバケツを持って登っていくとき、水がこぼれ、滑降台の階段が燦々たる水の表面に覆われるということなのだが、毒にも薬にもならない子音反復(アリタレーション)ではそれがうまく説明できなかった)

 原文はわからないが、「散水」と「燦々たる」のことばのなかに子音反復があるのだろう。「さんすい」と「さんさん」。沼野は苦労して日本語でも子音反復(さ行、S音の繰り返し)を試みている。小説の主人公が「毒にも薬にもならない子音反復」と書いているが、まるで沼野の訳を見込んでのような感じがして、それがおかしい。
 きのう読んだ部分ではアクセントが問題になっていたが、アクセントは母音にかかわる。アクセントのある母音は長音になるのだろう。子音反復は文字通り、子音にかかわる音楽である。
 ナボコフは、どちらに対してもこだわりを持っていたということになる。

 しかし、そういう作家のことばを訳すはたいへんな作業に違いない。ロシア語を知らずに、沼野の訳に文句を言っても、とんちんかんな批判になってしまうが、こういう「音楽」の部分では、さらに的外れになってしまうだろう。
 ナボコフは音楽に、音にこだわりを持っていた--ということをどこかで意識しながら、しかし、ことばの音楽とは別な部分に焦点をしぼって、この小説を読まなければならないのかもしれない。




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世界の文学〈8〉ナボコフ (1977年)
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ナボコフ『賜物』(19)

2010-11-22 11:41:35 | ナボコフ・賜物
ナボコフ『賜物』(19)

 イメージ(もの)が動くとき(動かすとき)、作家は何を頼りに「動き」を制御するのだろう。私はいつも「音」を頼りにしている、と感じる。私は、ことばのなかに「音」がある作家が好きだ、というだけのことかもしれないけれど。
 毛皮の襟をつけてもらうときのことをナボコフは描写している。

音響の変化はなんと楽しかったことだろう。襟を立てると、聞こえてくる物音に深みが増したのだ。さて、もう耳のところまで来た以上は、帽子の耳当ての紐を結んでもらうときの(さえ、顎を上げて)、ぴんと張った絹のあの忘れがたい音楽について触れなければならない。
                                 (32ページ)

 「音」には2種類ある。実際に「もの」が立てる音。ここに描かれているのは、現実の音である。音の変化である。それにしても、最後の、耳当ての紐を結ぶときの、絹の布の張り具合の変化を「音楽」と呼ぶこの感受性の美しさ、その音楽の美しさは、なんともいえず、息をのんでしまう。絹の動くときの、結ばれるときの、なまめかしい、やわらかい音。
 こうした「音楽」に敏感だから、次の部分、次のこだわりが生まれてくる。

 凍てついた日に外を駆け回るのは、子供たちにはたのしいこと。雪に覆われた(「覆われた(アスネージエンヌイ)」は第二音節にアクセントを置くこと)庭園の入り口には、風船売りが姿をあらわし、ちょっとした見物になる。
                                 (32ページ)

 「アスネージエンヌイ」ということば。沼野の注釈によれば、このロシア語のアクセントには2種類あるという。第二音節にアクセントを置く場合と、第三音節にアクセントを置いて「アスネジョーインヌ」。
 このアクセントへのこだわりは、ことばそのものの「音」へのこだわりである。そして、こういうこだわりをもっている作家を私は信頼している。
 信頼しながら、そこには、一種の変な感覚もある。
 小説をどんなふうにして読むか。私は声に出さない。つまり音読しない。ナボコフはどうなのだろう。やはり音読はしないのではないかと思う。
 音読はしなくても、「音」に対するこだわりがある。これは変なことだろう。
 変なこと--と書いたけれど、私は、実は変とは感じていない。「音」を聞かないと、書けない。私はいつでも音を聞きながら書いている。声には出さないが、喉を動かしながら書いている。言えないことばは書けない。読めないことばは書けない。
 ナボコフと私を結びつけるのは、まあ、私の傲慢になってしまうのかもしれないけれど、ナボコフもそういうひとなのだと思う。喉を動かさないことには書けない作家である。喉を動かさないと書けない--喉を動かしながら書いているからこそ、あることばのアクセントをどこに置くか、ついつい書いてしまう。
 これは「肉体」にしみついた「音楽」に対するこだわりである。
 沼野の翻訳がどれくらいナボコフの「音楽」を反映しているかわからないが、このアクセントのこだわりにはナボコフの「音楽」があらわれていると思う。





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ナボコフ『賜物』(18)

2010-11-21 15:32:01 | ナボコフ・賜物
ナボコフ『賜物』(18)

 ナボコフの小説では人間が物語(ストーリー、時間)を動かすのと同様に(いや、それ以上に)、「もの」がことばを動かしていく。
 29ページから30ページにかけて。「思い出」「記憶」の不思議さ(思い出は蝋細工のようになり、どうしてイコンの智天使は顔の周りを覆う飾り枠が黒ずんでいくにしたかって帰って美しくなるのだろう)を書いたあと、ステレオスコープをのぞきこむときの恐怖が語られ、そして、

この光学的な遊びの後で見る夢に、ぼくはシャーマンの呪術の話以上に苦しめられたものだった。この装置はアメリカ人のローソンという歯医者の待合室に置いてあった。彼と同棲する女性はマダム・デュキャンという怪鳥ハルピュイア(がみがみばあさん)で、ローソン医院特性の血のように赤い口腔洗浄液(エリキシル)のガラス小瓶に囲まれてデスクに向かい、唇を噛みしめ髪を掻きむしりながら、ぼくとターニャの予約をどこに入れたものか決めかねてかりかりしていたが、とうとう、力をこめてきいきい音を立てながら、末尾にインクの染みがついた侯爵夫人(プランセス)トゥマノフと彼の頭にインクの染みがついたムッシュー・ダンザスの間に、唾を吐き散らすようにボテルペンを押し込んだ。

 スレオスコープという一般的な「もの」が、歯科医院にあった具体的な「もの」にかわり、その「もの」を起点にして、歯科医院でのできごとが語られはじめる。
 このとき話者は基本的には「ぼく」であるけれど、それは「ステレオスコープ」というものが「ぼく」に語らせる物語である。ステレオスコープという装置が登場した後、「ぼく」が語るのは、異様に歪み、誇張された世界である。予約ノートに書かれているのは「文字」に過ぎないはずなのに、私たちは「文字」以上のものを見てしまう。ステレオスコープに映し出された歪んだ世界を見てしまう。侯爵夫人トゥマノフとムッシュー・ダンザスの間に挟まれて、恐怖におののきながら治療を待っている「ぼく」を見てしまう。また、「ぼく」をはさむ夫人とムッシューを見てしまう。
 「文字」が「文字」であることをやめて動きだす。--これは、すべて「ステレオスコープ」という「もの」が物語を動かしているからである。

 あることば、ある意識が、何かにぶつかり、それを起点にして別な方向へ動いていく--ということを「意識の流れ」という具合にいうことができるかもしれないが、そういうときの「意識」とは人間の「頭」のなかにある抽象的なものではなく、常に、「頭」の外にある「具体的なもの」である。意識ではなく、「もの」が流動していく。まるで洪水の川を流れる巨大な樹、家、ピアノ、車のように、「もの」が輪郭を持ったままというか、ふつうに存在しているときは持たなかった輪郭(強烈な印象)をもって流れていく。
 「もの」はさらに「もの」とぶつかり、激しい音を立て、また別な方向へ動いていく。その動きを、ナボコフは、なんといえばいいのだろうか、「もの」の数、「もの」の量で圧倒して、「方向転換」を感じさせない。


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ナボコフ『賜物』(17)

2010-11-20 12:51:33 | ナボコフ・賜物
ナボコフ『賜物』(17)

ぼくはベッドの暗闇の中で旅をした。シーツと毛布を丸天井のように引っかぶって、洞窟のようにしたのだ。洞窟の遠い、遠い出口のあたりでは脇から青みがかった光がさしこんでいたが、その光は、部屋とも、ネヴァ河畔の夜とも、黒っぽいカーテンのふんわりした半透明の縁飾りとも、何の関わりもなかった。
                                 (28ページ)
  
 想像力とはものを歪めてみる力だといったのはバシュラールだと思うが、この「歪める力」が、「洞窟のようにした」の「した」に隠れている。シーツ、毛布を被ったとき、それが洞窟のように「なった」のではない。主人公は、それを自分の思いで、そのように「した」のである。歪めたのである。
 そして、そのとき「洞窟」は洞窟に「した」のだからもちろん、部屋の光やその他その近くにあるものと「関わり」がないのは当然のことだが、この「関わりのなさ」も主人公が「した」ことなのだ。必然ではなく、作為なのである。
 だから、それに続く、

そのうち、ようやくうとうとすると、ぼくは十本もの手にひっくり返され、誰かが絹を引き裂くような恐ろしい音ともにぼくを上から下まで切り裂いて、それから敏捷な手がぼくのなかに入り込み、心臓をぎゅっと締め付けた。

 この恐怖も、実は、「ぼく」が自分で「した」ことなのだ。そうなるように自分から「夢」を見たのである。それは一種の冒険である。楽しいだけが冒険ではなく、恐怖を味わうことこそ、官能的な冒険である。
 どこかで、主人公は生きている限り味わえない「死」に触れる喜びを知りたくて、あえて、そうしているのである。
 私は先走りしすぎているのかもしれないが、「洞窟のようにした」の「した」にそんなことを感じた。


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ウラジーミル ナボコフ
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