ナボコフ『賜物』(31)
文学のなかに文学がある--小説のなかに詩があり、その詩についての批評があり……というような入れ子細工はナボコフの「好み」だと思うが、そういう「作品の構造」だけではなく、諸説の細部においても、もう一度ナボコフは「入れ子」をつくる。
ここからストーリーが展開するわけではない。ただ主人公が「文学的連想」をした、ということが書かれているだけなのだが、この「文学」への「逸脱」が不思議におもしろい。
なぜか、そこに「短編小説」を感じるからである。女を主人公とした短編小説が、そのことばのなかにひそんでいる。何も書かれていないのに、短編小説を感じさせる。
他方、次の、変な逸脱もある。
ナボコフは、ここで主人公に「短篇」「中篇」ということばを語らせている。非文学的(?)な円と三角形の比喩--文学的連想から遠いものは、短篇、中篇には向かない、といわせている。
あるいは。
それは逆説的には、文学的連想から遠いものは「長篇」になる、ということを意味しないだろうか。短篇、中篇は、「文学的連想」のことばとともに動く。「文学的連想」から動くことばは自然に短篇、中篇を作り上げてしまう。
ここには、ナボコフの「自戒」がこめられているかもしれない。
文学のなかに文学がある--小説のなかに詩があり、その詩についての批評があり……というような入れ子細工はナボコフの「好み」だと思うが、そういう「作品の構造」だけではなく、諸説の細部においても、もう一度ナボコフは「入れ子」をつくる。
彼女は柔らかな胸に腕を君で立っていたので、その姿を見るとたちまちぼくの中に、その題材をめぐる文学的連想のすべてが展開した--からりと晴れた埃っぽい夕べ、街道沿いの居酒屋で、退屈した女が注意深いまなざしを何かに向けている。
(69ページ)
ここからストーリーが展開するわけではない。ただ主人公が「文学的連想」をした、ということが書かれているだけなのだが、この「文学」への「逸脱」が不思議におもしろい。
なぜか、そこに「短編小説」を感じるからである。女を主人公とした短編小説が、そのことばのなかにひそんでいる。何も書かれていないのに、短編小説を感じさせる。
他方、次の、変な逸脱もある。
ヤーシャは日記をつけていて、その中で自分とルドルフとオーリャの相互関係を「円に内接した三角形」と的確に定義していた。円というのは、正常で清らかな、彼の表現によれば「ユークリッド的な」友情のことで、それが三人を結び合わせていたので、それだけだったら彼の絆は何の心配もなく幸せなまま、解消されこともなかっただろう。しかしその円に内接する三角形の方は(略)--こんなことから短篇だの、中篇だの、一冊の本だのをつくりだすことはとうていできない、とぼくは思ってしまうのだ。
(69-70ページ)
ナボコフは、ここで主人公に「短篇」「中篇」ということばを語らせている。非文学的(?)な円と三角形の比喩--文学的連想から遠いものは、短篇、中篇には向かない、といわせている。
あるいは。
それは逆説的には、文学的連想から遠いものは「長篇」になる、ということを意味しないだろうか。短篇、中篇は、「文学的連想」のことばとともに動く。「文学的連想」から動くことばは自然に短篇、中篇を作り上げてしまう。
ここには、ナボコフの「自戒」がこめられているかもしれない。
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若島 正 | |
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