詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ナボコフ『賜物』(16)

2010-11-19 11:09:18 | ナボコフ・賜物
ナボコフ『賜物』(16)

 眠れない夜、主人公が姉と謎々をする場面がある。主人公が独自の奇抜な謎々を出すのに対して、姉の方は「古典的な手本に従って」謎々を出した。たとえば

 私の最初の音節は貴金属
 二番目の音節は天の住人
 全部合わせると美味しい果物
                                (27ページ)

 この部分には訳者・沼野充義の注がついている。その注が非常におもしろい。

フランス語の原文だけが掲載されており、訳も謎解きもついていない。答えは、or「金(=貴金属)」+ange「天使(天の住人)」で、orange「オレンジ」となる。なお、この謎はよく知られているもので、ナボコフによる創作ではない。

 私がおもしろいと感じたのは「ナボコフの創作によるものではない」という部分である。
 小説にかぎらず、あらゆる「芸術」は作家の創作である--というのが基本だが、だが、創作など言語においては存在しない。どの言語もかならず誰かが語ったことばであり、なおかつ共有されたものである。そうでないと、ことばはつうじない。ことばが通じる、他人に理解されるというのは、それがオリジナル「創作」ではないからだ。
 創作とは、それでは何になるか。
 既存のものの「組み合わせ方」である。
 姉の謎々が「古典的な手本に従っていた」とことわって、ナボコフは、すでに知られた謎々をそのまま引用している。引用を姉の行為に結びつけ(自分自身ではないところが絶妙である)、そこにひとりの人間を造形している。
 ナボコフのことばが魔術的なのは、それが創作されたことばではなく、創作された組み合わせだからである。

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ナボコフ『賜物』(15)

2010-11-18 11:17:15 | ナボコフ・賜物
ナボコフ『賜物』(15)

チクタクと時を刻む音は、一センチごとに横縞の入った巻尺のように、ぼくの不眠の夜を果てしなく測り続けた。
                                 (26ページ)

 この「巻尺」の比喩はとても興味深い。時間をナボコフは線のように考えている。そしてその時間は「一センチ」ずつ測れるようなものである。「一センチ」という単位があきらかにしているように、それは「空間」的なものである。
 「空間」のように広がりをもち、そのなかを均一に動いていくものなのだ。
 それは、引用した文章の直前に書かれている「詩」のなかにも出てくる。家中の時計を調節にやって来た老人は……。

そして椅子の上に立って待つ
壁の時計が完全に正午を全部
吐き出すまで。そうして、無事に
気持ちのいい仕事をやり終え
音もなく椅子を元の場所に戻すと
時計は微かにうなりながら時を刻む

 「時」は均一に「刻」まれ、積み重なって「時間」になる。こんな考えを持つのは、ナボコフが(この小説の主人公が)、過ぎ去った時間(過去)をまるで一センチずつ刻んだ枡目のなかに「思い出」を均一に持っているからなのだ。
 ナボコフの描写はとても細密だが、その細密さはこの時間感覚と同じなのだ。時間が一センチずつ時を刻むのにあわせるようにして、ナボコフは一センチずつ思い出を再現する。一センチという単位はけっして狂うことがない。いや、多少の乱れはあるかもしれない。けれど、その乱れを時計屋の職人のようにときどきネジをまいて調子をあわせる。つねに調整しつづけるのである。





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ナボコフ『賜物』(13)

2010-11-16 10:50:12 | ナボコフ・賜物
ナボコフ『賜物』(13)

そして洋服箪笥の中に隠れると、足下ではナフタリンががりがり音を立て、人に見られることなく箪笥の隙間から、目の前をゆっくり通り過ぎていく召使を観察することができた。そうして見ると、召使は奇妙なほど新鮮な姿に生まれ変わって命を吹き込まれ、ため息をついていたり、お茶やリンゴの香りを漂わせたりしているように見えた。
                                 (24ページ)

 世界は自分をどのような立場に置くかによって違って見える。物陰に隠れて見る世界はいつもとは違って見える。それはそう見えるだけなのか、あるいはほんとうに違っているのか、--つまり、隠れていることが影響してそう見えるのか、それともの小説でいえば主人公がいないところ(召使からすれば少年はいないところ)では、召使は少年の知らない姿をしているだけなのか、実際のところはわからない。少年の前では召使はため息をつかない。けれど、少年のいないところではため息をついている。そういうこともありうる。
 そういうことは別にして、この部分でおもしろいのは、召使は「ため息をついていたり」、「お茶やリンゴの香りを漂わせたりしている」という表現である。前者は聴覚でとらえた世界である。耳でため息を聞く。後者は嗅覚でとらえた世界である。お茶やリンゴの香りは少年は嗅いでいる。そして、さらにおもしろいことには、そういう世界をナボコフは「……ように見えた」と視覚で封じ込めていることである。
 少年は聞いていない。香りを嗅いでいない。目で見たものから、音を聞いたように感じ、香りを感じたように感じている。そう、「見えた」のであって、そう聞いたわけでも、そう香りを嗅いだわけでもない。
 視覚が聴覚と嗅覚を覚醒させている。それは幻かもしれないけれど、幻よりも強烈かもしれない。幻よりも強く(明確に)存在するものかもしれない。

 聴覚、嗅覚が視覚に影響を与えるのではなく、視覚が他の感覚器官をゆさぶる。ナボコフにおいては視覚が他の感覚に優先し、またすべての感覚を統合するという働きをしている。



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ナボコフ『賜物』(12)

2010-11-14 21:27:48 | ナボコフ・賜物
ナボコフ『賜物』(12)

 詩のなかのおもちゃの説明を小説の主人公はつづける。

それは繻子のだぶだぶのズボンを履いた道化で、白く塗られた平行棒に手をついて体を支えていたが、ふと突かれたりすると、

  滑稽な発音の
  ミニチュア音楽の調べにあわせ

動きだした。

 詩と、地の文がなめらかに交錯する。地の文から詩へ移り、またそこから地の文へもどってくる。
 自分の書いた詩とともに、その詩の思い出を語っているのだから、そうするのは自然にも受け取れるが、この「芸術(詩)」と「現実(地の文)」垣根のなさがナボコフそのものなのかもしれない。
 「芸術(詩)」と「現実(地の文)」を入れ換えるとわかりやすいかもしれない。
 「現実」と「芸術」の垣根のなさがナボコフである。あらゆる現実はことばにした瞬間から「現実」ではなく「芸術」になる。
 これはある意味で苦悩である。苦痛である。ナボコフはリアルな現実に触れることができないのだ。ことばが現実を芸術に変えてしまい、いつでも芸術を生きるしかないのである。
 つまり。
 いま引用した部分に則していえば、「滑稽な発音」。これは、どうなるだろう。詩だから「滑稽な発音」という表現は成り立つ。ふつうの暮らしではそれは「発音」ではない。「発音」というのは人間がある音を出すことである。「もの」が音を出すときは発音とは言わない。「滑稽な音」(滑稽なノイズ--の方がぴったりくるかもしれない)の音楽。けれども、ナボコフは、「発音」を地の文へ引きこんでしまう。間違いとは言わないが、一種の奇妙な感じを文体全体に漂わせてしまう。
 そういう他人とは違うことばの空間・ことばの時間を、ナボコフはただひとりで生きるのである。

 「発音」という訳語が、どれくらい正確な訳なのか私にはわからないが、その訳をとおして、そんなことを考えた。




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ナボコフ『賜物』(11)

2010-11-13 12:08:23 | ナボコフ・賜物
ナボコフ『賜物』(11)

 私はロシア語を知らない。また『賜物』を日本語以外のどの言語でも読んでいないのだが18ページから19ページにかけての「訳文」がどうにも納得ができない。「「震える」という形容があまり気に入らないのは、なぜだろう。」という文章からナボコフのことばは「逸脱」をはじめる。
 「逸脱」というのは一種の暴走である。スピードが出すぎて、抑制がきかない。そのため、文体が危なっかしくなり、意味がしばしば混乱するような印象を与える--というのはいいのだが、訳文には肝心のスピード感がない。「逸脱」が「逸脱」に、「暴走」が「暴走」になっていない。逆に停滞している。

それはつまり、逆のほうから無に入っていくということだ。つまり、幼児のぼんやりした状態はぼくにはいつも、長い病気のあとのゆっくりとした恢復、根源的な非存在から遠ざかることのように思えるのだが、この闇を味わい、その教訓を未来の闇に入っていくのに役立てるために記憶を極限まで張りつめるとき、それは非存在に近づいていくことになる。ところが、自分の生涯を逆立ちさせ、誕生が詩になるようにしてみても、この逆のほうからの死の間際に、百歳の老人でさえも本来の詩を目の前にしたときに味わうという、あの極度の恐怖に相応するようなものは何も見あたらないのだ。その、さきほど触れた影たちのほかには何も。

 記憶の根源--一番最初の記憶として「震える影」がある。その記憶の方へ記憶の方へとさかのぼっていく。それは「誕生」をつきぬけて「誕生以前」(未生、つまり非存在)を感じさせる。その誕生以前の闇、未生の闇を存分に味わい、それをやがてやってくる死へと結びつけてみようとする。そのとき、誕生以前の闇、未生の闇は、老人が感じる死の恐怖とは合致しない。ただし、あの「震える影」以外は。--ナボコフが書いていること(訳文)をさらに私のことばに「翻訳」しなおせば、そういう具合になるのだが……。
 うーん。
 ナボコフが感じている愉悦(ナボコフの書いている主人公が感じている愉悦)、その愉悦がことばを逸脱させているという感じが、訳文からは伝わってこない。(私の「誤訳・翻訳」からは、もちろん、そんなものは浮かび上がるはずはないのだけれど。)
 だいたい誕生以前の闇、未生の闇は、生を経験したあとの闇(死)とはまったく性質が違うから、そんなものは「恐怖」の対象にはならない。ならないはずだけれど、ナボコフの主人公は、なぜが「恐怖」につながるものを感じている。幼いときに見た「震える影」。それは誕生以前の闇、未生の闇の何かしら「恐怖」に通じるものと「共振」しているのだ。
 そして、思うのだが、この小説の訳者(沼野充義)は、ナボコフのことばに「共振」していないのではないのか、という印象が残る。「震える(影)」と書いただけで、いっしょに「震える」ものをもたないまま、ことばを追っている。「論理」として訳出している。そういう感じがする。
 きょう引用した部分では「つまり」のつかい方がひっかかってしようがない。「……のに」「だからこそ……なのだ」「つまり……」。そういうことばが出てくるとき、ことばのリズムが乱れる。「論理」を訳出しようとするとリズムが乱れる。ナボコフのことばは、そういう一種の論理を補助することばを借りて暴走しているはずなのに、その暴走、逸脱のスピードが訳文ではとたんに失速する。
 きのう読んだかっこのなかに入っていた人形劇のくだりのように、「論理」の仕組みが日本語とロシア語とでは違うのだろう。ロシア語の持続力を(粘着力のある論理構造を)、その持続するときの出発点から順に持続させていくために、論理がねじれ、重くなるのだろう。
 「……のに」「だからこそ……なのだ」「つまり……」は、ある意味では、「結論」を含んでいる。その含んでいるはずの「結論」までの構造を利用して、ナボコフのことばは暴走する。その暴走はどんなに暴走しても構造から「逸脱」しえない--そういう「安心感」がナボコフ自身にあるのかもしれない。
 けれども、訳文には、その「安心感」がなく、ただ「構造」が重しのようにことばを苦しめている。
 直感的に、私は、そういうものを感じる。
 訳文への不平を書くことが目的ではないし、私はロシア語の原文自体を読んでもいないのだから、これは次のように言い換えるべきなのだろう。

 ナボコフは、ロシア語特有の論理的構文を利用して、そのなかでことばを暴走させる。論理的構文は非常に強固なので、ことばはどんなに暴走しようとも、論理から逸脱しない。そういう安心感(母国語の暗黙の安心感)が、ナボコフをさらに暴走させる。それは、たとえば、子供時代の思い出を語る部分に「非存在」というよう堅苦しいことばをもってくるところにもあらわれている。この哲学的なことばは、子供時代の根源的な思い出、影をきらめかせる逆説的な光--つまり絶対的な闇のような効果を原文(ロシア語)では発揮しているはずだ、と私は直感として感じる。
 ナボコフの魔術的文体は、ロシア語に根源的な論理構造(長い長い文章を平然と成立させる構造)にある。その構造はどんな言語をも強い粘着力でしばりつける。子供時代の「震える(影)」も「非存在」ものみこみ、それを電気でいえば「並列」ではなく「直列」の形でパワーアップさせ、暴走させるのだ。

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ナボコフ『賜物』(10)

2010-11-12 11:05:06 | ナボコフ・賜物
ナボコフ『賜物』(10)

  ところがそのときボールはひとりで
  震える闇の中に飛び出して
  部屋を横切り、まっしぐら
  難攻不落の長椅子の下に。

 「震える」という形容があまり気に入らないのは、なぜだろう。
                                 (18ページ)

 私はこの部分に震えてしまう。深い深い快感に酔ってしまう。自分の書いたことばが「気に入らない」。そう感じている作家を想像するとき、何かしら言い知れぬ快感が襲ってくる。あ、そうなのだ、どんな作家も自分で書きながら、書いたことばが気に入らないということがあるのだ。そう思うとき、不思議な「共感」のようなものが満ちてくるのだ。ナボコフは、そしてそう書いたあと「なぜだろう」とことばを追加している。追い打ちをかけている。これが、また、私にはうれしい。気に入らないこと--その原因をさぐっていく。考える。その逸脱が興奮を誘う。
 なぜか。
 作家が自分の書いたことばが気に入らないなら、それはさっさと消してしまうか書き直せばいいだけの話である。ところがナボコフはそれを消さない(消させない)、書き直さない(書き直させない)。そして、ストーリー(?)とは無関係に、「考え」の方にことばを逸脱させていく。そのとき、ことばにできることは、もしかしたら「逸脱する」ということではないか、という思いが私を襲ってくる。
 私は「逸脱」が好きなのだ。ことばが本来追いかけなければならない何か(テーマ)を知っていながら、そこからどうしても逸脱してしまう。その逸脱の中にこそ、ほんとうに書きたい何かがあるように感じるのだ。目的をもって、テーマに向かっていくことばは、ある意味では、そのテーマに縛られている。テーマに従属している。そのテーマから逸脱した瞬間にこそ、隠れていた無意識が動きだす。そう感じる。あ、いま、無意識が動きだした--その不思議な動きに、なぜか引きこまれてしまうのだ。

 けれど。
 次の部分を読むと、私は興醒めする。翻訳の問題なのだが、「日本語」になっていない。

 それともここでは突然、登場人物たちのサイズに目がすっかり慣れてしまっているというのに(だからこそ人形劇が終わったとき観客が最初に味わうのは、「自分はなんて大きくなってしまったんだろう!」という感覚なのだ)、一瞬その中に人形遣いの巨人のような手がぬっと現れた、ということなのだろうか。

 かっこのなかのことばは、説明文を挿入したものだろう。そういう部分は省略しても文章が通じなくてはいけないはずである。ところが、それを省略してみると、なんのことかわからなくなる。

それともここでは突然、登場人物たちのサイズに目がすっかり慣れてしまっているというのに、一瞬その中に人形遣いの巨人のような手がぬっと現れた、ということなのだろうか。

 突然「人形遣い」ということばが出てきて、比喩が比喩として成立しなくなる。ロシア語の原文を読んでいないのにこういう批判をするのは変かもしれないが、訳がおかしいのだ。訳し方が変なのだ。
 前後の文から考えると……。

 「震える」という形容詞があまり気に入らないのは、なぜだろう。「震える」ということばが、人形劇を見ていたとき、ふいに人形を動かしている手を見てしまったような感じ、人形を支配している手を見てしまったときに感じる違和感に通じるものをもっているからだ。「震える」ということばだけが、ボタンやボール(詩のなかの登場人物--いわばそれは人形劇の登場人物)の「大きさ」ではなく、それを動かしている「人間」(人形遣い)の手の大きさに似ているからだ。人形劇が終わったとき観客は「自分はなんて大きくなってしまったんだろう!」と最初に感じるが、その、自分が大きくなってしまったという感じに通じるものが「震える」ということばのなかにあるからだ、ということをナボコフは書こうとしている。
 ことばのもっていることば自身のサイズ--それについて書こうとしている。
 「震える」は「震える」なのだが、それはうまくいえない「震える」なのだ。たのことばとバランスを欠いている「震える」なのだ。いまは「震える」としかいえないけれど、そしてそれは「震える」には違いないのだけれど、もっと別な形で、書かれなければならない「震える」なのだ。人形劇の人形のサイズにして書かなければならないことばなのである。
 わかっているのに、そう書けないもどかしさ。
 それをナボコフはここで書こうとしている。
 そして、この感覚を訳文は捕らえきっているとは思えないのだけれど、それはたぶん「だからこそ……なのだ」という構文と、その文章の挿入のしかたに問題があるのだと思う。特に「だからこそ……なのだ」という構文に問題があるのだと思う。それはきのう読んだ部分の「陣取っていたのに」の「……のに」という構文とも通い合う。
 ナボコフの書いている「理由(原因?)」というか、ものごとの因果関係を説明することばは、きっと「日本語」に合わないのだ。たしかに文法的には、そこにつかわれていることばは「理由」や「原因」を導くことばなのだろうけれど、その「理由」や「原因」のとらえ方は常識とは違うのだ。
 人間には人間の因果関係がある。ものにはものの因果関係がある。人形劇には人形劇の因果関係がある。ものの因果関係に人間の因果関係をまぜてしまってはだめなのだ。人形劇の運動(因果関係)に人間の運動(因果関係--操作している手順)をまぜてはいけないのだ。そういうものが混じったとき、ナボコフは「気に入らない」と感じているのに、訳文は、それを混ぜてしまっている。
 私には、そう感じられる。
 だから、せっかくの、美しい美しい美しい文章、

「震える」という形容があまり気に入らないのは、なぜだろう。

 が、まったく目立たなくなる。段落のはじめに書かれているのに、存在感をなくしてしまう。--ああ、悔しいなあ、と感じるのだ。もっと違う訳があるはずなのに、ナボコフが日本人ならもっと違う訳になるはずなのに、と思ってしまうのだ。



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ナボコフ『賜物』(9)

2010-11-11 11:45:45 | ナボコフ・賜物
ナボコフ『賜物』(9)

夜を前にして並木道は公園からねぐらに戻り、出口のあたりは薄闇に覆われた。そのとき、部屋の中の様々な品物の一番明るい部分はもう外の闇の中に出て、どうしようもなく黒い庭で思い思いの高さに仮の場所を決めて陣取っていたというのに、観音開きの白い鎧戸が閉じられて、部屋を外の闇から隔ててしまった。
                                (17ページ)

 この訳はよくわからない。「仮の場所を決めて陣取っていたというのに」の「……のに」がわからない。
 それでもこの部分について書いておきたいと思うのは、ここにナボコフ独特のものの見方があるからだ。「並木道は公園からねぐらに戻り」とは、公園の並木道はもう公園の並木道であることを、闇のなかで自分の世界に隠れる、くらいの意味だと思うが、この動くことのできない「並木道」に意思があるかのように「戻り」という動詞をつかうところにナボコフらしさがある。人間だけではなく、「もの」にも意思があるのだ。そして「もの」にも、その部分部分に意思がある。だから、きのう見た猫の描写では猫は先に逃げるが、逃げ後れた「虎縞模様」が存在することになる。
 この「もの」と「部分」不思議な関係は、ここでも繰り返されている。「様々な品物の一番明るい部分はもう外の闇の中に出て」と「部分」ということばがつかわれている。「もの」そのものは動かなくても、その「部分」は動く。そして、その「部分」はそれぞれに「思い」(意思)をもっている。
 これはどういうことかというと、ナボコフの小説(ことばの運動)のなかでは、動くのは「人間」だけではないということである。「もの」も動く。「もの」もそれぞれの「過去」をもち、それぞれの「時間」を生きる。そういう世界のありようを描くことで、「いま」「ここ」の時間が濃密になるのだ。だれも経験したこのない濃密な時間が、ナボコフのことばのなかからあふれだし、読者を(私を)飲み込んでいくのである。
 
 先の引用部分の意味(論理?)が不明確なのは(私は原文を知らずにいうのだから、これは勝手な解釈なのだが)、「……のに」を引き継いだあとの「観音開きの白い鎧戸が閉じられて」という訳に問題があるのだ。
 「並木道は……戻り」「一番明るい部分は……出て」「場所を決めて」「陣取っていた」と能動態のことばの運動が続くのに、ここだけ「閉じられて」と受動態になる。「文体」が乱れている。ロシア語がどう能動態と受動態をつかいわけるか知らないが、日本語ではこういう「乱れ」方はしない。
 「閉められ」ということばがあるとき、そこには「閉める」という能動的行為をする別の「存在」がある。人が閉める。人がが省略されている。ここにふいに人が出てくるところ、そして人を感じさせる「……のに」という「理由」を暗示する表現が文章をこわしてしまっているのだ。
 いま問題にしている部分の前に「出口のあたりは薄闇に覆われた」と受動態が出てくるが、そのとき文章には人の気配はない。「薄闇に覆われた」は「薄闇が覆った」と言い換えることができる。人の意思はそこに存在しないからである。人の意志が存在しないからこそ、「……のに」というようなことばでは接続していない。「戻り」という一種の完結した形で終わっている。「並木道は……戻った、(そして)薄闇に覆われた」。そういう形に言い換えることができる。
 
 原文も知らないでこんなことにこだわるのは奇妙かもしれないが、人間だけではなく「もの」にも「意思」があるかのようなナボコフ文体は、この部分のすぐあとに書かれている「詩」にも登場する。とても、重要な特徴なのだ。その特徴をないがしろに訳しているのが私には気にかかるのである。

ボールがばあやの箪笥の
下に転がり込み、床では蝋燭が
影の端をつかみ、あちこちへ
引っ張りまわす でもボールはない。

 蝋燭が、その光が「意思」をもって「影」を動かす--この「もの」の活動がナボコフの詩である。人間も動くが「もの」も動くのだ。意思をもっているのだ。そのとき「もの」と「人間」は同格である。

 ということとは別にして、闇を描写したあと、すぐに室内の光、蝋燭の詩が登場し、その光が影(闇)を動かすというのは、直前の庭の闇のなかに取り残された品物の「部分」と呼応していて、とてもあざやかな印象を残す。
 ナボコフは対比が絶妙なのだ。



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誰も書かなかった西脇順三郎(152 )

2010-11-10 11:37:55 | ナボコフ・賜物
誰も書かなかった西脇順三郎(152 )

 「失われたとき」のつづき。

永遠も
永遠はからだを弓のようにまげる
あの女の音だ
蘭を買つて永遠の笑いをかくした
ことも蘭になつたおじさんのことも
山ごぼうを活けているうす明りの
マダム・ド・スタールの玄関も
みかんの花と茄子の花の誤謬も
サルビアの咲く家の
播いた種子の悲しげな刈入れも
みな忘れた悲しみだ
ウルビーノ侯爵夫人はまゆを
そつてしまつた

 西脇のことばは非常に速い。いろいろなイメージがつき次にあらわれてくるので、こういう部分では西脇の特徴はたしかに「絵画的」という印象を与えるかもしれない。
 しかし私はどうしても「絵画的」とは受け止めることができない。
 1行1行は具体的な存在をくっきりと浮かび上がらせる。「永遠はからだを弓のようにまげる/あの女の」という展開は、「永遠」という見えないもの(ランボーのように、それが見える人もいるだろうけれど)を、「からだ」「弓」「まげる」「女」というなまめかしい(?)ものをとおして語るとき、しなやかにたわむ女のからだが永遠であるという具合に見えてくるけれど、「あの女の音だ」とつづけられると、瞬間的にいま見た「イメージ」が消えてしまう。
 それからつづく行も、1行1行は次々に瞬間的なイメージを浮かび上がらせるけれど、同時に消えていく。「絵画」というより次々に消えていく映像でつくられた「映画」の方が印象的には合致する。(私の場合は。)
 しかし、私には「映画的」にも見えない。私の想像力が貧弱だからといわれれば反論のしようがないのだけれど、私は西脇の書いていることばを「映像」として持続させることができない。新しく展開してきた「映像」に驚かされるけれど、それは新しい行がまえの行を突き破っているからである。いうならば、映像は持続するのではなく、次々に破られてしまう。前の「映像」は「映像」として残らない。そんな「映画」はない。「映画」は映像が連続したものである。持続することで、そこにストーリーを浮かび上がらせ、感情をうごめかせる。西脇の「映像」はそういうものを持続させない。
 何が西脇のことばを持続させているのか。
 同じことしか書けないが、(同じことを書くことが私の狙いでもあるのだけれど……)、それはやはり「音」なのだ。
 「永遠はからだを弓のようにまげる/あの女の」のあとにあらわれた「音だ」。
 「蘭を買つて永遠の笑いをかくした」という1行のなかの「買つて」「かくした」の「か」の響きあいが、ことばを加速させるその「加速」の感じが、普通のことばとは違ったスピードを感じさせる。その一種の「違和感」が詩なのだと私は思う。
 その次の、

ことも蘭になつたおじさんのことも

 行頭の「ことも」は「学校教科書文法」的には、前の行につながるはずである。それが切断された行の冒頭にきているのだが、その冒頭の「ことも」が同じ1行の最後に繰り返されると、不思議なことに行頭の「ことも」か行末の「ことも」か、そのどちらか判然としないのだが、「ことも」という音が1行前にもどって「かくしたことも」につながって響く。「ことも」の繰り返しによって、乱れた行が何かひとつの統一感のなかに浮かび上がってくる。
 そして、その「ことも」の「も」がその後「玄関も」「誤謬も」「刈入れも」と繰り返される。そのたびに、あ、「……も」というリズムがこの詩を動かしているなあと感じる。
 「映像」ではなく「音」が行を調えている。突き動かしている。それは前進するとともに、過去(それ以前の行)を引っ張りだしもする。
 音楽を聴いていると、新しいはずの部分に、それ以前に聞いた音がまじり込み、あ、繰り返しだ、と気づくことがある。その瞬間、その新しい部分が、初めて聞いたときより加速して感じられる。なめらかに、楽々と動いていく感じがすることがある。その軽快な加速--音楽喜び。それに似たものを私はいつも西脇の詩に感じる。




西脇順三郎コレクション〈第5巻〉評論集2―ヨーロッパ文学
西脇 順三郎
慶應義塾大学出版会

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ナボコフ『賜物』(8)

2010-11-10 10:49:17 | ナボコフ・賜物
ナボコフ『賜物』(8)

彼は晴れ晴れとした微笑みを浮かべるだけにとどめ、脇に跳びのいた猫の体について行き損ねた虎縞模様につまずきそうになった。
                                (15ページ)

 人間が猫につまずきそうになるということはある。けれど、猫が跳びのいて、その猫の体に猫の体の模様(虎縞模様)がついて行き損ねるということはないし、したがって、そのついて行き損ねた「模様」につまずくということはない。
 ないのだけれど、この描写はとても「正確」であると感じてしまう。
 人間の肉体の反応は複雑である。眼が反応する。足が反応する。眼と足とのあいだに、「ずれ」がある。
 何かがふいに足元で動く。跳びはねる。猫だった。それは虎模様だった。その猫という意識から、虎模様という意識のあいだまでの一瞬。そののとき、たぶん、足への意識がうすれる。足がもつれる。つまずきそうな感じ--というのは、そのことを指している。
 この一瞬の出来事を整理しなおすと(?)、まるで猫の虎模様が、猫のあとから動いたようで、そして、その残っていた虎模様につまずきそうになった、ということになる。
 これは、まあ、強引な「論理」であるけれど、そういう面倒くさい「論理」にしなくても、というか、そんなことをする前に書かれていることがわかってしまう。
 なぜだろう。
 私たちは誰でも、そういう眼と足との動きのずれ、一瞬の余分な意識の動きが肉体に作用して、肉体をぐらつかせることを知っているからだ。意識(認識--眼)と肉体(足)のあいだには、連続性と同時に「ずれ」がある。「ずれ」は眼と足との、脳からの距離かもしれないが……。

 余分なことを書いてしまった。

 ナボコフの描写が美しいのは、そこに必ず「肉体」があるからだ。華麗で細密なことばが動くので、そこには華麗で細密、繊細な精神(こころ)があると思ってしまう。もちろんナボコフの精神(こころ)は繊細なものに反応し、それを華麗に仕立て上げるとき、すばらしく魅力的に輝くけれど、その感覚はしっかりと「肉体」を踏まえている。そして、そのナボコフの「肉体」感覚が、私たちの(読者の)「肉体」のなかに眠っている感覚を呼び覚ますのだと思う。
 私たちはたしかに「模様」や「影」--意識の「残像」につまずくということがある。「肉体」がつまずくのではなく、「意識」(感覚)がつまずき、それが「肉体」を動かすのである。つまずかせるのである。




青白い炎 (ちくま文庫)
ウラジーミル ナボコフ
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ナボコフ『賜物』(7)

2010-11-09 11:55:58 | ナボコフ・賜物
ナボコフ『賜物』(7)

ときおり盲目の太陽が漂うあたりにオパール色の穴があき、そうすると下界では、トラックの丸みを帯びた灰色の屋根で菩提樹の細い枝の影たちが恐ろしい勢いで実体化に向けて突き進むのだが、その形が完全に具現しないうちに、溶けてなくなるのだった。
(14ページ)

 「盲目の太陽」。こういうことばを読むと、私は「現代詩」を思い出してしまう。ありえないことばの結びつき。その瞬間、ことばの「文法」が破壊する。ことばの「肉体」が破壊されてしまう。そして、むりやり度の強い眼鏡で網膜に直接光で何かを刻印されたような気持ちになる。何かを見た--ではなく、何かをむりやり見させられたような意識の錯乱が起きる。それは見たかったものか、それとも見たくなかったものか。
 こういう「混乱」は、長く読者に考えさせてはだめである。「混乱」こそが新しい何かを見るための「方法」なのだと錯覚させるくらいに、ことばが加速しないといけない。この加速においてナボコフのことばは「現代詩」を上回ることがある。
 ナボコフのこの描写は、太陽が突然強い光をふりそそぎ、その光によって生まれた木々の影がトラックの屋根にあざやかに記される--記されようとした瞬間、また翳り、影は陰にならずに終わってしまう、ということを書いたいるのだと思うが、そういう描写に「実体化」とか「具現」というような硬いことばを挟み込む。太陽、光、菩提樹、影。自然をあらわすことばが、自然から遠いことばによって(科学、あるいは物理のことばによって?)攪拌される。
 「盲目の太陽」という、ありえないことばの結合だけではなく、自然と科学という異質のことばが出会うことで、思考が攪拌され、ことばが加速するのだ。ナボコフは大量のことばを書くが、それは、その場にただ動かずに存在する「もの」のようにしてあるのではなく、互いに他のことばを加速させ、いま書いたことばを振り捨てるのだ。
 あらゆることばは、その対象である「もの」を想像力の中に「具体化」しようとするが、その「もの」が想像力のなかで「具現」しないうちに、ナボコフは他のことばをぶつける。他のことばで前のことばを弾き飛ばす。
 ナボコフのことばの暴走を、そんなふうにみることができる。

 それにしても、おもしろい、と思う。「具体化」「具現」。このことばの強さに、私は引きずられてしまう。ナボコフが町をどう描写しようとしていたのか、その描写よりも、ふいにあらわれた具体化、具現ということばが、その瞬間、何か、ナボコフの「肉体」を感じさせるのだ。ナボコフの書きたいという欲望を感じさせるのだ。なんでもことばにすることで「具体化」「具現(化)」したいのだ。その欲望だけでナボコフは生きている、と感じるのだ。



ディフェンス
ウラジーミル・ナボコフ
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ナボコフ『賜物』(6)

2010-11-08 11:38:02 | ナボコフ・賜物
ナボコフ『賜物』(6)

 彼は店に向かってさらに歩きだしたが、たったいま目にしたものが--同じような性質の喜びをもたらしてくれたからなのか、それともだしぬけに彼を襲って(干草置き場で子供が梁からしなやかな闇に落ちるときのように)揺さぶったからなのか--もうこの数日間、何を考えてもその暗い底にひそんでいて、ほんのちょっとした刺激を受けただけで浮かび上がって彼を虜(とりこ)にしてしまう、あの愉快な何かを解き放ったのだ--ぼくの詩集が出たんだ。

 「それとも」。この短いことばの不思議さ。
 「それとも」によって、ナボコフの想像力は自由になる。いま書いたばかりのことと正反対のことを書くことができる。
 そして、この「正反対」が、ナボコフのこの小説の場合、地の文ではなく、かっこに入って書かれている。子供のときの思い出。それは、いまの、この現実の時間からもかけ離れている。
 本来、「それとも」は同じ次元での逆の立場(正反対)でなければ、文意をなさないはずである。たとえば、彼は喜んでいる。「それとも」悲しんでいる。(あるいは怒っている。)--というふうにつかうのが普通である。そういう「正反対」を併記するとき、「それとも」がくっきりと浮かび上がる。しかし、ナボコフはそういう「文法」にとらわれない。もっと自由に、なんとでも結びつける。
 しかし、「なんとでも」とは書いてみたが、それは「なんとでも」ではない。
 よくよく読むと、ナボコフがここで書いている「それとも」は正反対ではない。逆説ではない。むしろ、共通していることがらである。「それとも」には似つかわしくない不思議な状況である。「正反対」というよりも、いま書いたことをより深く掘り下げたことがらである。別の次元へまで掘り下げている。「同じ性質の喜び」を「もたらしてくれた」のか、それとも「同じ性質の喜び」が彼を「揺さぶった」からなのか。「もたらす」と「ゆさぶった」--それは、ほんとうに「それとも」で結びつけることばなのだろうか。
 「それとも」よりも「さらに」の方がふさわしいかもしれない。
 「同じ性質の喜び」をもたらし、さらに「同じ性質のよろこび」で彼を揺さぶる。この場合、「同じ性質」は実は「同じ」というより「より強い」「より根源的な」というべきだろう。ある性質の喜びをもたらし、「さらに」、その喜びよりも「より根源的な」喜びが彼を揺さぶった。
 そして、この「より根源的」はあまりにも個人的過ぎるので、「さらに」という連続性のあることばよりも、断絶(飛躍)が目立つ「それとも」が選ばれているという印象がある。
 それにしても、このかっこのなかの子供時代の「喜び」のなんとうい不思議な甘さ。苦しさ。墜落と、それを受け止める温かさ。「子供時代」特有の、人間の「根源」にふれるような喜び。闇に落ちていく、そしてその闇は温かい。--明るい天上にのぼるのではなく、暗い、温かい闇に落ちる。ああ、そのなんともいえない矛盾。
 どこかに、そういう無意識が照らしだす「矛盾」があって、それゆえに「それとも」が選ばれているともいえる。
 ナボコフの魔術は華麗なことばだけではなく、「それとも」というようなだれでもがつかうありふれたことばのなかにこそ、強烈に根を張っているのかもしれない。





青白い炎 (ちくま文庫)
ウラジーミル ナボコフ
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ナボコフ『賜物』(5)

2010-11-07 11:41:07 | ナボコフ・賜物
ナボコフ『賜物』(5)

 角の薬局に向かって道を渡るとき、彼は思わず首を回し(何かにぶつかって跳ね返った光がこめかみのあたりから入ってきたのだ)、目にしたものに対して素早く微笑んだ--それは人が虹や薔薇を歓迎して浮かべるような微笑だった。
                                 (10ページ)

 「何かにぶつかって跳ね返った光」。反射。ナボコフのことばには、いつも反射があるように感じる。ことばとことばがぶつかりあって輝く。それ自体で輝かしいことばもあるだろうけれど、ナボコフは、衝突と反射によって、その輝きを自ら燃え上がる炎にするのかもしれない。
 いま引用した部分では、「こめかみ」が自ら燃え上がる炎である。
 光はどんなことをしたって「目」からしか入ってこない。私たちは視覚で光を見る。けれど、ナボコフは「こめかみのあたり」と書く。それは「目のこめかみのあたり(こめかみに近いあたり)」を超越して、「こめかみ」から入ってくる。見るための「肉体」ではないところから、光は目を通らずに入ってくる。網膜へ、ではなく、脳へ。
 このとき、「こめかみ」は自ら燃え上がり、新しい「肉眼」になるのだ。
 そういう「肉眼」が「見る」ものは、当然、「目」が見るものを超越した存在である。

ちょうどそのとき、引っ越しようのトラックから目もくらむような平行四辺形の白い空が、つまり前面が鏡張りになった戸棚が下ろされるところで、その鏡の上をまるで映画のスクリーンを横切るように、木の枝の申し分なくはっきりした映像がするすると揺れながら通りすぎたのだった。その揺れ方がなんだか木らしくなく、人間的な震えだったのは、この空とこれらの木々の枝、そしてこの滑り行く建物の前面(ファサード)を運ぶ者たちの天性ゆえのことだった。
                                 (10ページ)

 「人間的な震え」。この「人間的」は「目」では見ることはできない。「肉眼」になった「こめかみ」が見たものである。そして「人間的」というのは、実は「天性」のことである。この「天性」も「目」には見えないものである。
 「肉眼」のなかを動く「ことば」だけがとらえることのできるものである。





ナボコフ自伝―記憶よ、語れ
ウラジミール・ナボコフ
晶文社

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ナボコフ『賜物』(4)

2010-11-06 11:21:22 | ナボコフ・賜物
ナボコフ『賜物』(4)

いつか暇なときにでも--と彼は考えた--三、四種類の店が交替して現れる順序を研究して、その順序には独自の構成上の法則があるという推測が正しいことを検証したら、面白いだろう。つまり一番頻繁に現れる組み合わせを見つければ、当の町の平均的リズムが導き出せるのではないか。
                                 (10ページ)

 リズムを何に見つけるか。リズムとはもともと「音」の概念だと思う。ところがナボコフは「音」ではなく、店の「配置」、つまり空間のなかに感じている。それは「絵画的」といえるかもしれない。「絵画」のなかにあらわれる一定の色、形--それはたしかにリズムを呼び覚ます。
 この小説の主人公は、それを「絵画」(色、形)ではなく、類似の「もの」(ここでは商店の種類)のなかに見つけ出そうとしている。
 このリズム感覚はとても興味深い。
 ナボコフの感覚が、音は音として独立してあるのではなく、色も色として独立してあるのではない。音にも色にも何かが共通している。「共通感覚」というものがある。--というだけではなく、それを人の「暮らし」、「町全体」のあり方というような非常に雑多なもののなかにまで押し広げ、把握しようとしている。(いや、すでに把握しているのかもしれない。)
 ナボコフの文体は、さまざまな対象を飲み込んで、飲み込むたびに自在さを増して広がっていくが、それは多くのものを飲み込むほど、強靱になっていく。きっと「リズム」が強くなっていくのだろう。
 最初はぼんやりしていたリズムが、互いに呼びあいながら、見えなかったリズムを補強し、存在感を増してくる。

例えば、煙草屋、薬局、八百屋、といった具合に。タンネンベルク通りでこの三つはばらばらで、それぞれが別の角にあったが、ひょっとしたら、ここではリズムの群づくりはまだ始まっていないのだろう将来、対位法に従って、店たちが次第に(天守が破産したり、引っ越したりするにつれて)集まってくるかもしれない。
                                 (10ページ)

 ナボコフがいま書いていること--それはナボコフがここで書いていることばを借用して言い換えれば、この小説のリズムづくりはまた始まっていないのだろう。これから始まる。ナボコフ独特の対位法にしたがって、ことばが集まり、リズムになっていくに違いない。ことばがことばを呼び寄せ、群れをつる。そこからリズムが生まれてくる。それは小説が進むに従って聞こえてくるリズムだ。



ナボコフ短篇全集〈1〉
ウラジーミル ナボコフ
作品社


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ナボコフ『賜物』(3)

2010-11-05 11:40:07 | ナボコフ・賜物
ナボコフ『賜物』(3)

色とりどりの歩道を備えているこの通りは、ほとんど気づかないくらいの上り坂になっていて、まるで書簡体小説のように郵便局で始まり、教会で終わっていた。
                                (9ページ)

 「書簡体小説」が郵便局で始まり、教会で終わるというのは、手紙を書き、投函するところから始まり、ひとりに死んでしまう(教会での葬儀)ことで終わるということなのかもしれない。皮肉っぽい見方であるけれど、小説のなかで町を描写するのに、その比喩に小説をつかう--この二重構造への偏執的な(?)好みは、ナボコフの特徴かもしれない。
 小説はあることがらをことばで描写することで成り立っているが、ナボコフはそのことばをもう一度ことばで描写するのである。ことばがことばを呼び寄せ、増殖し、動いていく。そしてそのときことばは、どうしても最初の目的(この場合、町の描写)を逸脱していく。
 町ではなく、「まるで書簡体小説のように郵便局で始まり、教会で終わっていた。」という意識をもっている人間の内面、そういうことばを瞬間的に要求してしまう人間の精神の運動、感覚の運動への暴走してゆく。

例えば、口のなかにすぐさま不愉快なオートミールか、さもなければハルヴァの味を呼び起こすような建物、(……以下略)
                                (9ページ)

 町の描写と同様に、この「肉体感覚」、人間の内面こそ、ナボコフはことばで暴走させたいのだ。



透明な対象 (文学の冒険シリーズ)
ウラジーミル ナボコフ
国書刊行会

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ナボコフ『賜物』(2)

2010-11-04 13:12:43 | ナボコフ・賜物
ナボコフ『賜物』(2)

 「いつか分厚いのを一冊、こんな昔ながらの書き出しではじめてみようか」と、ちらりと頭をよぎった考えにはのんきな皮肉がまじっていてた。とはいえ、その皮肉はまったく余計なものだった。彼の内にいる誰かが、彼の代わりに、彼の意思には関わりなく、すでにこのすべてを受け入れ、書きとめ、しまいこんでいたからである。
                                 (8ページ)

 きのう自分に課したことがらが、もう守れない。1ページから1か所以上引用しない--そうしないと、1年をすぎてもこの本を読み終えることができない。本文だけで 580ページもあるのだから。--しかし、ここだけは外すわけにはいかないだろう。
 小説の冒頭の1ページ半は、この2段落目によって現実ではなく仮想された「小説の書き出し」になる。そして、仮想された小説の書き出しでありながら、実は「賜物」という小説の実際の書き出しになっている。
 小説が「ふたつ」存在するのである。
 この「ふたつ」はナボコフにとってはとても重要なことがらかもしれない。あることがらにおいて、そこにあるものは「ひとつ」ではなく「ふたつ」である。その「ふたつ」は書かれのもの(対象)と書き表したもの(記述)でもあるし、意識と無意識でもある。
 ことばを書くというのは意識的な作業だけれど、意識的な作業のすべてが意識下にあるというわけでもない。どんなときでも無意識というものが動いている。意識できない意識が意識を調えている。
 ナボコフはその無意識をここでは「彼の内にいる誰か」と読んでいる。無意識だから「彼の意思には関わりなく」というのは自然だと思うが、次のことばがナボコフ以外に書けるかどうかわからない。とてもナボコフ的だと思う。「すでにこのすべてを受け入れ」の「すべて」。
 書かれるもの(対象)は「ひとつ」である。書き表したもの(記述)も「ひとつ」である。でも、その「ひとつ」は必ず何かとつながっている。「ふたつ」になる要素をもっている。「ひとつ」のものが別のものとつながり「ふたつ」になり、それが延々とつづいていって「すべて」になる。
 「すべて」というのは面倒くさい。「すべて」なんて、いらない。「ひとつ」で充分、というときもあるかもしれない。けれど、ナボコフの無意識は「すべて」を「受け入れる」。
 「すべて」を「受け入れる」ものが一方にあり、もう一方にはそれを選択するものがある。無意識と意識は、拮抗しながらナボコフの文体になる。





ロリータ (新潮文庫)
ウラジーミル ナボコフ
新潮社


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