『花の町』(1996年)。「樫の木のベンチには」という作品に「肉眼」が出てくる。そのつかい方が少しかわっている。「肉眼」が何かを見る、というつかい方ではないのだ。
炎のような真紅のカンナ
ゴッホの黄色を再現してくれた
クロトンの葉と葉のカーニバル そして
ベンチがただ一つ
樫の木のカーブが 人間の心の曲線を
まざまざと肉眼に見せつけてくれて
このベンチに坐る義務のあるものは
夢多き女性 その夢と夢に破れた青年よ
熱気球で モンブランか キリマンジャロの
雪をめざして飛んで行け!
樫の木のベンチには だれも
腰をおろしてはいけない
クロトン(観葉植物)を見たときのことを書いているのだろう。そこに樫の木のベンチがある。そのベンチにはカーブしたところがある。その「曲線」が「心の曲線」として「肉眼」に見えてくる。
しかし、それは「肉眼」が発見したものではなく、むこうから「肉眼」に向かってやってきたのである。
「見せつける」とは、そういうことだろう。自分から進んで見るのではなく、自分以外のものが、むこうからやって来る。しかし、なぜ、それは「目」ではなく、「肉眼」にやってくるのか。
それは樫の木のベンチそのものが「肉眼」によってつくられたからである。そのベンチをつくった人は「肉眼」でベンチを見ていた。ベンチのカーブ(尻をのせる部分から背もたれにかけてのカーブだろうか)をつくりだしたのは「肉眼」をもった職人だったのだ。「肉眼」によって「物」はつくられる。そして、田村によれば「物」をつくる人は<物>でもある。そこにあるのは、ベンチではない。そこにあるのは、「肉眼」の対話であり、「物」と<物>の対話である。
そして、このときの、対話はとても不思議である。
4連目。
このベンチに坐る義務のあるものは
夢多き女性 その夢と夢に破れた青年よ
「このベンチに坐る義務のあるものは」と書きはじめているが、その「義務のあるもの」が何なのか、よくわからない。
一読すると、「夢多き女性」も「夢」も「夢に破れた青年」も「義務のあるもの」のように読める。しかし、その「夢多き女性 その夢と夢に破れた青年よ」は次の連の「雪をめざして飛んで行け!」という呼びかけにつながっている。
「坐る義務のあるもの」はだれ? 何?
それは、しかし、「雪をめざして飛んで行け!」と呼びかけられた「夢多き女性 その夢と夢に破れた青年よ」以外にない。
これでは「矛盾」である。
そして、この「矛盾」が、何度も書いてきたが、田村の「思想」である。
このベンチに坐る義務のあるものは
(略)
樫の木のベンチには だれも
腰をおろしてはいけない
途中を、「略」でかこってみるとよく分かる。田村の「矛盾」がよくわかる。「坐る義務のあるものは」「腰をおろしてはいけない」のである。義務があるのに、その義務を拒絶しなければならない。その矛盾のなかに「肉眼」のすべてがある。義務のあるものが義務を拒絶する--そのときの矛盾に満ちた対話。それが「樫の木のベンチ」とともにある。
クロトンの葉、その葉のなかの緑ではなく、真紅と黄色を見た瞬間に、田村はそれにぶつかったのだ。クロトンの葉は、人間が「ベンチ」という「物」をつくるように、「色」という「物」をつくっている。そのとき、そこには、きっと「矛盾」がある。
「矛盾」がぶつかりあって、「肉眼」を目覚めさせているのだ。
詩と批評A (1969年)田村 隆一思潮社このアイテムの詳細を見る |