詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

『田村隆一全詩集』を読む(87)

2009-05-17 00:53:21 | 田村隆一
 「他人」をことばのなかに引き入れながら、田村のことばはどんどん自在になる。どこへでもゆく。「アブサン」は、そうした作品群のなかにあっても傑作である。
 最終連。3行

この世の外(そと)なら
どこだっていいさ
どこだって

 どこだって「歩きたい」。1連目の書き出し「ぼくはまだ/砂漠を歩いたことがない」を手がかりにすれば、ここには「歩きたい」が省略されている。「歩きたい」は「行きたい」と同義だろうと思う。そして、そう思った瞬間、その「行きたい」は「生きたい」でもあるということに気がつく。「生きたい」はこの詩のタイトル「アブサン」(Absent」(不在)の反対語である。存在したい。どこででって、存在したい。「この世の外なら」。
 「この世の外」はふつうは「死後の世界」のことだが、田村にとっては「死後」ではなく、「生まれる前」(未分化の領土)である。
 そのこと、「この世の外」が死後ではなく、「未分化の領土」であることを語るために、この詩のことばは動いている。
 ジャン・ギャバンの主演した『地の果てを行く』から、ロートレックを経て、砂漠ではなく「断崖」をイギリスに求めて歩いたことを書き、次のようにことばは展開する。

一篇の詩
その一行 一行が断崖だとしたら
作品ははじめて死体からよみがえる
そんな作品が書けたら
北アフリカの砂漠を歩いてみるか
「アブサン!」

 「断崖」ということばは田村のひとつの理想である。いま引用した連の前(第3連)には、「ぼくは断崖そのもののような詩が書いてみたい」ということばがある。それは「この地」と「他の場」との絶対的な境目である。直立し、切り立ち、そこには「死」が隣り合わせにある。「生」と「死」が向き合ったまま、「垂直」に駆け上る。あるいは、落下する。どちらへ行くかわからない。そういう緊張した「場」である。
 そういう「場」で、

作品ははじめて死体からよみがえる

 「死体」と「よみがえる」(生)。矛盾したものが拮抗する。生から死へではなく、死から生へという動き自体が「矛盾」しているが、この「矛盾」こそ、田村のことばをつらぬくエネルギーのすべてである。「矛盾」が、互いを破壊しながら、矛盾を超越して、止揚とは無関係な何かになってしまう。「この世」にあるものではなく、「この世の外」にあるものになってしまう。
 「アブサン」(不在)の存在となって、北アフリカの砂漠を、ジャン・ギャバンのように。いや、ジャン・ギャバンを超越して。
 それは実際に歩かなくても歩いたことになる存在の仕方だ。
 ことばが、そういう「場」を獲得するなら、そこはいつでも「生」が「不在(アブサン)」の、つまり「死」でありながら、そこからはじまる「生」であるという「矛盾」なのだから、「ここ」は「ここではなく」、「ここ」であることが「北アフリカの砂漠」であるという「矛盾」を引き寄せてしまうからである。歩かなくても歩いたことになる。行かなくても、行ったことになる。それがことばの運動というものである。
 そして、田村によれば、そういう「運動」を「ことば」ではなく色彩と線で、つまり、絵画で達成したのがロートレックである。
 ロートレックを「語り直し」て、田村は次のように書いている。

ロートレックの最晩年の「砂漠」は
ムーラン街24番地
モンマルトルの娼婦の館(やかた)こそ
心という絶えず移動する水平軸
魂は断崖と砂漠をつなぐ垂直軸
肉だけで構成されている砂嵐のアトリエで
男の油彩も三百点の石版も
十九世紀最後の十年間に稲妻のごとく仕上げられたもの
十九世紀以外に「世紀末」はない

この世の外なら
どこだっていいさ
どこだって

 「この世」(十九世紀)を超越して、魂は、ここではないどこかへ、存在しない「場」を生きる。「存在しない場」であるからこそ、「アブサン(不在)」であることが「生」である。人は死ぬことで生きるのである。
 田村のことばは矛盾のなかで、矛盾を叩き壊しながら、輝く。



僕が愛した路地 (1985年)
田村 隆一
かまくら春秋社

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『田村隆一全詩集』を読む(86)

2009-05-16 01:41:22 | 田村隆一

 「他人」を語り直す。それは「アフリカのソネット」にとてもわかりやすい形であらわれている。書き出し部分。

第一次世界大戦の数年前
「ぼく」はケンブリッジ大学の自然科学部門のカレッジの奨学金を得たとき
まだ十七歳 一年待たなければ入学できないから
パリをうろついてフランス語を勉強したり
北アフリカの エジプトに近いスーダンまで足をのばしたり
そこで偶然珍らしい甲蟲(ビートルズ)を見つけることになる

 田村は詩の登場人物の主語に「ぼく」をつかう。この詩でも「ぼく」ということばがつかわれている。しかし、この詩の「ぼく」は田村自身のことではない。(ぼく、ということばそのものも、カギ括弧のなかに入っていて、田村自身ではないことを明確にしている。)「オズワルド叔父さん」のことである。田村の叔父さんではない。ロアルド・ダールの長編小説のなかに出てくる主人公である。田村は、その小説の主人公になって、「ぼく」といっている。(小説は、田村自身が翻訳している。)
 そこに書かれることは、したがって「小説」の要約ということになる。
 そのビートルズからは「世界最強の媚薬」を作ることができる。
 「ぼく」は、つまりオズワルド叔父さんは、次のようなことをしている。

まんまと媚薬を製造すると クラスメイトの美女と共謀して
世界的天才の精液を冷凍庫に密閉し 金満家の有閑夫人に高値で売りつけるベンチャービジネスを開始する
指導教官は自然科学の老教授

精液を採取された人物を列記する--
アインシュタイン フロイト ストラビンスキー ピカソ 「蝶々夫人」で有名なプッチーニ プルーストにいたってはペニスがエンピツより細かったと女学生に報告させている

 なぜ、田村は、こういう「語り直し」をしたのだろうか。たぶん、小説の翻訳だけでは物足りなかったのだろう。翻訳をとおりこし、「オズワルド叔父さん」を生きてみたかったのだろう。自分のことばにしてみたかったのだろう。自分のことばにして、「オズワルド叔父さん」を生きるとき、何が見えてくるか。「オズワルド叔父さん」の「肉眼」に何が見えてくるか。

クローンは一九〇三年にH・ウエッバー博士が名付けた遺伝子の結合体。クローンによる最初の生物は蛙。現代ではクローン猿。どんなに厳重な国際的監視下でもクローン人間は誕生する。

近く自然人の芸術は消滅するだろう ソネットが聞きたかったら
アフリカへ行け
新鮮で猛毒のウイールスの群れの
音のないソネット
 
 田村の「肉眼」は、「音のないソネット」を「聞いた」。「見た」のではなく「聞いた」のである。ここにはふたつの「越境」がある。「肉眼」は「耳」ではないのに「音」を聞いてしまう。しかも、それは「音のない音」という矛盾を内包している。たむらは「他人」になることで、そういう領域にまで越境していく。そういう領域にまで、「田村」自身を「破壊」していく。
 「他人」を語ること、語り直すこととは、「田村自身」という「枠」を破壊し、「肉・ことば」になることなのだ。
 「他人」を語るということは、「他人」の「時間」を自分のなかに引き入れることでもある。「他人」の「時間」が、田村ひとりでは体験できなっかたものを感じさせてくれる。田村自身の「枠」を破壊するのを手伝ってくれる。
 「他人」とは、「肉・ことば」の「教授」なのである。



オズワルド叔父さん
ロアルド・ダール
早川書房

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『田村隆一全詩集』を読む(85)

2009-05-15 00:39:20 | 田村隆一

 「春画」は金子光晴のことを描いている。

男は三十二歳 昭和三年に女房をつれて
日本脱出の計画をたてる
この男の「計画」は場あたりだが
パリへ行きたくても大阪までの汽車賃しかない
そこで 上野の美校の日本画科に半年ほどいただけだが
清長風の押し売り用の春画を描きまくって
長崎まで
モデルは大阪では胴長柳腰の日本女
長崎ではオランダの微風が目にささやいてくれるから
日本女でもバタ臭くなる しかし目は
なかなか多彩な花を咲かせてくれる球根にはなってくれない
春画を売りつづけて やっと上海まで
目は南画風だが多彩な色彩が生れる

 この詩にかぎらないが、田村のことばの動きは不思議だ。何かをたんたんと書いているように見える。ここでは、金子光晴のことをたんたんと書いているように見える。しかも、その金子光晴の姿は何かが特別変わっているわけではない。(と、思う。)田村が書くまで、だれも知らなかったという「事実」は書かれていない。それにもかかわらず、なぜか、引き込まれて読んでしまう。
 そして、思うのだ。
 詩とは、新しいことを書かなくてもいい。知っていること、知られていることを、そのまま書いても詩である。
 ただし、条件がある。
 そのことばには詩人独自の語法がなければならない。ことばがなければならない。自分のことを書かなくても、(他人のことを書いても)、そこに詩人自身の語法・文体があれば、そこには詩が成立する。

 今年の3月、私は伊藤比呂美と偶然話す機会があった。そのとき伊藤は、彼女の詩は「語り直し」なのだと言った。自分の体験を語っているのではなく、すでに語られたことを語り直す。それが、詩。語り直すとき、そこには彼女自身のすべてが反映される。そして、詩が誕生する。伊藤の「声」で語れば、それが伊藤の体験でなくても、伊藤そのものの体験したことになる。語り直しとは「他人」になることだが、「他人」になることが伊藤そのものになることなのだ。「伊藤」であることをやめ、「他人」になったとき、「伊藤」が生まれるのである。矛盾→破壊→誕生。その動きが、「語り直し」のなかにある。
 田村のこの詩もほとんどが「語り直し」である。
 金子光晴という人間の「語り直し」である。そして、語り直すとき、そこに田村の「こだわり」、つまり田村自身の「声」がつけくわえられる。「時間」がつけくわえられる。
日本女でもバタ臭くなるしかし 目は
なかなか多彩な花を咲かせてくれる球根にはなってくれない

 「目」へのこだわり。それは「肉眼」へのこだわりと同じである。
 田村は、金子の描いた「目」の変化をおいながら、その「目」が単に「目」なのか、「肉眼」なのか見ようとしている。それはそのまま、金子の「目」が「目」のままなのか、それとも「肉眼」なのか、それを見極めることである。
 「多彩な花を咲かせてくれる球根」--それが「肉眼」である。「肉眼」で対象を見れば、その対象から多彩な花が咲き始める。「いま」「ここ」にはない花が咲き始める。その多彩な花が「春画」のなかにあらわれないかぎり、金子は「肉眼」を手にいれていないことになる。
 その金子の姿を描くことで、田村自身が、「肉眼」を手に入れる。金子になる。金子にぴったり重なる。(金子を、自分の「理想」として引き寄せる。)

男は男娼以外のあらゆる労働に従事しながら
東南アジアのゴム園で汗をながし 近代世界の原罪を
白色と夕食のナショナリズムのエゴイズムを
一九三〇年代のヨーロッパの危機を
骨の髄まで体験する それにつれて
春画のモデルも多様化せざるをえない
黒い人 白い人 黄色い人
男の放浪 地と汗の放浪は十年におよぶ
男は金子光晴という筆名で不朽の詩集『鮫』を刊行する

 男は画家だったはずである。しかし、春画を描いているうちに、ことばにたどりついてしまった。この越境。それは、田村が常に思い描いている「肉体」の越境と重なる。目は見るのではなく、聞く。耳は聞くのではなく触れる。舌は味わうのではなく見る……。そんなふうにして「越境」することで、目が「肉眼」に、耳が「肉耳」に、舌が「肉舌」になるように、絵は、その線と色は、「肉・線」「肉・色」になる。その「肉・線」「肉・色」が「肉・ことば」である。
 だから、「不朽の名作」になる。ことばは単にことばなのではない。そこに書かれていることばは「肉・ことば」なのだ。他のものから越境してきたもの、他のもの(ここでは絵画だが)を破壊して誕生したものなのだ。
 そう書くことで、田村自身「肉・ことば」を手にいれるのだ。

 「語り直し」。それは、金子光晴だけを「語り直し」ているとき、何を書いているか、はっきりとは見えにくいかもしれない。金子光晴のこと、みんなが知っていること、春画を書いていたが、ある日、詩集を出した。それは不朽の名作『鮫』である、というのでは田村が書き直す(語り直す)までもないではないか、という印象を与えるかもしれない。
 しかし、違うのだ。
 田村は、金子は春画を描きながら「肉・ことば」の世界に到達した、と書いているのだ。それは、田村しか書けないことである。
 その「肉・ことば」で、別な人を「語り直す」--そういう試みをすると、その「肉・ことば」の動きがどんなものか、どんなに個性的かわかる。つまり、田村にしか書けない世界かがわかる。「語り直し」は創作である。発見である、ということがわかる。

アインシュタインよ どうして
十六歳の美少女と恋愛しなかったのだ
彼女の陰毛の下に 核分裂と融合の
化学方程式を薔薇の形で刺青(いれずみ)にしておけば
二十世紀は灰にならずにすんだのに

 ここに描かれた「アインシュタイン」。それは金子光晴の「肉眼」(肉・ことば)と、田村の「肉・ことば」が描き出すアインシュタインである。
 この5行は、いわば、「反歌」である。それまでの金子の描写(金子の半生の語り直し)という長歌にたいする反歌。
 ふたつは向き合うことで、互いを照らし、そこに「ことば」そのものを浮かび上がらせる。「肉・ことば」の力を、浮かび上がらせる。

 田村のことばは「他人」を語り直すことで「多彩」になっていく。その世界をひろげていく。田村の詩が多彩なのは、それが田村自身の「体験」にことばを従属させるのではなく、「語り直し」という運動のなかでことばを解放するからである。



僕が愛した路地 (1985年)
田村 隆一
かまくら春秋社

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『田村隆一全詩集』を読む(84)

2009-05-14 00:34:26 | 田村隆一

 「油」には「物」が出てくる。すでに田村が何度か書いている。「物」。

枯れ草の細い道を歩いて行くと
「物」つくっている仕事場にたどりつく
むろん
「物」は人が作るのだが その人も
「物」にならないければ「物」はうまれない
人間が「物」になる仕事場には
どんな秘密がかくされているか

 これでは堂々巡りである。なぜ、堂々巡りが起きるのか。「定義」が不完全だからである。「物」とは何なのか--その「定義」が不完全である。
 「物」とは何?
 「物」とは単なる存在ではない。「物」と抽象的にいわれているのは、それが「抽象」でしかいいあらわすことのできない存在だからである。「机」「椅子」あるいは「機械」という個別の名詞をもった存在ではなく「物」。個別の存在ではなく、存在を「個別」に存在させる前の、「未分化」のものが「物」と呼ばれているのだ。
 何かを作るとは、その素材を破壊し(○○をつくるための「素材」という概念から解放し)、その素材の新しい可能性を引き出すということである。こういうことができるのは、こういうことをするためには、まず人間は△△という素材は○○をつくるためのもの、という概念を叩き壊さなければならない。人間が自分のもっている(自分がしばられている)概念を叩き壊し、概念のない状態=物になってしまわなければならない。概念のない状態、概念というものがうまれてくる前の状態になってしまわなければならない。そういう状態になって△△という素材を見ると(「肉眼」で見ると)、それは○○をつくるためのものという「枠」がら解放されて、何につかっていいかわからない存在になる。何につかうかという「分化」が起きていない状態、「未分化」の状態になってしまっている。
 そこからしか、「物」はつくれない。

 「概念なし」--これを、田村は「無私」と言い換えている。

「物」が「物」を作る
無私とはこういうことかと ぼくは観察するよりほかにない

 この「無私」の「無」は「カオス」(混沌)の「無」と同じである。何もないのではなく、そこにはエネルギーはある。エネルギーを形にする定まった様式がないというだけである。様式なし、「未分化」のエネルギーだけがある。「私」は「分化」していない。「人間」そのものになっている。「肉体」そのものになっている。

 この「無私」をさらに、田村は言い換えている。

「私」を滅却するためには若干時間がかかる

 「私」を「滅却」した状態が「無私」である。「私」が存在しなくなった状態が「物」ということになる。「私」が「私」であることをやめ、「未分化」の「いのち」そのものになったとき、素材もまた△△という名前であることはできない。むりやりいってしまえば「無・素材」というものになる。名前のないもの、「未分化」のものになる。「未分化」のものが出会い、そこで、いままでなかった「分化」の化学反応をおこす。
 核融合をおこす。
 そのとき「物」は誕生する。
 そして、その運動、化学反応のためには「時間」がかかる。

 「時間」とは「他人」のことだ。「私」を否定する力のことだ。「私」を否定するがゆえに、それは「物」でもある。
 あ、また、堂々巡りにもどってしまった……。




詩人のノート―1974・10・4-1975・10・3 (1976年)
田村 隆一
朝日新聞社

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『田村隆一全詩集』を読む(83)

2009-05-13 00:32:40 | 田村隆一

 『1999』(1998年)の「美しい断崖」。繰り返し田村が書いてきたことが、ここでも書かれている。「肉眼」の問題である。

ネパールの草原では月は東に陽は西に
その平安にみちた光景には
心を奪われたくせに
「美しい断崖」にはなってくれない
きっとぼくの眼は
肉眼になっていないのだ
ただ視力だけで七十年以上も地上を歩いてきたにちがいない
まず熟性の秘密をさぐること
腐敗性物質という肉体のおだやかな解体を知ること

 ある対象を見る。それは「視力」の仕事である。「肉眼」の仕事は「対象」を超えて何かを見る力である。それは「対象」の向こうにあるのではなく、その内部にある。「対象」の内部にあって、「熟性」するもの。
 「腐敗性物質」とは人間のことだが、その「肉体のおだやかな解体」とは何だろうか。死だろうか。それとも生だろうか。それは死であり、誕生である。ふたつが結びついたものだ。田村にとって、あらゆる存在は、生と死のように矛盾したものが固く結びついている。その結びつきこそ「美しい断崖」だ。生にとって死は断崖。死にとっても生は断崖である。矛盾したものがぶつかるとき、そこに「断崖」があらわれてくるのだ。

愛が生れるのはその瞬間である
視力だけで生きる者には愛を経験することはできない
生物は「物」である
生物の本能もまた「物」である
だが
視力が肉眼と化したとき
物は心に生れ変る たとえ
地の果てまで旅したとしても
視力だけでは「物」は見えない

肉眼によって
物と心が核融合する一瞬
一千万 百億の生物が瞬時に消滅したとしても
この世には消えないものがある

 「視力」が「肉眼」になるためには何が必要か。「ぼく」の解体である。「ぼく」だけにかぎらないが、あらゆる存在は「形」をもっている。視力が見るのは「形」である。その内部ではない。
 「本能」ということばを手がかりに考えてみる。「本能」は「人間」の(あるいは生物の)内部にある。その内部こそ、田村にとっては「物」である。(外部は「物」にはなっていない。「物」以前の何かである。)
 視力が「肉眼」になるとは、「視力」が「内部」を見る力を獲得するということだが、それは「内部」そのもの、本能そのもの、「いのち」そのものに生まれ変わることと同義である。
 「視力」が「内部」のもの、「肉眼」になったとき、あらゆる存在の外部は解体し、形が存在する前の、「未分化」の存在になる。あらゆるものが「未分化」の状態で平等に結びつく。
 「人間」の内部にあるもの。それは、たとえば仮に「心」と呼ばれたりする。
 「肉眼」によって、「心」と「物の内部・本能」が出会う。そのときのことを、田村は強烈なことばで書いている。

核融合する一瞬

 それは単なる「融合」ではない。「核融合」。激しい爆発。出合った「心」と「物」が融合するだけではなく、そのとと、その周囲にあった存在もすべてとかして爆発する。世界が一変する。そういう瞬間。

 矛盾→解体→生成。田村のことばの特徴として、そういうことを何度か書いてきたが、そのときの生成は世界の破壊でもある。

一千万 百億の生物が瞬時に消滅したとしても
この世には消えないものがある

 消えないもの--それは何か。破壊する力である。核融合は「未分化」そものもさえも破壊するかもしれない。それは、矛盾した夢である。けれど、矛盾しているから、そこに、ほんとうの何かがある。田村の夢がある。祈りがある。



半七捕物帳を歩く―ぼくの東京遊覧 (1980年)
田村 隆一
双葉社

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『田村隆一全詩集』を読む(82)

2009-05-12 00:00:06 | 田村隆一
 「液」の「カイロの猫」は不思議なことを書いている。新潟の女性から絵葉書がとどいた。

絵はがきは
エジプトのカイロ
うちの猫とそっくりの猫
「ネコちゃんにあんまり似ているので贈ります」
と絵はがきの空欄に彼女は書いている

アラビア語の看板と赤いトラックを背にして
ちゃっかり坐っている猫

似ているどころか わが家のネコである
七、八年まえの正月に のっそり家に入ってきて
そのまま 大股をひろげて眠りこけてしまって
猫だって時差に弱いことがやっと分かった
カイロから小さな日本列島の
そのまた小さな村にどうやってたどり着いたのか たぶん

 このあと、猫がジェット機にもぐりこみ日本にやってくることが夢想されているが、この部分をどう読むか。その「絵はがき」の猫は七、八年前に撮影されたものであり、それがいま田村の家にいる、と読むべきなのか。それとも、空間を飛び越えて、「いま」田村の猫がエジプトにも存在すると読むべきなのか。
 私は、「いま」田村の家にいる猫が同時にエジプトにいると読む。同じ「もの」が同時に違った場に存在できないというのは物理の基本的な考え方だが、詩は「物理」ではないし、また田村の「思想」は「いま」「ここ」にある考え方を破壊することにある。

 この「絵はがき」のことばに先行する連のことばが重要だ。

現在は
猫や鳥や魚にはあるが人間にはない
鳥は鳥の中で飛ぶ
猫は猫の中で眠る
人間の中には人間はいない
言葉だけで
人間は社会的な存在になり 言葉の中で
人は死ぬ そのとき
やっと人は
人になるのである

 「現在」(いま)という時間は人間の中にはない。ところが猫や鳥の中にはある。それは猫や鳥にとって、あらゆる時間が「現在」であるということだ。「現在」しかない。存在する時、それはいつでも「現在」である。
 存在する瞬間がいつでも「いま」なら、同じ時間に、ものは別の場に存在できないという論理は成り立たない。「場」の違いを「いま」が超越してしまう。
 エジプトにいるときが「いま」。そして田村の家にいるときが「いま」。時間から、存在を規定するのではなく、存在から時間を規定すれば、私たちが信じている物理の定理は無効になる。存在するあらゆる時間、生きているあらゆる時間が「いま」というのは、いのちの「純粋な」ありかたである。野生、自然のありかたである。(「白昼の悪魔」の「wildとは純粋な「自然」そのもの」という行を思い出そう。)「猫は猫の中で眠る」。そして、「時間」は「猫」のなかに存在する。「いま」という時間だけが存在する。
 人間は、そんなふうには存在し得ない。なぜなら、「ことば」を生きるからである。「自然」「純粋」を生きるのではなく、「ことば」を生きている。「ことば」が「時間」をつくる。「いま」と「いま以外」(過去・未来)をつくる。だから「いま」を生きるためには、「時間」をつくることばを破壊しなければならない。ことばを破壊したときに、人間は「いま」を生きることができる。そして、ことばの破壊は人間にとっては「死」と同じであるから、ことばを破壊し、死ぬことが、人間になる(生まれ変わる)ということでもある。
 田村の「思想」は、ことばで説明すると、そんなふうにいつも「矛盾」してしまう。死ぬことが生きること、という矛盾の形でしか言えないものになってしまう。

 「カイロの猫」にもどる。
 田村はジェット機に乗って日本にやってきた猫のことを書いている。それは、「いま」田村の家にいる猫が七、八年前に田村の家にたどり着くまでの描写と考えることができる。しかし、もし、私が考えているように、いまその猫がカイロにいるのだと仮定したら、田村の書いていることは矛盾している。そして、矛盾しているからこそ、猫はカイロにいなければならないのである。
 矛盾こそが田村のことばの運動の基本なのだから。
 「いま」猫がカイロにいるにもかかわらず、その猫は七、八年前、カイロから日本にやってきたと書くことは、いわば「時間」そのものを破壊することである。
 もちろん、その絵はがきが七、八年前に撮影された写真でできていると仮定すると「矛盾」が消えるが、矛盾が消えてしまっては田村の詩にはならない。
 田村は、「時間」を破壊するために、わざと、「いま」猫がカイロにいると書くのである。田村の家にいて、同時にカイロにいる。そういうことができるのが「猫」である。そういうことができないのが「人間」である、と書くのである。ことばゆえに、それができない、というのが田村の考えである。

 この「カイロの猫」と対になっているのが「液」。その中にも、おもしろいことばがある。矛盾に満ちたことばがある。

白色の脳漿から精液
むろん 赤い血液 青い血液
透明で純粋な唾液 雑菌を繁殖させるにはもってこいの

 「純粋な唾液」と「雑菌」。しかし、「雑菌」と書かれているにもかかわらず、私にはその「雑菌」が「純粋」と聞こえる。そう読んでしまう。「雑菌」は「wild」なのだ。野生であり、本能なのだ。「雑菌」は人間のことなど考えない。ただ「雑菌」として「生きる」ことを「純粋」に考え、一番いい場所を選んでいるだけなのだ。
 ことばは、ことばを破壊しながら、そのいちばんいい場所へ、どうやってたどり着くことができるだろうか。田村の夢には終わりがない。



猫ねこネコの物語 (児童図書館・文学の部屋)
ロイド・アリグザンダー
評論社

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『田村隆一全詩集』を読む(81)

2009-05-11 00:06:33 | 田村隆一
 「歯」のなかの「白紙」。

いくら白い紙をひろげたって
言葉が生れてくるとはかぎらない

言葉が生れたところで
文字にすぎない
乾ききった文字 呼吸もしていない言葉

まだ
純白の雪の上に刻まれた森の
小動物や小鳥の足跡のほうが生きている

積乱雲から鰯雲へ 深いブルーに変る海につづく
浜辺の夏から秋へ 海の家が解体されたあとの
砂の上に描かれた文字ほうが
生きている
白い波頭に洗われて
消えているからさ

高原の寒村の雪も溶けるだろう
小動物や小鳥の描いた森の言葉だって
春とともに土にかえるだろう

消えない言葉
溶けない文字

そんなものは
ぼくは信じない

 「生きている」。田村がこだわっているのは、「いのち」の感覚である。「ことば」にいのちがあるかどうか。それを、田村は、ことばが「消える(とける)」とむすびつけて考えている。「消える(とける)」ことばこそが生きている。
 ふつう、文学でいわれる「生きている」ことばとは違った意味で田村は「生きている」をつかっていることになる。
 たとえば「源氏物語」。1000年前に書かれたことば。それは「生きている」。いまも「消えず」に存在し、読まれている。古典は「死なない」から「生きている」。
 田村がつかっている「生きている」は「消える(溶ける)」と対になってはじめて成立する考え方である。「消える」「とける」は、「死ぬ」と言い換えてもいいかもしれない。存在しつづけるのではなく、存在しなくなる。そうなることが「生きている」証拠になる。

 この考え方は、いままで見てきた矛盾→破壊→生成という動きのなかに戻すとわかりやすくなる。
 矛盾することばは互いを破壊する。解体する。そして、枠をなくして溶けてしまう。そういう運動をすることばが「生きている」のである。「生きている」ということは矛盾することと同義なのである。生きて、矛盾して、矛盾が止揚して何かになるのではなく、矛盾の原因である「生(いのち)」そのものが破壊しあい、その形をなくす。そのあと、そこから何かが生まれてくる。最初の「矛盾」をつくりだしたことばは、そのときは、そこには跡形もない。跡形もなくなることが「生きている」ことなのだ。
 田村が描きたいのは、矛盾し、消えていく激しいことばなのだ。消えていく時、激しく火花を散らし、燃え上がることばなのだ。

八月十五日の正午
本郷の菩提寺へ行った
大きな墓にかこまれて小さな墓があった
文久二年没とだけあって
名前は読めない

そんな詩が書きたくなった
書きたくなった

 「文久二年」に没したのは田村の誰にあたるのだろう。「名前」は田村はもちろん知っている。知っていて「読めない」。これが、たぶん、この詩のいちばんのポイントだろう。
 雪の上の動物たちの足跡、砂の上に書いた文字、雪が溶けて消えてしまう足跡、波が洗って消えてしまう文字--それが「あった」ということを知っているかどうか。知っている人間だけが、それが「消えた」ということも理解できる。
 「生きる」ということは、そういうことなのだ。いまは、そこには存在しない。けれど、それが存在したと知っている--その知っているという意識のなかでのみ、生きるものがある。
 矛盾→解体→生成。結果的に「残る」のは「生成」かもしれない。しかし、その過程をたどってきた人間には「矛盾」が「生きていた」ということは決して消えない。そういうことばを田村は「書きたくなった」と2回、つづけて書いている。

 この詩と対をなしているのは「歯」。田村がイギリス、ロンドン郊外の村を旅した時のことが書かれている。そこで田村は「ゴドーを待ちながら」や「ミルクウッドの木の下で」を演じたことがあるという男に出会っている。彼はしかし役者ではなくパブのおやじである。そういうことを聞きながら、田村が感じているのは、その男のなかで、ベケットのことば、ディラン・トマスのことばが「生きている」という感覚だ。その男が、いま、ゴドーやミルクウッドを再現できるかどうかはどうでもいい。いや、できないからこそ、意味がある。そのことばをくぐり抜けた。そのことばが「ある」ということを知っているということが、いま、その男を存在させている。そして、その「知っている」という「場」をくぐり抜けて、田村の前に、あらわれたのだ。彼は、最初からそこにいるのではなく、田村と出会って話すことで、ベケットを、ディラン・トマスを「知っている」という「場」から時間をくぐりぬけてあらわれたのだ。
 この瞬間に田村は詩を感じている。そして、その瞬間を書き留めているのだ。

 「歯」の最後の4行。

酒神よ
ぼくをして目茶苦茶に作詩せてめ給え
一本
その一本の歯が抜け落ちるまで

 この4行が、私はとても好きだ。特に「目茶苦茶に」ということばが。田村がめざしているのは「目茶苦茶」だと思う。「目茶苦茶」としかいいようのない「いのち」の瞬間だ。
 「酒神よ」という呼びかけもうれしい。酒は、誰かと会うための方便である。イギリスのパブで田村がベケットを演じたという男に出会ったのは「酒」があったから。「酒」を通して、ベケットのことばを「知っている」という男があらわれたのだ。



詩人のノート―1974・10・4-1975・10・3 (1976年)
田村 隆一
朝日新聞社

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『田村隆一全詩集』を読む(80)

2009-05-10 01:26:56 | 田村隆一

 「脳」のなかの「白昼の悪魔」。ここには「手」「物」「自然」の関係が語られている。

wildという英語をやっと七十歳すぎて分った
wildとは純粋な「自然」そのもの
氷河と砂漠で人は力をつくし物を創造した
自然とは「物」である

 「wild」は、「野生」あるいは「荒野」を一般的に指すだろう。それを田村は「自然」と呼んでいる。しかし、ここで重要なのは「自然」ということばよりも、それを修飾する「純粋な」であるだろう。
 この詩で語られているのは、ほんとうは「純粋」とは何かなのである。

 引用した行に先だつ連に(2連目)は、次のようになっている。

悪の実在のおかげで ぼくら人類は
善を創り出す努力と意志をたゆまなく
たゆまなく
四千年まえの 二千年前の 百年前の
人と人 人は文化そのもの
「文化人」とは ぼくは口が裂けても云わない
その手と手は
「物」をつくり出す手である

 人間には「手」があり、手がつくりだすものは「文化」ではなく「物」。つくりだされた「もの」は人間にとって新しい「自然」である。そこには人間の「純粋」が結晶している。

氷河と砂漠で人は力をつくし物を創造した
自然とは「物」である

 という2行は、詩特有の混乱である。
 ここには詩特有の「省略」がある。詩人にはわかりすぎていることがらが省略されて、ことばが歪んでいる。散文(論理的な?)ことばの動きなら、たとえば、

氷河と砂漠で人は力をつくし物を創造した
(その)物とは「自然」である

 という具合にしないと、論理にならない。「氷河と砂漠で人は力をつくし物を創造した/自然とは「物」である」では、人がつくりだしたものが「物」なのか、「自然」なのか、わからない。
 ここでは「自然」と「物」が融合して、どちらを「主語」にしてもいいのである。その「融合」がここでは「省略」されているから、2行の論理上の意味が混濁してしまうのである。
 厳しい自然と向き合い人間は何か物を造る。それがないと人間は厳しい自然と向き合えないからである。自然と物は「厳しさ」において拮抗する。「厳しさ」以外の何ももたない。不純物をもたない。つまり「純粋」である。
 こういう「物」を人間がつくりだす時、自然は人間にとって、やはり「物」と同じなのである。自然は、「物」になってくれるのである。自然のなかで「変化」がおきるのである。それは、繰り返しになるが、あくまで純粋な「物」ができたとき、自然が変化するのである。
 「wild」野生とは、ある意味で「純粋」である。それは「本能」である。
 人間が「物」をつくるのも本能である。本能とは生きていくために必要なものである。氷河、砂漠を生きるための「本能」が「物」をつくる。そのとき「手」は、やはり「本能」である。「手」を仲立ちにして、つまり「物」をつくるという本能を仲立ちにして、「自然」と「物」が一体となり、人間の「生活」の「場」になる。融合する。かつては、そういう「純粋」な「場」、「純粋」ないのちがあった。それが「自然」そのものであったのだ。

 だから、最初に引用した4行。そのことばは、さまざまに入れ替えが可能なのだ。たとえば、次のように。

wildという英語をやっと七十歳すぎて分った
wildとは自然の「純粋さ」そのもの
氷河と砂漠で人は力をつくし物を創造した
その「物」とは自然の「純粋さ」である

 「物」によって、野生、自然は、「純粋」になる。
 この「物」を「詩」に置き換えると、おもしろいことがおきる。
 「白昼の悪魔」の「反歌」としての作品「脳」。その前半。


小さな村があって小さなパブ
三人の老人が 昼間から
愉しそうに エールを飲んでいる
八十歳の老人は頬をバラ色に輝かして
ぼくが 貴殿はまるで海洋少年団のメンバーですね
と云ったら 美しい笑顔でうなずいてくれた
黒いスーツを着た紳士がワイセツな詩を朗読してくれた
この村では ワイセツな詩も輝く

 「ワイセツな詩も輝く」。「ワイセツ」も純粋になるのだ。だから輝く。

 矛盾したいいかたになるが、そしてこの「純粋」とは「未分化」のことである。「wild」、自然とは「未分化」のことである。そして「物」とは「未分化」ではなく、「未分化」ではないもの、その反対のものである。いろいろな要素を「分化」しながらある機能に向けて統一することで「物」はできあがる。その「物」をつくる過程、つまり「未分化」を「分化」を通してとらえ直すとき、「未分化」の「領域」が具体的に人間に見えてくる。「分化」の過程を経ないことには「未分化」そのものもわからない。「物」をつくるということは、そういう「矛盾」をかかえこんでいる。
 「未分化」の発見、「自然」の発見、それは「純粋」の発見でもある。「野生」は、それらすべてを飲み込む「場」、混沌である。

 ひるがえって。
 現代はどういう状況なのか。「自然」から遠く離れている。「文化」の状態にある。田村は、この「文化」を叩き壊したいのだ。「文化」は「分化」でもある。それを叩き壊し「未分化」の状態へ戻したい。そして、そこで「物」、「野生」と拮抗する「物」をつくりたい。ことばを、そのために動かしたいと願っている。「未分化」に触れながら、「未分化」をくぐることで野生の力を取り戻し、「純粋」になることば--それを手にいれるために詩を書いている。




女神礼讃―ぼくの女性革命
田村 隆一
廣済堂出版

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『田村隆一全詩集』を読む(79)

2009-05-09 01:25:02 | 田村隆一

 「乳」というタイトルでまとめられている2篇「月は東に日は西に」と「乳」はともにことばをつらぬく緊張感が気持ちいい。「月は……」はタゴールの詩を引用しながら、ネパールからヒマラヤを見た時のことを思い出している。

夕暮れ
満月は東の空 マナスルのあたりから
ゆったりと昇ってくる
燃えるような夕陽が西にむかって落ちて行き
空は茜色の夕焼け
ここでは言葉はまったく不要である
詩的世界が眼前にある 刻々と変化する色彩と言葉のない歌
リズムは体内を循環する血液だけで充分だ

 この部分が「乳」と呼応する。

まず
生まれてはじめて人間が口にするのは
生温(なまぬる)い白色の液体
その味も匂いも忘れた
人間は一本の管(くだ)にすぎない
ということが身に沁みて分かるのは
白色の液体のおかげだ
この不定形の液体が言葉に造形されて行くのには
四、五年はかかる
液体が口唇 舌 咽喉 食道 胃 そこまでは
音の世界だ それから
小腸 大腸 直腸にいたる天国と地獄のフル・コースを味わいながら
音から文字へ
文字から意味へ さらに逆流して
舌に回帰してくると政治的言語になるから
不思議である

 「詩的世界」は目の前にある風景、刻々と変化する色彩だけでは不十分である。それに「体内を循環する血液」の「リズム」が必要である。この「体内を循環する」ものとして、「乳」がある。「乳」そのものは、口から入り、食道、胃、小腸、大腸ととおって排泄される。それは「循環」しない。「循環」は、ことばによってはじまる。ことばで、「口唇」→「直腸」までをたどるとき、そのことばは「乳」とは逆に、舌先から出てくる。このときの「リズム」をつくるのが「血液」である。

 これはまた、「ことば」そのものが人間にとって「肉体」である、ということでもある。「ことば」が「血液」となって「肉体」を循環し、そのとき、「肉体」はことばのままに、あらゆるものに変化する。
 その変化というのは、田村が引いているタゴールことばそのものの世界である。

「私の髪の毛が灰色に変りつつあるなどは取るに足らぬ些事
 私はつねにこの村のいちばん若い者と同じだけ若く、また一番年とった者と同じだけ年とっている

 ことばは、その運動は、「若い者」と「年とった者」を区別しない。ことばの運動には、「若い」「年とった」はないのだ。「肉眼」にとって、その視界をさえぎるものがないように、生きたことばにとって、その運動をさまたげる障害物などない。あるのは「血液」のリズムのように、なまなましく直接的な「いのち」だけである。
 あるいは、逆に言うべきなのか。
 詩にとって必要なのは「意味」ではなく、「肉体」の「リズム」だけであると。ことばが「意味」を叩き壊し、「意味」を放棄して、「リズム」そのものになるとき、それは詩になる。
 その「原始」の「リズム」を、田村はこの詩集のなかで探している。複数の詩をぶつけあいながら、「意味」をではなく、「リズム」を探している。
 だから、ほんとうは、私がいま読んでいるような読み方でこの詩集を読んではいけない。もっと、他の読み方をしなければならない。

 わかっているけれど、しかし、私には、それができない。


Do it!―革命のシナリオ (1971年)
田村 隆一,金坂 健二,ジェリー・ルービン
都市出版社

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『田村隆一全詩集』を読む(78)

2009-05-08 01:32:53 | 田村隆一
 「爪」というタイトルでくくられた一群の作品。その冒頭の「誘惑」は不思議な作品である。小林秀雄と中原中也が登場する。「中原中也の思ひ出」の有名な一節が引用されている。海棠の花を眺めている。小林秀雄がなにごとか考えている。それに対して、中也が「もういいよ、帰ろうよ」と言う場面である。田村は、小林のことばを引用するにあたって、1行省略している。

 「花びらは死んだ様な空気の中を、まつ直に間断なく、落ちてゐた。
  樹蔭の地面は薄桃色にべつとりと染まつてゐた。あれは散るのぢやない、
  何んといふ注意力と努力、
  驚くべき美術、危険な誘惑だ」(小林秀雄)

 「あれは散るのぢやない、」と「何んといふ注意力と努力、」の間には、ほんとうは「散らしてゐるのだ、一とひら一とひら散らすのに、屹度順序も速度も決めてゐるに違ひない、」という1行がある。
 (私は、「田村隆一全詩集」は思潮社版2000年08月26日発行をテキストに使用している。1087ページが該当個所。「小林秀雄全集」は新潮社版昭和53年06月25日発行をつかっている。)
 なぜだろう。なぜ、省略したのだろう。

 引用のあと、田村は書いている。

肉眼を形成するために
人はこの世に生れ
この世によって育てられる せっかく
肉眼が誕生したというのに
「危険な誘惑」しか見られないのは
すごいパラドックスだ。

 田村は「散らしてゐるのだ」に「肉眼」を感じたはずである。そして、その「肉眼」が、そのあと「危険な誘惑」を見てしまったことに対して「パラドックス」と言っている。「散らしてゐる」から「危険な誘惑」までの「間」について、感じるところがあったはずなのである。それなのに、そこを省略している。
 なぜなのだろう。

 また、田村が引用していることばは、小林の文章を読むかぎりは、小林が考えたことであって、口には出してはいない。けれど、中也は、小林の様子をみて何かを感じ「もういいよ、帰ろうよ」と言ったのだ。
 そのとき、中也が見たものは何なのだろうか。
 そして、それを田村は、どう考えていたのか。

視力があっても「危険な誘惑」を感受できない「うつろな眼」は
世界中に充満していて

猫の眼のほうが
肉眼とでも云いたくなる

(略)

老樹が倒れたそのあとに
若木がすっきり立っていて
花びらは音もなく散っていたが
「散らす」までにはもっと時間がかかるだろう
それまでに
ぼくの肉眼が生れるかどうか いまさら
眼科へ行ってもはじまるまい

 「散る」ではなく「散らす」を見るのが「肉眼」。しかし、そのとき「もういいよ、帰ろうよ」と言った中也は? 中也は「肉眼」をもたなかったのか。それとも、「散らす」のあと、「危険な誘惑」までことばを動かしてしまう小林に対して、それは「肉眼」ではないと感じていたのか。

 ことばは、ことば自体の力で運動してしまう。「危険な誘惑」は「散らす」ということばが呼び込んでしまった「錯覚」かもしれない。--そういう批判を、田村は、ほんとうは書きたかったのかもしれない。
 「爪」という短い作品。

どうして
爪ばかりのびるのか 爪を
切るばかりが人生か
死者になった直後にも爪だけはのびるそうだ
爪がのびなくなったら
「脳死判定」よりも正確ではないか
愚者はあえて名医に意見具申する
わが爪よ
今日も切らなくちゃ

 「危険な誘惑」は「爪」のようなものである。それは「死者」のあと(「肉体」でなくなってしまったもの)、なぜかのびてきてしまうものである。

 「肉眼」がものを見ることと、概念が自律して運動してしまうことは、どこかで決定的に違う。そのことを田村は書きたいのだと思う。「肉眼」が「散らす」を見たのに、そのあと概念はかってに「危険な誘惑」まで暴走してしまう。その結果、「肉眼」で見たものは、どこかへ忘れ去られてしまう。
 田村は、あえて、その「忘れ去られた1行」を復権させるために、あえて省略したのかもしれない。書かないことによって、読者に対して、何か変だと感じさせたかったのかもしれない。小林秀雄のことばを読み直すように、そして中也とのやりとりを読み直すように提言しているのかもしれない。

 「肉眼」がとらえる具体的な「もの」「ものの動き」と「概念」との境目--それを直感的にみてしまい、「概念」には行かない、というのが詩の理想かもしれない。
 田村が書きたいのは、そういうものかもしれない。



花の町
田村 隆一,荒木 経惟
河出書房新社

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『田村隆一全詩集』を読む(77)

2009-05-07 00:00:25 | 田村隆一
 「肉体」を肉体の部位に割り振られた機能から解放する。機能(感覚)を特定の部位に割り当てない。特定の割り当てをする「概念」を破壊する。そして、機能を融合させる。肉体の部位ではなく、「いのち」そのものから、感覚を再生成する--そういう詩を田村は繰り返し書いている。『狐の手袋』の「肉体」をタイトルに掲げた作品は、そのテーマがいかに田村に重要であったかを教えてくれる。重要なテーマであったからこそ、田村は繰り返し繰り返し書いているのだ。
 そして、この「肉体」の再生成に「時」(時間)が深くかかわってくるのも、これまで見てきた通りである。
 たとえば「眼」。

ぼくはシカゴ美術館のたった一枚のゴッホの部屋で三〇分釘づけになった
ぼくの眼が肉眼に造形されて行く過程が
ぼくの眼がぼくの眼に告知してくれる「時」の力
その力で
眼は肉眼になるのだ さ
その眼で
自分の顔から人の顔 二枚舌 三枚舌の色別をしてみようではないか

 ゴッホに出会う。ゴッホという絶対的「他人」がかかえこんでいる「時間」。その「時間」に触れることで、田村のなかの、既成の「時間」が破壊されていく。そして、見えなかったものが見えはじめる。それを田村は「眼が肉眼に造成されて行く」と書いている。そして、それには「時」を造成することと同じである。「時間」をつくることと同じである。
 「時間」は自然に過ぎ去っていくものではない。「時間」はやはり「肉眼」と同じように造成するもの、つくりだして行くものなのだ。
 「肉眼」で見るとは、新しく造成した「時間」で世界を見つめなおすことである。

その眼で
自分の顔から人の顔 二枚舌 三枚舌の色別をしてみようではないか

 とは、新しい「時間」で自分を、そして「人」をみつめてみようという呼びかけである。そこに「舌」が出てくるのは、「肉眼」「時間」が見るべきものには「ことば」も含まれていることを意味するだろう。「もの」だけではなく、「ことば」を「肉眼」で見る。どんなうふうに見えるか。「ことば」を「肉・時間」(と仮に書いて置こう)で見る。どんなふうに見えるか。
 この「肉・時間」を田村は、別のことばで書き換えている。(「肉・時間」と呼んだのは私だから、田村が「書き換えている」という表現はおかしいが……。)

視力はいらない
ゆっくりと鈍行列車からおりればいい

自画像が美術学校の卒業制作だが
その制作が完成するのには五〇年はかかるだろう

その時こそ「心眼」が誕生するのさ

 「肉・時間」でみたものは、「心眼」で見たものに一致する。「二枚舌」「三枚舌」に隠されているものを見抜く力「心眼」--それは「肉眼」とともにある「時間」の視力が見抜くものと一致するのだ。

 「鼻」というタイトルでくくられた作品の中に、「ぼくの聖灰水曜日」という作品がある。バンパイアと聖少女の「性的な旅」に触れた詩である。

殺戮 悪徳 罪 暴力 不死 闇の力を賛美しつづけ
滅びのない絶望 愛と栄光の抹殺をたからかに歌いながら
この華麗な陰画の世界の環は
永遠にむかってダイナミックに完結して行く

「永遠」にむかって完結する
この逆説は
ぼくにとっては美しすぎる だが
この不可能な完結によってサンフランシスコの冬の一夜から
ぼくは一挙に解放される

 「肉・時間」「心眼」は、あらゆる「時間」を「永遠にむかって完結する」形で描き出す。完結しないから永遠なのに、「肉・時間」「心眼」のなかでは、一瞬だが、完結する。その逆説。
 --逆説は、田村にとっては「矛盾」と同じものだ。
 逆説のなかで、「正説」が破壊される。叩き壊される。否定される。そして、その破壊の運動のなかで、生成がはじまる。それは破壊という方向と重なる生成である。
 私は何度か、破壊の果てに、そこから新しく生成がはじまると書いたが、それは正確ではない。破壊の方向、解体の方向へ生成するのだ。運動のベクトルそのものが生成なのだ。何かが誕生するのではなく、運動が誕生であり、生成なのだ。
 田村のことばの延長線から、何か「もの」(概念)が新しく誕生するのではなく、何も誕生しない。ただ、破壊があるだけ、破壊の運動があるだけ--ということが誕生であり、生成なのだ。そこあるのはエネルギーだけなのである。
 何の「枠」ももたないエネルギーそのもの。それが「解放」のすべてである。

 「時の娘」には、このことが次の4行で書かれている。

真理は「時」の娘 なぜ
息子を産んでくれないのか
「時」という母胎は息子を拒む 男の子だったら
反真理にむかって疾走するにきまっているからさ

 「反真理」。ことは「逆説」と同じこと。その「疾走」のなかげこそ、すべては「解放」される。田村がことばでつかみ取ろうとしているのは、その「解放」、その「自由」である。




ぼくの中の都市 (1980年)
田村 隆一
出帆新社

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『田村隆一全詩集』を読む(76)

2009-05-06 01:37:09 | 田村隆一
 『狐の手袋』(1995年)には、田村が過去に書いたことばがいくつか出てくる。(これまでの詩集にも、同じことばが何度も登場する。)田村は何度も同じことを考える。それは、それだけその考えが田村にとって重要ということなのだと思う。
 私も田村にならって、同じことを何度も書こう。
 田村は「肉体」を、ふつうに分類されている機能にふりわけない。目なら見る、耳なら聞くという具合に分類しない。違う機能、感覚と結びつける。
 「手」の「月光」という小タイトルのついた作品。

詩人の手の指には耳がついていなければならない

 これは、手の指(ふつうは触覚を担うだろうか)と耳の融合である。

泉や微風を感受する耳 たぶん
小指についているはずだ

 この1字あきと「たぶん」は、田村が「手の指には耳がついていなければならない」と書いた時、まだ、指が5本ずつ、計10本あるということを意識していなかったことを意味すると思う。「手の指には耳がついていなければならない」と書いて、それから考えはじめている。つまり、ことばを動かしはじめている。
 「泉や微風を感受する耳」と書いて、そのあと、その感覚にふさわしい「指」を探している。答えがみつかるまでの「間」が1字あきであり、「たぶん」なのだ。それも「たぶん」は行のいちばん下にきている。「たぶん……はずだ」という文の構造が改行によって解体されている。「間」がそこに割って入って、きちんとした構造を破壊している。破壊された構造のなかに「小指」が割り込んだのである。
 こういうことばの動きを読むのが私は好きだ。自然に動くのではなく、無理やり動かす。無理やり動かすのだけれど、その無理やりの中には、おのずと田村自身の「自然」がはいってくる。つまり「無意識」が。「未分化」の意識が。

詩人の手の指には耳がついていなければならない
泉や微風を感受する耳 たぶん
小指についているはずだ
野の花 若木 老樹 シダ類の囁きや悲鳴をききとるのは
薬指(くすりゆび)の耳
中指は人間の暗部を探知する耳
親指の耳は丸く厚くなければならない
この指は知的判断をつかさどるからさ
人差し指は言葉という動く標的を狙うために
雑音に形態をあたえるための耳 さて
中指だが
その先端についている耳に
飛ぶ言葉
苦い言葉
軽い言葉
太陽を背にして垂直に襲いかかってくる
言葉をとらえられるか

 「小指」「薬指」は聞きとる対象が先に示され、そのあと「指」が特定されている。しかし、中指からあとは、指が先に掲示され、その聞きとる対象が特定される。この変化は、田村の意識が加速したことを意味するだろう。何を書くか決まっていなかったが、書きはじめたらことばが加速して、動きはじめたのだ。
 加速することばには、たぶん、ある特徴がある。ことばは加速すると、具体的ではなくなる。抽象的になる。「泉・微風」「野の花」「シダ類」という自然の具体物が、「囁き」「悲鳴」という「音」にかわり、「人間の暗部」というような抽象へ一気に飛躍する。その後、「知的判断」「言葉」が登場する。「指の耳」は具体物ではなく、抽象的なものを聞く「耳」なのである。
 このとき明らかになることは、人間の「肉耳」(ここでは「肉指」というべきなのか)は、具体物だけを見たり聞いたり触ったりするのではない。それはいったん「肉体」そのものになってしまえば、その「肉体」は「具体物」のなかに存在する「肉・物」というべき何かに触れる。そして、それは「具体」のなかにある「抽象」である。
 「肉体」は「抽象」に触れる。そこにあるものではなく、そこにあるものが隠しているものに触れるのが「肉体」である、と定義しなおした方がいいかもしれない。

 そこにあるもの。それは何かを隠している。その隠しているものを見るために、ことばは、その、そこにあるものを解体しなければならない。破壊しなければならない。その解体、破壊には「肉眼」「肉耳」「肉舌」「肉指」などが必要である。
 たぶん「肉指」というような奇妙なことばでしか言い表すことのできないもの(田村は、「肉指」とは直接言っていないけれど……)を書いたために、ことばの加速度は一気に高まってしまったのだと思う。
 こういう加速は、しかし、詩にとってはいいことではない。特にに「肉体」のことばを目指す詩にとっては、これは不都合ことになると思う。抽象が具象を追い越していくと、「肉体」という感じがしなくなるからだ。
 たぶん、田村はそういうことに気がつき、方向転換する。
 3連目で「指」→「言葉」というベクトルの向きを逆にする。

言葉は見るものではない
指の耳で聞くものだ
その音を彫刻家のように造形手
削るものは削り たとえ少女が鉛の腕だけになったとしても
はじめて人は
言葉が読めるようになるのではないか

 目や耳、舌、足を失っても「腕(手、指)」があれば、ことばは読める。このときの「読める」は、そして「聞きとることができる」、「聞く」である。
 感覚が(聴覚や触覚が)融合するように、認識する力もまた融合する。「聞く」ことは「読む」こと、「読む」ことは「聞くこと」になる。
 そんな変化があるからこそ、そのつぎに李白の詩がとつぜん引用されたりする。
 指は「耳」となって自然の音を聞く。その後、耳となって「言葉」を聞く。そして、その耳は、「言葉」を聞くのではなく、読むようになる。読むとは、つまり、声に出して「話す」ということでもある。そして、話すは「放す」でもある。
 指は何かをつかむときにつかう。その指が「耳」からはじまる変化の果てに、何かを「放す」。つかむとは放すためにする行為なのか。つかむから放すへと、その行為が逆転したとき(矛盾したものになったとき)、その矛盾という運動のなかに、詩があらわれる。
 指の、つかむという働きは、

酩酊した盛唐の詩人が湖上に写る月を抱かんとして
溺死したという歓喜の伝説

 という2行に象徴的に書かれている。そして、この2行は、次のように展開していく。

湖上に写る月を抱かんとする手が欲しい
汚れきった手だとしても

純白の手はいらない
それは人間の手ではない その手についている
耳は空耳ばかり

 「肉体」の反対のことばは「空」である。「肉耳」が聞きとるものは、何かが隠しているものであるのに対して、「空耳」が聞くのはそこには存在しないものである。




ぼくの中の都市 (1980年)
田村 隆一
出帆新社

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『田村隆一全詩集』を読む(75)

2009-05-05 01:03:10 | 田村隆一

 「主語」という作品は、いくつもの断章で構成されている。そのなかの「言葉」。

文字で読むものではない
耳で触れるものだ

 この2行が、私は好きである。私は黙読しかしない。音読・朗読はしない。けれども、「耳で触れる」。耳で受け止めることのできないことばは、私には理解できない。「耳」は「声」を聞く。書かれたことば、文字には、もちろん「声」はないが、その文字のむこうから「声」を感じる。「耳」で触れるとは、そういうことだ。視覚(読む)が視覚を逸脱する、超越する、そして耳・聴覚は、聴覚を逸脱して、触覚にさえなる。
 これに類似したことが「夜よ ゆるやかに歩め」にも書かれている。

近代の人間くらい哀れな存在はない
科学的不可逆性の世界に生きる人間という生物は五感を奪われ
明日になれば死滅する言葉と
一握りの灰で造られた動く標的

 「五感を奪われ」というのは、それぞれの感覚のことではない。「五感」として「ひとつ」の感覚のことだ。視覚、聴覚、触覚、嗅覚、味覚。それは、「ひとつ」である。「肉体」のなかで融合している。互いに越境し合っている。絵をながら感じる音楽がある、音楽を聴きながら感じる手触りがある、匂いのなかに味覚がある。そういうことは誰もが体験する。けれど「科学」はそれを分断し、それぞれを独立させてしまった。
 そのために、ことばは「生物」(生きている存在)から切り離され、つまり「いのち」を失い「死滅」するしかなくなってしまった。
 田村は、そういう「死滅」を強いるものと闘っている。ことばで。ことばに「五感」を取り戻すために。感覚が融合した、あいまいなもの、矛盾したものにするために。

 「ぼくは歩いている」の感想を書こうとして、ふいに、その前に書きたくなったことがある。それが、いま、書いたことだ。「ひとつ」と「五感」の関係。ことばと「五感」と「ひとつ」ということと、「孤独」というものを結びつけたいのだ。私は。

北へ北へむかって歩いているうちに
やっと
「孤独」の意味がわかってきた
「孤独」とは「歓び」
人手をかりて生きてきたくせに
北海の
大西洋の
湖の
光と香りとが

その微風と牧草の色彩の変化が
教えてくれたのさ

ぼくは歩いている
ジェット旅客機
皮靴
ネクタイ
みんな嫌い 大嫌い

拘束されないために
歩いている できるなら
裸足で歩きたい 小さな花 小さな星

 「拘束されないために/歩いている」。そこに「孤独」と「歓び」の融合がある。「拘束」とは、「視覚は視覚」「聴覚は聴覚」というような「分類」のことだ。そういう分類のなかに「歓び」はない。「歓び」は「五感」そのものになること。「五感の融合体」になること。「五感」そのものとして「ひとつ」、つまり「孤独」。そのとき、「歓び」があふれてくる。
 田村は、イギリスで知った「微風と牧草と色彩の変化」そのものについては具体的には書いていないが、その「変化」のなかに「孤独」を鍛える何かを感じている。
 この「孤独」は「礼節」とも通い合う。「灰色のノート」の「3」の部分に、次の行がある。

野の花を見よ
といったって年という高層ビルが林立する廃墟には
野はない
野がなければ野辺送りもできないじゃないか
礼節が失われたゆえんである
礼節とは自然を敬愛することではない

 「自然」のなかで、人間は「孤独」になる。「人手をかりて」生きることをやめる。「視覚は視覚」「聴覚は聴覚」というような「近代的分類」を捨て去って「五感」にもどる。引き戻される。「孤独」へと生まれ変わる。その瞬間、「五感」が復活し、「歓び」があふれる。


Do it!―革命のシナリオ (1971年)
田村 隆一,金坂 健二,ジェリー・ルービン
都市出版社

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『田村隆一全詩集』を読む(74)

2009-05-04 00:25:08 | 田村隆一

 田村の改行、あるいは連の構成(1行あき)のあり方、連から連への移動は、「散文の論理」からみるとずいぶん逸脱している。
 「海の言葉」にも、その「逸脱」がある。

あの
黒い土の下には
どんな色彩と音楽が流れているのだろう?
乳白色の 緑色の
血液のリズム
北半球の星座の燃えつきるまで透明な
光のリズム
球根からおびただしい芽がのびてきて
そののびてくる緑色の芽の爪が
人間の指や毛髪にからみつき
驟雨が走り去ったある朝
だしぬけに花が開くのだ
乳白色と緑色の血液でつくられた
深紅の鐘形 人間の目にも見える鐘の


それから

海にむかって毛細血管のような
細い道
を歩き江戸時代からの床屋の裏をぬけると
相模の海がゆるやかにひろがっていて
伊豆半島までは見えるが
大島は春風ととともに水平線から消えて

濃紺の海が もうエメラルド・グリーンに
変ってしまって 変らないのは
人間だけかしら?
ぼくらの遠い先祖は海で生まれたというのに
海の言葉 桜貝のささやきが
聞きとれるのは
犬だけかもしれない

 1連目は、何の花か具体的にはわからないが(私にはわからないが)、花が開く様子を描いている。「乳白色と緑色の血液」は植物を描写する時、田村が何度もつかう表現である。
 春がきて、花が開いた。鐘の形の花である。
 そのときの花の内部の運動、土と花とのかかわりを、田村は1連目で書いている。ディラン・トマス、エリオットの詩と通い合うものを感じる。「緑色の導管」あるいは「四月は残酷な月」。
 田村独特な感じがするのは、1連目の最後の「音」である。その前の行からつづけて読むと、「人間の目にも見える鐘の/音」。「目に見える音」という感覚の融合、「肉眼」が聞いてしまう「音」に、田村の個性、「肉体」を感じる。
 1連目は、変ないい方になるかもしれないが、すでに知っている田村である。いままで田村の詩について書いてきた感想を書き換えなければならないようなもの、追加すべき感想があるとは、私には思えない。
 ところが、その後の連の展開がとても不思議である。2連目。たった1行。

それから

 この「それから」は何だろうか。なぜ、独立しているのだろうか。
 「それから」を独立させず、前後の1行あきを取り除くとどうなるのだろうか。
 「主語」の変化に、混乱する。
 1連目の「主語」は何の花かはわからないが、ともかく「花」だ。ところが、3連目は「花」ではない。「細い道/を歩き」ということばからわかるように、「ぼく」である。「ぼく」が細い道を歩き、海へ歩いているのだ。そして、海を見るのだ。
 もちろん1連目も「ぼく」が「主語」であり、そこには「ぼく」が見ている「花」(「ぼく」が見た「花」)が描かれていると言えるのだが、そのように考えた場合でも、その見ている対象が「花」から「海」へ動いていくその移動のきっかけが

それから

 というのが、さっぱりわからない。なぜ、それから?
 これは、たぶん、田村にもわからない。
 「花」について書いてしまった。もう、書くことはない。「それから」何を書くべきか。わからないので、中断する。きままに、ことばを離れ、散歩することにする。すると、再び、ことばが動きだす。
 「海にむかって毛細血管のような」の「毛細血管」には「乳白色と緑色の血液でつくられた」ということばが通ってきているし、「黒い土の下」の根(花の、草の、根)もつながっている。その細い根のような、「細い」道を歩いて海へ向かう。そのとき、ことばが動きだす。
 このとき、とても不思議なことばが田村の詩の全体を動かす。

江戸時代からの

 これは、単に道に面した床屋が「江戸時代」からつづいているといえばそれだけのことなのだろうけれど、こいういうときに、突然「江戸時代」がでてくるところに、田村の個性がある。
 「江戸時代」がでてくることで、この詩は、「花」の詩から、突然「時間」の詩へと転換するのである。「花」の描写も実は「時間」の描写だったということがわかるのである。「それから」は、「花」を描写したときにかすかにつかんだ「時間」の何かを、その「花」のなかだけではな表現できなくなって、別な次元で展開するための飛躍の、そして、その飛躍をつくりだすための「間」なのである。
 「花」は、芽から蕾、花へと変わる。そして、変わるけれど、その変わるということ自体は「時間」のなかでは変わらない。花の成長自体は「時間」のなかで繰り返される普遍である。「時間」のなかには、「かわるもの」と「かわらないもの」があり、それが同じように「間」をつくる。
 だが、それをどう「論理」として、展開できるだろうか。「哲学」として、他人と共有できる形で言語化できるだろうか……。
 田村は、それをうまく展開できない。「大島は春風とともに水平線から消えて」と中途半端にことばを終えて、もう一度、1行あきをもってくる。断絶を、「間」をもってきて、その断絶を乗り越えていくことばの力に頼る。

 ことばは中断する。
 「論理」のことばは、そこで終わるのだけれど、詩のことばは論理ではないから、その中断を乗り越えてあふれていくことができる。「間」をそれがなかったかのように乗り越えていくのが、詩、のことばである。

 「江戸時代」ということばとともに、田村は「時間」に触れる。「江戸時代」も抽象的といえば抽象的なのだが、そこに床屋という具体的なものが存在することによって、何か、具体的なもののように「肉体」に迫ってくる。その「肉体」のてざわりを頼りにして田村は、ことばを動かしているように感じられる。
 「時間」とともにかわるものと、かわらないものがある。
 人間は? 人間は、どんなふうにかわるのか。かわらないのか。
 人間は海から生まれた。海から変化をつづけて人間になった。その変化のなかの「時間」。そして、変化してしまったために、もう海のことばが聞きとれない。そのとき「時間」の「間」と、人間と海との断絶の「間」が重なっているのか、いないのか……。

 田村は、その「間」をぴったりと重ね合わせたいと願っている。「時間」によって押し広げられた「間」。それをどうやって解体すれば、「いま」と「太古」がぴったりと重なり、その瞬間に、たぶん人間は、もういちど生まれ変わることができる--そんな夢を、このことばの運動のなかに託している。



 「それから」という1行。どんな論理の展開も拒絶して、ただ飛躍するためだけの1行。ことばを論理にとじこめるのではなく、論理からあふれださせるための1行。
 田村はいつも、論理からあふれだしていくことばを書こうとしているようだ。
 矛盾→破壊というのも、何かをあふれださせるためである。「いのち」を、と、私はとりあえず呼んでおくのだけれど。



インド酔夢行 (1981年) (集英社文庫)
田村 隆一
集英社

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『田村隆一全詩集』を読む(73)

2009-05-03 00:42:30 | 田村隆一
 『灰色のノート』(1993年)。巻頭は「一千一秒の孤独」。このタイトルはなんとなく、谷川俊太郎の「二十億光年の孤独」を連想させる。また、田村の『四千の日と夜』をも連想させる。『灰色のノート』自体、田村の青春の愛読書を連想させる。
 この「一千一秒の孤独」では、田村は「時間」と向き合っている。

死者には「時間」 足音もなく
過ぎて行く「時間」がない それで
死者はいつまでたっても若い
鳶色の古いアルバムのなかで 一瞬
凍結した微笑

 ここには「時間」の不思議さのひとつが語られている。「時間」は誰にでも共有のものではない。「時間」は生きているものだけに属する。「時間」はある意味では、「想像力」なのである。「いま」と「いま」ではない「時」を関連づけて考える時、はじめて浮かび上がってくる「生存の形式」が「時間」である。死者には「いま」という「時」がない。「いま」は「生存形式」とはなりえないから、そこから「時間」は生まれない。したがって「時間」が過ぎてゆくということもない。
 「いま」を生きている田村は、「過去」の自分の「いま」を比較して、年をとったと感じる。けれど「死者」は「いま」をもたず「過去」の状態のままなので、年をとっていく田村に比較すると「若い」。かつて老人であった「死者」も田村が年をとってみれば「若く」見えてくるし、若くして死んだ「死者」はもちろん「若い」ままである。
 そうしたことは、誰もが経験することがらかもしれない。そういう意味では、特にかわったことが書かれているわけではない。けれど、私には、この1連目が、いつもひっかかる。気にかかる。
 1行目の「足音もなく」ということばのせいだ。
 「足音もなく」は、行をこえて(行をわたって)2行目の「過ぎて行く」を修飾する。「足音もなく過ぎて行く時間」ということば自体は慣用句である。「時間」に「足」などないから「足音」ももちろんない。ごくふつうの言い方である。
 けれど「足音もなく/過ぎて行く」と、そこに「わたり」、一種の「間」がはいると、「足音もなく」だけが奇妙になまなましく浮かび上がる。田村が「足音」を「肉体」で感じている、という印象が生まれてくる。「肉体」のどこかで、「時間」の「足音」を感じている--その感じを、これは「常識」とは違うという判断の「間」をへて、「足音もなく」へ引き返してくる感じがある。
 「死者」には「時間」がない、のではなく「足音を立てて」過ぎていく時間がないのだ。「足音もなく」と書いているけれど、書きたいのは「足音を立てて過ぎて行く時間」なのだ。
 田村は、繰り返しになるが、「足音を立てて過ぎていく時間」を感じている。
 「足音を立てて過ぎて行く」と感じているのに、「足音もなく」と書くのは矛盾だが、その矛盾こそが、詩の核心である。矛盾しているからこそ、つぎのことばに直接つながらず、行を変えて、「間」をおいて、連結する。「間」は「時間」の「間」がそうであるように、想像力によってはじめて姿をあらわす不可思議なものなのである。

 こういう「間」があるからこそ、詩のことばは「論理」ではなく、見えない何かを追うようにして飛躍する。
 1連目から、2連目へ飛躍する。
 「死者の時間」から、「ぼく」の「生きている時間」へと飛躍する。

ぼくの頭上を「時間」が飛び去って行く
だから ぼくは生きているのだ
一千秒まではまたたくうちに
「時」の堆積だけがぼくの背中にのしかかってくる
ぼくは超音ジェット戦闘機のパイロット
垂直軸で旋回するから
敵の運動のリズムにあわせればいい
敵は「無機物」だ 動く「有機物」 走る「物」
ぼくはフォックス・ハンティングを愉しむイギリス人
ぼくは万里の長城の痩せおとろえた人足
ぼくは北米西海岸の私立探偵 「動く標的」にたえず撃鉄を引きつづけて

 2連目は「引きつづけて」という中途半端な形で中断するのだが、この連には、1連目以上に矛盾した行がある。ことばがある。

敵は「無機物」だ 動く「有機物」 走る「物」

 敵は「無機物」であり、「有機物」だというのであれば、これは完全な矛盾だ。「無機物」でありながら、「有機物」であることは不可能だ。
 何が起きているのか。
 ここでは、行のわたり、あるいは連と連の切断とは逆のことが起きているのではないのか。
 つまり、

敵は「無機物」だ 動く「有機物」 走る「物」

 という1行は、ほんとうは

敵は「無機物」だ

動く「有機物」 走る「物」

 と、分かれるべきものではないのか。「1字あき」ではなく、連がかわる、あるいは、少なくとも行がかわるべきものなのではないのか。
 言い換えると、この1行では「主語」が変わってはいないだろうか。
 敵はというときの敵は「時間」を指すだろう。それに対して動く「有機物」、走る「もの」とは「ぼく」ではないのか。「人間」、生きている「ぼく」ではないのか。
 「時間」は、「無機物」だ。一方、人間は、動く「有機物」であり、走る「もの」だ。 
 「主語」がかわったのに、それを明記せず1行の中に、それが書かれてしまっているのは、このときの思考が、田村のなかでは「間」をおかずに動き回ったということだろう。思考が加速度をまして、「間」を消してしまっているのだ。
 その後の「ぼくは」ではじまる4行がそのことを雄弁に語っている。「比喩」が「比喩」を呼び、どんどんことばが加速する。「頭」で考えているのではなく、「肉体」がその加速度に酔って、ブレーキが利かなくなってどこまでもどこまでも進んでいく。

 何を書いてたのだろう。
 ふっと、われにかえって、最初に書こうとしたことを思い出す。
 時間と死者、時間と生きているぼく。そして、そのときの肉体の感覚、時間に「足音」を聞いてしまう感覚--矛盾した感覚。
 何を信じるべきか。
 2連目と3連目のあいだに、巨大な「間」をおいて、詩はつづいていく。

質は問わない
量だけがぼくの世界観だ
目に見えるものしか信じない
一千秒は

ぼくには長すぎる時間
日清戦争では若い兵士と安酒を汲みかわした
日露戦争ではロシア美人と恋愛ごっこをした
太平洋戦争では廃墟になった東京で
裸のプレイボーイになった

五千年が一千秒のなかにおさまってしまって
なんだか味気ない

ウイスキーでも飲もうか
あとの一秒が
五千年よりもながい一秒がドアを
ノックするまで
 
 3連目の、突然の「世界観」の表明。
 そして、3連目と4連目の、連の断絶を超えたことばのつながり。「一千秒は//ぼくには長すぎる時間」。2連目の、「敵は「無機物」だ 動く「有機物」だ 走る「もの」」という1行とは逆のことがここでは起きている。意味的に連続すべきことばが「間」をおいてつながっている。
 「間」が伸び縮みしている。

 そして、この「間の伸び縮み」こそ、時間の姿なのだ。時間は、時計ではけっして「伸び縮み」しない。60秒は1分、1001秒は16分強。それがゆるがないのが「物理」の世界である。
 けれど人間にとっては、人間の意識にとっては、つまりことばにとってはという意味になるが、1秒の長さはきまってはいない。自在に伸び縮みする。1秒のあいだに、人間は、イギリス人なって狐狩りをしていたかと思うと古代へもどってエジプトでピラミッドのために石を運ぶ人間になっていもいる。5000年の歴史、その「間」を1秒で往復できる。してしまう。
 だが、そんなふうに時間を駆け回ってしまうと、「足音」を聞くことは不可能である。そんなに早く走る足はおもしろくない。そんな「空想ごっこ」は、たぶん、人間のすることではない。
 「時間の足音」が聞こえる生きかた、ことばの動かしかたをしないと駄目なのだ。

目に見えるものしか信じない

 この1行は、田村の「肉眼」宣言である。「肉眼」が目に見えるものしか信じないなら、「肉耳」は耳に聞こえるものしか信じないだろう。「時間の足音」。「肉耳」はそれを聞く。聞いている。聞こえないとしたら、聞かなければならない。
 1000秒の次の1秒--その瞬間、「肉耳」は「時間の足音」を聞くかもしれない。聞くことができるかもしれない。それを信じて「孤独」を生きる。--それは、「時間の足音」を「肉耳」で共有してくれる人がいないという絶望--孤独の表明かもしれない。

 矛盾のなかで言おうとしている何か、ことばが、この詩では、つまりすぎている。凝縮しすぎている。
 そして、行分け(改行)や連の構成の瞬間、詩人のなかで「時間」がどんなふうに動いているか、目を凝らしてみつめなければならないものが、この詩には凝縮している。
 詩人は、たぶん、無意識に改行する。連の構成を変える。それが無意識であるということは、そのときの意識が「肉体」そのものであり、「頭」で説明する必要のないもの、つまり完全な「思想」になっているということでもあると思う。
 ひとは、詩人にかぎらず、自分にとって明確な「思想」(肉体となった思想)を説明する必要を感じない。だから、そういうものは省略する。そのため、その省略によって、何か「矛盾」のようなものが出てくる。「頭」では理解できないものが。
 「頭」のことばには「矛盾」であっても、「肉体」のことばにとっては「矛盾」ではない--そういうことが、存在する。

腐敗性物質―田村隆一自撰詩集 (1971年) (立風選書)
田村 隆一
立風書房

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