詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

「現代詩手帖」12月号(28)

2023-01-06 11:59:07 | 現代詩手帖12月号を読む

「現代詩手帖」12月号(28)(思潮社、2022年12月1日発行)

 松本秀文「ゴジラ」。

「ゴジラ以後に詩を書くことは茶番だ」

 「茶番」に傍点が振ってある。「わざわざ」か「わざと」か。同じように傍点が振ってあるのが、

決して二度目などないのだ

 そうか。でも、二度目どころか、何度でも繰り返してしまうのだ人間というものだ。それが証拠に、松本は傍点を振ることを繰り返している。そうではなくて、私が傍点に、二度、目を止めたということか。
 何とでも言える。「わざわざ」でも「わざと」でも。しかし、どんな「何度」でも、その瞬間は「一度」というか、「初めて」である。
 ひとつ、疑問。
 松本は、いつ「ゴジラ」見たのか。私は「ゴジラ」誕生の前年に生まれているので、見たのは、もちろんリバイバル上映が最初。すでに「二度」以上上映されているし、もしかすると最初に見たのは「初代ゴジラ」ではないかもしれない。……ということは。「ゴジラ以後に詩を書くことは茶番だ」ということばは、私にはほとんど意味を持たない。すでに、「ゴジラ」が「ゴジラ以後」を生きているからだ。
 逆に言えば、松本が書いているのは、もう「繰り返された歴史」であり、新しいものはないということである。「〇〇以後、詩を書くことは〇〇である」という言い方そのものが「歴史」である。

「二度と繰り返すなよ」

 とも松本は書くのだが、むしろ何度でも繰り返さなければならないことがあるのだ。「わざと」ではなく、「わざわざ」。(山崎修平の詩の感想につづく。)

 山腰亮介「ゆきのきと」。

ゆきのきと
ときのきゆ

 は、「雪の帰途/時の消ゆ」か。「朱鷺の消ゆ」でもいいかもしれない。いまはまた復活したが、一時期、日本の朱鷺は絶滅した。消えるものの象徴として「朱鷺」が「時」にかわって思い描かれてもいいかもしれない。

羽毛ほどける
朝のひといき

 「羽毛」は朱鷺の羽毛。そして、それは雪の一片であり、また雪の朝の白い息(ひといき)かもしれない。
 「わざと」、どう読んでもいいように書かれている。「わざと」、ことばのゆらぎを抱え込んでいる。「わざと」ではなく、「わざわざ」、そうしているのだ、その「わざわざ」が詩なのだと山腰は言うかな? この繊細さは、松本の詩に続けて読むと、なかなか、つらい。時系列、五十音順のアンソロジー編集方式は、そういうことは考えないだろうけれど……。谷川俊太郎の作品を五十音順を無視して最初に持ってくるくらいなら、こういうことにこそ、配慮をしてもらいたい。「人事」ではなく「作品」をたいせつにしてもらいたい。私は、そのことを「わざわざ」つけくわえておく。

 山崎修平「招待」。(松本秀文の詩の感想のつづき。)

壊すことはたやすいこと、そう、それはわかっていた。

 この一行を、それが書かれている連ではなく、次の連に結びつけると、どうなるだろうか。

恥ずかしげもなく僕らは自由という言葉を放った。
エリュアールのように、自由、自由、自由と。

 それで、エリュアールの言った「自由」ということばを「壊す」ことができたのか。壊したのはだれか。そうではなくて、すでに「自由」は壊れていた(壊されている)のではないのか。
 もう一度、エリュアールの言った「自由」を大声で言わなければならない時代になっていないか。「恥ずかしい」のは、そういう時代を許している私たちのことばだろうと私は思う。
 エリュアールの言った「自由」は、私には「平和」と同義だが、「自由」を破壊するのはナチスやプーチンだけではない。「台湾有事」を待ちつづけているアメリカもそうである。もし「台湾有事」が起きたとしたら、そのとき(そのあと)あらわれるのは、いったいどんな「ゴジラ」だろう。日本の映画人は「新ゴジラ」を作ることができるか。作る権利があるか。
 この感想を、私は「わざと」書いているのではない。「わざわざ」書いているのだ。つけくわえておく。松本や山崎の詩がいつ書かれたものか私は知らないが、私は「ゴジラ」や「ゴジラ以後に詩を書くことは茶番だ」という表現、エリュアールの「自由」という言葉に触れて、どうしても安倍晋三や岸田文雄のやっていること、バイデンがやっていることを度外視して感想を書くことはできない。詩と政治が別個の世界に存在するとは考えることができない。

 


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「現代詩手帖」12月号(27)

2023-01-05 11:06:56 | 現代詩手帖12月号を読む

「現代詩手帖」12月号(27)(思潮社、2022年12月1日発行)

 南原充士「末子」。

亀の甲にマッチ箱を載せ
お尻をくすぐる

 突然はじまる奇妙な描写。何のことかわからないが、わからなくていいと思う。南原の「過去」というか「肉体」である。どんな「過去」が「肉体」に刻まれているかは、読んでいけば少しずつわかるだろう。たぶん「自画像」だろう。「マッチ箱」というものを、最近見なくなったが(わが家にあるかどうか……)、何かの表徴である。亀もそうかもしれないが、亀が南原だとすると、マッチ箱は彼が背負わされている(と思っている)何かだろう。
 それは、こう言い直される。

二番目の兄は父がちがうらしいが
さとし君にはまだわからない

 しかしなあ。「さとし君」(「充士」は、さとし、と読む?)が何歳の設定なのかわからないが、こういうことって、子どもにはほんとうにわからない? 子どもは、なんでもわかってしまうものだと私は思っているので、この「わからない」がわからない。子どもがわかっていないのは(私の経験から言うと)、自分(子ども)がついている嘘を、大人は嘘だと気づかない、つまり、自分はなんでも知っている(大人よりも物事を知っている)と思っているのだが、大人は子どもの嘘をみんなわかっている、ということだろうなあ。
 脱線したかな? そうでもないと思う。
 せっかく詩を書き出したのに、「物語」に収斂していくところが、おもしろくない。「わざわざ」詩を「物語」に閉じ込めてしまうことはないだろう。

 藤井貞和「金メダルをメキシコ湾の湖へ沈める」は、タイトルからしてわからない(不可解)だ。メキシコ湾に湖がある? しかし、

湖の底には、むかしの親たちの墓の村があってよ、
わしら運転手のはこぶ、移転の通知には、
墓ごとに宛て名が書かれおる、それを、
ゆらゆら、藻のかたちして出てくる腕二本へわたすのや。
そのとき、ぎゅっと腹をにぎってくるのが不快で、
ふと気をとられたら、もう、わしらは霧のなかよ、

 この「ぎゅっと腹をにぎってくるのが不快」が強烈だし、そのあとの「ふと気をとられたら」がすごいなあ。「ふと気をとられたら」は論理(ことば)を動かすための「通路」なのだが、そして、こういう「通路」は散文には必要であっても詩には必要がないものなのだが。
 というのは「一般論」であって。
 この「通路」を明確にしているのが、藤井のことばを、詩に消化させる原動力になっている。つまり、キーワード。
 藤井は、たぶんメキシコで「現地調査」かなにかしているのだろう。そこでタクシー運転手の話を聞く。そして、その話を聞いていて、「ふと気をとられたら」、タクシー運転手の話すことばの世界に引き込まれている。「ぎゅっと腹をにぎ」られて、引きずり込まれている。
 この場合「気をとられて」の「気」というのは「こころ」とか「思い/意識」ではなく、「腹」の奥にある「内臓」のことである。あえて言えば、それは無意識(意識で操作できないもの)である。「腹をにぎる」は、腹の「皮下脂肪」をにぎるのではなく、臓腑(内臓/無意識)をわしづかみにするのである。だからこそ、逃げられない。
 こうなれば、もう「わかる/わからない」の世界ではない。わかるしかないのである。読者の無意識をわしづかみにし、有無を言わせず説得してしまうもの、それが詩である。

 マーサ・ナカムラ「川の記述」も、「わかるしかない」ものを書こうとしているのだが、「現代詩手帖」の投稿欄で読んだ詩のような、「肉体感覚」(肉体の運動)が、私の「肉体」にかさなるような感じがすっかり薄くなってしまっている。

川帯の向こうに敷かれた水色の布団の上で
夫と子どもは
うまくいかないと泣いているのだった

 「水色の布団」よりも「うまくいかないと泣いている」ふたりの「肉体」の動きを、「肉体の部位」(たとえば、藤井は「腹」と「腕」をつかっていた)をとおして書いてもらいたいなあと思う。民話とか民俗学(民族学?)は、何よりも、「肉体の故郷」なのである。
 藤井の詩は、現代(詩のなかに出てくる年号でいえば、一九六四年以降)を描いているが、それが「肉体」を描いているからこそ、「いま」を「神話」にも昇華するのである。

 

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「現代詩手帖」12月号(26)

2023-01-04 16:10:36 | 現代詩手帖12月号を読む

「現代詩手帖」12月号(26)(思潮社、2022年12月1日発行)

 高田昭子「風の吹く日」。

初夏の風が渡る街の交差点で
信号が青に変わるのを待ちながら
遠い草原を思っている

人々の暮らしは
馬の背にまたがり
土埃をあげながら歩み続けてきた
来歴に来歴をつなぎ続け
その先には いつも
すこやかな赤児の産声が聴こえていた

 「遠い草原」の「遠い」がどれくらい遠いのかわからない。「来歴に来歴をつなぎ続け」から想像するに「時間的に遠い」のだと思うのだが。しかし、私はどんなに「時間」をたどってみても、私の知っている「暮らし」のなかには「馬の背にまたがり/土埃をあげながら歩み続けてきた」人がいないので、高田の書いていることが理解できない。
 この詩の最後は、「馬」ではなく「魂を運ぶ鳥」に変わるのだが、この「馬」と「鳥」の関係もわからない。最初から「鳥」で押し通せば、まだ、何かが伝わるかもしれないが。

 高野尭「マルコロード」。

 どこからかながれてくる、ヒヤッとした、どこからかきこえて、もやっとしたやまでもうみでもない、このへやでもないどこか、空でさえないそらから、どこからかながれ、よるべなく声にならず、

 ことばを重ねると近づいていくのか、遠ざかっていくのか。遠ざかって行くにしろ、その「遠い」には何かが意識されているから「遠い」のだろう。つまり、「肉体」が遠ざかって行っても「意識」は近づいていく。そういうときの、ことばの動きを、読点「、」でつないでゆく。
 これはもちろん「わざと」である。つまり、この「わざと」は、「わざわざ」をめざすのである。そのとき「空でさえないそら」というような「表記」は意味があるだろうか。私は、「意味」も「効果」もないと思う。

 鍋島幹夫「帰りたい庭」。

子供たちの顔の上をすべっていく
草色の雲
この解像途中の あるいは 接続をやめた残像 みたいなものは
回線の向こう岸に見る 村々や校舎への 敵意のなごりだという人もいるが
それは違うと思います

 「それは違うと思います」が、この詩のキーワードである。その特徴は「それは違うと思います」というときにも、相手(だれか)の主張をていねいに聞くことである。
 「それは違うと思います」のあとに、鍋島が何と思っているかが、またていねいに語られるが、きっとその自分自身のことばに対しても、鍋島は「それは違うと思います」と言っている。
 一回、彼自身の「正しいと思っていること」を語るのではなく、それを何度も言い直している。その果に、「思う」は「考えている」にかわり、最後は、こう締めくくられる。

ぼくの複製で埋めつくされる 庭の暗いわななき--
別のホームの庭から
夢精のめざめの履歴で
何度でも取り出す ことができる

 「何度でも」。この「何度でも」の何か「遠い」と「近い」が同居している。固く結びついている。遠ざかったのか。「違うと思います」。近づいたのか。「違うと思います」。「何度でも」繰り返されるもの、繰り返してしまうもののなかに詩がある。
 「わざと」繰り返すのではない。「わざわざ」繰り返すのでもない。「自然に(何度でも)」繰り返すのである。

 

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「現代詩手帖」12月号(25)

2023-01-03 11:36:31 | 現代詩手帖12月号を読む

「現代詩手帖」12月号(25)(思潮社、2022年12月1日発行)

 向坂くじら「詩がどこにもいなかった日」。詩がどこにもいなかった日を詩にするのだから、これは「わざと」である。詩のいないところに詩がある、という逆説の真理(?)が詩か。秋亜綺羅みたいだな、という感想が向坂に通じるかどうかわからないが、たとえば私は次の部分に秋亜綺羅を感じる。

詩がどこにもいなかった日
男が笑ったのは良かった
窓のふちが濡れているのは良かった
瓶が高いところから落ちるのは良かった

 このまま永遠につづいていくとおもしろいと思う。でも、それでは秋亜綺羅になってしまうか。しかし、そうではなく秋亜綺羅でなくなってしまうためには、それをつづけなければならないのだが、向坂は、中途半端に「結論」へ逃げ込む。

わたしは呼吸いくつかですぐに眠りに入った
そしてひとつの夢もみなかった
わたしの血のながれは夜のあいだ
たえず終わりのほうへ向かっていた
砂の音をたてながら

 あ、ほんとうに「詩がいなくなった」と私は感じた。それが狙いなら、まあ、向坂の狙い通りなんだろうが、こういう「結論」は詩でもなければ「散文」でもない。「砂の音」には「砂時計(時間)」が暗示されているのだが、時間を語る「哲学」にもなっていない。
 「詩がどこにもいなかった日」をどこまで繰り返していくことができるか、詩がいなくなるまで繰り返していく覚悟があるかどうかが、こういう詩の「いのち」である。「わざと」始めたことは、だれかが「もうやめろ」というまでつづけないかぎり「わざわざ」にはならないのだと思う。

 瀬崎祐「湖のほとりで」。

嵐が過ぎた朝の湖岸には おびただしい数の眼球が打ち寄せられている 昨夜も 嵐にまぎれてたくさんの人が眼球を捨てにこの湖を訪れた 見ることに耐えられなくなってあらゆる風景を拒んだ人たちだ

 とはじまる。「眼球を捨てる」ということは現実にはありえない。だから、これは「わざと」書かれた「寓意」あるいは「比喩」である。この「寓意/比喩」をどこまでつづけられるかが、向坂の詩の場合と同様、とても重要な問題になる。と、「わざわざ」私が書くのは……。
 書き出しの引用部分には、実は、つづきがある。

それは 話すことに疲れた人たちが言葉を捨てるようなことだったのだろうか

 「話すことに疲れた」を「詩を書くこと疲れた」とすれば瀬崎の自画像になるのだろうか。「言葉を捨てる」と「わざわざ」書くのは(自然に書いてしまうのは)、「眼球を捨てる」という「わざと」がすでにもちこたえられなくなっているというか、最後はその「わざと」を捨てるつもりでいるんだな、と感じさせる。「それは」以下の文章は、それこそ捨ててしまわなければいけないものである。
 この詩を成り立たせているものは、「眼球を捨てる」という運動と同時に「嵐が過ぎた朝の湖岸」の「湖岸」がどこの湖を指しているのか、明示されていないことである。読者は、自分で「湖岸」をつくることで詩のなかに(ことばの運動のなかに)参加していく。そのとき頼りになるのは「眼球を捨てる」、逆説的に「見てきたものを意識する/視覚を意識する」という感覚である。それを貫くためには、「言葉を捨てる」という行為を重ねてはいけない。「寓意」の「底」が見えてしまう。
 向坂は「結論」で詩を壊しているし、瀬崎は書き出しで詩の到達点を限定している。「わざわざ」そういうことをする必要はないだろう、と私は思う。

 添田馨「暗澹たる法廷」。

汝らの悪行に悪魔の右手が引導を手渡すとき
天空に轟きわたる開門の荘厳な重低音は
曇天の冷えきった寒空を心底から陰翳に彩り
熾天使の終末の喇叭となって響き渡った!

  あらゆることばに「意味」がありそうである。その「意味」を添田は真剣に受け止め、真剣に読者に手渡そうとしている。その熱意があふれることばの展開だが。
  私は、こういうことばを信じていない。もし街頭でだれかが(たとえば安倍晋三が、あるいは岸田文雄が)こういうことばを話していたら、私はさっさとその場を離れるだろう。批判する気持ちにさえなれない。
 「天空に轟きわたる開門の荘厳な重低音は」には註釈がついていて、こう書いてある。

Apocalytic Sound: 終末の音。
世界各地で観測され報告されている。

 で、その音を添田は聞いたのか。聞いて、実際に「天空に轟きわたる開門の荘厳な重低音」ということばが添田の肉体(意識でもいいが)から生まれたのか。そのときの衝撃は、ここに書かれているような「定型化」した表現で十分なものなのか。どこにも添田のオリジナルな感覚というものが感じられない。おそらく添田はその音を聞いていない。ただ「世界各地で観測され報告されている」ということを「知識」として知っているだけなのだろう。
 添田がこの詩で展開しているのは、そういう「知識」の陳列である。「知識」を知るには、何も添田のことばでなくてもいい。
 詩は「知識」ではなく、「知識」を否定する何か、「知識」とは矛盾する「個」の存在である。
 瀬崎は「嵐が過ぎた朝の湖岸には おびただしい数の眼球が打ち寄せられている」と書いていた。これは、いわゆる「知識」を否定する。瀬崎の書いているようなことは、だれにも共有されていない。添田のことばをつかっていえば、「世界各地で観測され報告されている」ことではなくて、瀬崎が書くことによって、はじめて「出現した事実」である。詩には、そういうことばが必要なのだ。向坂の書いていた「窓のふちが濡れているのは良かった/瓶が高いところから落ちるのは良かった」もまた、向坂が書くことによって「出現した事実(世界)」である。それは「知識」ではない。まだ、だれにも共有されていないことがらである。共有されていないことによって「個」として存在する。それが詩なのである。
 「知識」ほどつまらないものはない。

 私は最近、中井久夫を読み返しているが、彼の文章には、いろいろな精神医学上の「知識」が書かれている。しかし、それは「知識」を超えている。「知識」でありながら、必ずそこに中井久夫の肉体(体験)が反映されている。そして私が読むのは「学術的な知識」ではなく、中井の個人的な体験である。個人的であるから、そこには詩がある。精神医学のことは何もわからないが、それでも中井久夫の文章に引き込まれ、読まずにいられないのは、そのためである。


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「現代詩手帖」12月号(24)

2023-01-02 14:55:33 | 現代詩手帖12月号を読む

「現代詩手帖」12月号(24)(思潮社、2022年12月1日発行)

 川田絢音「わたしたちは なだれ込み」。
 水辺(海辺)だろうか。鳥の描写がつづく。そして、唐突に、終わりがやってくる。

糞で白くなった崖がさらされて
鳥にまだ声があり
わたしたちはここよ
を交わしているとき
切り抜けられなくなって
わたしたちはなだれ込み 戸板のように流れ去った
逃げおくれて
虹のかけらがころがっている

 「わたしたち」とは誰なのか。最初の「わたしたち」は鳥のように思える。あとの「わたしたち」は人間に思える。唐突に挿入される「戸板」ということば。「流れ去った」ということば。「戸板」には「のように」ということばがついている。「戸板」は比喩であるらしい。だが、私には「戸板」だけが比喩ではなく「現実」のように思える。「鳥」も現実の鳥かもしれないが「わたしたちはここよ」ということばを交わしているのなら、それは鳥であっても、鳥を超える「比喩」としての意味をになっている。その「比喩」のなかに「人間」としての「わたしたち」が重なっていく。重なるのを、鳥は待っている。重なることを、人間は夢見ている。
 「戸板」「流れ去る」「逃げおくれる」とつなげると、東日本大震災、津波を思い出してしまうが、川田の詩集を読んでいないので、当てずっぽうな推測である。もし、わたしの推測が正しいなら、「戸板」こそが「比喩ではないもの」というか、「比喩になりきれないもの」として、ここに提示されていることになる。
 それは「わざと」ではなく、「必然」である。
 しかし、最終行の「虹のかけら」には、疑問が残る。

 國松絵梨「reverberations」。

わたしがこどものころはこんな
気候ではなかった
ぐらりと、かもめが
水平を保たない
逃げられやしないのに
遠くへ行きたい、
と思った

 「遠くへ行きたい、/と思った」のは、「子どものときのわたし」か、「いまのわたしか」、あるいは「かもめ」か。わからないが、「ぐらりと、」と「遠くへ行きたい、」が重なるのだ。「遠くへ行きたい、」という突発的な思いによって、「ぐらり、」と何かがゆれる。逆であってもいい。「ぐらり、」と感じるとき、そこに「遠くへ行きたい、」という気持ちがやってくる。「ぐらり、」には、川田が書いていた「戸板」に通じるものがある。この詩のなかに「比喩ではないもの」があるとしたら「ぐらり、」である。「戸板」と同じように、「ぐらり、」もだれもが知っている。だれもが知っているが、だからといって、それをきちんと説明することはできない。「戸板」の方は誰でも説明できるかもしれないが、「戸板のように流れ去った」となると誰にでも説明できるわけではない。「知っている」。しかし、説明できないものがある。説明すると、どうしても「現実」ではなくなってしまう。「物語」になってしまう。「枠」ができててしまう。それでは現実からの逃避になってしまう。


 小池昌代「土色のスープ」。

オーケストラ部の部室には
弾き手のいないヴィオラがあるが
昼間
室温の上昇とともに
しどけなく 弦が ゆるんだ

結びめがほどけたよ
たいへん よかったね

征服の箱ひだをひろげて
彼女の股も
ゆるゆるとひろがる
夢見る貝
閉じなさいと 叱声があがるが
海水として 聞き流した

 弦の緩み、結び目がほどける、女子高校生(たぶん)の股の緩み。それが重なり合う。「海水」は比喩である。「わざわざ」、比喩であるとわかるように「として」ということばがついている。だが、この比喩は、やはり手ごわい。「海水」はだれもが知っている。「聞き流す」ということがどういうことかも、だれもが知っている。しかし、この「知っている」は、くせものである。
 「知っている? じやあ、自分自身のことばで言い直してみて」
 小池にそう問われたら、いったい何人が自分自身のことばで言い直せるか。「知っている」(わかっている)、しかし、言い直せない。そこに詩がある。
 同じことは、「たいへん よかったね」についても言える。「たいへん」も「よかった」もだれもがつかうことばだ。だからこそ、言い直しがむずかしい。だいたい、この「たいへん よかったね」は一続きのことばなのか、それとも別のことばなのかも、即座には判断できない。どちらともとることができる。
 私が、あるいは他の読者でもいいが、詩を読むのではない。詩が、私を、そして詩を読んでいる読者を読むのである。小池は(他の二人もそうかもしれない)、「わざと」そういう書き方をしている。

 

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「現代詩手帖」12月号(23)

2023-01-01 22:30:50 | 現代詩手帖12月号を読む

「現代詩手帖」12月号(23)(思潮社、2022年12月1日発行)

 伊藤比呂美「Looking for 鴎外 から」。ベルリンでボダイジュの花を見る詩である。

ボダイジュの花が咲き始めていた。ベルリンに来た当日、ちょっと歩きましょうと友人に誘われて、歩きながら「これがボダイジュ、鴎外も見た、ウインター・デン・リンデンですよ」と教えられた。すぐ忘れて、また目に留めて、また教えられた。やがて見分けるようになった。「ほら、花が咲いている」といわれて上を見た。
「まだ匂いがしない」と友人はいったが、次の日になると「ほら、匂いがしてきた」といった。それでわたしは上を見た。何日か経つと匂いがあたりに充満した。そして花は爛熟した。もともと黄色い花がさらに黄ばんだ。その数日後には木の下が乾いた黄色い花殻で埋まった。       
                          (注、本文の鴎外は旧字体)

 この散文のリズムはとてもいい。鴎外が出てくるからいうのではないが、鴎外みたいだ。
 「すぐ忘れて、また目に留めて、また教えられた。」には「また」が二回出てくる。これが「すぐ」と次の「やがて」を強烈に結びつける。その強烈な結びつきのなかに「時間」が組み込まれていて、この「時間」が、「まだ匂いがしない」からの段落でドラマチックに展開する。
 「「ほら、花が咲いている」といわれて上を見た。/「まだ匂いがしない」と友人はいったが、」の改行(段落の改め)は、本当は少し変なのだが(鴎外なら、たぶん、こういう改行はしない)、これが非常におもしろい。伊藤が鴎外を超えるのは、こういう部分である。ここは「散文の論理」ではなく、「詩の論理」である。
 さらにおもしろいのは、「ほら、匂いがしてきた」の「きた」。友人のことばであり、伊藤はどれだけ意識しているかわからないが、この「きた」は形は過去形だが、意味は過去形ではない。(書き出しの「ベルリンに来た当日」の明確な過去形と比較すると、よりわかりやすいと思う。)よく電車やバスを待っているとき、なかなか来ないので少し場その場所を離れるときがある。するとだれかが「電車が来たよ、バスが来たよ」という。これは実際は過去形ではない。まだ、来ていない。これから「来る」のである。さらに言えば早く来ないと乗り遅れるよ、という「未来」を含んだ「来た」なのである。この「きた」に促されて、伊藤のことばは急展開する。「何日か経つ」「その数日後」を合わせて、計何日か。わからないが、あっと言う間に「時間」が過ぎる。それを不自然に感じさせないのは「匂いがしてきた」の「きた」の力である。
 この「きた」はこの詩のキーワードである。つまり、無意識に書かれたものだが、それがないと、この詩が成立しない。別なことばで言えば、この「きた」は随所に隠れている。
 こんな具合だ。

何日か経つと匂いがあたりに充満し「てきた」。そして花は爛熟し「てきた」。もともと黄色い花がさらに黄ばん「できている(/できた)」。その数日後には木の下が乾いた黄色い花殻で埋まっ「てきた」。

 強い実感がある。
 散文では、ときどき「過去形」で書いてきた文章が、実感が強くなった瞬間から「現在形」にかわるという文体が存在する。(多くの作家に共通する。)この部分では「黄ばんだ」がそれにあたる。私は「黄ばんできている(/黄ばんできた)」と並列する形でかいたが、「きている」の方がより「正確」だろうと思う。この「きている」は状態をあらわす。「匂いがしてきた」も「匂いがしている(匂いを感じている)」という状態なのである。「バスが来た」も「バスが(すぐ近くまで)来ている」という状態をあらわしているのである。動きをあらわしているのではない。
 伊藤が書いている(友人が言った)「きた」は、見かけは過去形であるが実感を、将来の実感を含めて、いまの状態を表現する非常に珍しい例である。(だから、これを「外国語」に翻訳するとき、日本語に合わせて「過去形」で表現すると、意味が通じなくなる。)
 この実感を踏まえて、詩は、別のことを書き始める。
 こうした、実感を踏まえたあと、ことばが別な形で新しく動き始める文体こそ、すべてを「いま」として出現刺さる文体こそ、鴎外の到達した世界だが、それがさらに鴎外を感じさせる。
 どこにも「わざと」がなく、とても自然だ。

 稲川方人「自由、われらを謗る樹木たち、鳥たち」。
 この詩については、ブログですでに書いた記憶がある。記憶だけで、もしかしたら書いていないかもしれない。つまり、書こうとしたが、書き始めたら書くのがいやになってやめてしまった可能性がある。
 伊藤の「鴎外 から」についてなら、まだまだ書き足りない感じがするのだが、稲川の詩は、読んだだけで、書き終わった感じがしてしまう。

あなたの掌を解き、
握られた紙片をふたたび世に戻すと
陽の翳りに、遠く生き急いだ命の数々が
短く在ったみずからの声の幸福を響かせている

 四元康祐が「手相」で書いたものが「あなた」に限定されて書かれている。「手相」(掌の皺)の書かず、それを「わざと」隠している。
 手を見るのは、石川啄木からはじまったわけではなく、昔からある「生き方」のようなものだろうと思う。それを「わざと」「握られた紙片」と言い換えることにどんな意味があるのかわからない。私はむしろ、捨てられた紙片を広げて、そこに「手相」を見る方が自然な気がする。
 私と稲川の「自然」が違うのだといえば、それまでだが。

 帷子耀「ウウウウウウウウウウーウ」。(名前は、正確には帷子耀のあとに、ピリオド、がついている。)
 この詩についてはブログで書いた。書けば、再び同じことを書くことになるかどうかわからないが、同じになるだろうと思うので、たいがいは省略する。

ウ。母は何か言いたげだった。痰がからんでいるな。声が出なかった。痰の吸引をお願いした。吸引が終わった。静かになった。母は死んだ。

 と、静かにはじまる書き出しが、とてもいい。(稲川は「あなた」とあいまいに書いていたが、帷子は「母」と明確に書いている。)「自然」かどうかはわからない。「自然」であろうとしている。だから「わざと」と言えるかもしれないが、「わざと」を感じさせない。「痰の吸引をお願いした。」のことばのなかにある「配慮」のようなものが、ことばの全体を貫いている。「痰の吸引を(医師に/看護師に)頼んだ」と比較すればよくわかる。ことば(動詞)のなかに「対人意識」が強く響いている。これは、現代では、とても珍しいことだと思う。帷子は現代詩の先頭を突っ走った詩人だが、そのときからすでに「古典」だった(すでに完成してしまったという印象があった)のは、この「対人意識」のきめこまやかさに要因があるかもしれない、と、ふと思う。


 


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「現代詩手帖」12月号(22)

2022-12-31 11:48:01 | 現代詩手帖12月号を読む

「現代詩手帖」12月号(22)(思潮社、2022年12月1日発行)

 四元康祐「手相」。

この線は
トルコを追われた
アルメニア人の死の行進の跡

 手相には、そのひとの歴史が刻まれるのか。「手相占い」は、そういうことを根拠におこなわれるのだろう。
 さて。
 四元は、だれの「手相」を見ているのか。「だれ」ではなく「時代(現代)」の手相であると四元は答えるかもしれない。
 頭のいいひとは、それで納得するだろうが、私は納得できない。もし「時代の手相」であるなら、アルメニア人を追い出したトルコのひとの手相と合わせてみないといけない、というようなことを言うのではない。
 そのニュースを知ったとき、四元の「手相」にどんな傷が残ったのか。それを見せてもらいたい。いや、その傷跡(手相)というのがこの詩である、と、また頭のいいひとが答えているのが聞こえる。
 「わざと」しか、私には感じられない。「わざと」ではなく「技」である、と、頭のいいひとは言うかもしれないけれど。

 天沢退二郎「本文と註(春の章)」。句集、らしい。

春一番去って脚註散乱す

春の嵐本文の字も乱しけり

註を食って冬生き延びた紙魚も居て

 5・7・5が乱れていくところがとてもいい。語調をととのえる「技」が追いつかないのである。あるいは「技」を追い越して、書きたい欲望があふれてくる、といえばいいのか。そして、その欲望、私はいま「(天沢の)書きたい欲望」と書いたのだが、「主体」は天沢ではないかもしれない。「ことば」そのものが、天沢の「頭の支配」を突き破って動きたがっている。それに天沢が反応している。そんなふうにも読むことができる。
 天沢が書きたいのではない。ことばが書かれたがっている。天沢に。
 「註」と書いているが、註をつけたことがあるひとなら、註こそが本文を突き破って動きたがっていることばだ、と感じたことがあるだろう。天沢のことばは、そうやって動いている。動き出すと止まらなくなっている。
 どれ、とはいわないが、むかし読んだ天沢の詩に似ている。何が書きたいかなんて、知ったことではない。ことばが動いていく。それについていく。制御しようとすればするほど狂暴さが増す野性のことば。

註と来て註と汁(つゆ)出る凍み豆腐

 これは「ちゅう」という音が暴れている。

本文に蕗の芽ピチと割註す

 「ちゅう」と書くなら「ピチ」も書いてとことばが言ったかどうか知らないが、「割註す」は、「割註、ほら、かわいいでしょ? 見落としていたでしょ? ちゃんと書いてね」という声が聞こえそうだ。「私は割註ということばを知っているんだぞ」という天沢の自慢かもしれないけれどね。
 ここには四元の「トルコ」や「アルメニア人」とは違った、天沢自身の「手相(過去)」が刻まれている。
 
 新井高子「空気の日記 から」。註に「第二波。コロナにも斑点模様にも水玉模様にもおびえていた」とある。青葉の裏側に並んだ赤い斑点(毛虫の卵?)を見て、風疹(たぶん)の斑点を思い出す。それからコロナウィルスのことを思う。
 で。

ほんとうは見えているんじゃないか、
ウィルスを
赤茶色のその斑点を
突風が運んできた瞬間だって

見えているんだよ、
だから
怖いのさ

 「手相」をいうなら、この新井のことばが「手相」にあたるだろう。見えないって? 手相に刻まれているよ。見えるひとには見えるんだよ。
 新井は、コロナウィルスを書くために、「わざわざ」風疹体験を持ち出してきている。それは違うよ、と頭のいいひとに言われることを承知で、それでも書かずにいられない。風疹体験が、新井の肉体を突き破って、いま、「手相」として出現してきている。それが新井に見える。新井は彼女自身の「手相」を読んでいるのである。それがことばになるとき、ことばは新井を映し出すだけではなく、「世界」を映し出す。
 もちろん、新井の書いていることを否定するのは簡単である。「ウィルスは目(肉眼)には見えない」と。でも、「ことばの目」には見えるのだ。

 


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「現代詩手帖」12月号(21)

2022-12-30 16:18:57 | 現代詩手帖12月号を読む

「現代詩手帖」12月号(21)(思潮社、2022年12月1日発行)

 峯澤典子「ひとりあるき」いっしょに生まれるはずだった兄弟を思うとき、夢を(たぶん、同じ夢を)見る。その夢が作品の中心。

この夢を見はじめた夜いらい、わたしのすべての感情は、あなたから切り離されたつまさきの重い痺れをくぐってから、息のそとに出てゆくようになりました。

 「息のそと」は「息の外」か。「息の外」へ出て行くとどうなるのか。わからないが、自分の「いのち」をはなれて動く感じがある。新しい息を手に入れることができるか、息以外の何かを手に入れることができるか。
 わからないけれど、わからないからこそ印象に残る。

 宮尾節子「牛乳岳」を読むと、「息の外へ出る」とは、こういうことかもしれないと、ふと思う。脈絡もなく。ただ、突然に。

「冷やしたぬき」
なんて看板見ると1メートル位は
(むねのなかで)
ゆうに跳び上がります。

 (むねのなかで)、あるいは 峯澤なら「夢の中で」というだろうか。なんでもできる。そのなんでもというのは、「ゆうに跳び上がります」の「ゆうに」のことである。そんなことはほんとうはできない。けれど、なんの努力もせずに、らくらくと。それが当然のことであるかのように。とても自然に。
 「息の外」は、ほんとうに「息の外」ではなく、「息の中」にある。「息」がそれまでの「息」とは違ってしまうこと。「息」が違ってしまったことを「息の外へ出る」というのだろう。
 瞬間的に、今までとは違ってしまう。そのとき「ゆうに」が起きている。
 それは、その人だけが感じることができる「別次元」である。
 だから峯澤は、

ゆき
ゆきだよ。

どこまでも
あかるい ゆきだよ。

と、「別次元」を描写し、宮尾は、それをこう書く。

キモイ(気味悪い)のは
そっちもこっちもおなじです。

からだに
詩が来ているときは
まあこんな塩梅です。

 「別次元」を、宮尾は「からだに/詩が来ている」と書く。峯澤が「息のそと」というなら、宮尾は「息のなか(むめのなか?)」というのだろうが。

 森本孝徳「蚤卵論」。森本はことばが好きなのだろう。そして、森本が好きなことばは、私とは関係ないところを動いている。

身から出た錆とはいえ永遠の散歩に誘い出すなら、
末弟(ボロッキレ)よ、
ここを拭き取るのが薔薇色のかかとだ。」

 峯澤は「つまさき」と書いていたが、森本は「かかと」と書く。どちらも私にはわからないのだけれど、森本の方が「わざと」が強いだろうなあ。

 

 


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「現代詩手帖」12月号(20)

2022-12-29 12:27:22 | 現代詩手帖12月号を読む

「現代詩手帖」12月号(20)(思潮社、2022年12月1日発行)

 北原千代「オルガンの日」。古くなったが、壊れてしまったとは言えないオルガン。

指をあずけるとすぐにうたう
通いなれたこみちだから
うたはじぶんでうたってしまう
よしろう、かつき、なみ、うらら
あなたたちは知らないでしょう
あのころわたしは作曲家だった
たった一度きりのうたを千より多く知っていた

 「一度」と「千」の比較。それが美しい。「百」だと足りない。つまらない、「一万」だと多すぎる。「一」はだれでも体験できる。「千」はかなりむずかしい。「千」を発見するまでに「よしろう、かつき、なみ、うらら」の四人が必要だったのだろう。四人によって「千」は「必然」になった。
 それは「うたはじぶんでうたってしまう」と重なる。「自然」が「必然」。この「自然」から「必然」への移行がとてもいい。
 「現代詩」の「わざと」とは無縁である。つまり、「現代詩」ではなく、詩。

 中尾太一「長い散歩 Ⅲ」。

「今日」を越えることなく
わたしがなくしたものの
死んだ人のような体と表情を見て
いっせいに立ち止まってしまうここで
「明日」への態度を愛として苦しんでいたいと思った。

 ここに書かれる「今日」は「今日という一日」ではなく、「今日を成立させる千日」のようなものかもしれない。「過去」のすべてである。一方「明日」は「明日一日」である。「明日」の向こう側に「千日(永遠)」はない。
 もし「永遠」があるとすれば、それは「明日」あるいは「明日の向こう」ではなく「愛」のなかにある。しかも、それは「苦しむ」ための「愛」である。その矛盾を成立させるために「立ち止まる」。「いっせいに」と中尾は書くが、この「一(斉)」のなかには「一」と「千」の固い結合がある。(それは、あとで引用する部分に、別の形で書かれる。)
 それにしても。
 「愛を苦しむ」か。ただ苦しむだけではなく「愛を苦しんでいたい」。それは欲望して、そうなるのだ。「思う」という動詞がそれに念を押す。
 北原のことばに比べると、それが「わざと」であることがわかる。「現代詩」だ。しかし、これは鍵括弧でくくる「現代詩」かもしれないなあ。「現代」に意味があるのではなく、「定型化した現代詩」という意味である。
 「定型」だから、とても安心して読むことができる。

「キミガ世界ノ構造」を書くのなら
「ワタシハ個の構造」を書いて
いつしかそれを一つに合わせてみよう

 どうせなら、

「キミガ世界ノ構造」を書くのなら
「ワタシハ個の構造」を書いて
いつしたそれを千に砕いてみせよう

 と書いてほしかった、と私は思う。
 ここでこんな思いを書いていいかどうかわからないが、たぶん北原の詩の中に「よしろう、かつき、なみ、うらら」という四人の「あなた」が出てきたから思うのだが、私は母親がせっかく肉体を分離して、子であることをこえて個として産んでくれたのだから、徹底して個になりたいと思う。すべての「一」を叩き壊して「千」のなかに消えていきたいと思う。まあ、これは私の思いであって、中尾とは関係がないのだけれど。

 伯井誠司「DE IMITATIONE CARTI」。

いかに汚き、われらみな…… 人のため、また世のために
働くこそは何よりもつまらぬ役務なるべけれ。
いかなる恥を忍ぶれどもはや褒美もかひも無し、
演ずる人も見る人もすでに飽きたる芝居ゆゑ。

 このことばは、すべて「わざと」書かれたものである。「ソネット/定型詩」のために。ただ、ソネットといっても十四行詩になっているだけだ。ソネットという定型(構造)のために、伯井がどれだけ彼自身のことばを破壊したのかわからない。たぶん破壊したという気持ちはないかもしれない。だとしたら、それはやっぱり破壊ではない。
 中尾の書いた三行が、まざまざとよみがえる。

「キミガ世界ノ構造」を書くのなら
「ワタシハ個の構造」を書いて
いつしたそれを一つに合わせてみよう

 伯井と中尾は、それぞれ「違うことをしている」と主張するだろうけれど、私には「同じこと」をしているように見えてしまう。「完成された定型」(定型という完成)を生きている。

 

 


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「現代詩手帖」12月号(19)

2022-12-28 11:21:23 | 現代詩手帖12月号を読む

「現代詩手帖」12月号(19)(思潮社、2022年12月1日発行)

 石毛拓郎「夢か、」。すでにブログで感想を書いた。どう書いたかは、もう忘れた。忘れるために書くのだから、それでいいと思っている。読むたびに違ったことを書きたい。できるなら前に書いたことと反対のことがいいと思うが、思い通りにいくとは限らない。きょうは、次の部分を引用してみる。何が書けるか。

夢か、
尾道の親不孝通りで、林芙美子の父が
----汽車に乗っていきゃア、東京まで、沈黙っちょっても行けるんぞ。
娘は、心配顔で訊く
----東京から先の方は行けんか?
父は、東京行きを制するように
----夷(エビス)が住んどるけに、女子供は行けぬ。

 「東京行きを制するように」は、誰のことばだろうか。石毛は、この連を林芙美子「風琴と魚の町」を参照にして書いている(と、注に書いてある)。林芙美子は「尾道の親不孝通りで、林芙美子の父が」とは書かないだろうから、「字の文」は石毛の創作かもしれない。そうだとしたら、どうして「東京行きを制するように」と書けたのだろう。どうして石毛に、林芙美子の父の気持ちがわかったのだろうか。かりに林芙美子が書いたとしても、どうして林芙美子に父の気持ちがわかったのだろうか。
 と、書けばわかるのだが。
 気持ちなんて、だれにでもわかるのだ。気持ちを隠すことはできないからだとも言えるが、気持ちなんて、先に言ったものの勝ちなのだ。ことばにした瞬間、気持ちは決定づけられる。それは時として、言った本人の気持ちを超えて、「真実」になる。「わかった、きみはこう言いたいんだろう」とだれかが叫べば、言ったひとが「そんなつもりはない」と否定してもむだである。なぜか。気持ちとは「共有」されたものだからだ。「共有」されないものは気持ちではないからだ。
 だからね。
 石毛は、それを「共有」するために、林芙美子のエピソードを「わざと」書いてる、ということよりも、私は、こうつづけたい。
 だからね。
 いつ、どこで、だれに「共有されたか」が重要になる。「夢」のように。だから石毛は埼玉で詩を書いている。この詩でのように東京にこだわりながら。石毛の詩のタイトル「夢か、」は、そういう意味を含んでいるかどうかは知らないが。

 井戸川射子「育ち喜ぶ草」。隣の家から侵入してきた蔦のようなものを取り除く作業をことばにしている。まあ、独り言のようなものだ。そのとき、

連なって滝みたい、と褒めると
そうやって何かに喩えるのはやめて
と強い声を出される

 あ、ここがおもしろい。
 草が(植物が)、声を出すわけではない。しかし、井戸川は聞いてしまう。それは、誰の声? これは特定してみてもおもしろくない。「だれ」は気持ちではないからだ。ここでの「気持ち」は「そうやって何かに喩えるのはやめて」だ。
 井戸川は、「共有」してしまったのだ。
 それに従うかどうかは問題ではない。従うにしろ、無視するにしろ、「共有」が先にある。それは一瞬とさえも言えない瞬間である。
 「わざと」とか「わざわざ」を持ち出して、考えることを忘れてしまう。

 岡本啓「音楽」。

音は通らないけれど
この世でぼんやり聞いていた音が
なぜかよく聞こえる

 そうですか。「わざわざ」書いてくれて、ありがとう。
 ところで。
 石毛拓郎の「夢か、」の最後の部分、

父は、「どうだ!」とばかりに
自転車の荷台に
わたしを、きつく縛りつけた

 この「「どうだ!」とばかりに」が「気持ち」というものなんだよなあ。それは、説明しないときは、すごくよくわかる。しかし、説明しようとすると、とても面倒くさくて、「そんなのこと、知らんよ」と言いたくなる。「知らんよ」は「よくわかる」を含んでいる。その「よくわかる」で大事なのは、「わかる」ではなく「よく」という部分。それが「気持ち」というもの。
 岡本は、「よく」聞こえると書いているが、その「よく」を私は共有できなかった。「わざと」書いていると感じた。岡本は必死になって聞き取っているのに(聞こえないものを聞こうとしているのに、そして「やっと」聞き取ったのに)、それを「よく」とすり替えている。「やっと」を否定し、「よく」と自分に言い聞かせている。「よく聞こえる」ものなら、井戸川の詩のように、突然、拒否できないものとしてあらわれるものなのだ。
 もちろん「やっと」聞き取ったものを「よく」聞こえるということもある。だれかを説得するときに、つかうね。岡本の「よく」は「やっと」と書き換えた方が「気持ち」になるのだが、岡本は「やっと」はいやなんだろうなあ。自分の「苦労」をみせたくないんだろうなあ。
 井戸川は、草むしりなんか面倒くさい(苦労)を隠さずにみせているから、「気持ち」の変化が丸見えになり、それが楽しい。

 詩は、比較しながら(?)読むと、楽しい。


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「現代詩手帖」12月号(18)

2022-12-27 09:28:51 | 現代詩手帖12月号を読む

「現代詩手帖」12月号(18)(思潮社、2022年12月1日発行)

 川満信一「在るものの不安」。

いのち、地上の、地下の、空中の命
滔々と流れる無限の大河
休むことのない動詞よ
重さを想えば地球を背負うように
瞑想すれば炎の色に躍動するもの

 私は困ってしまった。「休むことのない動詞よ」とあるが、「動詞」が見つからない。いや、「流れる」「休む」「想う」「背負う」「瞑想する」「躍動する」と存在する(在る)が、「動いている」が感じられない。「地球を背負う」とあるが、それが「重い/重さ」に結びつかない。「瞑想する」から「躍動する」への変化は、ほんとうならブラックホールが爆発するようなものだが、まったく「躍動する」が感じられない。そこに「在る」のは「動詞」と名付けられた「名詞」のような感じがする。
 これは、「わざと」?

躍動するいのちの 炎の大河を跨ぎ
異星の峰へワープせよ ランボー!

 ことばが「頭」のなかできらめいている。しかし、それは「在る(状態)」のであって、「動き(動詞)」ではない。「状態」をあらわす「動詞」というのもあるのだけれど、それは「休むことのない」とは別の「動詞」だと思う。

 高良勉「フボー御嶽」。

男の人は
特に島外の人は
入ってはいけない
タブーが生きている
フボー御嶽

 高良は、したがって「一度も入ったことが無い」と書いている。高良にとっては、肉体的には「存在しない」。しかし、意識的には「存在する」、その場所。その「意識的存在」を「具体的存在」に変えるのは何か。
 高良は、他人の撮影した「写真」を利用する。「写真」に映し出された「場」。「白装束の神女たち」が「神祀りを行っている」。
 これも「動詞」ではないなあ、と私は感じる。「動き」が「状態」として、固定されている。肉体が動いていない。
 「入ってはいけない」と言われたとき、高良の「肉体」のなかで、どんな運動が起きたのか。「してはいけない」と言われたとき、「肉体」にはそれを「したい」という欲望も生まれるだろう。それをどうやって「してはいけない」と言い聞かせたのか。どんな葛藤があったのか。なかったのか。
 高良は「わざと」それを書かなかったのか。
 神女たちを

 マイヌシュラヤー 舞いの美しさよ

 と書かれても、それがどんなふうに美しいか、私にはわからない。美しさに触れたとき、高良の「肉体」がどう動いたのか、それが知りたい。「マイヌシュラヤー 舞いの美しさよ」ということばが、注釈にあるように比嘉康雄『神々の原郷 久高島』のことばなら、なお、そう思う。
 高良は、ここでは、自分のことばではなく、単に他人のことばを伝達しているにすぎない。

 松尾真由美「凍える雛のひときわのざわめきから」は、何が書いてあるかわからないが、だかこそ「信じてもいい」。松尾には信じているものがある。それはタイトルの「凍える雛のひときわのざわめきから」にあらわれている。
 「ひな」と「ひときわ」の音のつながり。「ひときわ」と「ざわめき」の音のつながり。ことばをつないでいく「の」の音の脈絡。
 それは、書き出しの一行にもある。

受け入れてもらえないかもしれなかった。りり、りらら。

 「受け入れてもらえないかもしれなかった」のなかにある「ら行」の音。「し」の音が強い「い」。それが結びつき「り」という音にかわる。ここから「る/ろ」ではなく、明るい「ら」へ転換するのは、松尾が、基本的に明るい音のことばを優先させる「肉体/声帯/口蓋/のど」を持っているからだろう。「ら」のなかの「あ」を引き継いで「たどたどしい」と動いていく。松尾の「ら行」は「R」ではなく「L」で発音されるのかもしれない。

とおいほど反論できない分かりきった蜃気楼を飲みこんで、みれどしら。

 この「みれど」は音階の「ミレド」だけではなく「飲みこんでみれど」とつながる「動詞」のようでもある。そのとき「みれど」の「ど」は「とおいほど」の「ど」につながっている。
 途中に「らそふぁみれららら」「らしどれみふぁみれ」と「ふぁ」という音がある。「遠いほど」ではなく「おおいほど」と書くのだったら、「とほいほど」と書いた方がもっと音が響きあったかもしれない。
 「わざと」を押し通し、「わざわざ」に変えてしまうのが松尾の詩であると仮定しての話だが。

 

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「現代詩手帖」12月号(17)

2022-12-26 09:09:03 | 現代詩手帖12月号を読む

「現代詩手帖」12月号(17)(思潮社、2022年12月1日発行)

 山田裕彦「遠雷」。

言葉でなく
口を噤んで
白紙の上で
泡立つもの

 「言葉」と「口を噤む」の対比が「白紙」と「泡立つ」と言い直される。そこに強い緊張がある。
 その最終連は、

あれから娘は二十九になり
病む日にどもるわたしは
いまだ吃音
空白を
どもり続けている

 「どもる」と「吃音」。動詞と名詞。繰り返さずにはいられないものがある。それが最初の連と最後の連の間で、それこそ「吃音」のように、聞き取りにくいがゆえに、聞かなければならない切迫感で展開される。
 引用はしなかったが、「五歳の娘」と「あれから娘は二十九になり」から、その「切迫感」のなかには二十四年間がある。だが、時間とは、物理的なものであって物理的ではない。ある人の二十四年間はとても長いが、山田の二十四年間は吃音、どもるときの、ことばにならない瞬間的な音の空白、沈黙のなかにある。音が破裂する瞬間にある。それはいつでも「いま」という一瞬の時間であり、濃密、凝縮された時間である。
 これは「わざと」でも「わざわざ」でもない。山田の「必然」である。ひとが必然とするものは、それぞれによって違う。

 安俊暉「回帰」。(原文には一行空き、二行空きの区別があるのだが、一行空きで引用した。)

われ
折るゝところ

靄の

その先の

いつも
佇む所

こぶし花
咲く

 安のことばは吃音ではないが、吃音に似ているかもしれない。言いたいことが肉体の内部から、肉体を破って出てくる。「先」「その先」へと。それは、とても短い音だ。音は短いが、その音が生まれ、それがことばになるまでには時間がかかる。それぞれの音、ことばが過去をもっている。
 「過去」は「いつも」になる。「いつも」は「いま」になる。つまり「過去」は「いま」になる。山田の「隠された二十四年」が「いま」であるように。
 そして、それは安の場合、「こぶし」になり、「花/咲く」。
 この詩の「咲く」は非常に強い。それは「状態」ではなく、「運動」なのだ。しかも、それは繰り返し咲くのである。つまり、そのつど「いのち」がよみがえるのである。
 先に繰り返された「光」は、こう形を変える。


届き来る
わが命
あるところ


帰り来る
足音

 「届き来る」「帰り来る」。「来る」という動詞が結びつける「君」と「わが命」。これは「予定調和」ではなく、何度でも繰り返される「必然」である。
 安のことばにも「わざと」はない。

 太田美和「砂金 詩人ユン・ドンジュをしのぶ会」。その最後。

日本語訳であなたの詩を読み上げたことも
許してください
原詩と日本語訳と英語訳で朗読される詩の
英語訳のぎこちなさから察すれば
日本語訳では掬い取れない原詩のエッセンスが
さらさらと砂金のように
こぼれ落ちては光を返す

 散文のような、事実をひとつひとつ積み上げて真実にたどりつこうとすることばの運動。「エッセンス」という生硬なことばが、ここでは、それこそ「砂金」のように輝いている。
 比喩は、詩の場合、それこそ「わざと」書くものだが、その「わざと」が「自然」になるとき、そのことばの奥では「必然」が動いている。「許してください」と言えた大田だからこそ、たどりつけた自然な「発光」がある。反射ではない光がある。おのずから発する光である。

 

 

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「現代詩手帖」12月号(16)

2022-12-25 10:58:24 | 現代詩手帖12月号を読む

「現代詩手帖」12月号(16)(思潮社、2022年12月1日発行)

 平鹿由希子「集真藍忌考」。あづさいいみこう、とルビが振ってある。「集真藍」が「あづ(じ)さい」。本当の藍色を集めた花、ということか。音が漢字のなかで意味になるのか、音を漢字の意味が破壊するのか。
 どちらかわからないが、平鹿は、「わざわざ」こんな書き方をしている。私は「わざと」違う読み方をする。
 私は、漢字に破壊されても破壊されても、よみがえってくる音、音がよみがえってる部分が好きだ。たとえば、

水は火をけす魂鎮め 相生醒める浮気者の心根のよに七変化
「あなたは冷たい あなたは冷たい」
憂き言の葉は 萼の四片の咎じゃない

 「あいおい」「あだびと」「あなた」「あなた」。繰り返される「あ」が「あじさい」を呼ぶ。「がく」「とが」の逆さしり取りみたいな感じの響きが、「あなたは冷たい あなたは冷たい」を「花占い」のことばのように感じさせる。「あなたは冷たい あなたは温かい」ではなく「冷たい」と繰り返すところが、恨みがこもっていていいなあ、と思う。

おたくさ たくさ しどけなく なまじの花器を拒むよに 花盗人の訪れを待つ
「おはさみ かりんこ おはさみ ちんりこ」茎剪み

 ここも「音」がことばを動かしている。

 平田俊子「ラジオ」。

畳の下から声が聞こえる
一階の人が
今夜もラジオをつけたらしい

 「畳の下」が「わざと」である。平田は、いつもかどうかはよく知らないが、「わざと」ひとを喰ったようなことばの動かし方をする。
 昔、私がまだテレビを見ていたころ、和田アキ子が司会していた番組で出演者が「あてこすり」の会話をするコーナーがあった。中尾ミエが、出色だった。「いま」をあてこするのではなく、少し前のことをあてこする。だれもが知っている。そして、忘れかけている。それを思い出させる。
 平田の「畳の下」が、それにあたる。
 いまの若い世代は、きっと「意味」が取りにくい。これがぴんと来るのは、木造のアパート、畳の部屋(四畳半のアパート、がよりわかりやすいか)で暮らしたことがある人。いまは鉄筋、コンクリートの床が主流だから、想像はしにくいかもしれない。しかし、木造のアパートで暮らしたことがある世代(たとえば、私や平田)なら、これだけで一つの情景が浮かぶ。その情景を「念押し」するのが「ラジオ」である。深夜ラジオが流行していた時代がある。(そのひとたちが、「ラジオ深夜便」を聞いているとか。)

畳を通して聞こえる声は
誰かのおしゃべりも歌も
くぐもっている
意味を失い
音だけになった言葉が
階段を使わずに二階に届く

 これが半世紀前に書かれたのなら、それはそのまま、マンガ「同棲時代」になるかもしれない。
 平田が「いま」を書いているか、過去の「記憶」を書いているのかわからないが、「いま」にしろ、そこには「過去」が入り込んでいる。これは、平田の「わざと」である。「わざと」、平田自身の「肉体」を見せるのである。私がよくつかう比喩を持ち出せば、いわゆる「役者の存在感(肉体の過去)」である。
 それはそれでいいけれど。
 でも、そういう「存在感」って、何か、鼻持ちならない。「ひとを喰っている」という印象は、そこから生まれるかもしれない。これは、私だけが感じることかもしれない、と私は「わざと」書いておく。

 松下育男「川ひらた」。「私が生まれたのは九州福岡です。」と、松下は、これから書くのが「過去」であると、あるいは「過去」を思い出している「いま」であると「わざわざ」書き始める。「わざと」かもしれない。
 そして、それは

東京に出てきてから父はさらに寡黙になりました。晩年は穏やかな顔から「ほとけさま」とあだ名されていました。この詩を書きながら私も「川ひらた」を思います。父母はどのように私をここまでたどり着けてくれたのかと。わが家は浅瀬でどれほどにしなったのかと。

 予定調和の「余韻」で終わる。「父はさらに寡黙になりました」の「さらに」が、私が引用しなかった部分をすべて暗示させるだろう。つまり、逆に言えば、最初からずーっ読んできて、ここで「さらに」が出てきた瞬間、この詩は「おわる」ということがわかるように書かれている。
 それが松下の「作詩術」である。「術」であるから「わざと」であるといえるが、松下は「わざと」とは感じていないと思う。「自然」と感じていると思う。そして、私はこの「錯覚」が実は嫌いである。「さらに」では、ぞっとするひとは少ないかもしれないが……。次は、どうだろう。

この詩を書きながら私も「川ひらた」を思います。

 この「私も」の「も」はいったい何なのだ。私は、ぞっとする。松下以外の、いっ  たいだれが「川ひらた」を思い浮かべているか。松下の父か、母か。
 なんというか、松下が思い浮かべるものとは違うものを思い浮かべる人間がいるということを、松下は拒否している。世界を閉ざすことで「完結」している。そして、それを「わざ」とではなく「自然」と思っている、らしい。そればかりか、それを「理想」と思っているようにさえ見える。「さらに」に、その「予定調和の理想」の「押しつけ」がある。「も」に「予定調和の理想」の念押しがある
 ついでに書いておけば。
 「父母はどのように私をここまでたどり着けてくれたのか」の「たどり着けてくれた」は妙な言い方ではないだろうか。「たどり着かせてくれた」「たどり届けてれた」が自然ではないだろうか。「たどり着く」は自動詞。父母が主語なら、他動詞をつかうのが自然だろう。ここにも松下の自他の混同があると思う。松下の「予定調和」はあくまでも「松下の予定調和」であって、それを押しつけられたくないなあと私は感じる。

 

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「現代詩手帖」12月号(15)

2022-12-24 10:11:16 | 現代詩手帖12月号を読む

「現代詩手帖」12月号(15)(思潮社、2022年12月1日発行)

 多和田葉子「きっと来る」。

一度ひらいてしまったら
もう取り返しがつかない
散るまでに闇に戻れない

 この「に」は何だろう。「散るまで闇に戻れない」ではなく「散るまでに闇に戻れない」。「散る前に」闇に戻りたいのだろうか。「散らないかぎり」闇に戻れないということを強調しているのか。
 詩は、

ひらいてしまって大丈夫なの?
汚れやすく傷つきやすい白を
寒気にさらけだして枝に咲く

 とはじまっていた。桜の花を描いているように見えた。ほかの花よりも早く咲いてしまった、桜。
 しかし、桜ではないかもしれない。開花ではないかもしれない。どこかに、ロシアのウクライナ侵攻の、取り返しのなさが隠れていないか。
 一度、武器が火を噴いたら(開戦したら)、取り返しがつかない。何もかもが破壊されないかぎり、元に戻れない。

侵略と感染に怯える沈黙の中
あなただけが花火のように満開だ
春が来ることを全身で信じて

 最後の三行も桜を語っているのだが、ロシアのウクライナ「侵略(侵攻)」、コロナウィルス「感染」を思うのである。
 思うに、闇には二種類あるのだ。何もはじまらない無としての闇、何もかもがなくなってしまったあとの無としての闇。何もはじまらない闇、何もなかった闇には、もうだれも戻れない。戻るためには、何かをしなければならない。
 多和田は「に」にどんな運動を託したのか。「わざと」なのか、無意識に(自然に)なのか、わからない。しかし、非常に、ひっかかる。強い印象を残す「に」である。

 中村実「冥土(六)」。死んだら、死者と会えるか。かつての知り合いと会えるか。

そうだ、冥土にはあらゆる時と場所にかかわりなく
死者が送りこまれてくるのだから、知り合いと簡単に出会えるはずがないね。
こうなったら、いっそ、あの世が恋しいねえ、あそこに戻れば
あの道角にも、あの通りにも知った人たちばかりだから、懐かしくてたまらない。

 「あの世」と書かれているが、これは「冥土」からみた「あの世」だから、実は、この世。多和田の書いていた「闇」は、これに似ているかもしれない。「この世」がいいわけではないが、「あの世」に行ってしまうと、「あの世」になってしまった「かつての、この世」が懐かしい。それが「闇」であっても。あるいは「闇」だからこそ。
 生きているときは、知った顔にばかり会う。いやになってしまう。そして、「この世は闇だ」と言ったりする。そのときの、「闇」。そこに戻るのは、ほんとうにむずかしい。

きみのいう知り合いもみんなもう冥土に来ていることを忘れているのじゃないか。
いまさら、あの世に戻りようもないけれど、戻っても誰と会えるわけじゃないのだよ。
そう言われればそのとおりだな、ぼくたちはこの小径を行くより他はないのだね、
この広場を抜けて、いつまでもうす暗い小径を行くより仕方がないのだねえ、と答えた。

 しかし、私は「この小径」を受け入れることはしたくない。「この小径」は小さく見えるだけで(大きさが見えないだけで)、ほんとうは「取り返しがつかない」(多和田の詩の中にあったなあ)くらい大きい。そして、それは「闇」ではなく、唯一の光のように提示されているというのが、いまの「現実」だと思う。
 そう、私は、とんでもない防衛費の拡大のことを言っているのだ。「敵基地反撃能力」と、奇妙な名前で語られている軍隊の拡大。それは、ロシアのウクライナ侵攻によって、まるで「希望」のように語られている。そんな「希望」よりも、「専守防衛では死んでしまうかもしれない」という不安な闇の方が、はるかに安全だろう。
 「闇」に二種類あるように、「安全」にも二種類ある。

 野崎有以「貝拾いの村」。いま、この「寓話」が書かれる理由は何だろうか。野崎は、どうして古くさいストーリーを書くのか。たぶん、古くさいストーリーは、すでに共有されているからだ。そこへ帰っていく。

男はかつて本当に愛した女によく似た少女と出会った
若かった頃 あのどんよりとした暗い女に見つかる前の話だ
その少女もまたひどく傷ついていた
男は理由も訊かず少女を抱きしめた

 しかし、野崎の書いている「暗い(暗さ)」、それは、多和田の書いた「闇」や、中村の書いた「あの世(冥土から見たこの世)」とは違うような気がする。むしろ、「敵基地反撃能力」のような「かつて見た(以前もあった)希望」のように私には思える。そういう意味では、野崎は、「時代を先取りし続けてきた詩人」なのかもしれない。野崎の書いたものを全部読んでいるわけでもないし、順序立てて読んでいるわけでもないが、私は、どうにも納得できない「いやあな暗さ」の反復、反復の「いやあな暗さ」を感じる。
 野崎は「わざと」書いているのだと思うが、その「わざと」が誰に向けてのものか、私にはわからない。

 

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「現代詩手帖」12月号(14)

2022-12-23 12:12:32 | 現代詩手帖12月号を読む

「現代詩手帖」12月号(14)(思潮社、2022年12月1日発行)

 新井啓子「クラウドボウ」。故郷へ帰るとき、こんな描写。

峠のさきに海岸線がある
背骨のような稜線は
起き上がり
波打ち
折れ曲がってつづき
その末に するどく
海原に突き出た
(細長い岬
昔 ちちははが巡った

 「昔 ちちははが巡った」という一行が、それまでの描写を新井個人の視点から、両親の、さらにその祖先の視点(記憶)に変える。「細長い岬」だけが「両親のことば」かもしれないが、その岬を見て「細長い岬」をまるではじめて見るかのように発見するとき、そのことばにたどりつくまでに動いたことば、「峠のさきに海岸線がある」から「海原に突き出た」が、「両親のことば」になる。「歴史/記録/記憶」になる。それは、単にことばではなく、そのことばをたどる「肉体」になるということだ。だからこそ「巡る」という動詞が出てくる。繰り返し繰り返し(巡るように)、そこを歩いたのだ。
 この「自然」は、とてもいい。
 「わざと」ではない。「巡る」ことで、土地が、風景が、「自然」そのものになる。「自然」として生きるものになる。両親が生きたように、土地も生きている。人間と土地が組み合わさって「自然」になる。「自然」が人間の精神の「自然」を育て、生きていく。

 荒川洋司「真珠」。男女の連れが喫茶店に入ってくる。男が話している。野球の話だ。

選手の予想に飛び、根尾、今年もどうかとなり
転じて昔、西部から中日に移ったコーチ某は
現役で二年しか投げなかった、いつだったか
七回裏に逆転満塁ホームランを浴びて、など
異常なこまかさが世の根幹となる

 「世の根幹」。
 新井の書いていた海岸の風景もその類だ。語らなくても、それは存在する。男の話も語らなくても、すでに存在し、知っているひとは知っている。男の話を荒川が再現できるのは、荒川がそれを知っているからである。私は野球のことは何も知らないから、荒川が聞いた男の話をことばに再現しようとすると「嘘」になる。何か資料をつかって点検しながら書いたとしても(たとえば、七回裏、とか)、それは「嘘」なのだ。いいなおすと、私が「肉体」として知っていることではなく、どこか、他人の「知識」から引っ張りだしてきたものにすぎない。それは「わざと」書かれた正確さになる。「自然」がなくなる。
 「わざと」を排除した「自然な積み重ね」(変わらぬ海岸の風景のようなたしかさ)というものが「根幹」なのであり、それは「世」に共有される。新井の両親が見た風景が、新井に共有され、さらに土地の人に共有される。それは、私がその「場」へ行くことがあったら、その瞬間に共有できる。私が野球に詳しく、たまたま男の話を聞いたら、「七回裏の逆転満塁ホームラン」が共有できるのと同じだ。
 荒川は、どんな「わざと」(西脇の言う、わざと)を書いても、それを「自然」になじませることができる。西脇とは別の「教養」がある。それは「世」というものがもつ「智慧」に通じるかもしれない。
 「真珠」は「身のほどが輝く真珠」という一行からはじまっているが、その「身のほど」の「身」が大事。そのことを荒川のことばは知っている。

 最果タヒ「恋は無駄死に」。

恋が恋だという確証はどこにもないまま
死体になっても手を繋いでいたらその愛は本当って
信じている人のため
死体の手を結びつける仕事をしている
本当の死神の仕事

 この「わざと」は、どんなに時間をかけても「自然」にはならないだろう。そういう「逆説」が青春ということか。
 私は古い人間なので、

「キスしたかった すごくしたかった それだけだった だからしたし 好きかどうかはそこから考えようと思った

 このことばが「自然」になってくれればいいなあと思う。
 私は詩を読むとき、年齢とか、性別とかはふつうは考えないが、新井、荒川、最果とつづけて読むと、最果のことばは若いなあ、と感じる。それは、私が若さを失っているということかもしれない。
 『さっきまでは薔薇だったぼく』には、もっと「自然な輝き」にあふれたものがあったとも思う。

 

 

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