詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ヨルゴス・ランティモス監督「哀れなるものたち」(★★)

2024-01-30 17:18:43 | 映画

ヨルゴス・ランティモス監督「哀れなるものたち」(★★)(中洲大洋スクリーン1、2024年01月29日)

監督 ヨルゴス・ランティモス 出演 エマ・ストーン、マーク・ラファロ、ウィレム・デフォー

 簡単に言ってしまえば、これは映画ではなく「安直な文学(大衆小説)」です。つまり、スクリーンで展開されていることをことばに置き換え、ストーリーにすると、それなりにおもしろい。趣向が変わっているので「純文学」と思い、ストーリーがよくわかるというので、絶賛する人がいるかもしれない。ちなみに、映画COMには、ストーリーをこんなふうに要約している。「不幸な若い女性ベラは自ら命を絶つが、風変わりな天才外科医ゴッドウィン・バクスターによって自らの胎児の脳を移植され、奇跡的に蘇生する。「世界を自分の目で見たい」という強い欲望にかられた彼女は、放蕩者の弁護士ダンカンに誘われて大陸横断の旅に出る。大人の体を持ちながら新生児の目線で世界を見つめるベラは時代の偏見から解放され、平等や自由を知り、驚くべき成長を遂げていく。」
 問題は、「新生児の目線で世界を見つめる」なんだけれど、これは「驚くべき成長を遂げていく」に合致しない。成長するに従って「新生児の目線」ではなくて、「成熟した女性の視線」で世界を見つめる。つまり、女性の目覚めを描いているという点では「ジュリア」のようなものなのだが、これを「新生児」なのに「大人の体」を持った女性を登場させることで、なんといえばいいのか、一種の「パロディー」にしてしまっている。女性が自分自身の性に、そして社会の不平等さに目覚め、自立していくということが、ひとりの女性の生き方として描かれるのではなく、「女性というものはこういうもんだよ」と要約されてしまっている。女性が、肉体を持った魅力的な人間としては描かれてはいない。あからさまにいって、エマ・ストーンの繰り広げるセックスシーンを見て、あ、こんなセックスをしてみたいと思った観客が何人いるだろうか。エマ・ストーンに、こんな表情をさせてみたい、エマ・ストーンのこんな表情をセックスのときにしてみたい、そう思った人が何人いるだろうか。だれも、そんなことを思わないのではないのではないか。肉体を抜きにして、頭のなかで、ことばだけで、想像していた方が楽しいだろう。
 さらに言えば、成長を遂げていくのが主人公だけであって、主人公に出会うことによって「世界」(他人)が目覚めていかないというのが、この映画(ストーリー)の最大の問題点。世界は変わりません、エマ・ストーンだけがかわります、というのでは、ストーリーを人間が体現して見せるだけの「意味」がない。アニメでも人形劇でもいい。いっそう、その方が「リアル」だったと思う。
 予告編や宣伝をかなりいい加減に見ていたせいか、私は「大人の体を持ちながら新生児の目線で世界を見つめる」ことによって「世界の本質があばかれていく」という映画だと思っていた。ぜんぜん、そうではなかった。世界の本質も暴かれなければ、女性が目覚めるわけでもなかった。(目覚めたのかもしれないが、それは、もう語り尽くされた目覚めにすぎなかった。)
 唯一おもしろかったのは、エマ・ストーンが乗る馬車、というか、車というか。エンジン(?)つきの車なのだが、まわりが馬車の時代なので、運転手がハンドルではなく、機械仕掛け(?)の馬の上半身を手綱であやつっている。ほんとうは「進歩」しているのに、世界の(周囲の)状況にあわせて、あえて「古い」を装っている。これは、いわばこの映画の逆説にもなっている。ほんとうは「古い」のに「新しい」を装っている。装いにだまされることが好きな人は、まあ、満足するかもしれない。月に2本映画を見るのは厳しい、という年金生活者には、ああ、金を無駄遣いしてしまったなあという気持ちが残ってしまう映画だった。


 


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ウッディ・アレン監督「サン・セバスチャンへ、ようこそ」

2024-01-21 00:15:19 | 映画

ウッディ・アレン監督「サン・セバスチャンへ、ようこそ」(★★★★)(2024年01月20日、KBCシネマ1)

監督 ウッディ・アレン 出演 ヨーロッパ映画、ウォーレス・ショーン、ジーナ・ガーション

 「インテリア」を見たとき、ああ、ウッディ・アレンがベルイマンのまねをしている、と思ったけれど。ああ、ほんとうにベルイマンが好きなんだねえ。「野いちご」まで出てきた。「第七の封印」「鏡の中の女(だと思う、私ははっきり覚えていない)」も。ほかにも、フェリーニも、トリュフォーも、ゴダールも。いいなあ、昔の映画は。
 やっぱり「主演」は、ヨーロッパ映画だね。あ、「市民ケーン(オーソン・ウェールズ)」はアメリカか。例外だね。
 しかし、まあ、笑いっぱなしだったなあ。他の観客は、ひとり、一回笑った人がいたけれど、みんな「沈黙」。どうして? おかしくないの? この映画、みんなで大声で笑いながら見ると、もっとおもしろくなるよ。
 予告編にもあった「監督と寝たのか」「一回、いや二回、エレベーターを含めると三回、海岸を含めると四回」という会話なんか、そうか、エレベーターの中や海岸はたしかにベッドの中とは違うねえ。英語は聞き忘れたが「寝たのか」と訪ねたとき、ウォーレス・ショーンはどんな動詞をつかったのか。それが問題だね。ベッドでなら二回、でもベッド以外でも……。そんなことを「区別」しなくてもいいんだろうけれど、わざわざ区別して回数を説明するところなんか、ウッディ・アレンの脚本以外ではありえないだろうなあ。笑いが止まらなくなる。
 私がいちばん好きなのは、ウォーレス・ショーン、ジーナ・ガーション、ルイ・ガレルのレストランでの会話シーン。ジーナ・ガーション、ルイ・ガレルがウォーレス・ショーンそっちのけで会話する。テーマ(?)はウォーレス・ショーンが提供するのだが、ふたりはそのテーマを引き取りながらウォーレス・ショーンを無視して、ほとんどいちゃいちゃ状態で会話する。
 しかし、なんだね、ウッディ・アレンは、最近は、やわらかな橙色の光が大好きみたいだなあ。適度な湿度のある夕暮れの光という感じかなあ。「マッチ・ポイント」、あるいは「レイニーデイ・イン・ニューヨーク」のころからかなあ、若い女の肌がとても美しく見える。それがねえ、今度はなんと、最初のウォーレス・ショーンのインタビューのシーンでも登場する。ウォーレス・ショーンは、この映画では、まあウッディ・アレンを演じているんだろうけれど、そうか、ウッディ・アレンは自分自身をあの光のなかで撮ってみたかったのかあ、と思ったら、それだけで笑えてしまう。実際、その瞬間から、私は笑いだしたのだけれど。
 ついでに言えば、私はジーナ・ガーションの顔が好きじゃない。唇のゆがんだところが。もしかすると、ウォーレス・ショーン(ほんとうはウッディ・アレン)がいい男、と思い出させるためにジーナ・ガーションをつかったのかも。ウォーレス・ショーンに比べると、同じチビとはいってもウッディ・アレンがかっこいいかもしれない。どうでもいいけれど。いや、どうでもよくないかも。きっと。
 それにしても。ちらっと見えるサンセバスチャンの街は美しい。私は、行ったことはないが、スペイン北部特有の緑があふれている。エドゥアルド・チリーダの彫刻も見に行きたい。なんでもそうだけれど、写真で見るのと、実際にその作品を見るのでは印象がまったく違う。サンセバスチャンではなく、ヒホンにある彫刻は、地元のひとが「キングコングのおしっこ」という別名で呼んでいる。彫刻の真ん中に立つと、チョロチョロという感じで水の音(風の音?)が聞こえる。サンセバスチャンにある作品も、近くで見ると何かが起きるのだろうか。

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アキ・カウリスマキ監督「枯れ葉」(★★★★)

2023-12-31 12:51:56 | 映画

アキ・カウリスマキ監督「枯れ葉」(KBCシネマ、スクリーン2、2023年12月30日)

監督 アキ・カウリスマキ 出演 アルマ・ポウスティ、ユッシ・バタネン

 アキ・カウリスマキの映画は、いつも情報量が少ない。北欧家具のように、とてもすっきりしている。と書いた後でこんなことを書くと矛盾しているが、この映画は「映画に関する情報」だけは盛りだくさんである。映画そのものも登場するが、たくさんの映画がポスターで登場するし、ラストシーンにはチャプリンの「街の灯」がチャプリンという犬と一緒に登場する。その映画がらみのシーンでは、ふたつのシーンが私は気に入っている。
 ひとつは主役の恋人二人がゾンビが登場する映画を見るのだが、それが終わった後、劇場を出てきた別の観客が「ブレッソンの田舎司祭の日記に似ている」とかなんとか言うのである。私は思わず笑いだしてしまった。そうすると、連れの別の男が「いや、ゴダールのはなればなれ(だったかな?)だ」と言うのである。笑いが止まらなくなった。まあ、人の感想だから、なんだっていいのだが。
 もうひとつは、女の電話番号をなくした男が、映画館の前で女をまってたばこを吸っている。その吸殻がたくさん落ちているのを女が見る。男がここにいたのだとわかる。そのあと、男と女は再会する。そのときの「落ちているたばこの吸殻」がとてもいい。何もいわないけれど、何もかもがわかる。
 イタロ・カルビーノの「真っ二つの子爵」に何やら謎々を残して「決闘の場所(待っている場所)」を示すシーンが出てくる。もし、その謎々を相手が見つけなかったら、謎々が解けなかったらどうなるのか、というようなことを作者は心配していない。同じように、このたばこの吸殻が落ちているときに女がそこを通り掛からなかったら、などということを監督は気にしていない。主人公なら、そこを必ずとおる。そして、その「意味」を理解する、と信じている。実際、映画を見ている観客(私)は、女がここで「あ、男が、ここに来ていた。いつか、ここで再び会える」と思ったに違いないと思い、その後、その「予測どおり」に男と女が出会うのを見るのだが。
 なんというか、この「予測を裏切る笑い」と「予測どおりの安心」の組み合わせが絶妙である。おかしくて、かなしい。かなしくて、うれしい。ちょうどチャプリンの映画のように。しかし、チャプリンの映画のように「ほのぼの/ジーン」という感じではなく、むしろキートンのように「ドライ」なのがカウリスマキの味である。キートンの登場人物が「無表情」のように、カウリスマキの登場人物も無表情である。
 恋愛映画なのに!
 何度も出てくるカラオケシーンが傑作。だれひとり「楽しそうに」歌っていない。「盛り上がる」ということが全然ない。まるで、他人の歌なんかに興味がないという風に、自分が歌っている歌にさえ興味がない、という感じがしてしまう。最後の方に登場する女二人組の、タイトルも何も知らない曲は、これはもしかすると大ヒットするような美しい曲かもしれないと感じるのだが、あまりにもふたりがつまらなそうに歌うので、とてもおかしい。
 私はあまのじゃくなのかもしれないが。
 映画のラストシーン(ハッピーエンド)は、それはそれなりにいいのかもしれないが、男が電車にはねられるシーンで終わってもよかったかなあと思う。ほんとうにはねられたのか、そして死んでしまったのかわからないまま、単に何かが衝突する音が聞こえるというシーンで終わった方が、この映画らしくていいかなあとも思う。(実際、私はそこで映画が終わったと思い、そのあとまだ映画がつづいたので、かなりびっくりしてしまっのだが。)やっと実りそうな恋、それに出会ったふたりなのに、その恋に裏切られてしまう。ただ、あのとき、ふたりは出会った。こころが動いた。秋の枯れ葉が散るときのように、最後の輝きを見せた。その記憶が残っている、という感じの映画だったら、私はもっと感動したかもしれない。

 


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 「パーフェクトデイズ」(3)

2023-12-31 12:00:53 | 映画

 ブログの読者から「三目並べ」の、どこがそんなによかったのか、と質問された。私はまず、こう質問してみた。「同じ公衆トイレをつかうことがある?」「ない」。これが、まず一番のポイントである。同じ公衆トイレを定期的に(毎日)つかうひとなどいないだろう。しかし、三目並べの紙をトイレの隙間に最初に挟んだ人は、そのトイレを定期的につかっている人である。とても孤独な人だと思う。トイレとは、人が孤独になれる場所だが、町中の(公園の?)公衆トイレをつかう人は、何が理由なのかわからないけれど、ともかく孤独な人だと思う。その人が、ふと思いついて「三目並べ」のゲームを誘いかけた。それに役所広司が答えた。
 この交流は、互いに誰が相手であるか知らない。わかるのは相手が必ずそのトイレに来るということだけである。「私はここにいた」(私はここにいる)ということを、ゲームを通して知らせあう。それは同時に「私はあなたが生きていることを知っている。一緒に生きている」と伝えることでもある。名前も知らない。顔も知らない。しかし、生きている。世界には、そういう人の方が多いのである。ガザで何人もの人が殺されていく。そのひとの名前も顔も、私は知らない。しかし、その人たちには名前があり、顔があり、生きていた。そのことを私は忘れている。世界には、名前も顔も知らない人が大勢生きている。そのことを私は忘れている。しかし、三目並べを始めた人も役所広司も、その「誰か」を短い時間だけれど、決して忘れない。一緒に生きたことを忘れない。そして、三目並べが終わったとき「ありがとう」とことばを残す。そのつながりが、とてもいい。世界はつながっている。つながれば、そのことが必ず世界を変えていく。たとえば、このつながりがパレスチナとイスラエルの戦争を終結させる直接の力になることはない。そうわかっているが、私は、このつながりが戦争を終結させるとも信じたいのである。人が触れ合えば、人がつながれば、世界は変わっていく。そのとき「ありがとう」ということばが自然に生まれてくれば、とてもうれしい。
 少し言いなおしてみる。
 三目並べを始めた人が誰なのか、どんな人なのか、まったく知らされないのがとてもいい。何も知らなくても、その人の「動き」を見れば、私たちはその人がどんな状態なのかわかる。道で誰かが腹をかかえて、うずくまっている。あ、からだの調子が悪いのだ。他人なのに、そのことが、わかる。そうわかったとき、人は、どうするか。思わず声をかける人もいれば、知らん顔をして通りすぎる人もいる。役所広司は、思わず声をかける人間である。そういう「共感力」をもった人間である。そこにはただ「共感力」だけがある。そして、その「共感力」というのは、精神とか、心とかというものではなく、何か「肉体」そのものの反応なのである。トイレだから、どうしても、精神とか、こころではなく、「肉体」ということばが動いてしまうのだが、その「肉体」が「肉体」に出会ったとき、「肉体」が反応する。「反射神経」みたいなものである。「反射神経」だから、そこには「正直」がある。
 この「正直」は、この映画では、たとえば役所広司が立ち寄る居酒屋(立ち飲み屋?)でも描かれている。役所広司は何も注文しない。しかし、役所広司がいくと、いつも決まったものがすぐに出てくる。もう、ことばはいらない。ことばなしで、すべてが通じる。そういうとき、そこには「正直」がある。私の書いている「正直」の定義は、ふつうの人が考えている「正直」とは違うかもしれない。しかし、私は、それをあえて「正直」というのである。ことばをつかわなくても理解し合える何か。理解し合うのは、何も飲み物、食べ物だけではない。そこに生きている人間の「人格」(肉体)を認め合うのである。
 それはトイレの三目並べそのものではないだろうか。三目並べは「決着(勝敗)」のないゲームである。必ず「引き分け」で終わる。そういう意味では「無意味」である。でも、「勝敗」が世界を支配するとしたら、それは何か「動き」そのものが間違っている。「勝敗」にならない動きが大事なのだ。ただ、いっしょに生きている。そして、生きていることを尊重する。顔を合わせなくても、名前を知らなくても、「そこにいる」人を尊重する。「あいさつ」されれば、「あいさつ」を返す。あの三目並べは、そういう「あいさつ」のようなものだ。孤独なもの同士が出会い、あいさつする。そのとき、世界が一瞬だけかもしれないが、ぱっと明るく変わる。明るく変わったことを、他の人は知らない。しかし、役所広司は知っている。だから、「ありがとう」を読んで、彼の顔が輝く。
 で、またまた三浦友和の出で来るシーンへの不満なのだが。
 石川さゆりと三浦友和が抱き合っているのを役所広司が見る。なんだか、様子がすこしおかしい。ふつうの再会の喜びではないことがわかる。同時に、役所自身も、はっきりとではないが何かを感じる。そこから突然ラストの、役所広司の泣き笑いの長回しになってもよかったのではないか。何か起きたのか、誰も知らない。真実はわからない。それでいいのではないだろうか。三目並べの相手が誰かわからない。それで十分なように、人が出会って分かれていく。そのときの喜びと悲しみ。それで十分なのではないだろうか。
 「答」は、あるとき、どこか知らないところから突然あらわれるものだろう。それは役所広司が寝る前に読んでいる本のようなものである。ふと出会ったことば、それが読者のなかで、遠くの何かを呼び寄せる。ああ、そうだったのかと思う。それが「正解」かどうかは、どうでもいい。「正解」などない。ただ、何かを求める「気持ち」が、そのときそのときの「答え」を作り出す。三目並べのように。

 この映画には、ほかにもおもしろいシーンがたくさんある。役所広司が部屋を掃除するとき、新聞紙をクシャクシャにしてバケツの水で濡らす。それを畳の上に散らばす。そのあと、箒で掃き集める。埃を舞い上がらせずに集める工夫である。昔なら茶殻でやったことである。ここには、まあ、昔からの知恵が引き継がれているのだが、その知恵の奥には、「ものを最後までつかいきる」という思想が生きている。新聞紙を捨てる、茶殻を捨てる。でも、その前に、その新聞紙、茶殻にひとばたらきしてもらう。それは役所広司が新刊本ではなく古本を買うところ、そして読むところ、あるいは昭和のカセットテープを聞くところにもあらわれている。つかえるまでつかう、どうつかえるか考える。それは三目並べにも通じるかもしれない。トイレに捨てられていた紙屑、と思うか、それともそこには何か、新しい「生き方」があるかもしれないと思うか。それが何になるか、わからない。けれども、なんとか「つかってみる」。それは、なんというか、「新しい自分自身の生き方」を広げることでもあると思う。
 生きているということは、なんとすばらしいことだろうと実感させてくれる映画であった、ともう一度書いておく。

 


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ビム・ベンダース監督「PERFECT DAYS」(2、三浦友和の演技の問題点)

2023-12-24 17:05:51 | 映画

ビム・ベンダース監督「PERFECT DAYS」(2、三浦友和の演技の問題点)

 

映画には、それぞれ「テーマ」がある。ビム・ベンダース監督「PERFECT DAYS」の場合、テーマは「空気」、あるいは「空気の変化」である。カメラは、これを丁寧にとらえている。役所広司が目を覚ますとき、それは外の道路を老人が掃いているときである。そのときの音によって目を覚ますのは、その周辺の空気が騒音にまみれていないからである。そして、その日その日の「空気」は、その日その日によって違う。この違いは、映画を見ている私たちにはあまりはっきりとはわからないが、そこに生きている人にとっては「変化している」ことがわかる。役所広司には、それがわかっている。

ソフトを畳むとき、彼は掛け布団を左から右に半分におる。次に縦方向に畳む。ところが一回だけ、この手順が違う。くしゃっと丸める感じになる。そこにも、そのときの「空気」がある。それはそれで、役所広司が「生きている」からである。

まあ、それはおいておくとして。

毎日同じ行動をしている。同じ手順である。もちろん変わるものもある。本を読み終われば次の本を読む。車で移動しながら、きのうとは違う曲を聞く。しかし、寝る前に本を読む、音楽を聴きながら移動するということは変わらない。そして、その本、音楽のように、実は彼の周りで町の「空気」が変わっている。これを、ビム・ベンダースは、まるで変わらないもののように静かに映し出している。わからなければわからなくてもかまわないのである。華麗な映像でアピールする誰彼の映画のように、光の揺らぎ、風の動きを強調したりはしない。ただ、そこにある「空気」をそのまま受け入れて、そのままなのに、そこにほんとうは変化があるということを、感じる人が感じればいいという感じでとらえている。

それはトイレひとつにしてもそうなのだ。役所広司は、便器の見えないところを手鏡で確認している。その見えない部分が「空気」を変えることを知っているからである。彼がそこを丁寧にみがくとき、「トイレの空気」がかわり、それを利用する人の「気持ち」が変わることを知っているのである。私たちは気がつかないで生きているが、トイレを掃除する人によって、変わってしまうのだ。それが「結晶」のようにして輝くのだ、三目並べの「Tank you」である。公衆トイレを利用している孤独なだれかが、ふっと生きをしている。「生きている、こんな私でもだれかと一緒の時間を過ごした」と感じて、新しく一日を始めたのに違いない。

逆のことを想像しみればわかる。トイレがきれいに掃除されていれば、それを当然と思って使うが、汚れていたらいやだなあと思い、他のトイレを探したりする。ときには管理者に苦情をいうかもしれない。いやなときだけ存在を感じ、それにつられて自分自身の発する「空気」も変わってしまうということがあるのだ。その瞬間、他人との「関係」も何かしら変化しているのである。

「空気を読む」というのは、その場の状況を読むというよりも、その場の人間関係を読むということかもしれない。役所広司が境内でサンドイッチを食べる。少し離れたベンチで女性が同じようにランチを食べている。同じことが繰り返され、ふと、役所広司が会釈をする。女はとまどう。そのときも「空気」は変わる。そして、その変わった空気は境内の木や木漏れ日さえも変化させる。

この映画は、そういうものをとても丁寧にとらえた、大変な野心作である。そして、前半はそれが大成功している。

その「空気」が突然、先に書いた三目並べの「Thank you」という返事や、「この木はおじさんの友達なの」という姪のことばになって形を変えるとき、私は、どうしても涙を流してしまう。人は誰でも、口に出してはいわないけれど、「好き」なひと、「好き」なものがある。大切にしたいものがある。そこには「事件」ではなく、ただ「空気」の共有がある。「好き」といっしょに生きたいという願いがある。祈りの「空気」の共有がある。

三浦友和の演じた役は、たしかに難しい役である。彼は自分の癌が転移したというようなことをいう。この映画の中で唯一、はっきりした「行動の理由」がことばで説明される部分である。癌が転移したと説明せずに、「ただ謝りたかった、いや違う、一目あっておきたかった」と、この映画を展開できれば、それはとてもよかったと思う。しかし、三浦友和には、そういう演技はできない。ことばの説明があってさえ、それを肉体として真実化できない。言い換えると「空気」にできない。それが最後の最後、影踏みごっこの無残な演技になっている。「空気」になってしまわないといけないのに、なんともいえない無様な感じになってしまっている。「何かがあって、それでも変わらないものなどあるものか」という役所広司の悲痛な叫びは、「空気」は必ず変わる。つまり人間は必ず変わる。そのとき、世界も(気がつかないかもしれないけれど)変わっているはずだという願いが、三浦友和の下手くそな演技によって「空気」ではなく「ストーリーの説明」に格下げされてしまった。「ストーリー」なんかなくていいのに、「ストーリー」という安っぽい説明が大手を振ってしまうことになってしまった。

ほんとうに、残念。

 

追加でもう一つ。ラストシーンの役所広司の顔の演技。それはそれでいいが、「空気」という点からいうと、重すぎる。私は、ふいに原田美枝子が主演した「愛を乞うひと」のラストシーンを思い出した。バスの中。原田が思い出を語っている。バスが道路を曲がる。その瞬間、夕日の色がカメラに飛び込んで画面全体の色のトーンが変わる。「心理状況(空気)」の変化と外の「空気」の変化が重なり、私は、やっぱりそこで泣いてしまったのだが、役所広司の出たこの映画では、そういう「空気」の変化が目まぐるしすぎて、なんだか過剰である。前半の抑制された「空気」の変化でしめくくってほしかったと思う。

まあ、こういう変化になってしまったのも、あの三浦友和の演技のせいだなあ、と私は思ってしまう。

役所広司の演じる主人公の妹が高級車で乗り着けてくるまでの部分は、ほんとうに傑作。前半をもう一度見に行ってもいいかなあ、と思っている。ぼんやりと見逃していた「空気」の変化があるだろう。まあ、そういうことを思い出させてくれるという点では、三浦友和は重要な仕事をしたのかもしれない。逆説的にではあるが。三浦友和の演技がなければ、前半がとてもすばらしい傑作、意欲作とは気がつかずに終わったかもしれない。

 

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ビム・ベンダース監督「PERFECT DAYS」 (★★★★)

2023-12-23 17:30:00 | 映画

ビム・ベンダース監督「PERFECT DAYS」 (★★★★)(2023年12月23日、キノシネマ福岡、スクリーン1)

監督 ビム・ベンダース 出演 役所広司

 前半、役所広司がたんたんとトイレ掃除をするシーンがいい。毎日、同じことの繰り返し。そしてそれは彼だけのことではない。彼のアパートの近くに住む老人は、毎朝同じ時間に道路を掃いている。そのホウキの音を「目覚まし」のかわりにして役所広司は目を覚ます。布団をたたむときも手順が決まっている。掛け布団を左側から右側へ二つにおる。それをさらに縦におる。その上に枕を置く。敷布団を三つに追って左側に置く。その上に、さっき畳んだ掛け布団と待ちらを置く。それから歯を磨き、仕事の途中で見つけてきた植物(植木にしている)に水をやる。車で出かけるとき、かならず自販機から缶コーヒーを買う……。何も変わらないところが、とてもおもしろい。繰り返して見せるところが、とてもいい。

 好きなシーンが二つある。ひとつは、掃除の途中でみつけた○×を三つ並べたら勝ちというゲームをやるところ。相手は誰かわからない。最後に「Thank you」という文字が残される。ふいに、私は泣いてしまう。みんな誰かと出会いたがっている。

もう一つは、姪との会話。姪が、神社の境内で「この木は、おじさんの友達?」と訪ねる。それが、とても自然でいい。何いわない木と友達。それが姪にわかる。だから、確認のために聞いたのだ。この瞬間、役所広司と姪は、しっかりと出会っている。出会っていることを、わかりあっている。ここでも、私は泣いてしまった。

半分ことばになって(行動になって)、半分ことばにならない。そういうところにも「交流」がある。

ほかにも、銭湯や、古本屋、それから写真店(現像店)、駅の近くの居酒屋というよりも一杯飲み屋(立ち飲み屋)の交流もとてもいい。ことばではなく、「気心」で交流している。触れ合うけれど、他人には立ち入らない。そこには、なんというか「倫理」のような美しさがある。

それに比べるとがっかりしてしまうのは、三浦友和との「影踏み」のシーン。たぶん、これは役所広司がアドリブで「影踏み」を追加しようといって実現したシーンだと思うのだが、このアドリブに三浦友和がついていけない。何のために影踏み遊びをするのか、その意味がわかっていない。無意味の意味(重要性)をわかっていない。三浦友和は「結論」がないと演技できないタイプの役者なのだろう。「結末」と自分との関係が明確でないと、何をしていいか、わからない。途中で現れ、途中で消えていくというのは「人生」のなかで何回も起きる出会いだが、その「結論」とは無関係な「役」というものを理解できないのだろう。

あのシーンは、それがなかったら、その直前の役所広司のセリフが重くなりすぎる。「何かが変わらないものってあるものか」という悲痛な叫びが重たくてやりきれなくなってしまう。それを開放するとても重要なシーンなのに、なんともみっともない芝居をしている。

だから、なんというか。

最後の最後、役所広司がひとりで車を運転しながら「演技」する。それはそれでいいのかもしれないが、長すぎる。もっと短く、車が走るのにつれて太陽の光がカメラに入ってきたり陰ったりという「空気」の流れにこそ演技をさせないといけないのに、と思ってしまう。東京の、あるいは日本の「空気」をとてもよく伝えるとてもいい映画だが、三浦友和の下手くそな演技が映画を壊してしまった。

三浦友和の出るシーンを撮り直してもらいたい、と私は切実に願わずにはいられない。

 

 

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マーティン・スコセッシ監督「キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン」(★)

2023-10-21 17:56:15 | 映画

マーティン・スコセッシ監督「キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン」(★)(中州大洋、スクリーン1、2023年10月21日)

監督 マーティン・スコセッシ 出演 レオナルド・ディカプリオ、ロバート・デ・ニーロ

 この映画がつくられるというニュースを知ったとき、見たいと思った。予告編を見たとき、期待できないと思った。そして、実際に見て、がっかりを通り越して、スコセッシもディカプリオもデ・ニーロも、もう見なくていいと思った。
 映画としては、まず、あ、このシーンをもう一度みたいという衝撃的な美しさを感じさせるシーンがない。(ラストの、上空からとったシーンが、反動で?、美しく見えてしまう。)
 映画はただストーリーを追っていくだけ。それに3時間半もつきあっていると、ただただ、疲れる。
 ディカプリオ。昔は気がつかなかったたが、歯が汚い。歯並びが悪くて、しかも汚れている。そのため、(なのかどうかわからないが)、ひたすら口をへの字に歪めている。派を見せてはいけないと自覚しているようだ。
 ちょっと頭が足りない感じ(「ギルバート・グレイプ」の少年は、ディカプリオにぴったりだった)の表情をするとき、目が輝くように見えるが、映画のなかで「青い目が(目の青が)美しい」とセリフで説明されるようでは、もう「美男子」ではない。魅力的ではない。頭が足りないまま、デ・ニーロにふりまわされ、さらにリリー・グラッドストーンの最後にさしのべられた手をつかみきれない愚かさが、演技(顔の表情)だけからは伝わってこない。太ってしまった肉体を隠す衣裳は、まあ、時代背景もあるからそれはそれとして許せるが、肉体全体を動かす演技、そこにただ佇むだけで感情や意識の変化を表現する演技ができない。
 デ・ニーロもデ・ニーロで、顔だけで演技する。年齢から考えて、もうアクションはできないのだけれど、ほら、ハンフリー・ボガートなんて、両手をだらりとぶらさげてつったっているだけ、「おいおい、手を動かして演技しろよ」と軽口を叩きたくなるようなかっこうをしているが、なんとなく引きつけられ、見てしまうのとは大違い。だいたい、笑ったときの顔が「人がよすぎる」ので、裏に何か隠している感じがしない。というと、いいすぎだけれど、深みがない。
 と書くと、私の書きたいこととは違ってしまう感じもするが。
 私は映画を見るとき、実は、「役」そのものになりきった演技というものには、ありま感心しない。「これは演技ですよ」という軽い感じ、どこかで「地」をのぞかせるような演技が好き。
 だから、メーキャップにこだわった「そっくりさんショー」の演技なんかは、見ていて、ぞっとする。ぜんぜん似ていないけれど、「あ、これが〇〇(モデル)なのか、そのひとの感情はこう動くのか」と感じさせる演技が好き。映画にしろ、芝居にしろ、やっぱり「役者」を見に行くもの、「スター」を見に行くもの。
 なんというか。
 この映画では、演じられできあがって「ディカプリオ」「デ・ニーロ」を見るという感じで、そこには「地のディカプリオ」「地のデ・ニーロ」がいない。
 これじゃあ、つまんないね。
 スコセッシが最後に顔出ししているのが、まあ、そういうことでもしないとこの映画を見に来る人がいない(売れる要素がない)ということだね。それを自覚している。途中、ロバート・デュバル(私は、彼の演技が大好き)が出ていたように見えたけれど、違ったかな? 私は目が悪くなってしまっているし、セリフまわし(声)もはっきり聞こえなかったので勘違いかもしれない。

 映画とは、ちょっと関係ないが、中州大洋が来年3月で閉館する。建物の老朽化で、取り壊し。「天神ビックバン」の一貫かもしれない。その後、再開するかどうかは未定という「お知らせ」が貼ってあった。ミニシアター系の作品も多く上映してきたので、なくなるとしたら寂しい。最近は映画館から遠ざかっている私だけれど。

 


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原田眞人監督「BAD LANDS バッド・ランズ」(★★)

2023-10-10 22:30:53 | 映画

原田眞人監督「BAD LANDS バッド・ランズ」(★★)(ユナイテッドシネマ・キャナルシティ、スクリーン3 、2023年10月10日)

監督 原田眞人 出演 安藤サクラ

 安藤サクラを見たくて行ったのだが。
 タイトルが出てくるまでの部分は、まあ、おもしろかった。詐欺グループも、捕まらないように工夫しているのか、スパイ映画みたいだな、と妙に感心した。
 しかし、それからあとがおもしろくない。
 いちばんの問題は、登場人物の、「詐欺」の仕事以外の部分がぜんぜんわからないことだ。安藤サクラの「過去」は、いちおう映画の中で語られるが、ほかの人物には「過去」がない。つまり、「役」を納得させる「存在感」がない。
 映画の中で、自分を見せるのではなく、単に「役」を演じて見せているだけ。映画にしろ、芝居にしろ、もちろん「役」も見るのだけれど、「役」を超える「人間の存在」そのものを見たい。
 全員が(安藤サクラでさえも)、「役」になりきっているだけ。言い換えると、これは人間が演じた「アニメ」である。
 それを典型的に語るのが安藤サクラの「過去」。なんというか、紋切り型。だいたい、彼女の過去にはセックスの問題があるのに、そのセックスは「過去」として語られるだけで、「いま」の肉体として動いていない。そんなものは、セックスではない。「書き割り」である。
 だいたい、この映画には「日常」が描かれていない。えっ、そんなことがあるのか、そんなことがきっかけで詐欺グループにのめりこんでいくのか、という説得力というか、もしかしたら私も詐欺グループの一員になったかもしれない、という不安を引き起こす魅力がない。
 最近、私は気づいたのだが、もう私くらいの年齢になると、「新しい」ものは「古い」もののなかにしか存在しない。つまり「古い」ものをもう一度見つめなおし、自分はどんなふうに生きてきたのか、残りの人生をどんなふうに生きていけば、「過去」が「未来」となって私を整えてくれるだろうか(死んでいけるだろうか)ということにしか関心がなくなる。
 別に特殊詐欺をして金を稼ぎたいとも思わないし、彼らがどんな行動をしているか知りたいとも思わない。
 そのことで、ふと思い出したのだが。
 私は、病気や怪我で何度か入院した。ある日、入院費の還付金があるという電話がかかってきた。傑作なのは、そのとき電話してきた男(銀行の従業員と名乗った)が、「私の方でもATM画面を見ています。残高がいくらと表示されているか言ってください。本人かどうか確認に必要です」というのだ。「そちらから確認できるなら、その金額を言ってください。そうしたら、あなたがほんとうにATMを遠隔操作で見ているかどうかわかりますから」と答えたら、「ばかだなあ、本人確認に必要だと言っているだろう」と言う。どっちがばかだか。だいたい、銀行の従業員が客に対して「ばか」とは絶対に言わない。私は、その瞬間笑い出してしまった。詐欺をやる人間は、やはり、どこかばかである。そういう、ばか、がどこかに描かれていれば、少しはまともな映画になったかもしれない。
 見るだけ損、とは言わないが、見るだけの価値がある映画とは思えない。安藤サクラを主演にする必要もない。

 

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マリヤム・トゥザニ監督「青いカフタンの仕立て屋」(★★★★★)

2023-06-24 15:27:07 | 映画

マリヤム・トゥザニ監督「青いカフタンの仕立て屋」(★★★★★)(KBCシネマ、スクリーン2、2023年06月24日)

監督マリヤム・トゥザニ 出演 ルブナ・アザバル、サーレフ・バクリ、アイユーブ・ミシウィ

 映画は青い布のアップからはじまる。まっすぐにのばされた布ではなく、ゆったりとしか襞がある。そこにはつややかな部分と、反対に暗い部分がある。それが布なのに立体的なものを感じさせる。
 このアップが特徴的なように、この映画はアップの連続である。私が見ることができるのは、ふつうは見ることができないアップばかりである。アップの周辺には、それにつながるさまざまなものがある。それは個人の肉体のひろがりであり、また、個人を含む社会(世界)のひろがりなのだが、この映画は、まるで「世界」から「個人」を切り離し、個人の世界の複雑さを描くと宣言しているように見える。そして、実際、そうなのだ。「社会」もたしかに描かれるが、あくまで「個人」が中心。個人の内面が中心なのだ。
 とても象徴的なシーンがある。「解釈」がさまざまに分れるに違いない思うシーンがある。ミカンを盛った籠がある。古くなって、皮が白くかびたものがある。白いかびは発生していないが、傷み始めたミカンもある。その籠のなかから、ルブナ・アザバルは傷んでいなさそうな一個を選んで皮をむく。口に含む。おいしいだろうか。苦みがあるかもしれない。しかし、それを食べる。彼女の口のなかで、どんな味がひろがり、それを受け入れるとき、彼女は何を感じるのか。
 これが、すべててである。彼女はひとつのミカンを選ぶように、ひとりの男を選んだ。それは、どんな味か。その味は彼女にふさわしいか。それがどんな味であれ、彼女はそれを受け入れた。
 もうひとつ象徴的なシーンがある。
 ひとはだれでも間違ったことをする。たとえば彼女は、アイユーブ・ミシウィが布を盗んだと勘違いする。自分が間違っていたのに、それを認めることができない。アイユーブ・ミシウィが盗んだのではないとわかったあとも、黙っている。間違っていたことを、隠そうとさえする。しかし、最後には「許して」と誤る。それは、謝罪というよりも、なんだか間違ってしまった自分を受け入れる姿にも見える。相手に誤っているというよりも、自分自身に対して誤っているようにさえ見える。
 間違っていたことを認め、謝罪する。そうしないかぎり、ひとは「個人」にはなれない。
 この「個人」というのは、たぶん、イスラム教の「個人」である。だれかに対してではなく、「神」に対しての「個人」。私はイスラム教徒ではないから、確信があるわけではないのだが、どうもイスラム教の神と人間(個人)の関係は、ほかの神との「契約」とは違う感じがする。「神」に対して「個人」として契約し、神に対し申し開きが立つなら、それは何をしてもいいのだ。
 これを端的にあらわす(表現している)のが、死んでしまったルブナ・アザバル、白い装束で清められたルブナ・アザバルに、サーレフ・バクリは白い装束を脱がし、青いカフタンを着せる。ルブナ・アザバルが結婚式に着たかったと言った、完成したばかりのカフタンである。この青い衣裳は、イスラム教の戒律に背く。しかし、それを承知でサーレフ・バクリは、それを着せる。彼女は戒律を破ったのだ。戒律を破ることで、サーレフ・バクリを受け入れたのだ。
 サーレフ・バクリは彼女が戒律を破ることで彼を受けれいたこと(肯定したこと)をはっきり知っているからこそ、戒律を破って新しい世界へ踏み出す。アイユーブ・ミシウィとふたりで、青いカフタンをまとったルブナ・アザバルの遺体を墓地へ運ぶ。墓地が、その青い衣裳のルブナ・アザバルを受け入れるかどうかはわからないが。
 この映画は、イスラム教ではタブーとされる男の同性愛と、それをみつめる女を描いているのだが、二人の男ではなく、ルブナ・アザバルがそれを破って見せるところに非常に深い意味がある。現実問題として、映画に描かれているように、男たちはすでに戒律を破っている。サーレフ・バクリが何度も、同性愛者があつまる浴場へ出かけるシーンが描かれている。その、一種の裏切りを受け入れることはルブナ・アザバルには苦しみでもあるだろう。しかし、その「苦いもの」を受け入れ、受け入れることを、自分自身に許す。「神」に許しを求める前に、自分で許す。
 ここには、私の想像をはるかに超える「女の自立」というものが描かれている。女の自立と、イスラム教の関係、女と神との、一対一の「契約」が表現されていると思う。「自立」とは、どういうことか、が描かれている。イスラム教は、こうした女の視点から、もう一度強く生まれ変わるかもしれない。イスラム教というと、保守的な女性蔑視の視点が問題視されることがあるが、そこで主張されるイスラム教は「男のイスラム教」であり、「女のイスラム教」ではない。マリヤム・トゥザニ監督の「モロッコ、彼女たちの朝」は気になりながら見逃してしまったのだが、「青いカフタンの仕立て屋」は見に行ってよかった。
 イスラム教をアメリカナイズされた視点で見ていると、いま起きている大事なものを見落としてしまうに違いないと思った。「アップ」されたものをとおして、まず見るべきものは、「アップ」でしかとらえることのできない「個人」である。安易に、「全体」のなかへ「個人」を埋め込んではいけない。

 

 

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フランソワ・オゾン監督「苦い涙」(★★)

2023-06-14 14:35:45 | 映画

フランソワ・オゾン監督「苦い涙」(★★)(KBCシネマ、スクリーン2、2023年06月13日)

監督フランソワ・オゾン 出演 ドゥニ・メノーシェ、ハリル・ガルビア、イザベル・アジャーニ

 ライナー・ベルナー・ファスビンダー監督「ペトラ・フォン・カントの苦い涙」のリメイク?で、原題は「PETER VON CANTO」。タイトルからわかるように、女ではなく男が主役。
 映画ではなく、舞台劇のようなものだが、でもやっぱり映画になっている。映画の特徴は、顔が大写しになること。どんなに近くで見たって、あんなに大きな顔は見ることができない。つまり、顔が「生き生き」していたら、「生き生き」した顔を見ることができれば、それは映画なのだ。
 ドゥニ・メノーシェが、これを、とても大袈裟に演じている。若い男を見た瞬間に、目つきが変わる。他人からどうみられているかを気にしないで、若い男に集中している。なんというか、これは、もう「映画作り」そのものを見ているようなおもしろさがある。
 映画で、私がいちばん不思議に思うのは、カメラがあんなに近づいているのに、まるでカメラがないかのように表情を動かせることである。舞台では、観客は離れている。舞台の上に観客が上がってくるということは基本的にない。しかし、映画は、そのカメラは人格を無視したように近づいてきて、その顔をアップでとらえる。
 このときの、俳優の、というよりも監督の欲望のようなもの(あるいは、これは俳優との確信的「共犯関係」なのかもしれないが)が、ドゥニ・メノーシェがハリル・ガルビアのカメラテストをするシーンに象徴的に描かれている。カメラをとおして、その巨大なアップで独占する。それは、俳優の余力を拡大して伝えるというよりも、自分が見つけた美を独占的に宣伝するようなものなのだ。「これは私のものなのだ」と宣言するのが映画(映画監督)なのだ。彼には、自分の欲望と、自分が見つけ出した「美」以外は認識できない。
 つまり。
 といっていいかどうかわからないが。
 この、「わがまま」が映画であり、この「わがまま」を描くのは、やっぱりフランスがうまい。フランス人の「個人主義」はイギリス人の個人主義と違い、あくまでも「わだまま」の主張である。彼らフランス人は、だれもが「舞台の主役」となって、世界を「わがまま」で動かしていこうとする。
 だからね、というもの変だけれど、笑いださずにはいられないくらいぴったりの歌が主人公に寄り添い、感情を肯定する。「わがまま」を肯定する。「わがまま」に酔っている姿を、ほら、こんなに気持ちがいいという具合に見せつける。
 おなじ演劇(舞台)でも、イギリスの「芝居(シェークスピア)」とは大違い。「ことば」にドラマがあるのではなく、ドラマはあくまで「感情」にある。「ことば」は「音楽」と同じよう、彩り。
 こんなことを書いていいのかどうかわからないが、バレエから「音楽」が消えて、だけをみせられたら何をやっているのか不思議に見えると思う。同じように、フランスの「わがまま(芝居)」から、「ことば」をとってしまうと、何をやっているかわからないだろう。フランスの「わがまま芝居」には「ロミオとジュリエット」や「ハムレット」のような「ドラマ」がない。フランスの「芝居」を知っているわけではないが、私は、この映画を見ながら、そんなことを思うのだ。
 脱線してしまったので、もとに戻ると。
 青年に捨てられた男が、壁に飾った拡大された男の顔(写真)をなぞりながら、男を思い出す。拡大されたもの、しかも自分で拡大したものだけが「真実」なのである。これがフランス人の「わがまま」を端的に象徴している。拡大されないもの、等身大のものは「真実」ではない。これを、ドゥニ・メノーシェが、笑い死にしてしまいそうになるくらい、これでもか、これでもか、と見せつける。若い男が「一日中、いちゃいちゃしていられない」というのに、男が「していられる」と叫ぶところなんかは、傑作である。
 イザベル・アジャーニは、年をとっても加賀まり子と大竹しのぶをあわせたような顔のままだった。かなり、こわい。加賀まり子が? 大竹しのぶが? 私は「混同」する。似ているわけではないが、この三人は実に似ていると思う。本人たちの「実像」を知っているわけではないが。

 

 


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是枝裕和監督「怪物」(★★★)

2023-06-05 20:42:17 | 映画

是枝裕和監督「怪物」(★★★)(2023年06月05日、ユナイテッドシネマ・イャナルシティ・スクリーン9)

監督 是枝裕和 出演 安藤サクラ、永山瑛太、黒川想矢、柊木陽太、田中裕子 脚本 坂元裕二 音楽 坂本龍一

 ひとつのできごとが、三つの視点で描かれる。現代版「羅生門」とか。
 たしかに三つの視点だが、それは絡み合うというよりも(わけがわからなくなるというよりも)、だんだん純化されていく。最後は、まあ、希望というか、明るい何かがないと映画にならないということなのか、明るく終わる。もちろんこの明るさを絶対的な明るさ(つまり、無)と見る人もいるだろう。むしろ、「絶対的な明るさ」と見てしまうのが自然かもしれない。
 私の不満は、三つの視点のうちの、最初の視点。これは、まあ、安藤サクラの視点になるのだろうなあ。ただ、この視点が、あまりにも安藤サクラ安藤サクラ安藤サクラしているというか、それはいくらなんでも違うだろうと感じてしまうところがある。
 わざと、であることは承知の上で書くのだが、田中裕子の演技派「やりすぎ」。そのまわりの教員たちも「やりすぎ」。学校の不気味さを描きたいのかもしれないが、これではホラーであり、リアリティーというものがまったくない。
 田中裕子の不気味さは、永山瑛太の視点で描かれる部分の、机の上の写真の向きを変えるところだけで十分だと思う。あ、こんなに冷静なんだ、と「わかる」。つまり、彼女がつねに他人の視線に自分がどう見えるかということを気にして生き抜いてきたことがわかる。ほかは、付録である。
 いや、付録と書いたが、あの写真の向きを変えるときのような「心底」から動く何かは、黒川想矢にトロンボーンの吹き方を教える部分にとてもよく出ている。これは三つ目の視点(主役の少年の視点)であり、そこに、とてもうつくしい「救い」があるのだが、この「救い」を強調するために最初の非人間的な校長が演じられているのだとしたら、それはやっぱり違うだろうなあ、と思う。
 このトロンボーンと関係するのだが、途中に入るあいまいで汚れたような、いわば不気味な音が、不気味だけれど妙に悲しくてこれはなんだろうと思っていたら、このトロンボーンと、もうひとつの管楽器の音が組み合わさったものであった。黒川想矢と田中裕子がラッパを吹いて、その瞬間に、ああ、あれはこの音だったのかとわかる。この「伏線」が「現実」になって結晶するシーンが非常に美しい。(和音であることがわかるということが、何よりも非常に重要。ここにこの映画のテーマが凝縮している。)この映画のいちばん美しいシーン。それにぴったりの、いやあ、すばらしい音楽。担当は坂本龍一だが、あのシーンだけ、もう一度見ていいかなあと思う。もちろん、それを「美しい」と感じるためには、途中の「あれはいったい何の音?」みたいな感じを味わわないといけないんだけれどね。
 脚本の坂元裕二はこの作品でカンヌ映画祭の賞を取っているのだが、坂本龍一の音楽の方が私には強烈に印象に残る。坂元裕二がつくりあげた人間は、前半の田中裕子、それから中村獅童の「役」が象徴的だが、あまりに極端で、「嘘」になってしまっていると思う。田中裕子はトロンボーンのシーンで「嘘」から「ほんとう」にかわったが。
 こどもの演技では、私は「奇跡」の漫才兄弟(?)の自由な演技がとても好きだが、この作品は「三つの視点」の組み合わせであるだけに、あの映画のような気ままな、まるでルノワールの登場人物のような気ままな演技は不可能で、黒川想矢、柊木陽太は、ちょっとかわいそうな感じがした。そういう「枠」のなかで子どもを動かす是枝も、かなり無理をしているのかなあとも思った。
 そういう意味では、この脚本はよくできてはいるのかもしれないが、それは何というか、「賞狙い」の「よくできた脚本」という気もする。前回の、誰のだった可名前は忘れたが「ドライブ・マイ・カー」も。

 


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トッド・フィールド監督「TAR ター」(★★★★)

2023-05-12 21:49:55 | 映画

トッド・フィールド監督「TAR ター」(★★★★)(中州大洋、スクリーン2)

監督トッド・フィールド 出演 ケイト・ブランシェット

 ケイト・ブランシェットを見たくて見に行ったのだが、いやあ、こわかった。昔から(?)、演じるというよりも、他人になってしまう役者だったが、今回も、完全に他人になってしまっている。(ほんもののケイト・ブランシェットを知っているわけではないのだが。)私はこういう「なりきり型」の役者は、役者ではない、と思っているのだが、別格だねえ。
 なんといっても階段で転んでからの「顔」がすごい。メーキャップなのだろうけれど、「醜い」を気にしていない。「ブルージャスミン」(ウディ・アレン監督)の最後でも思ったけれど、「醜い」をさらけだす。役者なのに。
 いや、そこだけじゃないんだけれどね。というか、その最後の「醜さ」を、それが当然という感じさせるように、演技が動いていくのがすごい。
 音楽のことはよくわかるが、人間のことは何もわかっていない。人を傷つけても、そのことによってこころが傷つかない。それを、とっても自然に(?)やってしまう。傷だらけの顔が「醜い」のではなく、彼女そのものが「醜い」。それを納得させてしまう。「容姿」とは関係がないのだ。
 パソコンが壊れた、と言って、秘書(恋人)のパソコンを借り、抹茶の準備をさせるあいだにメールを盗み見るということろなんか、すごい。なんというか、「確信」を持っている。メールが残っているはず、ということを「確かめる」というよりも、いざとなったら、メールが残っているじゃないかということを理由に秘書を問い詰めるために、メールを盗み読みするのだ。
 このシーンが象徴的だが、何かをするのは、つぎに何かをするためなのである。
 音楽というのは、私の考えでは、つぎに何かをする(次の展開を考える)というのではなく、「いま、その瞬間」を存在させるものだが、彼女にとっては違うのだ。「つぎ」のために「いま」がある。
 音楽を語るセリフでは、指揮者が「時間」を決めるのだ、時間を支配するのだというセリフがあるが、このときの「時間」は「いま」ではない。ターにとっては「時間」は「つぎ」のことなのだ。左手で(右手だったかな?)「はじまり」を決める、「はじまり」の瞬間を指示するというが、彼女にとって問題なのは、その「一瞬」ではなく、それが「つぎ」にどうなるか、なのである。
 だから。
 というべきなのか、どうなのか。
 ストーリーは「つぎ」から「つぎ」へと展開していく。けっして「いま」(その瞬間)を描かない。もし、「いま(その瞬間)」を描いているとしたら、それは、ある傷ついた顔だけなのである。女を追いかけて転んだのに、男に襲われたと嘘をつく。そこにだけ、彼女の「いま」がある。つまり、「つぎ」がない。はじめて、追いかけてきたものを「逃がす」ことになる。
 で、そんな人間に「音楽」が可能なのか。
 これは、まあ、矛盾だなあ。彼女は「音楽」を捨てられない。彼女が「音楽」を見つけたのか、「音楽」が彼女を見つけたのか。たぶん。「音楽」が彼女を見つけた。その見つけ方は、なんというか、残酷である。この残酷とケイト・ブランシェットがぶつかる。そのときの「衝撃音(ノイズ)」が「音楽」そのものになる。いままで聞いたことのない音になって突然あらわれる。だから、見終わったあと、残酷(ノイズ、雑音)というのは、なんと美しいものなのか、と思わずうなってしまうのである。
 ★5個にしようか、私はずいぶん迷った。私は「怖がり」なので、一個減らした。でも、いまは怖くてこう書いているが、怖さが消えたら★10個というかもしれないなあ。

 


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阪本順治監督「せかいのおきく」(★★)

2023-04-29 17:13:50 | 映画

阪本順治監督「せかいのおきく」(★★)(キノシネマ天神、スクリーン3)

監督 阪本順治 出演 黒木華、寛一郎、池松壮亮

 「せかいのおきく」を私は「世界の記憶」と思い込んでいた。舞台は江戸時代。街で糞尿を買って、農家に売る男と、武士の娘の恋と聞いて、てっきり「日本の貴重な歴史(記憶)=循環型の社会」が背景として描かれるのだと思っていた。
 そんなことを思うのも。
 私には、寛一郎、池松壮亮のようにそれを商売(生業)としていたわけではないが、糞尿を担いだ記憶があるからだ。山の畑まで運び、糞尿を撒くという仕事をしたことがあるからだ。私は病弱だったが、貧乏だったから、そういう仕事は日常だった。鍬で畑を耕したり、刈り取った稲を担いだり。
 小学生のころから、そういう仕事をしながら、寛一郎のように、「学問(字を覚え、読み書きがしたい)」のようなものに憧れていた。テレビで見た「海外特派員」にあこがれ、世界の広さを知りたいと願っていた。家が貧乏だったから、これは、ほんとうに夢の夢だったのだけれど、いま生きている世界とは違う世界を知りたい(糞尿を担いで畑仕事をする以外のことをしたい)と願っていた。
 だからというか。
 黒木華の演じる主人公の気持ちとは関係なく、映画を見ながら、いろいろ思うことがあった。
 私は、エルマノ・オルミ監督の「木靴の樹」も大好きだが、それは、主人公(ミネク)のおかれた状況に自分を重ねてしまうからだった。「学問」というのは、日常とは違う。そして、そこには何か、いままで知らない世界を知る手がかりがある。その未知へのあこがれと、その世界に近づくための困難さ。
 それは江戸時代という遠い歴史の問題ではなく、私が小学生のころは、まだそのままの世界だった。江戸時代は、いまから思う「昭和」よりも、「平成」よりも、もっと「地続き」だった。
 で、ね。
 糞尿を買って、それを売って生活するたくましさは、何といえばいいのか、私にはとても美しく見えた。水や風の動きも、とても気持ちがよかった。私は、こういう世界を知っているということが、不思議な喜びとして広がってくる。
 声を失った黒木華が、こどもたちにせがまれて、寺の寺子屋(?)で文字を教えることを決意するシーンなんかも、とっても好き。自分の「役割」を「学問」と結びつけて、それを大切にするという感じが、しずかにつたわってくる。こどものときにいだいた「あこがれ」がよみがえってくる。
 勉強をする、そうすると世界が変わってくる。このことが、私はとても好きなのだ。自分の世界を変えるために、もっと何かを知りたい。何かを考えたい。考えるためには「学問」が必要なのだ。
 ちょっと映画から離れた感想かもしれないけれど、そういうことが「世界の記憶」として、どこかに生きていると思う。
 そういうことを静かに実感させてくれる映画なのだけれど。
 うーん。
 糞尿を汲む杓が、何だか頑丈すぎる。金属でできているように見えてしまう。さらに、池松壮亮のセリフに「仕事をさぼって」というなものがある。私はよく知らないのだが、「サボタージュ」とか「サボ(木靴)」ということばから派生していると読んだ記憶が、かすかにある。外来語、である。それを江戸の末期とはいえ、糞尿を担いで生きている若者が知っているとは思えない。(偏見かもしれないが。)「青春している(だったかな?)」という言い回しにもびっくりした。「青春」ということば自体は中国の古典にあると思うが、それがはたして学問を知らない若者に浸透しているかどうか、それが疑問。
 「せかい(世界)」も同じだなあ。江戸時代は、ふつうは「世の中」、あるいは「しゃば」と言ったのではないだろうか。映画のタイトルを「世界の記憶」と勘違いしたのも、ひとのなまえと「せかい」が結びつくとは、江戸時代を背景にした社会では、私は想像できなかったせいもある。私自身の記憶をさかのぼってみても、「世界」ということばは、わりと新しい。小学5、6年生のころ「世界地図」というものを知って「世界」ということばが自分のものになった気がする。江戸時代、いったい何人が「世界」ということばを知っていたかなあ。
 美しい映画なのだけれど、「ことば」への疑問がぬぐいきれず(学問というのは、ことばの世界がと思うので)、かなり興ざめしてしまった。「江戸時代の循環型生活」というのも、「お飾りの背景」(知的装飾)に見えてしまう。これは、実際に糞尿を担いで野良仕事をした人間には、なんというか、「侮辱された」と感じるものに変わってしまうかもしれない。糞尿を担いだこともない人、何も知らない人が、そのことを知っているかのように描いて利用しているだけという感じてしまうかもしれない。
 ことばの問題がなければ、★4個の作品。

 

 

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ダーレン・アロノフスキー監督「ザ・ホエール」(★★)

2023-04-08 19:13:30 | 映画

ダーレン・アロノフスキー監督「ザ・ホエール」(★★)(キノシネマ天神、スクリーン2)

監督 ダーレン・アロノフスキー 出演 ブレンダン・フレイザー

 舞台劇が原作。だから「室内」限定という設定は、それはそれでいいのだが、あまりにも「ことば」の説明が多すぎる。ふつうの映画なら映像で見せる部分をことばで見せてしまう。
 で、そのとき問題なのは。
 「舞台」は、「ことば」を聞く場所なので、ことばがどれだけ多くてもかまわないし、肉体で表現できないことを「ことば」で表現してもまったくかまわないのだが。
 映画はねえ。
 主演の男優のメーキャップが話題になっているが(アカデミー賞も撮ったが)、どうしても観客の意識は「映像」に向かう。映像に集中してしまうから、「ことば」への集中力が落ちる。
 特に、主人公が200キロを超すまでに太ってしまって、歩行器がなければ歩けない。遠くにあるものをつかむには特殊な棒がいるという醜い肉体がメインだとすると、どうしても観客の視線は肉体に引っ張られる。顔はどうやって太らせたのか。だれもことばなんか聞かない。わっ、すごい。こんな醜い体に、よくなってしまったものだなあと思うだけ。
 何度も書くが、だれもことばなんか聞かない。
 私は外国人に限らないが、名前を覚えるのが苦手だから、人の名前が何人か出てきても、覚えられない。主人公の恋人がどういう名前だったか、ピザの配達人はどういう名前だったか。主人公の恋人も、ピザの配達人も顔を見せないから(恋人の写真はちらりと出てくるが)、もう、その区別がつかない。(これが映像ではっきり写し出されれば、すぐ区別がつくのだが)。
 まあ、その「ことばへの集中力」を低下させないためなのか、「映像への集中力」を緩和させるための中わからないが、映像が暗くて不鮮明。別に雨が降っている必要はないのだが、外はいつも雨。(最後のクライマックスだけ、わざとらしく晴天なのだが、これがまた、なんともあざとい。)私は、こういう「仕掛け」が大嫌い。
 「ことばへの集中力」を要求するなら、スピルバーグ「リンカーン」のように、役者に「声」の演技をさせるべきなのだ。ダニエル・ルイ・ルイスは映画なのに、リンカーンを「声」の強さでも演じきっていた。何よりも「声」がリンカーンを演じていた。
 舞台劇なら、ちゃんと演じていたのに、あのセリフを聞き逃するとしたら、それは観客にも責任があると言いうるかもしれない。しかし映画では、あのセリフを聞き逃したから人間関係がわからないというようなことがあってはならない。映画は「ことば(声)」を聞くためにあるのではない。映画の出発が「無声映画」だったこと、映画の基本は映像であることを、映画の基本はメーキャップのリアルさにあると置き換えている。アメリカ映画のいちばん悪い面が、この映画に集中している。
 いちばん悪い面と書いたが。
 「悪い面」はブレンダン・フレイザーのアカデミー賞主演男優賞の受賞にもあらわれている。ブレンダン・フレイザーがどうしようもない演技をしているというのではないが、アカデミー賞は、しばしば有名なのに受賞していない人とか、苦労した人に賞を与えてしまう。有名人を実物そっくりに演じれば、賞を受賞できるというのも、そのひとつ。有名人への評価と、演技への評価をごっちゃにしている。有名人に感動したのか、演じた人の演技に感動したのか、そのあたりが、とても微妙。映画で、わざわざ、有名な人物の評価をもう一度する必要はない。
 あ、こう書いてみると、何も書くことのない映画だということがよくわかる。

 で、最後に、ひとつだけ、よかった点をあげておく。ファーストシーン。オンライン授業のとき、主人公(大学の教師)の顔だけが映らない。カメラが故障している、という設定。顔が見えないから、学生は、ただ「声」に集中して聞いている。さらに、教師からは見られているから、ずぼらな聞き方はできない。
 ね。
 ここに、この映画の「理想の見方」が暗示されている。
 この映画は、主人公の姿を見てはいけない。想像するのはいいが、実際には見てはいけない映画なのだ。映画につかわれている「白鯨」という小説でも、白鯨が実際に姿をあらわすのは、ずっーとあと。姿をあらわすまでは、白鯨に恨みを持つ船の乗組員は、それを知らない。「ことば」で知っているだけ。
 「ことば」だけ、聞きなさい。主人公の「姿」は、想像しなさい。そうすれば、この「作品」の良さがわかります。
 私は実際、この映画をだまされてみたようなもの。予告編で、太った醜い男の姿はたしかに「ちらり」と見た記憶はあるが、全体がわからなかった。だから、その醜い肉体に引きずり込まれることはなかった。で、ちょっとおもしろそう、と思ったのだ。ところが、映画では、この醜い肉体が出ずっぱり。
 これじゃあ、だめだよなあ。(また、悪口になったが。)
 そして、いい点と書いたファーストシーンでも、私は、かなりわくわくした。醜いからだ(メーキャップ)が売り物というけれど、もしかしたら、そんなに見せないのかも、と期待したのだ。そうなら、おもしろいかもしれない。ちょっと「エレファントマン」なんかも想像したのだ。
 でも、ほんとうに、そこまでだった。
 映画を見るなら、ぜひ、目をつぶってみてください。そうすれば、意外といい映画かも。(笑い)

 

 

 

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ガストン・ドゥプラット&マリアノ・コーン監督「コンペティション」(★★★★)

2023-03-21 13:31:45 | 映画

ガストン・ドゥプラット&マリアノ・コーン監督「コンペティション」(★★★★)(キノシネマ天神、スクリーン1)

監督 ガストン・ドゥプラット&マリアノ・コーン 出演 ペネロペ・クルス、アントニオ・バンデラス、オスカル・マルティネス

 この映画が成功しているいちばんの理由は、リハーサルを超豪華な建物のなかでやっていることだ。映画の撮影ならともかく、リハーサルに、そんな場所をつかう必要がない。でも、これは映画をつくる、リハーサルをするという「映画」なのだから、豪華な舞台の方が見栄えがするし、いかにも「映画」という気持ち(現実ではないという気持ち)になる。
 というようなことを書いていると、これが映画なのか映画ではないのか、よくわからなくなる。
 これが、ミソだね。
 何もかもが嘘なのに、そこに「ほんとう」がある。人間の、かぎりないエゴイズム。登場人物が、みんなエゴイズムのかたまり。
 でも、それ、「ほんとう」? 演技として演じられているだけでは?
 ほら、また、わからなくなる。
 映画のなかでは「ほんとう」を演じながら、その「ほんとう」は嘘だったという部分があるし、こんな安直な「嘘」で結末をつけてどうするんだと思っていたら、ちゃんと別の「ほんとう」(安直な「ほんとう」)が用意されている。
 これでは、終わりがない。映画のなかでは、この「終わりがない」さえ、ちゃかされている。
 どこまで書いても繰り返しになるので、繰り返しにならない「もの」について書いておこう。
 ペネロペ・クルスの「腋毛」である。ペネロペ・クルスが処理していない腋毛を見せる。もちろん、それは映画のための「嘘」ではあるのだが、その腋毛はペネロペ・クルスの腋毛であることは事実なのだ。
 いいなおすと。
 この映画に出てくる役者の、その「肉体」そのものは「ほんもの」である。(もちろん、この役者の肉体は「ほんもの」ということも、アントニオ・バンデラスの二役という形で「ほんもの」を否定されるが、その否定はことばだけなので、まあ、役者の「肉体」の「ほんもの性」は揺るがないと考えていいだろう。
 これを言い直すと。
 観客は、映画(芝居でもいいが)を見るとき、何を見に行くのか。自分の日常とは違う「ストーリー」か。そんなものではない。ひたすら「役者の肉体」を見るだけなのである。ペネロペ・クルスの腋毛が欲望をそそる、とか、あ、そんなもの見たくない、とか。つまり、腋毛がない方が好き、とか。
 この「肉体」を見ているだけ、というのは、笑ってしまうことに、これも映画のなかでひとつのテーマとして描かれている。脇役の女優とキスするリハーサルがある。アントニオ・バンデラスとオスカル・マルティネスのキスがへたくそ、というのでペネロペ・クルスが演じて見せるのだが、それは演技? それとも本気? つまり、脇役の女優にその少女を選んだのは、役者としての才能にほれこんだから? それともキスしたかったから? それは、わからない。わからなくていいのである。アントニオ・バンデラスとオスカル・マルティネスは、わからないまま、それを見つづける。わからなくなって、つまり、困惑した出資者だけが、そのキスを見ることに耐えられず、その部屋を離れる。
 役者の「肉体」を見ることが嫌いなら、映画を見なくてもいい、でも「肉体」を見ることが好きなら、「スケベごころ[があるなら、見に来て、ということだ。
 で、その「肉体」にも、いろいろ種類(?)がある。ペネロペ・クルスもアントニオ・バンデラスも、簡単にいうと「色」を売っているが、オスカル・マルティネスはさすがに「色」を売る年齢でもない殻かもしれないが、「声」を売っている。「声」がとても聞きやすい。それが「舞台俳優」という役柄にぴったりでおもしろかった。さらに、その「声」がスペイン人とはちょっと違うかも、と思ったら、アルゼンチン人だった。知らず知らずに、そんな「肉体」の違いを見ていたことになる。


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