カルラ・シモン監督「太陽と桃の歌」(★★★★+★)(KBCシネマ、スクリーン2、2024年12月20日)
監督 カルラ・シモン 出演 ジョゼ・アバッド、アントニア・カステルス、ジョルディ・プジョル・ドルセ
予告編にもあったのだが、母親が息子を平手打ちする。父親が加勢して、息子を叱ろうとする。一瞬何か言いかける。その父親にも母親(妻)が平手打ちをくわせる。言いかけたことばを封じてしまう。このシーンが、とてもいい。息子、父親、母親には、それぞれ言い分がある。そして、それは明確にことばにするのはなかなかむずかしいのだが、ことばにしなくたって三人にはそれがわかる。家族だから。そして、それを見ている私は彼らの家族ではないのだが、やはり、わかってしまう。ここには、「がんこもの」の「思想」が「肉体」として動いている。
どのシーンもそうなのだが、ほんとうに「言いたいこと」は明確に言語化されない。冒頭の「契約書」の部分は別だが、あとはことばにならない。ことばにしてみたって、何も解決しないことがわかっているからだ。そして、みんなが、それぞれに苦しんでいることを互いに理解しているからだ。みんなでいっしょに働いてきた、桃をつくってきたからだ。いっしょに働く喜びと苦しみ、というふうに「要約」してはいけない何か、「要約できない何か」がある。
それは、たとえていえば、ある日の家族パーティー。家族の写真を撮る。それは今風にスマートフォンをつかって撮るのだが、そのパーティーの準備のシーンが、ああ、いいなあ、と思わずつぶやいてしまう。主人公の父親が、カタツムリを網のようなもの(網ではなく、棒に見えたが)の上にカタツムリを並べる。その上に枯れ木(枯れ草)をかぶせる。火をつける。カタツムリが焼き上がる。それを父親が全部、コントロールしている。父親が料理している。日本で言えば、鍋料理を父親がコントロールする(鍋奉行)のようなものかもしれないが、ここに「父の矜恃」のようなものが集約されている。みんな、それを尊重している。
それは、すべてのことにおいて、そうなのである。父親の生き方に息子や娘、それに母、さらには父親の父親(祖父)も何らかの形で「反発」している。それはたとえば、祖父がイチジクを摘んで、地主のところへ付け届けをするような形で表現されている。この祖父の行為は、父親が祖父に車を運転させない(車を動かせないように、ほかの車で封鎖する)という形で、「実力」で拒絶される。祖父はもちろん納得できないが、納得できないけれど、受け入れ、尊重もしている。
こういうことが繰り返し、描かれる。冒頭に書いた息子への平手打ちの前には、息子が内緒で栽培している大麻を父親が燃やしてしまう。それに怒って、息子はしなくてはいけない仕事を放棄するというか、逆のことをしてしまう。いったん水門を閉じながら、父に仕返しするために水門を開ける。してはいけないとわかっているけれど、してしまう。そうしないではいられない。
このときの気持ちは、ことばにはされない。でも、わかる。それが、とてもいい。
これとは逆に、正面切ってことばにされる行為がひとつ描かれる。それはスペイン政府に対する農業従事者の不満である。(これは、あるいはEUに共通の問題かもしれないが……)。農産物が安い。とても金にならない。働けば働くほど赤字になる。彼らを苦しめるのは、単に農産物が安いということだけではない。その安い農産物よりも安い「輸入品」が市場を支配しているからだ。(このことは、明確には言語化されてはいないが)。このことに対して、主人公たちはデモをする。収穫した桃、いのちと同じほど大切な桃を道路にばらまき、車でつぶしてしまう。このときの、農家のひとの悲しみ、やりきれなさ……。
と、書いて、私は、立ち止まる。政府に対する批判はことばにされる。しかし、自分が育てたものを廃棄する苦しさ、かなしさ、やりきれなさは、やはり「言語化」はされていない。この語られなかった「ことば」、それは語られなかったからといって存在しないわけではない。存在する。そして、単に存在するだけではなく、共有されている。カルラ・シモン監督は、それを共有しているからこそ、「ことば」ではなく、映像で、役者の肉体で、そこにある桃や大地の姿でリアルに再現している。
私は、貧乏な農家で育った。病弱だったこともあり、農作業のすべてにわたって手伝ったわけではないし、わりと若いときに家を出てしまったので、知らないこともたくさんあるが、なかでも知らないのは、たとえば父や母が何を思っていたか、それをあらわす「ことば」を知らない。人間だから、ことばにしなくても「思想」はある。語らなくても「思想」はある。それを、この映画のようにリアルに表現する方法を私は知らない。父と母の「ことば」を知らない。知らないまま、父が死に、母が死んだ年齢に近づいている。私がつかっている「ことば」なんかは、そういう意味では「嘘」でしかないのだ。そんなことも考えさせられた。
そんなこともあって、私は、知らず知らずに泣いてしまった。
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