池井昌樹『冠雪富士』(29)(思潮社、2014年06月30日発行)
「千両」の世界は「未来」に似ている。「現代(未来?)」になじめずにいる池井の姿が書かれている。
「へん」が4回繰り返されている。1行目、2行目の「へん」は「わけのわからない」「奇妙な」くらいの意味だろうか。4行目も「わけのわからない」かもしれない。それは池井から見て「へん」という意味である。
けれど3行目は、どうだろう。ここで「へん」と言っているのは池井ではなく、池井のまわりの「わかもの(未来)」である。池井は「へん」であることを納得していない。
だから、
「ほんと」「ほんとう」と同じ意味のことばが繰り返されている。こんな「へんな」ところにいたくない。「へん」が、池井は嫌いなのだ。
「むかし」は池井にとっては「へん」ではない、ということである。「いま」も「未来」も「へん」である。「むかし」はそうではない。そういう論理の先に「いまからみるとへん」な池井がいる。池井は「いま」でも「未来」でもなく、「むかし」をそのまま生きている。だからいまを基準にして池井をみると「へんなじいさん」になる。
自分が「へん」であるということを認めるのは、だれでも嫌いである。
で、そういう「くらい」感じのする「未来」を思ってみるのだが、そのとき、
あ、ここが不思議だねえ。ここがいいなあ。
「へんな」いやな時代がやってくるのだけれど、空にはかわらず「よいのひとつぼし」(金星)が輝いている。
ここで再び「むかしながら」が出てくるのだけれど、意味は昔と変わらずということになるのだが。
でも、この「むかしながら」って、「むかし」だけが意識されているのだろうか。むしろ「みらいも」という意味ではないのだろうか。
むかしとかわらないだけではなく、未来もあおあおと輝く。
その金星を池井は見てる。思い描いているのではなく、「肉眼」で、その本物を見ている。
夕方になると空に金星が輝くのは、「むかし」も「未来」も関係ない。つまり、それは「永遠に」輝く。
そうであるなら、
は「永遠に」このほしで、「永遠に」くらしたい、という意味にならないだろうか。
また「永遠」は池井にとって「こんなところ」ではなく「ほんとのところ」である。
池井は「へんなひと」「へんなみらい」と書いているが、一方で宵の明星のように「かわらない」永遠があることを知ってる。「知識」として知っているのではなく、それを幾度となく見つめた「肉体」として知っている。肉体」として覚えている。「視力」として知っている。「視力」として覚えている。
そして、それは池井が消え失せたときも、きっと
どこからかあらわれる。
そのことを池井は、池井の「肉体」は信じ込んでいる。宵の明星があらわれることを、池井は死んでしまっても忘れることはできない。
この詩は、そう語っている。
だから、なんというのだろう、ちっとも暗くない。池井がどんなに「いま」と「未来」に傷ついているとしても、不思議に明るい。池井の「肉体」のなかには、「永遠」に汚れない宵の明星がある。
今回の詩集には、「論理」で押し通そうとすると何かうまく押し通せないものがたくさん書かれている。矛盾しているというか、破綻しているというか……。
しかし、その矛盾や破綻のなかに、不思議な詩がある。
池井の絶望を裏切るように宵の明星が輝くように(輝くのを永遠にやめないように)、その絶望のことばの奥から、永遠にとぎれることのないものがあらわれてくる。
この奇妙な矛盾が、詩、そのものなんだなあと読みながら思う。
「千両」の世界は「未来」に似ている。「現代(未来?)」になじめずにいる池井の姿が書かれている。
へんなひとたちばかりいる
へんなみらいにいきている
わたしはへんなじいさんだから
へんなところにいるのだろうか
「へん」が4回繰り返されている。1行目、2行目の「へん」は「わけのわからない」「奇妙な」くらいの意味だろうか。4行目も「わけのわからない」かもしれない。それは池井から見て「へん」という意味である。
けれど3行目は、どうだろう。ここで「へん」と言っているのは池井ではなく、池井のまわりの「わかもの(未来)」である。池井は「へん」であることを納得していない。
だから、
ほんとのところほんとうは
こんなところにいたくない
「ほんと」「ほんとう」と同じ意味のことばが繰り返されている。こんな「へんな」ところにいたくない。「へん」が、池井は嫌いなのだ。
むかしながらのこのほしで
むかしながらにくらしたい
「むかし」は池井にとっては「へん」ではない、ということである。「いま」も「未来」も「へん」である。「むかし」はそうではない。そういう論理の先に「いまからみるとへん」な池井がいる。池井は「いま」でも「未来」でもなく、「むかし」をそのまま生きている。だからいまを基準にして池井をみると「へんなじいさん」になる。
自分が「へん」であるということを認めるのは、だれでも嫌いである。
けれどむかしはかえらない
ひとはいよいよへんになり
ますますみらいはへんになり
わたしはみるみるおいぼれて
やがてくちはてきえうせるとき
で、そういう「くらい」感じのする「未来」を思ってみるのだが、そのとき、
まってましたといわんばかりに
あかるいよいのひとつぼし
むかしながらにあおあおと
あ、ここが不思議だねえ。ここがいいなあ。
「へんな」いやな時代がやってくるのだけれど、空にはかわらず「よいのひとつぼし」(金星)が輝いている。
むかしながらにあおあおと
ここで再び「むかしながら」が出てくるのだけれど、意味は昔と変わらずということになるのだが。
でも、この「むかしながら」って、「むかし」だけが意識されているのだろうか。むしろ「みらいも」という意味ではないのだろうか。
むかしとかわらないだけではなく、未来もあおあおと輝く。
その金星を池井は見てる。思い描いているのではなく、「肉眼」で、その本物を見ている。
夕方になると空に金星が輝くのは、「むかし」も「未来」も関係ない。つまり、それは「永遠に」輝く。
そうであるなら、
むかしながらのこのほしで
むかしながらにくらしたい
は「永遠に」このほしで、「永遠に」くらしたい、という意味にならないだろうか。
また「永遠」は池井にとって「こんなところ」ではなく「ほんとのところ」である。
池井は「へんなひと」「へんなみらい」と書いているが、一方で宵の明星のように「かわらない」永遠があることを知ってる。「知識」として知っているのではなく、それを幾度となく見つめた「肉体」として知っている。肉体」として覚えている。「視力」として知っている。「視力」として覚えている。
そして、それは池井が消え失せたときも、きっと
まっていましたといわんばかりに
どこからかあらわれる。
そのことを池井は、池井の「肉体」は信じ込んでいる。宵の明星があらわれることを、池井は死んでしまっても忘れることはできない。
この詩は、そう語っている。
だから、なんというのだろう、ちっとも暗くない。池井がどんなに「いま」と「未来」に傷ついているとしても、不思議に明るい。池井の「肉体」のなかには、「永遠」に汚れない宵の明星がある。
今回の詩集には、「論理」で押し通そうとすると何かうまく押し通せないものがたくさん書かれている。矛盾しているというか、破綻しているというか……。
しかし、その矛盾や破綻のなかに、不思議な詩がある。
池井の絶望を裏切るように宵の明星が輝くように(輝くのを永遠にやめないように)、その絶望のことばの奥から、永遠にとぎれることのないものがあらわれてくる。
この奇妙な矛盾が、詩、そのものなんだなあと読みながら思う。
谷川俊太郎の『こころ』を読む | |
谷内 修三 | |
思潮社 |