詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

池井昌樹『冠雪富士』(29)

2014-07-20 10:26:29 | 池井昌樹「冠雪富士」
池井昌樹『冠雪富士』(29)(思潮社、2014年06月30日発行)

 「千両」の世界は「未来」に似ている。「現代(未来?)」になじめずにいる池井の姿が書かれている。

へんなひとたちばかりいる
へんなみらいにいきている
わたしはへんなじいさんだから
へんなところにいるのだろうか

 「へん」が4回繰り返されている。1行目、2行目の「へん」は「わけのわからない」「奇妙な」くらいの意味だろうか。4行目も「わけのわからない」かもしれない。それは池井から見て「へん」という意味である。
 けれど3行目は、どうだろう。ここで「へん」と言っているのは池井ではなく、池井のまわりの「わかもの(未来)」である。池井は「へん」であることを納得していない。
 だから、

ほんとのところほんとうは
こんなところにいたくない

「ほんと」「ほんとう」と同じ意味のことばが繰り返されている。こんな「へんな」ところにいたくない。「へん」が、池井は嫌いなのだ。

むかしながらのこのほしで
むかしながらにくらしたい

 「むかし」は池井にとっては「へん」ではない、ということである。「いま」も「未来」も「へん」である。「むかし」はそうではない。そういう論理の先に「いまからみるとへん」な池井がいる。池井は「いま」でも「未来」でもなく、「むかし」をそのまま生きている。だからいまを基準にして池井をみると「へんなじいさん」になる。
 自分が「へん」であるということを認めるのは、だれでも嫌いである。

けれどむかしはかえらない
ひとはいよいよへんになり
ますますみらいはへんになり
わたしはみるみるおいぼれて
やがてくちはてきえうせるとき

 で、そういう「くらい」感じのする「未来」を思ってみるのだが、そのとき、

まってましたといわんばかりに
あかるいよいのひとつぼし
むかしながらにあおあおと

 あ、ここが不思議だねえ。ここがいいなあ。
 「へんな」いやな時代がやってくるのだけれど、空にはかわらず「よいのひとつぼし」(金星)が輝いている。

むかしながらにあおあおと

 ここで再び「むかしながら」が出てくるのだけれど、意味は昔と変わらずということになるのだが。
 でも、この「むかしながら」って、「むかし」だけが意識されているのだろうか。むしろ「みらいも」という意味ではないのだろうか。
 むかしとかわらないだけではなく、未来もあおあおと輝く。
 その金星を池井は見てる。思い描いているのではなく、「肉眼」で、その本物を見ている。
 夕方になると空に金星が輝くのは、「むかし」も「未来」も関係ない。つまり、それは「永遠に」輝く。
 そうであるなら、

むかしながらのこのほしで
むかしながらにくらしたい

 は「永遠に」このほしで、「永遠に」くらしたい、という意味にならないだろうか。
 また「永遠」は池井にとって「こんなところ」ではなく「ほんとのところ」である。

 池井は「へんなひと」「へんなみらい」と書いているが、一方で宵の明星のように「かわらない」永遠があることを知ってる。「知識」として知っているのではなく、それを幾度となく見つめた「肉体」として知っている。肉体」として覚えている。「視力」として知っている。「視力」として覚えている。
 そして、それは池井が消え失せたときも、きっと

まっていましたといわんばかりに

 どこからかあらわれる。
 そのことを池井は、池井の「肉体」は信じ込んでいる。宵の明星があらわれることを、池井は死んでしまっても忘れることはできない。
 この詩は、そう語っている。
 だから、なんというのだろう、ちっとも暗くない。池井がどんなに「いま」と「未来」に傷ついているとしても、不思議に明るい。池井の「肉体」のなかには、「永遠」に汚れない宵の明星がある。

 今回の詩集には、「論理」で押し通そうとすると何かうまく押し通せないものがたくさん書かれている。矛盾しているというか、破綻しているというか……。
 しかし、その矛盾や破綻のなかに、不思議な詩がある。
 池井の絶望を裏切るように宵の明星が輝くように(輝くのを永遠にやめないように)、その絶望のことばの奥から、永遠にとぎれることのないものがあらわれてくる。
 この奇妙な矛盾が、詩、そのものなんだなあと読みながら思う。





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池井昌樹『冠雪富士』(28)

2014-07-19 09:50:35 | 池井昌樹「冠雪富士」
池井昌樹『冠雪富士』(28)(思潮社、2014年06月30日発行)

 「未来」のことばを動かしているのも、いままで池井があまり書かなかった「声」である。(私は、池井の詩を全部読んでいるわけではないので、ただなんとなく、そう感じるだけであって、ほんとうはたくさん書いているかもしれないし、この詩が初めてかもしれない。--こういうことに対して、私は「厳密」を求めない。あれっ、池井はこんな
「声」も出すのだ、と思うだけである。)

これですよ
ゆびさしたのは
ぬぎすてられたぼろジャンパー
これもです
ペットボトルにあきかんのやま
そうしてこれも
エレヴェイタアはへどのうみ
かれらにちがいないですな
とうとうやってきましたな
かたをおとしてためいきついて
あおざめているわれら旧人
われらとかれら新人は
ヒトであっても係累はなく
うけつぎうけつがれるなにもなく

 自分とは断絶した生き方をしている人間(若者)に出会ったときの感想である。池井の詩はいつでも池井自身が何を受け継いでいるかを書いている。この詩でも間接的に池井が受け継いでいるものを語りはするが、直接的に語っているのは、池井を受け継がない若者の姿である。

そろそろかれらのおでましだ
ケータイかたてにかたいからせて
当世暴君おでましだ
しっぽをまいてたいさんだ
新人さまのばらいろの
かがやけるみらいのかなた
まなこらんらんかがやかせ
おいかけてくるもののかげ
またおいすがるいきづかい
幕開けだ!

 で、その「若者」なのだが。池井の考えていることが、実は、わたしにはわからない。「われら旧人」と「かれら新人」は「ヒトではあっても係留はなく」と書かれていたはずだが、ほんとうに「係留」はないのかな? 
 揚げ足取りみたいな言い方になるが、ほんとうに「係留」がないのだとしたら「暴君」という表現は何を意味するだろうか。「われら旧人」の間には「暴君」はいなかっただろうか。「暴君」のいない「当世」はあっただろうか。
 たとえば、2014年の安倍晋三。かれは「旧人」だろうか、「新人」だろうか。どっちかわからないが、私には「暴君」に見える。あちこちにペットボトル、空き缶を散らかしはしないかもしれないが、ヘド以上のものをまきちらして、そのヘドを別のことばでいいつくろっている。安倍の論理は、どうみても非論理だが(論理的に破綻しているが)、数の力で論理と言い張っている。「暴君ではない」と言い張っている。
 彼に比べると、ぼろジャンパーを捨てたり、ポットボトル、ヘドなんて何の問題もない。ひとを殺すわけではないのだから。
 というのは脱線で。
 「当世暴君……」からの、ことば。明るくない? 「かがやけるみらい」「まなこらんらんかがやかせ」と「かがやく」が2回出てくるから? いや、これは皮肉? あ、私は皮肉というものがわからない人間で、ことばをそのまま受け取ってしまって、「ばらいろの/かがやけるみらい」しか見えない。
 池井の書こうとしていることに反するかもしれないけれど、この詩の後半を読んでいると、「当世暴君」になって暴れたいという気持ちになってくる。
 池井が「しっぽをまいてたいさん」したあと、どうするのかわからないけれど、私は退散するふりをして、ちょっと隠れていて、若者が切り開いてくれたあとを若者ぶって走ってみたいなあ。ひとの切り開いてくれた道をのこのこというのはつまらないかもしれないけれど、へえーっ、若者って、こんなふうに世界が見えるのかと楽しんでみるのもいいなあ。
 で、追いかけながら、いま書いたこととまったく矛盾するわけだけれど、こんな若者許さんぞ、と「安倍晋三」に豹変して、「旧人」パワーで若者をぼこぼこ殴るなんていうのも老人の楽しみかな? おもしろいかもしれないなあ。ひとを攻撃するときは、絶対安全な後ろから、反撃されない距離で(逃げれる方法を確保して)、というくらいのことはしたい。自分が痛いのはいやだから。

 そんなこと書いていない? 私の「誤読」?
 「誤読」は、知っている。というか、私は「正解」(正しい読み方)など最初からこころがけていない。
 この詩には、なんというか「未来批判」(若者批判)みたいな「意味」が書かれているようだけれど、でも「絶望」の暗さがない。ことばが軽やかだ。「歌」になっている。
 それがいい。

 人間って変なものだと思う。映画の殺しのシーンなんか、殺人が絶対的な悪だとわかっていても、わくわくするでしょ? 「ゴッドファザー」で車に乗った男が後ろから首を閉められて殺される。舌が唇からまるまったままはみ出し、目がぎょろりと開いている。苦しくて足をばたばたさせてフロントガラスを割ってしまう。そういうものに、私はみとれてしまう。恍惚としてしまう。あれは何なのかなあ。死ぬ瞬間に、こんな力が「肉体」から出てくるのか、と感じているのかなあ。苦しいって、こんなに影像としておもしろいのか、と思っているのか。殺してみたいのか、殺されてみたいのか。ことばを探すと、ぜんぜんわからなくなるのだけれど。
 わからなくてもいい。
 何かが反応している。私の中で。
 それと同じような、反応が起きている。この池井の詩、特に後半を読むときは。「意味」を考えはじめるとわけがわからなくなるが、後半のリズムと音の明るさが、私にはうれしい。そのうれしさに反応するのが、私の何なのか私はわからないけれど、反応している自分が好き。

冠雪富士
池井 昌樹
思潮社
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池井昌樹『冠雪富士』(27)

2014-07-18 10:16:31 | 池井昌樹「冠雪富士」
池井昌樹『冠雪富士』(27) (思潮社、2014年06月30日発行)

 「運命」は風船が怖いというの池井の告白。風船のどこが怖い? 「物言わぬ軽みが怖い。いまにも張り裂けんばかりの照りが怖い。」なるほど、割れるのが怖いらしい。音が怖いということだろう。風船を見ると池井は「かたく眼を閉じ掌を耳にあて」、逃げていたらしい。ところが、

    どんな運命の悪戯か、その風選が春
風に乗り麗かに店内侵入してきたのだ。客た
ちはみなそ知らぬ顔の立ち読みさなか、店員
私は独り異物を店外撤去せにゃならず、南無
三宝、おっかなびっくりへっぴりごしで抱え
た途端鼻先で大音響の大破裂。失神しかけの
私を振り向き客たちはみな白い眼だ。

 うーん、このことばの、どこに詩があるのかなあ。これが詩なのかなあ。60歳過ぎの男が風船の処理に誤り、破裂させてしまう。そして失神しかけてしまう。そういう姿を見れば、だれだって池井を「白い眼」(冷たい眼、批判的な眼)で見る。
 「事実(起きていること)」に眼を向けていたのでは、詩がどこにあるかわからない典型がここにある。どこに、ことばの工夫があるのか。「南無三宝」ということばに詩がある。その「意味」ではなく、「音」に詩がある。「撤去しなければならない」ではなく、「撤去せにゃならず」と口語の語尾が紛れ込んだ音が、その口語のなめらかさのまま「南無三宝」の響きへつづいていく。そのとき、聞こえてくるのは「意味」ではなく、おじいちゃんやおばあちゃんが言っていた口癖の「響き」。「意味」よりも、こういうときには「こういうことば」を言うという音。それがそのまま受け継がれ、それが「肉体」のなかにたまりつづけて、やがてなんとなく、そのおじいちゃんおばあちゃん(それにつながる多くの人々)の「肉体」のなかで動いていたものが「肉体」として、わかる。「意味」にしないまま、「音」(口癖)として、わかる。
 この「音(口癖/肉体)」の共有が、この詩の基本。そこに詩がある。
 で、そういう「音(口癖/肉体)」の共有のつづきとして「おっかなびっくりへっぴりごし」という音もある。「おそるおそる」という意味だが、「おそるおそる」では「肉体(口癖/音)」がもっている共有感が違ってくる。
 詩、そのものが、違ってくる。
 で、そのあと、

                 不運は
斯様に忍び寄る。逃げ隠れても何処までも執
念く私へ忍び寄るそやつを捕え一瞬間で締め
上げて泥を吐かせる裏家業さ。ざまあみろ。

 風船が割れてしまうと、もうこわくないので、一転して強気になる。それがおかしいし、その強気のことばに「斯様(かよう)」「執念(しゅうね)」というような「音(耳から聞いて覚えた文字)」が紛れ込んで、「意味」に変わるところなんかに「肉体」の「さま」が見えるからおもしろい。
 「音」が「文字」になり、「意味」になり、「肉体」のなかからことばにならなかった何かを吐き出す。恐怖を吐き出す。そして、恐怖を吐き出してしまうと、ついでに(?)、罵詈雑言を吐き出す。恨みつらみを吐き出す。そうして、すっきりする。「肉体」が。つまり「肉体」のなかにあるもやもやが、感情が。
 「泥を吐かせる」という口語(やくざことば)、「ざまあみろ」へのつながりのスピードとかもおもしろいねえ。晴々とした池井の肉体(顔つきや体の動き)が見える。そこまで晴々しなくてもいいのに、と笑いだしてしまう。
 
 こういう部分(ことばの変化)を「意味」を追いながら読んであれこれいうよりも、その「音」が出てくるときに見える「人間関係(肉体の動かし方やあれこれ)」の方がおもしろい。その、ことばにしにくい「音」と「人間のさま」のようなものがおもしろい。
 池井は、「純真な真実(?)」だけではなく、こういう「やくざ」(無邪気?)も肉体としてもっている。「肉体」の幅(領域?)が広い。その広さを感じさせる詩だ。

冠雪富士
池井 昌樹
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池井昌樹『冠雪富士』(26)

2014-07-17 09:46:22 | 池井昌樹「冠雪富士」
池井昌樹『冠雪富士』(26)(思潮社、2014年06月30日発行)

 「弥生狂想」も少ないことばが繰り返し書かれている。

いつかゆめみられたぼくが
いまもあるいているように
こんなとしよせくたびれて
ここをあるいているような

いつかゆめみたあのぼくは
いまもどこかにいるような
こんなとしよせくたびれた
ぼくをゆめみているような

いまもいつかもゆめのなか
ゆめならいつかさめそうで
ここもどこかもゆめのなか
どこかであくびするおとが

 「ゆめみられたぼく」「ゆめみたあのぼく」。「ぼく」は同じなのか、違う存在なのか。ことばが似すぎていて、よくわからない。しっかり区別(識別)しなければいけないのだろうか。
 詩なのだから、いいかげんでいいと私は思っている。
 年をとって(私と池井は同じ年なのだが)、なんだか疲れて、過去といまを行き来している。「いま/ここ」と「かつて/どこか」を行き来している。歩いているのは目的があるからなのか、目的がないからなのか。ほんとうは区別できることがらだけれど、そういうこともせず、どっちが夢なのかと考えるでもなくぼんやり放心している。
 その「ぼんやり/放心」が同じことばの(似たことばの)繰り返しで、まるで歌のように響いてくる。
 「歌」の功罪(?)はいろいろあるだろうが、ぼんやりと声が解放されていくのは気持ちがいい。
 私は詩を朗読しないが、池井は朗読をする。それは声を出すことで、肉体のなかの何かが少しずつ解きほぐされるからだろう。肉体のなかには、何か、区別できずに融合しているものがある。「いま/ここ」「かつて/どこか」は違うものだけれど、それが重なるというよりも溶け合ってゆらいでいる「場」がある。それは、「声」を出すと、声に乗って「肉体」の外へ出てくる。さまよってくる。それを見る(聞く?)のは、なんとなく気持ちがいい。
 あ、こんな抽象的なことは、わけがわからないかもしれないなあ。
 私は自分が大声だし、声を出すのが好きだし、声を聞くのも好きだ。というより、私は実は聞いたことしか理解できない。「読む」だけでは、まったく「わからない」。読んでわかることは、聞いたことがあることだけである。聞いたことがないと、私は何もわからない。「聞く」と何がわかるかというと、その「声」を出している「肉体」が「わかる」。
 この池井の詩では「いま/ここ」と「いつか/どこか」が「いつか/ここ」「いまも/どこか」とゆらぎながら、「……ように」「……ような」が「声」になって響くが、そのとき「肉体」はすべての区別をやめてしまって「ような(ように)」で満ち足りた感じになっている。明確じゃなくていい。「ような(ように)」のあいまいななかで、あいまいなまま何かに触れる--その「あいまいさ」がどことなくいいのだ。あいまいさが、何かをほどく。あいまいさが、何かを吸収して、消してしまう。
 その「ような(ように)」のなかでぼんやりしていると……。

やよいさんがつかぜふけば
かわいいこえもはこばれて
こんなとしよせくたびれた
ぼくはとっくにきえうせて

 「ぼく」は消え失せて、弥生三月、「かわいいこえ」が運ばれてくる。それは「いつかゆめみられたぼく」「いつかゆめみたぼく」の「こえ」である。その「こえ」になろうとして詩を書いたわけではないだろうけれど、詩を書いていると、知らず知らず、その「こえ」のところにたどりついてしまった。
 「いま/ここ」「いつか/どこか」もない永遠の「ような」声にたどりついてしまった。





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池井昌樹『冠雪富士』(25)

2014-07-16 08:23:29 | 池井昌樹「冠雪富士」
池井昌樹『冠雪富士』(25)(思潮社、2014年06月30日発行)

 「夢中」という作品が雑誌に発表されたとき、私は感想を書いた。そのとき、この詩に出てくる「あいつ」を池井と同世代の誰かという具合にとらえていたのだが、これに対して、池井が「あれは、自分の息子のことだ」と抗議してきた。私が読み違えていたのである。
 詩は、それが書かれた瞬間から書いたひとのものではなくなる。そのことばをどう読もうがそれは読者の勝手であり、筆者が抗議をいうようなことではない、というのが私の考え方である。もし「息子」のことを書きたいのなら、息子とわかるように書くのが書いたひとの責任であって、読み違えたからといって、読者の読み方が悪いというのは筆者の傲慢である。
 そういいたいけれど。
 今回は、私の完全な間違い。--というよりも、詩集のなかで読んでみると、池井の書こうとしていたことがわかる。一篇だけ読んだときは気がつかなかったが、詩を書いているとき、池井のなかにはつづいている時間というものがあり、その時間のなかでことばが指し示すものが違ってくる。
 この詩集のなかで、池井は、一貫して自分の記憶(幼いときの思い出)と「いま」を結びつけている。「幼いときの家族」「いまの家族」を結びつけて、世界を(自分を)見つめなおしている。そこには他人への批判や羨望は含まれていない。

 その「夢中」の全文。

あいついまごろゆめんなか
そうおもってははたらいた
 つめたいあめのあけがたに
 あせみずたらすまよなかに
あいついまごろゆめんなか
そうおもったらはたらけた
 そんなつめたいあけがたも
 あせみずたらすまよなかも
いまではとおいゆめのよう
とおいとおいいほしのよう
 あいつどうしているのやら
 こもごもおもいはせながら
といきついたりわらったり
めをとじたきりひとしきり
 けれどいまでもゆめんなか
 あいついまでもゆめんなか
こんなやみよのどこかしら
あいつだれかもわすれたが

 「いまごろ」「いまでは」「いまでも」と「いま」が繰り返される。その「いま」は同じではない。あるときは2013年の夏であり、あるときは2014年の冬である。この詩のなかでは「あめのあけがた」「あせみずたらすまよなか」と出てくるが、同じではない「時」が、同じ「いま」と呼ばれている。
 「いつでも」「いま」なのである。「いま」は「いつでも」に書き換えられるのである。「あいついつでもゆめんなか」と書いても「意味」はかわらない。いや「いつでも」と書いた方が、「意味」が通りやすいかもしれない。あいつ(息子)は池井の苦労を知らずに「いつでも」夢のなかにいる。そういうことを嘆いている、批判しているととらえると、この詩の「意味」はとてもわかりやすくなる。
 おれ(池井)はこんなに苦労しているのに、息子は知らん顔さ。知らん顔で自分の夢のなかにいるだけだ。もう、苦労しすぎて「あいつ」がだれだか忘れてしまったよ、そうこぼしている詩と読むと、「意味」はとても簡単に伝わっている。
 でも、そうではないのだ。
 世間から見れば「いつも」であっても、流通言語の意味から言えば「いつも」であっても、池井にとっては「いま」なのだ。それも、「いま」が積み重なって「いつも」になる「いま」ではなく、どの「とき」ともつながらない「いま」があるだけなのだ。
 「いま」がつながるとしたら、2013年-2014年という具合に「とき」を線上につなげるかたちでつながるのではなく、そういう線上の時間から切り離された「永遠」とつながる。それが「いま」である。

いまではとおいゆめのよう
とおいとおいいほしのよう

 ここに「とおい」「とおいとおいい」ということばが出てくるが、池井の「いま」はその「とおい」「とおいい」ものとつながっている。その「永遠」とつながっているからこそ、池井は流通言語でいう「いま」が「あせみずたらす」苦しいものであっても、「はたらける」のだ。
 池井は、はたらくことで「とおいいま」へと息子の「いま」をひっぱってゆく。
 それは、池井が両親からしてもらったことなのだ。
 池井はこの詩集で家族(両親)や恩人のことを書いているが、それは池井の「過去」を「いま=永遠」へと引き上げてくれた人たちである。そのことを思い、池井は、この詩集で、両親(恩人)がしてくれたことを書き残そうとしている。
 また、行為そのものとして引き継ごうともしている。

 こんなことを書くと説教くさくなって、詩がおもしろくなくなるが、池井の詩には何か暮らしの実践があり、暮らしをととのえる力がある。暮らしをととのえて生きる人間の必然がある。



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池井昌樹『冠雪富士』(24)

2014-07-15 10:00:30 | 池井昌樹「冠雪富士」
池井昌樹『冠雪富士』(24)(思潮社、2014年06月30日発行)

 「揚々と」にも「肩車」と同じように、繰り返しが出てくる。「意味」だけ伝えるなら、繰り返す必要はない。そういうことばの動き方をする詩である。

きょうはもうはやくかえろう
こんなにくたびれはてたから
どんなさそいもことわって
どんなしごともなげうって
きょうはもうかえってしまおう
いつものみちをいつものように
いつものでんしゃをのりかえて
いつものようにいつものみちを
ようようとぼくはかえろう

 「もうかえろう」としか池井は言っていない。それも「いつも」と同じように帰るわけだから、わざわざ「いつものみち」とことわる必要もない。「意味」だけ書くのだったら。
 「意味」ではないもの、「意味」以前を書きたい。でも、どのことばの「意味以前」を書きたいのか。それはいちばん繰り返しの多いことばである。

いつも

 「いつも」ということばは誰もがつかう。そして誰もが「意味」を知っている。その「いつも」を「違う意味」で池井は書こうとしている。そしてその「違い」が「いつも」のなかから、つまり池井の「肉体(思想)」のなかから自然に生まれ出てくるのを待つために(生まれるのを誘うために)、池井は「いつも」を繰り返す。
 「いつも」はどう変わるか。

ようようとぼくはかえろう
やさしいあかりのともるまど
さかなやくけむりのにおい
なつかしい
わがやのまえもゆきすぎて
ゆめみるように
ひとりかえろう

 「いつも」なら「わがや」へ帰る。けれど、きょうは「いつも」のように「わがや」を通りすぎて、その先にある「どこか」へ帰る。その「どこか」は「ほんとのいつも」なのだ。「いつも」と人が一般的につかっている「意味」以前の、「ほんとのいつも」である。
 でも、それは、どんな「いつも」?
 はっきりとはわからない。けれど「なつかしい」何かだ。

なつかしい
わがやのまえもゆきすぎて

 この2行は流通言語として「意味」を考えると、とても矛盾している。「なつかしい」という気持ちが起きるのは、それから遠く離れているときである。毎日毎日帰っている我が家がなつかしいということは一般的にはありえない。長い間帰っていないふるさとの家(生家)ならなつかしいは「意味」として機能するが、毎日帰る家がなつかしいという人など、一般的にはいない。
 ということは、逆に言うと、この池井が書いている「なつかしい」は「流通言語」でいう「なつかしい」とは違うものなのだ。「意味」以前のものなのだ。
 そうであるなら「いつも」もまた流通言語の「いつも」とは違っている。
 流通言語ではない「いつも」と、流通言語ではない「なつかしい」が、この詩では出会っている。「意味」以前で、融合している。「いつも」と「なつかしい」は区別があって、区別がない。
 だから、詩は、次のように読み直すことができる。

きょうはもうかえってしまおう
「なつかしい」みちをいつものように
「なつかしい」でんしゃをのりかえて
いつものように「なつかしい」みちを
ようようとぼくはかえろう

 「なつかしい」は「いつもの」と書かれていた部分である。
 池井はその不思議な「いつも/なつかしい」が融合した世界へ「ひとり」で帰る。
 それは、その「いつも/なつかしい」が「ひとり」分の「領域」しかもたないからなのだ。

 これからあとは、説明するのがとても面倒くさいのではしょって書いてしまうが(説明するには、この詩だけではなく、複数の詩を例として引用しなければならなくなるから、私は面倒だと感じるのである)、この「いつも/なつかしい」は池井にとっての「放心」の「場」である。その「場」には池井ではない「誰か」が池井を見守っている。その池井を見守る視線を感じながら、池井は「見守られて存在すること」を永遠と感じ、永遠の中で「放心」する。「永遠」と一体になる。
 池井は、したがって(?)、ふたつの詩を書く。
 ひとつは、その「永遠」のなかで「放心」している詩。幸福な詩。
 もうひとつは、その「永遠」のなかで「放心」することを夢みる詩。夢の中で幸福になる詩。
 この作品は、後者である。それが証拠に、「ゆめみるように」と池井は書くのである。

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池井昌樹『冠雪富士』(23)

2014-07-14 09:49:34 | 池井昌樹「冠雪富士」
池井昌樹『冠雪富士』(23)(思潮社、2014年06月30日発行)

 「肩車」は、まず木登りから詩がはじまる。

きさえあったらさるのよう
おおよろこびでのぼったな
きだってよろこんでたもんな
あのえだのうえそのうえへ
いつでもはだしでのぼったな
ひやひやわくわくのぼったな

 「きだってよろこんでたもんな」という表現、自分と他者(木)の区別がなくなるとこが池井の特徴だが、この前半にはもう一つ池井の特徴がある。
 昔、中学生のころ、そのことに気がついていたが、長い間忘れていた。ふいに思い出した。「ひやひやわくわく」。この音の繰り返し。オノマトペ。これが池井の詩にはとても多い。オノマトペの定義はむずかしいが、「意味」にならないことを音にしたものという印象が私にはある。「意味」にならないことなら書かなくてもいいのかもしれないが、それを書きたいという欲望が池井にはある。意味以前の音、意味以前のことばということになるかな?
 「ひやひやわくわく」は、どちらかというと「意味」がとりやすい。つまり、「興奮して」とし「こわさを感じながらも好奇心にかられて」という具合に言いなおすことができるが、それよりももっと「意味」になりにくいオノマトペを池井はつかっていた。具体例を思い出せないのだが、オノマトペがでてきたら池井の詩である--という印象が、中学、高校時代の私の記憶である。
 で、このオノマトペ指向(嗜好?)と、池井のひらがなの詩は、深いところでつながっている。
 今引用した部分でいうと「のぼったな」ということばが3回、出てくる。6行のうち3行が「のぼったな」で終わっている。これは池井独特の「オノマトペ」のひとつなのだ。そこには「意味」はあるが、意味を書きたくて繰り返しているのではない。意味を強調したくて繰り返しているのではない。むしろ「意味」にならないことをいいたくて繰り返している。繰り返すことによって音に酔い、音に酔うことで意味を忘れ(意味を捨て去り)、その「意味」の向こうへたどりつこうとしている。
 「のぼったな」は、次の部分で、別の「オノマトペ」に席を譲る。

かたぐるまでもされたよう
そこからなんでもみえたっけ
しらないまちもしらないかわも
しらないさきまでみえたっけ

 「みえたっけ」が繰り返される。「しらない」が繰り返される。「のぼる」は「みえる」である。「のぼる」は「しらない」ところ(未体験へ)のぼる。「えだのうえのそのうえ」という存在しないところ(しらないところ)までのぼる。そして、その「しらない」ところから「みえる」のは、やっぱり「しらない」である。「のぼる」「みえる」「しらない」は三位一体(?)になって「意味」をつくるのだが、その「意味」を強調するのではなく、「意味」を音楽のなかに隠すように、おなじことばを池井は繰り返す。「意味」にすることを拒んでいる。「意味」にしてしまうと、「意味」以前が消えてしまうからだ。池井の書きたいのは、あくまでも「意味以前」なのだ。
 「意味以前」とは、いったい何なのか。
 詩はつづく。

ほんとにきもちよかったな

 「意味以前」は「きもちいい」であり「ほんと」なのだ。「意味」は「きもちいい」と「ほんと」を別なものに変えてしまう。

いまではだれものぼらない
きにはながさきはなはちり
いつもながらにあおばして
けれどもなんだかさびしそう
こだちもこどももさびしそう
しらないまちもしらないかわも
しらないさきもみえなくて
ひやひやもなくわくわくもなく
ひはのぼりまたひがしずみ

 「ほんと」と「きもちいい」は「さびしい」に変わってしまう。「意味」は「きもち」を「さびしい」に変える。「意味」は、その意味を主張するものの都合にあわせて世界を統合するとき、有効的に機能する。「意味」は「知らない」を封印し、「わかっていること」(知っていること)だけで世界を統一する。そして、合理的に世界が動く(支配できる)ようにするものである。--と、池井は書いているわけではないが、私は、かってにそこに私の考えをくっつけて、そう思っている。
 池井はそういう「意味」の窮屈さを否定し、「意味」以前、「知らない」けれど「見える」ものをことばとして引き継ごうとしている。残そうとしている。それが、池井にとっての詩の仕事だ。









冠雪富士
池井 昌樹
思潮社
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池井昌樹『冠雪富士』(22)

2014-07-13 12:59:43 | 池井昌樹「冠雪富士」
池井昌樹『冠雪富士』(22)(思潮社、2014年06月30日発行)

 「とんちゃんのおうどんやさん」は幼い日のうどんの思い出、うどん屋に登場したテレビ(月光仮面)の思い出が、まず語られる。

ガタピシの木戸を開ければウッとした。天にも昇る芳香だった。生
まれた家の数軒隣にとんちゃんのおうどんやさんがあった。家は大
家族で質素な暮しだったから滅多に食べさせてもらえない憧れのお
うどんを前に夢心地だった。辛すぎるからと母の取り除く唐辛子の
赤がおうどんの出汁に溶けてゆく一部始終を凝と視ていた。

 「うどん」ではなく「おうどん」。そのことばに池井の幼い日が象徴されている。(私は「うどん」に「お」をつけたことなど一度としてないが、池井は、まあ、そういう育ちなのだ。)
 で、「お」によってはじまる「非日常」。池井は「質素な暮らし」と書いているが、質素ではあっても「非日常」があるということは、すでに「質素」ではないかもしれない。でも、そのことに池井は気づいてはいない、と書いてしまうと、詩が別の方向に動いて行ってしまう。
 詩に戻ろう。
 まず「芳香」、匂いから池井の感覚が動きはじめている。これは「異相の月」で触れたことに通じるが、池井の「感覚の原点」である。嗅覚で世界を把握する。世界を、その空気を自分の肉体の中にいれる。
 次に、「辛すぎるからと母の取り除く唐辛子の赤がおうどんの出汁に溶けてゆく一部始終を凝と視ていた。」と凝視、視力(視覚)がやってくるのだが、その「視覚」が見ているものが「溶けてゆく」であるのも池井の特徴である。唐辛子の赤い色が出汁に溶けていく--一体になっていくのを、凝視し、うっとりしている。放心している。凝視とはいうものの、それは「見る」の放棄である。「視覚」を捨てるのだ。
 そうすると、

                           夏は手
廻しの掻き氷。シャカシャカ氷を削る音、鮮やかな蜜の色、胸の空
くその匂い、独りで切り盛りする汗だくの小母さんの声、何もかも、
気の遠くなるほど明るかった。

 感覚は消えるのではなく、ほかの感覚を目覚めさせる。聴覚が目覚め、嗅覚、視覚と渡り歩き、それが組み合わさり、融合して「気の遠くなるほど明る」くなる。実際、池井はそのとき「放心して」いる。「気(心)」がどこか遠くへ行ってしまっている。ただし、この「遠く」とは、たぶん「頭」から遠くなのであって、「こころ」自身は「こころ」の奥底へかえっていき、あらゆる区別がなくなるということ。
 この感覚の融合を「匂い」のなかでつかみとる動きは、もう一度、この詩のなかで書かれている。ちょうどなかほどあたり。

           ガタピシの木戸を開ければウッとした。そ
れは煮干の出汁やら葱やら汗やら様々な生活臭の入り混じった悪臭
に違いなかったが、この世の新参者である幼いものにとっては、こ
の世に生まれた甲斐のある希望の匂い--泣きたいような芳香だっ
た。みんなみんな貧しかった。

 「匂い」を「生活臭」「悪臭」ととらえなおしている。ただし、それは「いま/ここ」の池井が感じることであって、幼いときは「希望の匂い」「泣きたいような芳香」だったと書いている。
 「匂い」が変わっている。「匂い」そのものは変わらなくて、ほんとうは池井自身の「肉体」が変わってしまったので「希望の匂い」「芳香」が「生活臭」「悪臭」に変わったのである。
 「貧しい」ということばがここでも出てくるが、最初に出てきたとき「貧しい」は実は「貧しい」ではなかった。母親がうどんのなかの唐辛子をとってくれる(そんなふうに子どもの世話をする)というのは「貧しい」生活ではなく、豊かな生活である。
 「貧しい」、あるいは生きるために人はどんな具合に苦労しているのかわかるのは、実際に池井がその苦労をしてからのことである。「芳香」が「悪臭」であるとわかるまでに池井がどんな苦労をしてきたかは、この詩には書いてない。
 かわりに、こう書かれている。

とんちゃんのおうどんやさんが私の中から込み上げてきたのは、義
父の三十五日法要へ妻と連れ立ち車窓を眺めていたときのことだっ
た。漁師町から環境の異なる農家へ婿入りし、その本家を義父は無
言で支えて逝った。一人娘を嫁がせるのはどれほど淋しく無念だっ
たろう。正月毎に幼い伜どもを連れてお邪魔する度、皺深い眼をし
ばたたかせ孫を見遣った。無言で酒を干しながら。--そうか、と
んちゃんのおうどんやさんなら義父にだってあったのだ。

 この「とんちゃんのおうどんやさんなら」というのは、長くて引用できなかったが、途中で出てくる、「とんちゃんとけんかしたらテレビを見せてくれなかったとんちゃんのおうどんやさん」ということ。親がこどもを真剣に愛し、そのためなら何だってするということ。それを池井は、池井の息子(義父の孫)を「見遣る」目つきに感じた。その目は、かつては娘(池井の妻)にも注がれていた。
 そして、その「見遣る」という行為、その目差しに、いたることろにあって、それが「生活」を支えていた。自分のためではなく、子どものために働く--その貧しさは、貧しさではない。そのときの生活臭は「臭い」ではなく、「芳香」の隠し味なのだ。

 「生活臭」「悪臭」ということばを作品の中程でつかっているが、池井は、それをもう一度「芳香」「希望の匂い」として感じている。
 外からではなく、池井の「肉体」のなかから。先の詩のことばのつづき。

                       --そうか、と
んちゃんのおうどんやさんなら義父にだってあったのだ。電車の中
でその思いが熱く苦しく込み上げてきたのだった。

 何かが込み上げてくるとき「ウッとする」。池井は、ここでは「ウッとした」とは書いていないが、やはり「ウッとしている」。ただし、それはとんちゃんのうどん屋で戸をあけたときに押し寄せるにように外からやってくるものへの反応ではなく、池井の「肉体」のなかで起きている反応のために「ウッとしている」。
 かつて池井の「肉体」の外にあったものが、いまは池井の「肉体」のなかにある。
 それは、かつて放心する池井を見守っていた「視線」を、いまは池井がもっている、そうしてだれかを見つめているということになる。

 幼い日の思い出と、最近思ったことをただ書きつないでいるだけの詩に見えるけれど、その奥には真摯な「暮らし」がつづいている。その真摯がこの、ただあったことをかきつづっただけのことばを詩に、「必然」に変えている。




冠雪富士
池井 昌樹
思潮社
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池井昌樹『冠雪富士』(21)

2014-07-12 10:42:06 | 池井昌樹「冠雪富士」
池井昌樹『冠雪富士』(21)(思潮社、2014年06月30日発行)

 「異相の月」は「こんや異相のげん月のした。」という宮沢賢治「原体剣舞連」の一行を出典としている。池井の、宮沢賢治についての思い出である。その一行に、池井は深い郷愁を覚えている。「本家の長男であり、長兄でもあった賢治の幸福」を、池井は自分自身の長男であることに重ね合わせ、自分の幸福のように感じている。「皆で集まれば芸術談義に花を咲かせたという仲良し兄弟妹、」「宮沢家は芸術面に熱く濃い血の家柄だったようだ。」と書いたあと、池井は続けている。

     私の家も、母の実家もそのような血の家柄だった。米穀
店でもあった母の実家には様々な能面狂言面が壁に掛けられ、独特
な匂いがあった。ゴーガンの複製画に衝撃を受けたのもその家だっ
た。祖母を囲んだ大勢の伯父伯母従兄弟従姉妹に挟まれている楽し
さを私は今も忘れない。

 私がこの作品で書きたいことは、このあとの方に出てくるのだが、ここを引用したのは「独特の匂い」と、「匂い」ということばがあったらかである。池井の詩を最初に読んだのは「雨の日の畳」(だったかな?)という作品で、そこには「匂い」が書かれていた。私は肉体的にいうと粘膜系統が弱いので「匂い」はとても苦手である。いい匂いもあるだろうけれど、「匂い」は基本的に呼吸が苦しい。で、あ、こんなふうに「匂い」で世界をとらえる人間がいるのかと、匂いが気持ちがいいのか、かなり違和感を覚えた。匂いを嗅いでいる巨大な「肉体」が、ふっと見えたのである。それを思い出した。
 ここに書かれている「独特の匂い」は「独特の雰囲気」というものだが、それを「雰囲気」といわずに「匂い」と書くのは、そこに「雰囲気(気分)」を超える具体的な「匂い」(肉体を刺戟するもの)があるからだと思う。「匂い」というものは、基本的に「肉体」の内部に何かを入れてしまう危険な要素がある。(見る、聞く、とはずいぶん違う。見る、聞くは非接触である。接触という点では、匂い、匂う、嗅ぐは、食べる、飲む、舐めるに似ている。)
 肉体で、外部を消化する--そういう力を池井の肉体はもっている。初めて池井をみたとき、その肥満体に、そうか、何でも肉体のなかに取り込んでしまう人間なのだな、と私は、いまでいう「ひいた」感じになったことも思い出した。私は「食べる」のが苦手な人間である。特に「匂い」を体内に入れることには、非常に抵抗感がある。池井は逆に、何でも「嗅いでしまう」、「匂い」で判断する人間である、と私は思っている。
 脱線したが、詩は、このあと、それまででてきたことばを一気に純化させる。ごちゃごちゃがさーっと水底に沈むみたいに、混沌が結晶しながら沈み、混沌(家系の自慢話?)が消えたところから、光が広がる。

            あの車座の輪の何処かに、若かりし賢治
の坊主頭もあったはずだが……。子は親になり親は老いやがては朽
ちる。人の世は子から子へ刻々とあらたまり、過去は刻々と忘れ去
られる理なのだが、その理の中でさえ決して喪われることのない
一場面がある。こんや異相のげん月のした。あの第一行を刻し、三
十七歳で逝った賢治。彼を愛し、彼を育んだ形跡もないものたち。
その吐息が、土の匂いが、陽の温もりが、木々の葉擦れが、今、此
処でのことのように、何の前触れもなく、私の中からまざまざと甦
ってきたのだった。

 池井の祖母を中心とした車座--そのどこかに賢治がいるということは、現実としてはありえない。けれど、池井はそれを感じる。賢治がいたと覚えている。もしかすると池井自身が「若い賢治」だったかもしれない。賢治は、母だったかもしれない。従兄弟だったかもしれない。「芸術」を愛するこころが、共有されている。そのとき、そこには賢治がいるということだ。「人」ではなく「芸術を愛するということ」(動詞)を池井は感じている。感じていた。
 人間は死に、いまは過去のものとなる。けれども、芸術を愛するという「動詞」は消えない。ひとりの人間から別の人間へと引き継がれていく。「共有」されていく。そして、それは、「文字」とか「ことば」のなかで確認もできるのだが……。
 池井は、文字とかことばの前に、「匂い」として引き継ぐ。「匂い」を肉体の中に入れてしまう。「匂い」が池井の肉体のなかで引き継がれ、それが、肉体を破って、ふっとあらわれる瞬間がある。「匂い」の空気が、肉体のなかで爆発するのだ。
 そして、「吐息」となってあらわれる。「吐息」は「ことば」にならない「声」である。「ことば」以前の「息」、「生き」(いのち)である。
 「吐息」のなかには、「土の匂い」がある。陽の温もり(触覚)、木々の葉擦れ(聴覚)もあるが、まず、「匂い」(嗅覚)が池井の最初の感覚として動く。--この最後を読むと、
 ほら、
 「独特の匂い」が「雰囲気」ではなく「匂い」そのものとして甦るでしょ? 能面の、木の匂い。能面の裏側の、面をつけていたひとの汗の匂い。顔料の匂い。ゴーガンの絵の紙の匂い。色の匂い。祖母の匂い。父母の匂い。従兄弟たちの匂い。
 むわーんとするね。むせかえるね。戸を開けて、空気を入れておくれよ。
 池井は、戸をあけたりはしない。しっかりと閉めて、そこにある「空気」全部を吸い込み、肺をふくらませ、池井の体温で空気を温めて、吐き出す。
 強い体臭。骨太い体臭。
 それにうっとりできる人が、池井を好きになれる。

 私は、こういう匂いが大嫌い。
 大嫌いだけれど、そこには「ほんとう」がある。その「匂い」にとろける肉体があるということも、わかる。大嫌いだから、はっきり認識できる。認識してしまう。「ほんものの匂い」を。




谷川俊太郎の『こころ』を読む
谷内 修三
思潮社
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池井昌樹『冠雪富士』(20)

2014-07-11 10:13:21 | 池井昌樹「冠雪富士」
池井昌樹『冠雪富士』(20)(思潮社、2014年06月30日発行)

 「侏儒の人」は、池井が幼いときにみた「蕨餅売り」のことを書いている。池井の仲間はみなその蕨餅売りが好きだった。「老爺のままの姿で忽然と世に顕れた何かの精だと信じていた。」という文が出てくるが、ここにある「矛盾」を「矛盾」という意識もないままに、こどもは「矛盾」にひかれるものである。
 ひとはこの世にあらわれる、つまり生まれるときは赤ん坊である。そして、その赤ん坊が育ち、おとなになり、老人になる。ところが蕨餅売りは、老人のままの姿であらわれた。つまり、「時間」を超越しているのだ。「時間」は「老爺」のまま止まっている。その「止まっている時間」のなかへ、池井たちは蕨餅を食べることで入っていく。異界の体験である。

   黄粉を振り掛けたその玲瓏を私たちは夢中で頬張り嚥み込ん
だ。舟の底まで綺麗に舐った。それは息を詰め清冽を潜る禊のよう
な清しさだった。

 この「夢中」を池井は「禊」と呼んでいる。
 「矛盾」が、たぶん、池井たちを「いま/ここ」ではない世界(異界)へ連れて行く。そこはたぶん、「侏儒の人」を畸型から解放する「場」だ。そこにはただ「玲瓏」「綺麗」「清冽」というものが純粋なまま保たれている。
 そのとき「蕨餅」は、「侏儒の人」のように、その「場」を印づける「現実」であって、その「現実」を「肉体」で食べつくすとき、そこに「真実」があらわれる。「現実」と「真実」の区別がつかなくなる。「玲瓏」「綺麗」「清冽」は、それだけでは架空のものだが、「畸型」がぶつかると、「玲瓏」「綺麗」「清冽」から余分なものが落ちて「真実」になる--うーん、これでは抽象的すぎるか。しかし池井は、そこで「異なっているもの」がもっている「異なっていないもの」(矛盾)に触れたのだ。

 「侏儒の人」は何かを否定された人間である。けれど、その人はまた、否定されながら現実の何かを否定している。彼を否定する力を否定することで生きている。彼は彼自身の「いのち」を肯定している。そこには純粋な輝きがある。すべてをとろけさせる力がある。
 と、いうようなことも書きたいが、これでは「意味」になりすぎる。
 子どもは、そういう「意味」とは関係なしに、何かをつかむ。何かのなかにとろけて、一体になり、体にしみ込ませる。この感じが「舟の底まで綺麗に舐った。」に濃厚に広がっている。
 池井は、その肉体にしみ込んだものを「玲瓏」「綺麗」「清冽」ということばでしっかりととらえなおしている。そして絶対に手放さない。

 夏がくるたびに、池井は蕨餅売りの老人を思い出し、その老人について考える。彼はどこで、どうしていたのだろう。

            恐らく生涯独身で、貧しい生計のため蕨
餅を丹精し続けるだけの長い孤独な歳月。大人なら誰もが良く察し
ていただろうその境遇を、子どもは何も知らなかった。けれど子ど
もは皆知っていた。あの人は、私たちへ善きことを為すためにのみ
遣わされた者--美しい精だったと。

 大人は知っている、けれど子どもは知らない。これは侏儒の人を「老爺」のまま生まれてきたと子どもが思うのと似ている。そんなことはない。大人は知っている。どうやって生きてきたかを知っている。けれど、そのどうやって生きてきたかを知らない子どもは、彼が生きてきたとに感じる苦悩(矛盾を乗り越えて生きるときの苦悩)を根底で支えているものが「玲瓏」「綺麗」「清冽」であることを知っている。それを教えるために、この世にやってきたと知っている。
 何か美しい祈りのようなものが、彼を生かしている。
 それを「意味」ではなく、「肉体」で直感的につかみとり、蕨餅を「舟の底まで綺麗に舐る」ようにして、子どもは味わい尽くすのだ。その、「意味」になる前の「いのち」のあり方を、池井は思い出している。

                  その鈴の音、疳高い呼び声
を思い出すたび、この世のものの他にない胸の何処か、この世のも
のとも思われぬあのときめきと清しさがまだ息づいているようで、
良い齢をして、涙ぐましくなってくるのだ。

 「この世のものの他にない胸の何処か」「この世のものとも思われぬあのときめき」にも、「矛盾」があり、その「矛盾」が美しさがそこにあると告げる。相いれぬものがぶつかり、そのぶつかるという「行為/瞬間」のなかで、まだ「ことば」にならないものが生まれては消えていく。
冠雪富士
池井 昌樹
思潮社
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池井昌樹『冠雪富士』(19)

2014-07-10 10:18:48 | 池井昌樹「冠雪富士」
池井昌樹『冠雪富士』(19)(思潮社、2014年06月30日発行)

 「産土行」は、バスを待っている詩。

うぶすなゆきのばすのりば
もくぞうえきのかたほとり
すこしくぼんだばすのりば

 詩であると同時に「歌」でもある。声に出して、声のなかで思い出す。声を出すとき「肉体」が動く。その「動き」を全部説明することはできないけれど、説明しなくても「肉体」は、何かを納得する。「ばすのりば」が繰り返される。それは同じことばだけれど、同じではない。繰り返しだけれど、繰り返しではない。むしろ「リセット」である。
 1行目は「ばすのりば」そのものが主役。
 でも、2行目で、それがどこにあるかを書いたとき、主語は「ばすのりば」ではなくなる。「もくぞうえき」か「かたほとり」か。どちらでも、読者が好きな方を「主語」と受け取ればいい。このときの「主語」というのはいちばん大事なことば、くらいのいみだけれど。
 だから3行目で、もう一度「ばすのりば」へと「主語」を戻してくる。(「すこしくぼんだ」に目を向けるひともいるだろうけれど。)
 そして、「ばすのりば」そのものの描写が、それからの「主語」になっていくのだが、こういうことばの「戻し方」は、私の感覚では「歌」。声を出して、その声のなかで、何かを思い出す。浮かび上がらせる。「肉体」のなかから。「ばすのりば」ということばを口にすると、そのたびに覚えている「ばすのりば」があらわれる。「ばすのりば」と一緒にあった「もの/こと」が、そのときの「肉体」と一緒にあらわれる。

いまはもうないひとたちが
いまはもうないたばこのみ
いまはもうないあめをなめ
いまはもうないばすをまつ
うぶすなゆきのばすのりば

 「肉体」が思い出すのは「ひとたち」「たばこ」「あめ」「まつ」という「もの/こと」。そして同時にそれが「いまはもうない」ということも。
 繰り返してのなかには、同じことと違うことが同居する。
 ここでは「いまはもうない」が繰り返され、それが「歌」になる。「歌」には「意味」はない。「意味」があるとすれば、繰り返さざるを得ないということ。繰り返してしまうということ。そこに「意味」がある。
 「いまはもうない」。でも、それなのに、そこではひとがたばこをのみ、あめをなめ、ばすをまつ。
 どうして?
 こういうことは考えてはいけない。理由だとか、論理だとか、あれやこれやのめんどうくさいことは考えてはいけない。頭をつかってはいけない。
 頭をつかわずに「肉体」を動かして、「歌う」。それだけでいい。「歌う」ときに、その声とともに、一瞬一瞬、リセットされる「肉体」の奥から何かが浮かんで来ようとする感じを、心臓の音のように聞きとればいい。
 あ、それは聞きとらなくても、別に不都合ではないよ。
 心臓の音なんて、ふつうは誰も聞かない。聞かなくても動いていてくれるのが心臓だから。

いまはもうないあのひとと
おさないぼくとよりそって
ほつれたいとのよりどころ
うぶすなゆきのばすをまつ
うぶすなゆきのばすのりば
いまはもうないばすだけが
いまもだれかをのせてゆく
だからだまってまっている
みんなだまってまっている

 何も起きない。同じことが同じリズムで繰り返される。「歌」は、そうやってだんだん広がっていく。
 同じことを繰り返す。--これを、池井はここでは少し違ったことばで言いなおしている、と私は思う。

おさないぼくとよりそって

 この「よりそって」が、実は繰り返し。「いまはもうない」ということばに「よりそって」同じ「いまはもうない」が存在する。一緒にならんで存在する。一緒につらなって存在する。つながっていく。
 ことばを繰り返すとき、「肉体」のなかで起きるのは、これだね。
 声は一瞬ごとに消えていく。その消えていく声に「よりそって」次の声が現れ、さらに次の声がつづく。「よりそう」がリセットされる。リセットは「生まれてくる」でもあるんだね。
 この「生まれる」を池井は、いつものように放心して、「いまはもうないひと」と一緒になって、追体験している。いや、新しい「体験」を生み出している、かな?
 どっちでもいい--というといいかげんだが。
 そういうことはいいかげんにしておいて、この池井の「歌」に声をあわせて、一緒に「歌う」ということをすれば、いいのだと思う。「歌の内容」ではなく、「歌う」(一緒に歌う)ということに、「思想(ほんとうの肉体)」がある。


冠雪富士
池井 昌樹
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池井昌樹『冠雪富士』(18)

2014-07-09 08:32:09 | 池井昌樹「冠雪富士」
池井昌樹『冠雪富士』(18)(思潮社、2014年06月30日発行)

 「からたちの花」。失恋して落ち込んでいたときに詩人の友人が花見に誘ってくれた。池井は酔いしれて、

「からたちの花」を大声で歌った。歌い終え腰を下ろすと、闇の周
囲から拍手が起きた。それは思い掛けない万雷の拍手だった。心の
閊えが一度にとれて、涙ぐましい気持ちになった。やさしさに包ま
れていると思った。

 ということがあった。それから年月がすぎ、友人は妻を亡くし、再婚し、さらに妻を亡くすということがあった。

  長い長い、長い歳月が過ぎたのだ。人は往き、人は生れ、町は
刻々変貌し、けれど私は変わらない。「からたちの花」を歌ってい
る。心の中でのことなのだから、振り向くものは誰もいない。みな
俯いて背を向けて、魔法の小箱を覗き込み、いっしんふらん、彷徨
うばかり。それにしても、と思うのだ。あの大勢のあの拍手、あの
ものたちは誰だったのか。何処へ失せたのか。心の中のことだけれ
ども、みんなみんな、やさしかったよ。

 これは最後の部分だが、「けれど私は変わらない」が池井の思想(肉体)である。町は変わる。ひとの動きも変わる。でも、池井の「肉体」は池井の「肉体」のまま、ずっとつづいている。年月を重ね、年をとっても池井の「肉体」はそのまま池井である。
 わかりきったことか。
 しかし、わかりきったことが思想であり、詩である。わかりきらないことを、発見した新しいこと、自分の個性が見つけ出した何かみたいに書けば詩になる、思想になるという風潮があるが、そうではなく変わらないものを変わらないまま、変わらないことばで書くのが思想であり、詩というものだと私は最近思っている。
 わかりきっているのは、それが「必然」だからである。変わらないのは、やはりそれが「必然」だからである。そして、その「必然」は、「心の中」にある。「心の中」にあるから「思想」という。(私は「こころ」と「肉体」とを区別しないので、「思想」を「肉体」と呼ぶことがある。)
 池井は二度書いている。

心の中でのことなのだから

心の中でのことだけれど

 「心の中」の「こと」とは何か。
 池井が「からたちの花」を歌い、その歌を聞いた花見の客が拍手をした。--それは、どういうことなのか。池井には、そのとき鬱屈があった。どう表現していいかわからず、ただ声を張り上げて歌を歌った。聞いた人は、池井の鬱屈(その歌にこめた思い)は知らない。ただ、池井が何らかの思いを抱いて、声を張り上げて歌を歌っているという「こと」はわかる。歌っているという「こと」がわかるとき、また池井が何らかの思いを抱いているという「こと」もわかる。そのとき、叙事(歌っているということ)が抒情(歌に思いを託しているということ)にかわり、その抒情のなかで、人は、一体になる。
 思っている「こと」は正確にわからなくても(だいたい他人の思いなどは正確にはわからない)、そこに起きている「こと」に触れて、思っていく「こと」の方へ近づいていく。このとき、人は自分の「こころのこと」を少し忘れる。自分の「こころのこと」を少し忘れて、他人の(池井の)「こころのこと」を少し考える。
 他人のこころのことを考える--これを池井は「やさしい」と定義している。
 この「やさしい」の定義は、昔からかわらない。誰が考えても「やさしい」の定義はそこへ落ち着く。--この「必然」の思考、それが「思想」というものだ。

やさしさに包まれていると思った。

みんなみんな、やさしかったよ。

 「心の中でのこと」と同じように「やさしい」も二度繰り返されている。繰り返すことで、池井は、それを、「思いつき」ではなく、いつも考えていること(思想)にする。思想は、同じことばを繰り返すことでたしかなものになる。池井は繰り返すことで、それをたしかなものに「する」。
 と、考えると「思想」というものが、いかに平凡で、ありきたりなものであるかがわかる。逆に言うと、平凡で、ありきたりでないものは思想ではないとさえ言える。平凡で、ありきたりで、わかりきったこと以外を、人は他人とは共有できない。
 さらに言うと、どんなことばも平凡でありきたり、わかりきったことにならないかぎり思想とは言えない。そういう意味で、私は20世紀最大の思想家はボーボワールであると考えている。「女は女に生まれるのではない。女になるのだ」ということばで男女の不平等をボーボワールは告発した。マルクスのことばも毛沢東のことばも、ボーボワールの主張のように誰にでも共有はされていない。一部の日本の政治家は、まだ20世紀以前を生きているが、ふつうの市民はボーボワール以後を生きている。ボーボワールを忘れてしまって、男女平等を平凡でありきたりな、わかりきったことだと思っている。
 脱線したが。
 池井の詩のすごみは「必然」ゆえの平凡にある。60歳過ぎの、失恋と、「からたちの花」を歌ったときの思い出、それ以後の友人とのつきあいを、ただ書いただけのことばのすごみは、そういうことをただ書いてしまうということにある。あのとき、ひとのやさしさを感じた。--それが、どうした、と言えば、たしかにそれがどうした、である。しかし、世の中には「それがどうした」しかない。「それがどうした」を自分を整える力として人はそれぞれに「肉体」にしている。
 池井は「けれど私は変わらない」と書いていたが、ほんとうは「私は変えない」である。「やさしさ」の定義、あのとき感じた「やさしさ」を「やさしさ」と呼ぶ--その定義を変えずに生きている、と書いている。




冠雪富士
池井 昌樹
思潮社
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池井昌樹『冠雪富士』(17)

2014-07-08 09:59:52 | 池井昌樹「冠雪富士」
池井昌樹『冠雪富士』(16)

 「桃」はわかりにくい詩である。「三十三回忌を迎えた。」ということばからはじまる。会田綱雄を忍ぶ催しを池井昌樹は開いている。(主催している。)その催しに、ひとりの「先生」がやってくる。案内状に「ぼくはゆくよ」といつも返事をくれる先生である。先生は「故人の遺影を不思議そうにしげしげと、あんまり呑みも食べもせず、しかし、御満悦の様子だった。」その先生は、池井が酔いしれているあいだに「有難う」といって消えてしまう。

  雪の降る夜道を独り、桃の小枝を片手に、まぼろしの杖を突き、
まぼろしの駅まで歩き、まぼろしの電車に乗り、まぼろしの電車を
乗り替え、何処へとなく、雲を霞と消え去られたのか。

 この部分が、私は好きだ。「まぼろしの」が四回繰り返される。「まぼろし」というのは実体のないものだが、繰り返し「まぼろし」を聞いていると、その「まぼろし」こそが存在するものだという気がしてくる。
 「まぼろし」は池井にとっては「まぼろし」ではない。それは「永遠のほんとう」なのである。「永遠のほんとう」というものは「現実」には存在しない。だから、池井はそれを便宜上「まぼろし」と呼んでいる。
 ほかのことばで言いなおしたところで(言いなおしてしまえば)、それこそ他人からは「それはまぼろしだ」と批判される(否定される)ことを知っているから、池井は「まぼろし」ということばを自分で語ることで、他者からの批判(否定)を遠ざけている。
 そういうことをせずにはいられないくらい大切な「永遠のほんとう」なのである。
 
 「まぼろし」とことわった上で、池井は「まぼろし」をさらに押し進める。「先生のことは殆ど知らない」とことわった上で、池井は「永遠のほんとう」の、どこが「永遠のほんとう」なのか、それを書く。

                    そういえば、きみとは
同郷だからな、という御言葉を何時か聞いた。郷里が何処かも忘れ
てしまった私だが、そういわれれば、幼い頃、やはり幼い先生と肩
を並べて夜空に開く大輪の花火に見惚れたような気がしてくるのだ
った。

 「気がしてくるのだった」と書くくらいだから、それは「ほんとう」ではない。でも、池井はそれを「ほんとう」と思いたい。
 池井は「夜空に開く大輪の花火に見惚れた」ことがある。それは「まぼろし」ではなく、事実である。そこに「幼い先生」が一緒にいて、一緒に花火に「見惚れた」ということが「まぼろし」なのである。でも、そのとき「だれか」がいて、やはり花火に「見惚れた」。その「見惚れた」は「ほんとう」なのだ。
 ひとが美しいものに「見惚れる」。そのことが「ほんとう」である。池井は、その「ほんとう」を肉体で覚えている。
 そして、その「見惚れる」という「ほんとう」をだれかが一緒に体験しているということも感じている。だれかが一緒に「見惚れて」いなければ、花火はあんなにうつくしく開くはずがない。池井独りでは受け止められないくらいの美しさ。それは「だれか」が一緒に「見ほれて」いるから美しい。
 そして、その「見惚れる」という「放心」のとき、池井はもちろん幼いのだが、「先生」もまた「幼いいのち」に帰っている。「年齢」は「まぼろし」のように消えて、「幼い」という「共通のもの/こと」が「現実」として、そこに生きている。
 年齢を超越して、時間を越えて--つまり「永遠」として、「見惚れる」。「見惚れる」ということをだれかと一緒体験する(共有する)とき、そこに「永遠」があらわれる。
 「永遠」は時間を超える。だから、詩の初めには座いすに腰かけている老人だったのに、花火を見るときは池井と同じ「幼いいのち」になり、それから

   あれからもはや長い長い歳月が流れ、百回忌を迎える今年、
いくらなんでも、と躊躇しつつお送りした御案内にただ一言、「ぼく
はゆくよ」と。先生の御尊名を、今も存じ上げない。
 
 と詩はつづく。「三十三回忌」はいつの間にか「百回忌」になる。「御案内」には宛て先の名前と住所が必要なのだが、その先生の「御尊名」を知らない。それなのに「ぼくはゆくよ」という返事はかえってくるという奇妙なことも起きる。
 この非現実(まぼろし)が「まぼろし」でなくなるのは、池井が、その「先生」を生きていると信じるときにだけ、そうなる。「まぼろし」ではなく、たしかに池井にとっては「生きている」。
 その「先生」の口癖は「ぼくはゆくよ」。これは、池井のいるところへ「ぼくはゆくよ」である。池井が思うとき、その「先生」はあらわれて、一緒に時間をすごす。何かに「放心する」という時間をすごし、その「放心」のなかで、池井と一体になる。

 「放心」のなかでの「一体」。
 それは、私のような「他人」からは、とてもわかりにくい。池井が「放心」してしまっていて、それを説明しようともしない(説明できない)のだから。
 でも、それは存在する。
 そういうことは、起きる。

 この「先生」を「会田綱雄」と言いかえると、この詩はとても「わかりやすく」なる。桃にちなんだ忌日のつどい。そこへ会田綱雄は帰って来て、「あ、おれは死んだか。でも、こんなふうにみんなが集まって、酔いしれて、ほうけている(放心している)。これはいいもんだなあ。ここに『永遠のほんとう』がある。おれの求めていたものがある」--そうつぶやいている。その声を池井が聞いている。--でも、そんなふうに読んでしまうと、「理が勝ちすぎる(論理的になりすぎる)」。そして、詩ではなくなってしまう。「先生」をだれかに固定するのではなく「まぼろし」のままにしておく方がいいのだ。「御尊名を、今も存じ上げない」ままが、会田綱雄と一緒に、「ほんとうの永遠(詩人)」に会うことができるのだから。
 池井は会田綱雄に会うとき、会田綱雄ではなく、「永遠にほんうとの詩人」に会っているのだから。


谷川俊太郎の『こころ』を読む
谷内修三
思潮社
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池井昌樹『冠雪富士』(16)

2014-07-07 10:36:23 | 池井昌樹「冠雪富士」
池井昌樹『冠雪富士』(16)(思潮社、2014年06月30日発行)

 「冠雪富士」にかぎらないが、今回の詩集は「日記」のように読むことができる。ある日、あのとき何をしたのか……それを淡々とつづっている。「冠雪富士」は池井の誕生日の一日を記している。

晴れて還暦、定年を迎えた。こんな出来損ないが三十四年ものあい
だ、曲がりなりにも同じ本屋でいさせてもらえた。僥倖のほかはな
い。細やかなそのお祝いに、というわけでもないが、妻と久々連れ
立って表参道まで谷内六郎展を観に出掛けた。混み合う朝の井の頭
線の車窓から、見事に雪を頂いた富士が一瞬、歓声を挙げる間もな
く過ぎ去った。それは驚くばかり間近で鮮やかだった。

 タイトルは、この一瞬見えた富士からとっている。しかし、この富士はそのあと詩の主役になるわけではない。富士のことは、これっきりである。ほんとうの主役は、その富士の印象「驚くばかり間近で鮮やかだった。」にとってかわる。
 谷内六郎展を見て、谷内六郎はこの世にはもういない。この一日がやがて跡形もなくなるように、ひとの一生もまたあとかたもなく消え、池井の誕生日を知っているひともいなくなるだろう、というような、その日の思い浮かんだことが思い浮かんだ順に書きつらねられ(まさに、子どもの日記だね)、それがその後……。

      誕生日を知るものなんか金輪際もうないんだろうな、
酔いにまかせて独り言ううち、つましい尾頭付を皆で囲んだ幼い日
が思い起こされ、矢も楯もたまらず、いまは施設で暮らす郷里の母
に電話した。「二月一日は何の日じゃ」。「何の日じゃいうて、まさき
の誕生日じゃろうが」。息子は胸が熱くなった。「おなかすかしたま
さきがまっとるけん、早よう帰らんならんのじゃ」。「そのまさきと
は、このわしのことじゃろうが」、とはいわなかった。

 時間が突然、ここで止まる。そして、その止まった時間のなかに、富士とは別の「間近」と「鮮やか」が突然あらわれる。
 坂出の施設に暮らしている母は遠く離れている。その母と話すとき、その遠い距離は消える。間近になる。母は池井の誕生日を覚えている。覚えていてくれたということが、「遠い」距離をちぢめる。「間近」にする。さらに池井を心配して「おなかすかしたまさきがまっとるけん、早よう帰らんならんのじゃ」と母は言う。認知症なのか、現実(息子は坂出の家にはいない)がわかっていない。けれど、そのわかっていない「肉体」のなかに、昔のままの母が生きていて、池井のことを思っている。自分のことを思っているのではなく、いつも池井のことを思っている。その思いが、さらに母を「間近」にする。そして「鮮やか」にする。
 それは朝の電車のなかから見えた富士、冠雪した美しい富士のように、ぱっと過ぎ去っていくものかもしれないが、それを見たひとにははっきりと見える。
 この美しさをどうしたものだろう。何をつけくわえるべきだろう。何もつけくわえるものがない。それはちょうど、母に対し「そのまさきとは、このわしのことじゃろうが」、とは言わなかったのに似ている。言うと違うものになる。

 この詩には、池井がその日出会った「間近で鮮やかな」なものが書かれている。そして、その書き方はまるで小学生の「日記」のように時系列順に綴られているのだが、一か所、不思議なことばの運動がある。

息子は胸が熱くなった。

 「主語」が「息子」になっている。
 それまでの文には「主語」が省略されている。しかし、その「主語」はすぐに「私」であることがわかる。書き出しは「主語」を補って書き直せば、「私は晴れて還暦、定年を迎えた。」である。「息子は」ではない。「息子」があらわれる直前の文章も「主語」を補えば「私は郷里の母に電話した」になる。
 それが突然、「息子」にかわる。なぜなんだろう。「私は胸が熱くなった。」ではなぜいけないんだろう。
 これはとてもむずかしい問題なのだが。
 私は「息子が」と「主語」を変更したところがこの詩を美しくしていると思う。「私は胸が熱くなった。」では六十歳の池井がそのままあらわれてきて、とてもセンチメンタルになる。ひとりで胸を熱くしていればいいさ、と言いたくなる。あんたの感激なんかにつきあっていられない、と冷たく言い放ちそうになる。こんな「日記」なんか、私には関係がない、と言いたくなる。
 ところが「息子が」と書かれた瞬間、その「息子が」を読んだ瞬間、そこから「池井」が消える。六十歳の池井が消えて、「母と息子」という関係がぱっと飛びこんでくる。池井と母のことを書いているのに、池井ではなく「母と息子」という純化された(?)関係、その関係のなかにある「愛情」という「ほんとう」が噴出してくる。
 「母と息子」というのは抽象的で、ほんとうなら、そういう抽象はつまらない「流通概念」なのだが、ここに書かれているのは「抽象以前」の何かだ。「いのちのつながり」が「抽象」にならずに、「抽象」を突き破って「間近に鮮やかに」動いている感じがする。
 池井は「息子」という「具体」になっている。それは「私」よりも生々しい。「息子」と一緒に、そこでは幼い日々の時間が一緒に動いている。施設に入る前の母、幼い池井を見守っている母が一緒にいる。
 その母が、池井が幼いときのままの元気な体と頭でいたのなら、「そのまさきとは、このわしのことじゃろうが」という「軽口」で母に何かを語ることもできたのである。でも、いまは、それができない。そういう「哀しみ」が、これもまた「間近」に「鮮やか」に見える。


冠雪富士
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池井昌樹『冠雪富士』(15)

2014-07-06 11:22:02 | 池井昌樹「冠雪富士」
池井昌樹『冠雪富士』(15)(思潮社、2014年06月30日発行)

 「秋天」に書いてあることは単純だ。しかし、そのどこに詩があるのか、それをうまく言えるかどうかはこころもとない。「ここ」と強く感じるけれど、その「ここ」を説明しようとすると、うーん、説明がしにくいなあ、と思ってしまう。

ほんとだったらいまごろは
うんどうかいのはなびがはじけ
こうていのくさむらで
かけっこれんしゅうしていたな
こおろぎいっぱいはねてたな

 ひゃくえんまでときめられた
 おやつはどれにしようかな
 しろいまえかけしめたはは
 もぎてんにいてわらったな
 ほんとだったらいまごろは

 秋の運動会。そのことを思い出している。秋、空が晴れ渡ったいまごろ。「秋天」と呼ばれるその季節。
 その「いまごろ」は、「いま」ではない。でも「いまごろ」という。過去なのに「いま」と呼ぶ。そして、それを「ほんとだったら」と引き寄せようとするとき、引き寄せられないものがある。「いま」とは絶対に重ならないものがある。そのために「ほんと」が「ほんと」にならない。だから「だったら」と言わないといけない。
 この、日本語の文法破りの、「論理」では説明できない部分に、池井の詩がある。

 これを、どう言えばいいのかなあ。

 なぜ、「ほんと」じゃないのか。
 そのことを池井は3連目で言いなおしている。

だからほんとじゃないんだな
いなかのしせつにいるははも
とかいでくさっているぼくも
つとめがなくなりそうなのも
ほんとはほんとじゃないんだな

 いや、言いなおそうとして、言いなおせなかったと言うべきなのか。
 「ほんと」は子どものときの、あの秋の日の運動会にある。母がいて、運動場の隅の模擬店で「おやつ」を売っている。どのおやつにしようか、百円を握り締めて(東京オリンピックのころ、百円玉が登場したな)、迷っている。その迷いを母が見ている。あのときが「ほんと」であって、「いま」は「ほんと」じゃない。
 施設に入っている母--それは、「ほんと」じゃない。
 けれど、それは「現実」。

 「ほんと」と呼ばれているのは「現実」ではない。
 では、過去なのか。あの運動会の一日が「ほんと」か。
 うーん、どうも、それも違う。
 「ほんと」は「現実」ではなく、「幸福」のことなのだ。

幸福だったらいまごろは
うんどうかいのはなびがはじけ

 なのだ。
 これはもう一度言い換えて、

小学時代の、秋のいまごろ、
うんどうかいのはなびがはじけるころ、
あのときは幸福だった

 と読み替えると、池井が「ほんと」ということばで語ろうとしているものがわかる。
 「幸福」と「いま」が堅く結びついている。「いま」という瞬間が「幸福」と結びついて「いま」を越えて「永遠」になる。それが「ほんと」。池井の言う「ほんと」。それが「時間(いま)」を越えているものだからこそ、それから何十年もたった「いま」も、あのときの「いま」をそっくりそのまま、肉体で感じてしまう。あの「秋天」の光を思い出すだけで、「永遠」に「肉体」が包まれる。
 いまある、どんな現実も「幸福(永遠)」と結びつかない限り「ほんと」ではない。
 施設にいる母、仕事を失いそうな池井--それは「現実」だが、「幸福」ではない。「幸福」を傷つける。だから、そういうものを「ほんと」と言ってはいけない。

 「幸福」だけを「真実(ほんと)」として追い求める池井の切実さが「ほんとだったらいまごろは」という不思議にねじれた日本語になっている。
 もう六十歳をすぎた池井が、小学校の運動会で走っているというようなことは「現実」的には不可能である。それでも、あのときを「ほんとだったら」と呼び寄せてしまう力、「幸福」のとろけるような時間をいつでも感じてしまう力、その何と言えばいいのだろう、甘えん坊なのか、欲張りなのかよくわからないが、不純なものがいっさいない力--それが現実とぶつかる瞬間の動き、ぶつかってことばがねじれる瞬間に、詩、と呼ぶしかないものが動いている。

 「幸福」は、どこにある。

 ほんとだったらいまごろは
 そろそろべんとうをひらくころ
 ははのむすんだおむすびの
 ぬくもりのまださめぬころ

 だれかと(母と)「一緒に」いる、それが池井にとっての「ほんと(幸福)」である。愛してくれるひとと一緒でない時間は、全部、まちがっている。
 母のつくったおむすびのぬくもりは、炊いたごはんのぬくもりであると同時に、それを握った母の手のぬくもりでもある。その手のぬくもりを、池井は食べていた。それが「ほんと」。そういう暮らしが「ほんと」なのだ。
 いま、池井の遠くにあって、その「ほんと」は池井を見つめている。
 それに見つめられて池井は「幸福」であり、同時に「不幸」である。「ほんと」が遠くにあることがわかるから、かなしい。どんなに遠くに離れても、「ほんと」は池井の肉体から消えることはない--それが、「間違い(ほんとの反対)」だらけの現実のなかで、より哀しみをかき立てる。
 そして、池井はこの詩を書くとき(書いているとき)、その「哀しみ」がまた「いま」を越えて存在する「永遠」であるということも知っている。
 「幸福の永遠」と「哀しみの永遠」が、この詩のなかで出会っている。



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