池井昌樹『冠雪富士』(14)(思潮社、2014年06月30日発行)
「忙」は、忙しくてころが荒んだときに、ふっとその「すさみ」を消すようにあらわれる思い出を書いている。
途中の「それはたとえばふうりんのおと」からつづくことばは、思い出の「もの/こと/おと」を書いていて、あ、池井はこういうことを思い出しているのだなあとわかる。「おと」「おと」「のど」「もと」と、「お」のつらなる「脚韻」が池井には珍しいかもしれない。暗く静かな響きが、「いま/ここ」から遠い感じを誘っていて、それがよけいに「あ、これがなつかしいのか」「池井はこういうものにこころをときめかせたのか」と妙にしんみりした気持ちで読んでしまう。
しかし、それがくっきりと見えるだけに、
これは、ちょっとやっかいだなあ。
「いま」があたらしいのは、わかる。でも、「むかし」があたらしいとは? 「いま」と「むかし」は反対とはいわないけれど、同じものではない。それが同じ「あたらしい」と呼ばれるのは、なぜ?
どんな思い出も、思い出す瞬間には「あたらしい」まま思い出してしまう。それを体験したときのまま、その体験が「いま」であるかのように思い出してしまう。小学1年生のときに描いた絵を小学6年生のときに見て「色があせて古くなったなあ」と感じる、その「古い」という思い出さえ、思い出すときは「いま」体験しているようにして感じてしまう。「いま」と「過去」の「時」と「時」の「あいだ」がなくなって、どんな「過去」も「いま」にぴったりと密着している。それが「思い出す」ということ。「いま」の「肉体」で「過去」を思い出す。だから、その瞬間瞬間に「過去」は更新され「あたらしい」ということかな?
でも、それがどんなに「あたらしく」ても、それは、「いま」は「もうない」。
いや、これは正確ではないだろう。
池井が聞いた「ふうりんのおと」は「いま」もどこかで鳴っている。「いま/ここ」にないだけであって、「いま」もどこかにある。「たなばたかざりのゆれるおと」だって、どこかにある。「ない」とは断言できない。「つばめのあかいのど」も、あすは遠足だと思って胸をときめかせながら眠る子どもの枕元のリュック--それだって「いま」どこかにあるはずだ。
でも、池井の「いま/ここ」にはない。
「いま/ここ」にはないけれど、それをくっきりと思い出すことができる。
では、「いま/ここ」にあるのは何なのか。
思い出すという「こころ」である。
そのこころについて、池井は最後におもしろいことを書いている。
最後の行は、一種の倒置法で、4行前の「いまもよせてはかえすのだ」と「意味」としてはつながるのだが……。
「いまはみえないこころ」って、何?
これは、「いまみえるこころ」って、何? と問いを変えた方がわかりやすいかもしれない。「いまみえるこころ」とは何なのかということから考えた方が、手がかりがつかめるかもしれない。
「いまみえるこころ」。それは昔のことを思い出しているこころ。そして、そのむかしのことは「いま」ここでおきていることと同じようにあたらしく感じることができる。それな「のに」(あるいは、それゆえに)、とてもさびしい。
なぜ?
それは、そういうもの、「ふうりんのおと」や何かは、ほんとうは「いま」のこころへ帰ってくるからではないのだ。それは「いまのこころ」に帰ってくるような素振りを見せながら、実は、その「ふうりんのおと」が池井のこころを放心させたあの一瞬のこころ、あの「時」へと帰っていくのだ。あのときの放心、陶酔--その純粋な豊かさを味わうことができるこころ、「いま/ここにないこころ」へと帰っていく。
なつかしい思い出がある。大好きだった何もかもを思い出すことができる。でも、それをどんなに思い出しても、あのときと同じ陶酔にはひたれない。
これは逆言えば、大好きだったものたちに、「いま/ここ」へ帰ってくるな、あの幸せな陶酔のこころこそがおまえたちの棲家(よりどころ)なのだ、ということかもしれない。
「いま」の池井は「忙しすぎる」。「心」を「亡」くしている。
「いまもむかしもあたらしい」のは「頭」ではわかるが、いまのこころは「あたらしい」を放心して受け止めることができない。酔うことができない。池井は、いつでも放心していたい。
放心できない哀しみが、怒りに汚されることなく、純粋に書かれている。
「忙」は、忙しくてころが荒んだときに、ふっとその「すさみ」を消すようにあらわれる思い出を書いている。
いまもむかしもあたらしい
のに
いまはもうないものばかり
いまごろこころにうかぶのだ
それはたとえばふうりんのおと
たなばたかざりのゆれるおと
つばめのひなのあかいのど
えんそくのひのまくらもと
こころときめかせたものばかり
むかしながらのさざなみのよう
いまもよせてはかえすのだ
いまもむかしもあたらしい
のに
いまはみえないこころへと
途中の「それはたとえばふうりんのおと」からつづくことばは、思い出の「もの/こと/おと」を書いていて、あ、池井はこういうことを思い出しているのだなあとわかる。「おと」「おと」「のど」「もと」と、「お」のつらなる「脚韻」が池井には珍しいかもしれない。暗く静かな響きが、「いま/ここ」から遠い感じを誘っていて、それがよけいに「あ、これがなつかしいのか」「池井はこういうものにこころをときめかせたのか」と妙にしんみりした気持ちで読んでしまう。
しかし、それがくっきりと見えるだけに、
いまもむかしもあたらしい
これは、ちょっとやっかいだなあ。
「いま」があたらしいのは、わかる。でも、「むかし」があたらしいとは? 「いま」と「むかし」は反対とはいわないけれど、同じものではない。それが同じ「あたらしい」と呼ばれるのは、なぜ?
どんな思い出も、思い出す瞬間には「あたらしい」まま思い出してしまう。それを体験したときのまま、その体験が「いま」であるかのように思い出してしまう。小学1年生のときに描いた絵を小学6年生のときに見て「色があせて古くなったなあ」と感じる、その「古い」という思い出さえ、思い出すときは「いま」体験しているようにして感じてしまう。「いま」と「過去」の「時」と「時」の「あいだ」がなくなって、どんな「過去」も「いま」にぴったりと密着している。それが「思い出す」ということ。「いま」の「肉体」で「過去」を思い出す。だから、その瞬間瞬間に「過去」は更新され「あたらしい」ということかな?
でも、それがどんなに「あたらしく」ても、それは、「いま」は「もうない」。
いや、これは正確ではないだろう。
池井が聞いた「ふうりんのおと」は「いま」もどこかで鳴っている。「いま/ここ」にないだけであって、「いま」もどこかにある。「たなばたかざりのゆれるおと」だって、どこかにある。「ない」とは断言できない。「つばめのあかいのど」も、あすは遠足だと思って胸をときめかせながら眠る子どもの枕元のリュック--それだって「いま」どこかにあるはずだ。
でも、池井の「いま/ここ」にはない。
「いま/ここ」にはないけれど、それをくっきりと思い出すことができる。
では、「いま/ここ」にあるのは何なのか。
思い出すという「こころ」である。
そのこころについて、池井は最後におもしろいことを書いている。
いまもむかしもあたらしい
のに
いまはみえないこころへと
最後の行は、一種の倒置法で、4行前の「いまもよせてはかえすのだ」と「意味」としてはつながるのだが……。
「いまはみえないこころ」って、何?
これは、「いまみえるこころ」って、何? と問いを変えた方がわかりやすいかもしれない。「いまみえるこころ」とは何なのかということから考えた方が、手がかりがつかめるかもしれない。
「いまみえるこころ」。それは昔のことを思い出しているこころ。そして、そのむかしのことは「いま」ここでおきていることと同じようにあたらしく感じることができる。それな「のに」(あるいは、それゆえに)、とてもさびしい。
なぜ?
それは、そういうもの、「ふうりんのおと」や何かは、ほんとうは「いま」のこころへ帰ってくるからではないのだ。それは「いまのこころ」に帰ってくるような素振りを見せながら、実は、その「ふうりんのおと」が池井のこころを放心させたあの一瞬のこころ、あの「時」へと帰っていくのだ。あのときの放心、陶酔--その純粋な豊かさを味わうことができるこころ、「いま/ここにないこころ」へと帰っていく。
なつかしい思い出がある。大好きだった何もかもを思い出すことができる。でも、それをどんなに思い出しても、あのときと同じ陶酔にはひたれない。
これは逆言えば、大好きだったものたちに、「いま/ここ」へ帰ってくるな、あの幸せな陶酔のこころこそがおまえたちの棲家(よりどころ)なのだ、ということかもしれない。
「いま」の池井は「忙しすぎる」。「心」を「亡」くしている。
「いまもむかしもあたらしい」のは「頭」ではわかるが、いまのこころは「あたらしい」を放心して受け止めることができない。酔うことができない。池井は、いつでも放心していたい。
放心できない哀しみが、怒りに汚されることなく、純粋に書かれている。
![]() | 冠雪富士 |
池井 昌樹 | |
思潮社 |