詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

堤隆夫「凍土の森の中から」ほか

2024-06-28 23:59:23 | 現代詩講座

堤隆夫「凍土の森の中から」ほか(朝日カルチャーセンター福岡、2024年06月17日)

 受講生の作品。

凍土の森の中から  堤隆夫

歓びも 悲しみも 凍てついた
凍土の森の中から 
不遜にも花ひらく 曼珠沙華の実存よ
そは いつか視た
アウシュビッツの殺人現場の象徴か
「広場の孤独」の正午の紫外線の曳航か

雨の降る 奇妙に空気が熟した優しい日の夜
疑似症の愛に悶えながら
生あるものの死の必然に
愕然と頭を垂れ 刮目して待つ
「本当の愛に出会うまでは 死ねないよ
本当の絶望に出会うまでは 死ねないよ」
ああ なんという パンドラの箱の
パラドックスか

晩秋の氷雨に 心が凍える時
私は煩悩の日々に 終止符を打つ
「あるがままの自分でいいじゃないか
自分でやったことは 悔やむな」

亡き母の口癖だった この言葉が
今日も 私の心底で共鳴する
夜風の咽び泣きと柿の葉の風鈴の
小夜曲となって

 「本当」ということばが二回繰り返される。「本当の愛」「本当の絶望」。「本当」の反対のことばは「疑似性」と書かれている。「嘘」ではない。そして、それだけではない。「本当」の、もうひとつの反対のことばは「あるがまま」である。「あるがまま」は、なぜ、「本当」の対極にあるのか。
 堤は「本当」を、「あるがまま」よりも厳しいもの、いわば「存在しないもの」、つまり「理想」のようなものとして考えていることがわかる。「真理」と言い換えてもいいかもしれない。
 「理想」「真理」ということばのなかには「理」がある。つまり、「頭」でとらえなおした「法」のようなものがある。「真実」は、「理」ではなく「実」を含む。
 こう考えてくると、母の口癖の「あるがまま」とは「真実」のことだとわかる。
 だが、堤は、どこかで「真実」ではなく「真理」にたどりつきたいと思っている。「理(法)」にたどりつくためには、「ことば」が必要である。「ことば」を必要としている、「ことば」を支えとしているから、詩を書く。そういう堤の「生き方」(正直)があらわれた作品だが、私には最後の二行が「弱い」ように感じられる。「夜風の咽び泣きと柿の葉の風鈴の/小夜曲」は「真理」だろうか、「真実」だろうか。この二行をとおして、堤は何を見ようとしているのか。
 好意的に解釈すれば「見ようとしている」のではない、「見ているのだ」ということになるかもしれない。それこそ「あるがまま」であろうとしているのかもしれないが、「母の口癖(言葉)」を「理(あるいは法)」として「現存させる」には、少し弱いと感じる。言いなおすと、それまで動いてきた「理(法)」と向き合う力が、ふっと息を抜いた感じがするのである。

名  池田清子

310315
という同級生がいた

うらやましかった

私の名前は
数字ににはならない

しかたがないので
名字をばらして
三木 にした

 この場合の「数字」とは「暗号」のようなもの、あるいはある特別な世界の「隠語」のようなものか。ある「秘密の共通言語」をもつことで仲間意識をもつこと。そういう「世界」に入れるか、入れないか、というのは、人間のある成長期間にとってはなかなか大事なことである。その時代をすぎてしまって、傍から見ればなんでもないことかもしれないが、そうはいかないのが人間のむずかしさかもしれない。
 「うらやましかった」から「しかたがないので」までの変化、その結論(?)を「しかたがない」ということばでとらえるのがおもしろい。「しかたがない」と言いながら「しかた(法/理)」を変えているのがおもしろい。同級生とは違う「理」が、動いている。
 最終連は「なぞなぞ」だが、「なぞなぞ」というのは、ちょっと違った「理」を差し出して見せる「遊び」である。

ローザの野牛*  青柳俊哉

涙におおわれている世界
すべてが眼の外側をながれる

見える心が
野牛の平たい角を垂直に空へ伸ばす
ルーマニアの星の褥(しとね)に贖(あがな)われるようにと

エデンへ投げ捨てられた女
運河を水牛が泳ぐ
傷を文字でみたして

血は凝固し そして
星へ融解する

涙へ ふたりは合流する
世界の外側で

*ローザ・ルクセンブルクの手紙をモチーフとしたパウル・ツェランの詩「凝固せよ」(詩集「息の転換」所収。中村朝子氏訳及び訳注。青土社)から発想しました。

 「外側」ということばがある。「眼の外側」「世界の外側」。「眼の内側」「世界の内側」ということばは書かれていないが、この詩には、その書かれていない「眼の内側」「世界の内側」と「眼の外側」「世界の外側」が交錯する。
 どのようにして?
 「涙」を媒介にして。あるいは「傷(血)」を媒介にして。それは「眼の内側(心)」からあふれ、「世界の外側」をつつむ。「世界の内側」からは「涙にならない涙」があふれてきており、それは「眼の外側」をつつむ。「眼」は「涙」をとおして、「存在しない涙」にふれる。そして、「世界の涙」になる。
 「合流する」と、青柳は、ことばにする。
 青柳は詩の誕生のきっかけを注釈で説明している。何かに触発されて、ことばを動かす。そのとき、「ことば」は出合うだけではなく「合流する」。
 と書いて、いま、思うのだが、堤の最後の二行が「弱い」と感じてしまうのは、堤のことばと母のことばが「出合って」はいるけれど、「合流(融合)」にまで達していないからではないか。「共鳴」ということばがあったが、その「共鳴」がつくりだす「和音」が「小夜曲」であるのは物足りないのである。

雨音  杉惠美子

夕暮れ時
少しずつ辺りが暗くなっていく その時
少々 しがらみのない自由を楽しむことにも飽きて
かと言って 人と会うのも面倒で
ひとりの椅子の子守り歌を聞いている

私の中のこだわりも 余白も
すべて すとんと落として 忘れてしまった
わたしの呼吸にのせる
雨音だけがある
 
 「かと言って」が複雑である。「かと言って」を中心にして二つの世界があるのだが、それはほんとうに「二つ」なのだろうか。もし「真理」というものがあるのだとしたら、それは「かと言って」ということばで「二つ」を引きつけてしまう「私/わたし」という「存在」かもしれない。
 杉は「私」「わたし」と書き分けるのだが。
 杉は「合流」のかわりに「のせる」ということばをつかう。「呼吸にのせる」。呼吸は、吸うだけでも、吐くだけでもない。「往復」がある。
 「雨音」(雨)は最後に登場するだけなのだが、とても効果的。「子守り歌」が聞こえてくる。それは「呼吸」なのか「雨音」なのか、わからないくらいだ。

 

 

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Estoy Loco por España(番外篇449)Obra, Calo Carratalá

2024-06-28 01:00:12 | estoy loco por espana

Obra, Calo Carratalá 

 Dos cuadros. ¿Fue un cuadro dividido en dos o se convertirá en uno a partir de ahora? Esta pregunta no tiene sentido.
 Porque los cuadros de Calo lo tienen todo. En el pasado vi este paisaje. En el presente veo este paisaje. En el futuro veré este paisaje. Aquí hay " todo". No se trata de agua, tierra o cielo. Aquí hay "todo tiempo" o "tiempo completo" ;  pasado, presente y futuro, y existe como uno.
 "Tiempo completo". Este "completo" se llama "無 nada" en la filosofía oriental. O llámalo "空 vacío". Rechaza el pasado, rechaza el presente, rechaza el futuro. Aquí radica la "contradicción absoluta" que existe en ese momento.
 No se puede dividir ni integrar. Porque este es completo. En medio de esto, me quedo atónito y me pierdo. No sé qué escribir.

 2枚の絵。それは1枚が2枚にわかれたのか、それともこれから1枚になるのか。この問いは無意味だ。
 Caloの絵にはすべてがあるからだ。私は、かつてこの風景を見た。私はいまこの風景を見ている。私はこれからこの風景を見るだろう。ここには「すべて」がある。水、大地、空のことではない。過去・現在・未来というすべての時間がひとつになって存在している。
 「すべての時間」。この「すべて」のことを、東洋の哲学では「無」と呼ぶ。あるいは「空」と呼ぶ。過去を拒絶し、いまを拒絶し、未来を拒絶する。その瞬間に存在する「絶対的矛盾」が、ここにある。
 それは分割することも、統合することもできない。そのなかで、私は呆然として、私自身を失う。何を書いていいか、わからなくなる。

 

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