詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

犬丸治「歌舞伎座『三月大歌舞伎』」(2)

2025-03-12 14:22:17 | その他(音楽、小説etc)

犬丸治「歌舞伎座『三月大歌舞伎』」(2)(読売新聞、2025年03月11日夕刊、西部版・4版)

 歌舞伎で何を見るか。歌舞伎をほとんどみたことがない私が、歌舞伎の批評を書き続けている犬丸の文章を批判しても無意味かもしれないが、少し補足しておく。
 きのう引用した文章の前に、次の文章がある。

白装束姿で切腹する菊之助の判官=写真右=が清冽で、客席も粛然と、咳ひとつしない。

 さて、この「清冽」「粛然」を引き出したのは「白装束」だけなのか。それでは芝居を見たことにならないだろう。
 写真を見ればわかることだが、菊之助の腰が少し浮いている。ここに芝居のポイントがある。切腹は座ってやるものだが、菊之助は腰を浮かせている。なぜか。ほんとうに力を入れるには正座のままでは無理がある。力を込めるには全身の力が必要である。そのために、自然と、腰が浮く。足に力を入れると正座したままではいられなくなるわけである。菊之助の「全身にこもる力」が「清冽/粛然」を引き出しているのである。
 そして、それが「全身の力」であるからこそ、刀を握った手は(指は)力がこもりすぎて、切腹が終わった後も刀から離れない。「全身の力」が指を硬直させている。それほどまでに「全身の力」がこもっている。
 だからこそ、松緑の由良之助は、その指をほどこうとして、撫でるのである。
 松緑の指、菊之助の指は、よほどいい席でないと、それが見えないだろう。しかし、正座から腰を浮かし、足に(全身に)力を込める動き、その肉体のありようは、劇場のどこからでも見えるだろう。菊之助は、それを見せている。そして、その動きに「清冽/粛然」が呼び寄せられるのである。だから緊張して、咳もしなくなる。役者の「肉体」の動きに観客の「肉体」が反応するのである。
 芝居(舞台)は、「頭」で見るものではなく、「肉体」で見るものである。観客の「肉体」が舞台に参加したとき、「劇場」は生きる。その体験を味わうために、観客は「劇場」へ行くのだと思う。その興奮がなければ劇場へ行く意味がない。

 指の動き(手の動き)で思い出すのは、団十郎の「俊寛」である。(だと、思う。はっきり覚えていないが、何やら写真を見た記憶がある。)俊寛が島を去っているひとを見送るシーン。崖の上。手を伸ばして、別れを告げている。このとき、団十郎は手で(指で)芝居をしているのだが、これが効果的なのは、崖の上、中空に存在するのは、彼の手(指)だけである。観客は、その手の動きに吸いよせられる。それを「見てしまう」。それしか「見えない」。観客の視線を集中させて、観客の目がはっきり手を見ることを知って、指で、手で演技する。それは松緑が菊之助の指に触れる演技とはまったく違うのである。
 団十郎は、手、指の動きで「全身」にこもる悲しみを表現する。菊之助は「腰(全身)」の動きで指にこもる力を表現する。その表現の差に、歌舞伎の(あるいは芝居の)醍醐味がある。
 (読売新聞の写真は、菊之助が腰を浮かしているシーンをとらえているが、トリミングがへたくそである。松緑の左半身をカットすれば、読者の視線は菊之助に集中する。菊之助の肉体の動きが鮮明になる。そうすれば、迫力が出るはずである。臨場感が出るはずである。)

 批評の末尾。これは前回触れなかったが、ここも傑作である。

「引揚げ」では、尾上菊五郎の服部逸郎が義士一同を馬上から見送り大団円。

 これも読売新聞には写真が載っているのだが、なんとも「締まり」がない。義士はばくぜんと座っているだけで「肉体」を感じさせない。彼らは芝居をしていない。衣装を着ているだけである。菊五郎にしたって、馬に乗っていなかったら義士に紛れ込んでしまいそうだ。(だから馬に乗っているのだろう。)つまり、まったく芝居をしていないのだ。
 写真で見る限り、馬子が「目立ってはいけない」と必死になって姿を隠そうとしているが、それが逆に目立ってしまう。それくらい奇妙である。
 このあたりの問題、さらには「台詞回し」についての言及もほしい。犬丸の今回の批評には「声」のことが何も書いてない。「声」は、その場で消えてしまう。その瞬間にしか存在しない。それについて言及できるのは、その場に立ち会った人間(観客)だけなのだが、台本(というのかどうか知らないが)と写真を見れば書けるような批評は批評とは言えないだろう。

 

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