詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ウッディ・アレン監督「教授のおかしな妄想殺人」(★★★★)

2016-06-13 02:25:44 | 映画
監督 ウッディ・アレン 出演 ホアキン・フェニックス、エマ・ストーン

 ウッディ・アレンの映画は、アメリカ映画にしては緑がとても美しい。私の印象で言えば、イギリス映画の緑に似ている。陰影があるのだ。
 で。
 最近の映画に特徴的なのだが、この緑の陰影の、「影」のなかで女優を撮ることが多い。実際にシーンの数を比較したわけではないのだが、なぜか、そう感じる。(「マジック・イン・ムーンライト」のエマ・ストーンの撮り方で、私は、それに気がついた。)
 大学のキャンパスをホアキン・フェニックスとエマ・ストーンが会話しながら歩くシーンなんか、背後の芝生というか広場には光があふれているのに、手前の二人は「緑陰」のなか。木の緑も、日の当たった部分と影になった部分をしっかりとみせている。
 私は目が悪いので、この「緑陰」のなかな表情というのは、ちょっとつらいのだけれど、「緑陰」のなかだと、女優の肌がやわらかな透明感をもってひろがる。目の色との対比も静かになり、「毒」がなくなる。
 「毒」というと、まあ、変かもしれないけれど。
 たとえば、「テス」のナスターシャ・キンスキーのような、あ、この目で見つめられたら何でもしてしまう。この肌、唇に触れることができるなら、自分がどうなってもいいと感じるような、強い「魔力」がない。
 とても静か。何か、「のみ込まれてしまいそう」というよりも、「支えてくれる」という感じかもしれないなあ。「落ち着ける」という感じかなあ。
 昔から、ウッディ・アレンは、女性の「純な感じ」に支えられる男というものを描きつづけているような気がするけれど、(たとえば「マンハッタン」)、最近、それがいっそう強くなっていると感じる。
 エマ・ストーンは、撮影の仕方によっては、とても強烈な「顔」になるはずなのに、一歩引いている感じ。遠くから目立たなくてもいい、そばにいるときだけわかってもらえればいいという感じということもできるかな?
 それがね。
 書いていることと矛盾するけれど、「どうして私のことをわかってくれないの」という感じでホアキン・フェニックスに迫るところが、矛盾しているだけに、とてもおもしろい。静かな「緑陰の映像」に、激しい感情が動く。この対比が、わっ、刺激的。
 ウッディ・アレンは、ほんとうに女の描き方、女優のつかい方がうまい。
 一方、ホアキン・フェニックス。すごい中年太り。最初はシャツの下に詰め物でもして「体型」をつくっているのかと思ったが、裸になって醜い腹をさらけだしている。本物だったのか、と思わず、うなるね。
 この、ホアキン・フェニックスだが、いままでのウッディ・アレンの「主演男優」とはかなり異なる。「ブルージャスミン」のケイト・ブランシェットが異質の女優だったように、とても強烈。演技のアンサンブルをはみ出して動く。ストーリーではなく、「肉体」そのものが、何かを語っている。「役」ではなく、そこにしかいない「個人」になっている。こんな役者だったかなあ、と驚いてしまう。
 ウッディ・アレンの映画では、女優ばかりがアカデミー賞を取っているが、この演技でホアキン・フェニックスが賞を取るならば、ちょっとおもしろいなあ、と思う。
                     (KBCシネマ1、2016年06月12日)






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