監督 シャロン・マグアイア 出演 ミシェル・ウィリアムズ、ユアン・マクレガー、マシュー・マクファディン
冒頭に幼い息子と遊ぶ母親のシーンがホームムービーみたいな感じでつづく。あ、こんなことをしていたら終わらない--と思ったら、やっぱり終わらない映画だった。
いや、ちゃんとストーリーがあって結末があって、そのうえ「意味」までしっかり表現されているのだけれど、わたしはこういう映画では「終わった」という満足感には到達できない。
なんだ、これは。
やっていることはわからないではないけれど、怒ってしまうなあ。
テロがあって、息子と夫を奪われた女が、テロには負けない、女は息子のいのちを奪われても新しいいのちを産みつづける。テロは女がいのちを産むという力までは破壊できない--それはそうだけれどさあ、違うんじゃない? そんな奇妙な哲学でテロに対抗するのは、間違っていない?
片方にテロを追及する警察組織があり、一方にテロ組織がある。その間で、「一般市民」である一人の女が、個人的な後悔(息子と夫がテロに巻き込まれ死んでいったとき、女は恋人とセックスをしていた。そして、そのときテレビはテロの現場を偶然放送していた)と悲しみにのたうつ。のたうつだけではなく、恋人からテロの真相(なぜテロが防げなかったか、という真相)を知る、というのだけれど。
あのさあ。
テロもそうだけれど、テロがあると知りながらそれを防止しなかった警察に対する怒りが、あまりにも小さくない? 何百人と死んでいる。テロはもちろん悪だけれど、それを未然に防ぐことを怠った警察はもっと悪くない?
そういう権力の、自分勝手の都合に対して、この女は、やはり何があろうと女は新しいいのちを産みつづけ、いのちをつなぐことで対抗する--なんて、言えるのかなあ。何か、根本的な発想が間違っている。
映像は、あくまで女の視点にこだわり、「組織」なんかも、組織の全体は見えずに、彼女が接する夫の上司とのやりとりだけなんだけれど。これも、よくいえば「女」の視点にこだわった映画といえるけれど、そういうこだわり方というのは女を馬鹿にしていない? 女は自分の知った悪と戦い社会そのものを改善するために努力するのではなく、そういうことをしなくても、子供を産み、育てる、いのちをつないでいくということで、社会のあり方に抵抗するというのは、なんとも変じゃない? 女が、テロリストの妻と息子と、簡単に「和解」してしまうのも、納得がいかないなあ。
「私小説」にこだわり、私小説としての映画にする、というのは、それはそれで悪くはないけれど、テロ、テロ撲滅組織の問題点と直面した女の生き方を私小説にしてしまうのは、どうにも納得できないねえ。
映画ではなく、小説だったら、いくぶん印象は違うかもしれない。小説はあくまでことば。ことばの迷路。ことばがどこまでことばにならないものをことばにするか、ということが小説の力そのもの。でも、映画はねえ。映像で、映像にならないものを映像化する--まあ、たしかにそういう試みをしているのだけれど、でも「幻想」や「記憶」はどんなにがんばってみても、映像を深化させない。現実のなかで見落としていたものをスクリーンに、いま、ここに、これがある、と映像として見せてこそ、映像の迷路がはじまるのだからね。
表現メディアと、表現のあり方を間違えた映画だねえ。
ミシェル・ウィリアムズは懸命に「女」そのものを裸にしようとしているのだけれど、「仕掛け」が間違っているね。
冒頭に幼い息子と遊ぶ母親のシーンがホームムービーみたいな感じでつづく。あ、こんなことをしていたら終わらない--と思ったら、やっぱり終わらない映画だった。
いや、ちゃんとストーリーがあって結末があって、そのうえ「意味」までしっかり表現されているのだけれど、わたしはこういう映画では「終わった」という満足感には到達できない。
なんだ、これは。
やっていることはわからないではないけれど、怒ってしまうなあ。
テロがあって、息子と夫を奪われた女が、テロには負けない、女は息子のいのちを奪われても新しいいのちを産みつづける。テロは女がいのちを産むという力までは破壊できない--それはそうだけれどさあ、違うんじゃない? そんな奇妙な哲学でテロに対抗するのは、間違っていない?
片方にテロを追及する警察組織があり、一方にテロ組織がある。その間で、「一般市民」である一人の女が、個人的な後悔(息子と夫がテロに巻き込まれ死んでいったとき、女は恋人とセックスをしていた。そして、そのときテレビはテロの現場を偶然放送していた)と悲しみにのたうつ。のたうつだけではなく、恋人からテロの真相(なぜテロが防げなかったか、という真相)を知る、というのだけれど。
あのさあ。
テロもそうだけれど、テロがあると知りながらそれを防止しなかった警察に対する怒りが、あまりにも小さくない? 何百人と死んでいる。テロはもちろん悪だけれど、それを未然に防ぐことを怠った警察はもっと悪くない?
そういう権力の、自分勝手の都合に対して、この女は、やはり何があろうと女は新しいいのちを産みつづけ、いのちをつなぐことで対抗する--なんて、言えるのかなあ。何か、根本的な発想が間違っている。
映像は、あくまで女の視点にこだわり、「組織」なんかも、組織の全体は見えずに、彼女が接する夫の上司とのやりとりだけなんだけれど。これも、よくいえば「女」の視点にこだわった映画といえるけれど、そういうこだわり方というのは女を馬鹿にしていない? 女は自分の知った悪と戦い社会そのものを改善するために努力するのではなく、そういうことをしなくても、子供を産み、育てる、いのちをつないでいくということで、社会のあり方に抵抗するというのは、なんとも変じゃない? 女が、テロリストの妻と息子と、簡単に「和解」してしまうのも、納得がいかないなあ。
「私小説」にこだわり、私小説としての映画にする、というのは、それはそれで悪くはないけれど、テロ、テロ撲滅組織の問題点と直面した女の生き方を私小説にしてしまうのは、どうにも納得できないねえ。
映画ではなく、小説だったら、いくぶん印象は違うかもしれない。小説はあくまでことば。ことばの迷路。ことばがどこまでことばにならないものをことばにするか、ということが小説の力そのもの。でも、映画はねえ。映像で、映像にならないものを映像化する--まあ、たしかにそういう試みをしているのだけれど、でも「幻想」や「記憶」はどんなにがんばってみても、映像を深化させない。現実のなかで見落としていたものをスクリーンに、いま、ここに、これがある、と映像として見せてこそ、映像の迷路がはじまるのだからね。
表現メディアと、表現のあり方を間違えた映画だねえ。
ミシェル・ウィリアムズは懸命に「女」そのものを裸にしようとしているのだけれど、「仕掛け」が間違っているね。
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