一九六二年五月一二日、堀江謙一(一九三八年― )は単身で全長5.83mの小型ヨット(マーメイド号)を操船して兵庫県西宮を出港し、太平洋を横断航行して、同年八月一二日、アメリカのサンフランシスコに入港しました。航海日数は九四日でした(一九六二年 堀江健一「太平洋ひとりぼっち」、拙稿93章「ギャップダイナミクス」)。
当初、大阪入管事務所による「小型ヨットは当然ビザが必要になる」との違法性嫌疑が主なマスコミ報道でした。その後、サンフランシスコ市長が名誉市民として受け入れたとのニュースが報じられると、マスコミは一転して快挙を称えました。
一九七〇年二月一一日、鹿児島県之浦町の東京大学宇宙空間観測所からラムダ4S型ロケットが打ち上げられました。失敗を乗り越えて五度目の打ち上げは成功し、無事人工衛星を軌道に乗せました。日本はソ連、米国、フランスにつぎ、世界で四番目に人工衛星を誕生させた国となりました(拙稿93章「ギャップダイナミクス」)。
大隅半島内之浦の発射場には人工衛星「おおすみ」の記念碑が立っていますが、その隣にプロジェクトの推進者糸川英夫(一九一二年ー一九九九年)の像があります。
糸川教授は当時世間的に全く少数派の宇宙愛好家とマスコミを相手に「ロケットニュース(一九六二―)」を発行していました。筆者がその編集係をさせられていたころは、低調な月刊誌で新聞の宇宙関連記事をスクラップして一枚紙の裏表に印刷してリストに郵送するだけの細く長いミニコミでした。
小惑星表土を世界初で回収した探査機「はやぶさ」が着陸した小惑星の名は「ITOKAWAイトカワ」と命名されました(2003年)。
一九七〇年二月、内之浦から打ち上げられた日本最初の人工衛星が長楕円形の初軌道を回っているころ、筆者は通信衛星用大型ロケットを開発する宇宙開発事業団(NASDAのちJAXA)の初代社員として開発計画を作らされていました。麻布台にあった本社企画課の隣室は役員室で、理事長の留守にソファーで居眠りをしていて叱られました。理事長は、新幹線を開発した島英雄氏でした。大柄の老人で、日本最高の技術者として貫禄のある人でした。新幹線は美しさでも姫路城と並ぶ日本の技術遺産でしょう。
占領軍改革の成功と朝鮮戦争特需に支えられて急成長した戦後日本経済は一九七〇年代には世界最高(一九七九年 エズラ・ボーゲル「Japan as Number One: Lessons for America」)と称賛されますが、この時期、国内でも日本人論は最高潮に盛り上がります。
この時代、若輩だった筆者はNASAやヨーロッパ宇宙機関での会議で、生意気にも世界戦略などを語ったりしていましたが、欧米人たちが殊勝に聞いてくれているのでかえって心配になった覚えがあります(その当時、パリやヒューストンで集まった非公式国際委員会「International Lunar Exploration Working Group:筆者やNASA有志などが提唱」が半世紀を経て、アルテミス計画の種火になりました)。
日本人は忍耐強い、計画的である、用意周到に実行する、不言実行である、などなどと褒めながら、彼らも半分は本気でそう信じていたようです(拙稿78章「日本人論の理論の理論」)。
日本国家論で語り始めた本章は、結局、現代に近づくほど、日本人論になってしまいそうです。吉田松陰からはじめて、深く掘っていこうとすると、明治維新以降の話だけではとても見極められない。この国民の根っこがどこまで続いているのか。GHQが教育委員会を利用して切った、とかいう人もいますが、全然切れていません。
たとえば、小学校の校庭にある二宮金次郎を捨てる。捨てても、小田原駅構内に移設されています。小学生の夢は金次郎であるべきなのか?この人(二宮 尊徳 一七八七年―一八五六年)は勤勉努力の結果、江戸時代の農村に組合(の原型)を作り銀行(の原型)を作り会社(の原型)を作って江戸時代農村の経済を活性化しました。日本資本主義の祖父(父は渋沢栄一)と呼ばれています(拙稿89章「資本主義の夢」)。この人の根っこがまた、この国民なのではないでしょうか?
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