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=862=市川関所跡

2007年02月16日 | 技術  道具・伝承・歴史

サイクリング拾い書き  

市川関所跡は江戸川の 市川側に置かれ 
『小岩・市川の渡し』として成田詣で賑った。 

矢切の渡しから下流に向かって約1,2km の地点 

 

     ▲ 千葉県側(市川)


市川関所跡


市川関所跡案内板

 


江戸名所図会

 

     ▲ 東京都側 (小岩)


宝林寺前六地蔵
村人が野の花を供えたり、旅人も両手を合わせ無事を祈った。


宝林寺境内常夜灯
小岩の渡し場・番小屋の近くにあり旅人の安全を守った。

このような史跡については位置関係、歴史的背景が解らないと
全くチンプンカンプンです。
『今日のメモ』は記録に留めておくために記しました

 

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今日のメモ

上記『市川関所案内板』から抜粋

『東路の津登(つと)』のなかで、市川に渡(わたり)があったことを記しており、
古くからここに人々が集い、川を渡っていたことがわかる。

 やがて、江戸に幕府が置かれると、江戸を守るなどのため、
関東の主な川に、船の渡場で旅人を調べる「定船場」が設けられた。
古くから渡しがあり、市場でにぎわっていた市川が選ばれ、
これが後に関所となった。

 時を経て、江戸時代の中頃には、川のほか山や海を合わせ、
全国各地にたくさんの関所が設けられていた。
これらの関所には取り締まりが厳しい関所と比較的ゆるやかな関所があり
、市川の関所では江戸へ入る武器と江戸から出てゆく女性が、
特に厳しく取り締まられた。

 「市川関所」と呼ばれることもあったが、多くの場合は
「小岩・市川関所」と記され、対岸の二村一対で1つの関所として定められていた。そして、分担して関所にまつわる役割を果たしていた。
幕府の役人が旅人を調べた建物は小岩側にあったので、
市川村は緊急事態の時に駆けつけて助ける役割を担い、
名主の能勢家が取り調べをする役人を補佐した。

また、江戸時代を通じて、江戸川には橋が架けられなかったので、関所を通り、
水戸・佐倉道を往来する人々のために、市川村では、2~3艘の船を用意し、川端に番小屋を建て、20人前後の船頭や人夫を雇っていた。

 

 

コメント (8)
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