記憶を失くした女子大生ジウォンは兵役帰りの同級生ジュノだけには心を開いているのだが、記憶を失くした自分をリセットするために留学を決める。しかし時期を同じくして女子高時代の同級生が水のない場所で溺死するという事件が次々起こり、自分も何故か水に関わる夢を見るようになるという、キム・ハヌル主演のホラー映画。しかしホラー映画としてではなく、前半はある事件をきっかけに記憶を失くしてしまった彼女の自分探しの旅という見方をしても楽しめるかもしれない。
実際映画として骨太な作品にするなら、そういう風にしたほうが絶対見ごたえがあると思うのだが、この映画の目指すところは、そんなものではなくあくまでホラー映画だから、自分探しの旅だけでは終わらないのだ。
事件の謎が解けたと思いほっとしたのもつかの間、その後にやっぱり衝撃の事実が付いて回るのだ。
キム・ハヌルが時々思い出す、記憶の中の自分の残酷さに慄く場面は、若干わざとらしさが目立つ。記憶の中の自分はいつも口角をまげ、同級生を憎憎しげに見つめるばかりなのだが、やり過ぎの感が強い。記憶を失った現在も人を寄せ付けない冷たい雰囲気があるのだから、それと同じような感じでも良かったのではないか。
実際キム・ハヌルはコメディ作品でないと、人の話を聞かず我が道を進もうとする感じ(良い言い方をするなら意思が強いとでもいうのだろうか)があることに改めて気が付く。さっぱりした容姿故しつこい感じはしないが、案外冷たい表情を見せる時があるのだ。
そこをもっと生かした方がより恐さも増したと思う。
共演の映画初出演のリュウ・ジンはもう一ひねりあったら役柄だったら良かったのにと思う。ただのいい人で終わるのでは物足りないし、勿体無かったと思う。
*****
暑く何もやる気が起きない日にはぴったりの恐怖映画だった。
そうはいっても、恐さに慄くわけではなく、ちょっとわざとらしい効果音に苦笑したり、眼をむく演技を見せる俳優の苦労に思いをはせたりと、恐さを面白さに変換しての鑑賞故、王道の楽しみ方ではないかもしれない。でもそれもなかなか面白いのだ。
今日はこの映画のほかにシネマコリア2005で「黄山ヶ原」を見る。
主演のパク・チョンフンに対して、顔の大きい俳優という認識しかなく、どこがいいのだろうと思っていたのだが、この映画を見て随分印象が変わった。顔が大きいのは事実だし、好みもあるかもしれないが、魅せる演技をする人だということは分かった。顔だけで判断してはいけないということを改めて感じる。やはり動く姿を確認してから判断をしなければ。
霊 リョン
実際映画として骨太な作品にするなら、そういう風にしたほうが絶対見ごたえがあると思うのだが、この映画の目指すところは、そんなものではなくあくまでホラー映画だから、自分探しの旅だけでは終わらないのだ。
事件の謎が解けたと思いほっとしたのもつかの間、その後にやっぱり衝撃の事実が付いて回るのだ。
キム・ハヌルが時々思い出す、記憶の中の自分の残酷さに慄く場面は、若干わざとらしさが目立つ。記憶の中の自分はいつも口角をまげ、同級生を憎憎しげに見つめるばかりなのだが、やり過ぎの感が強い。記憶を失った現在も人を寄せ付けない冷たい雰囲気があるのだから、それと同じような感じでも良かったのではないか。
実際キム・ハヌルはコメディ作品でないと、人の話を聞かず我が道を進もうとする感じ(良い言い方をするなら意思が強いとでもいうのだろうか)があることに改めて気が付く。さっぱりした容姿故しつこい感じはしないが、案外冷たい表情を見せる時があるのだ。
そこをもっと生かした方がより恐さも増したと思う。
共演の映画初出演のリュウ・ジンはもう一ひねりあったら役柄だったら良かったのにと思う。ただのいい人で終わるのでは物足りないし、勿体無かったと思う。
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暑く何もやる気が起きない日にはぴったりの恐怖映画だった。
そうはいっても、恐さに慄くわけではなく、ちょっとわざとらしい効果音に苦笑したり、眼をむく演技を見せる俳優の苦労に思いをはせたりと、恐さを面白さに変換しての鑑賞故、王道の楽しみ方ではないかもしれない。でもそれもなかなか面白いのだ。
今日はこの映画のほかにシネマコリア2005で「黄山ヶ原」を見る。
主演のパク・チョンフンに対して、顔の大きい俳優という認識しかなく、どこがいいのだろうと思っていたのだが、この映画を見て随分印象が変わった。顔が大きいのは事実だし、好みもあるかもしれないが、魅せる演技をする人だということは分かった。顔だけで判断してはいけないということを改めて感じる。やはり動く姿を確認してから判断をしなければ。
霊 リョン