私の映画玉手箱(番外編)なんということは無い日常日記

なんということは無い日常の備忘録とあわせ、好きな映画、韓国ドラマ、そして
ソン・スンホンの事等を暢気に書いていく予定。

ウ・ヨンウ弁護士は天才肌 第1,2話

2022-07-07 21:07:03 | ウ・ヨンウ弁護士は天才肌 韓国ドラマ

前から呼んでも後ろから呼んでもウ・ヨンウという回文のような名前の新人弁護士。
海苔巻き店(キンパプ)を営む父と二人暮らしの彼女は、ソウル大学の法学部を出席で卒業した弁護士。自らの自閉症の症状を添付した履歴書を提出し、大きなローファームで働き始める彼女の最初の事件は、老夫婦の間に起きた悲しい事故だ。
認知機能が下がってきた夫の猜疑心に悩まされる妻は、思わずそばにあったアイロンを手にもって夫に立ち向かう。
夫は脳内出血で病院に運びこまれるのだが、その妻の弁護を担当するのだ。

一度読んだ本の内容を忘れる事がない彼女は、アイロンを手にした妻に「その時、ご主人を愛していましたか?」と何度も尋ねる。法律は「その時の気持ちが大事なんです」という彼女。そして、夫が倒れたのは本当に妻が手を挙げたからなのかを証人尋問で明らかにしようとする。

二つ目の「挙式中にドレスが脱げてしまった事に対する補償事件」では、ドレスを提供したホテルを相手に新婦の父が裁判を起こす。
パラリーガルのジュノとホテルの状況調査に乗り出すヨンウ。同僚から口伝えでキャラクター設定を伝授されると、嬉々として新婦のふりをして調査に臨む彼女。

経験は浅くとも、法律を熟知している彼女は「この事件の争点はこれです」と弁護士の経験値からはじき出される争点とは全く違ったものを持ち出して弁護を進めようとするのだ。
常識にとらわれず、しかし、きっちりと依頼人が有利になる争点を持ち出し弁護を進めようとする彼女。
この争点の導き方が、法律になんの知識もない素人の私には面白く、更にこのウ・ヨンウというキャラクターが、自分なりに皆の日常生活に溶け込もうとし、苦労しているのも伝わってくる。更にそれ以上に自分の力を信じ弁護士の仕事に楽しんで取り組もうとしているのも伝わってくる。

いつも心の中に愛らしいクジラの姿を抱いている彼女。油断すると口から出てしまうクジラ愛を止める術を知らない彼女・・・クジラは韓国語でコレ。コレはクジラ・・・絶対に忘れないと思う。


テレホンカードと公衆電話

2022-07-06 21:47:03 | なんということはない日常

au通信障害で「公衆電話」に注目集まる 初めて使う人増えTwitterには“使い方指南”も

テレホンカードの発売が開始されたのは昭和57年(1982年)との事。

その当時、近所の駅の改札口前に電電公社の人が数人、折り畳みの机とパイプ椅子を並べて臨時出張販売所を開設し、駅から出てくる人にテレホンカードの宣伝と販売を行っていた。その様子が妙に珍しかったので、1枚購入したのだが、購入する人が少なかったのだろう。びっくりする位に丁寧なお辞儀をされて逆に恥ずかしくなってしまったのを覚えている。

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ちょっとした開店祝いやお返し、そして何かのイベントの記念品として・・・様々な所で貰ったりしたテレホンカードは両親が残した分も含めて、今でも自宅に沢山残っている。財布にも常時入れており、何か用事があると、携帯電話で番号を確認し公衆電話で電話を掛けるというようなやや本末転倒な事をして、今でもテレホンカードの在庫を少しでも減らそうとしている。

東日本大震災の際に30キロを歩いて家に帰ろうとした際には、繋がらない携帯電話を使う事をあきらめて、街道沿いにある公衆電話で自宅に連絡をした。そんな記憶もまだ鮮明なので、自宅に準備してある防災リュックの中には、テレホンカードと10円玉が入っている。

減っている事は十分認識していたが、使い方が分からないほどテレホンカードと公衆電話が一周回ってこんなにも過去の物になっているとは知らなかった・・・

 


サラダ記念日世代

2022-07-06 21:23:10 | なんということはない日常

歌集@サラダ記念日が発売されたのは1987年。社会人生活にも慣れ、残業しながらも会社帰りにウィンドウショッピングに興じたり、飲みに行ったり・・・あの頃は平日の夜に家で食事をした記憶がほとんどない。当時は残業が辛いと思っていたが、若かったし元気だったのだろう。

サラダ記念日の中で覚えているのはこんな歌だ。

『明日まで一緒にいたい心だけホームに置いて乗る終電車』

『今日風呂が休みだったというようなことを話していたい毎日』

歌集を購入した当時は、「家が近所だったら、飲み会にもお開きまで参加できるのに・・・」などと思いながら、皆より少し早めの終電車に乗って帰っていたので、終電車の歌の方にシンパシーを感じていたが、今は、一人暮らしだ。一日の終わりになんという事のない話をする機会もない。

ただ一人で、『今日風呂が休みだったというようなことを話していたい毎日』はどんな毎日だろうと想像してみる。

 

 


ダリとカムジャタン 第13,14話

2022-07-05 21:51:16 | ダリとカムジャタン(韓国ドラマ)

叔父から「セギグループのテジンとやり直す事は出来ないのか?」と懇願され心が揺れるダリ。
更に、ムハクの義理の母の自分への蔑みにも傷つく彼女。
あんなに強気だった叔父の突然の豹変に、議員はただの下っ端でもっと大きな力が後ろで動いているという事に改めて気づいた彼女の心は混乱し、ムハクの無条件のやさしさを受け入れてもいいのか心乱れるのだ。

美術館スタッフが、議員から館長を陥れるよう意図された証言をすれば、破格の見返りを受ける提案をされていた事を知ったウォンタクも、もっと大きな力が後ろで動いている事に気づく。更には姿を消したゴンジュが脅されてどんな工作をしていたかが分かる。海外から送られてきた絵の額縁に小細工をしたのは、元館長が薬の入った動画をこっそりと撮影する為だったのだ。

遠回りとも思える小細工から、館長を陥れようとしていた事は分かった。それがどんな風に繋がって、一番こっそりと利益を得るのは誰なのか・・・それぞれが、薄っすらとセギグループのテジンが黒幕とはわかってはいても、今一つはっきりとした証拠がない。

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一時躊躇するものの結局はダリとムハクは心を通わせ、幸せからくるやや勘違いな楽しさを周りに振りまき、二人で美術館を守ろうとするのだが、それはもちろん御曹司テジンの怒りに触れる事になる。徹底的にムハクを潰すべく、使える権力をなんでも使おうとするテジン・・・・

このドラマは、ダリとムハクのカップルの妙な相性の良さが楽しさのポイントなのだが、テジンにはそんな楽しさの欠片もない。もちろんそれが対比の妙だとはわかってはいるのだが、キャラクター設定にもう少し楽しいユーモアがあってもよかったのに・・・と思う。

テジンは、どんな汚い手を使ってもダリを取り戻そうとし、御曹司故、その権力を使う事になんの躊躇いもないのだが、その慢心が最後の最後に彼の命取りになりそうな雰囲気だ。このあたり、本当にテジンに対しては徹底的にステレオタイプな人物描写が続く。御曹司は自由そうでありながらも、自らもそんな御曹司の殻を破る事は出来ないのだ。

 


私たちのブルース 第19,20話

2022-07-04 21:12:57 | 私たちのブルース (韓国ドラマ)

母が「自分の事を伯母さんと呼ぶように・・・」と言い、自分を養父の家で育てようとしたことをがどうしても理解できずにいたドンソク。養父の家で女中のように働き、自分の養父と養母の介護までして、最後はその家から追い出され、済州島に戻って一人で暮らしていた母の事がどうしても理解できなかった彼に母は、その養父の法事に出席するために自分を送って欲しいと頼むのだ。癌も進行し、自分に残った時間がわずかであることをわかっていると思われるドンソクの母の願い。

文字も読めず、自分で生活の糧を得る事は難しいとドンソクの母はそんな道を選んだのだろう。息子を思って選んだ道は息子を苦しめる事になったけれど、それは彼女が辛い中で出来る一番いい選択だったのだ。私はそんな風にしか生きられなかった。でもそれしか知らなかったのだから謝らない・・・そんな言葉を息子にぶつけ、更に自分が生まれた場所に連れて行って欲しいという彼女。木浦にある彼女が幼い頃住んでいた村はすでに貯水池の底に沈んでおり見る事は出来ない。両親とも兄弟とも早くに死に別れ、結婚するも夫も娘も亡くした彼女。更に済州島に住みながらも韓国最高峰の漢拏山(ハルラサン)に登った事もなく、噴火口の白鹿譚を見たこともない彼女は、そこにも行ってみたいというのだ。

息子に多くを語る事のなかった母が、最期に少女のような笑顔を浮かべて、身体が動かない事が判っていながらも息子に次々とやりたい事を告げるのだ。

オムニバスドラマとはわかっているものの、イ・ビョンホン演じる息子とキム・ヘジャ演じる母のパートは、そのストーリーもその映像も一本の映画のようなボリュームだ。母は身体が動かず登山は断念し、息子のドンソクも天候に阻まれ噴火口の白鹿譚までたどり着く事は出来ない。それでも息子が撮影した動画を食い入るように見つける母の目には確実に白鹿譚が見えているのが、その表情からも伝わってくる。残された短い時間の中で、やり残した事を全部やっていこうとする母の思い。その少女のような笑顔に彼女が生きてきた人生までもが見えるような気分になってくる。

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何度も出てきた海のシーン、そして最後の漢拏山(ハルラサン)の登山シーン。済州島もこのドラマの大きな登場人物だったということに改めて気づく。


モガディシュ 脱出までの14日間

2022-07-03 19:43:04 | 映画鑑賞

ソウルオリンピック後の1990年、国連の加盟を目指し、多数の票を得るためにアフリカでのロビー活動に力を入れる韓国。韓国に先んじる事20年、北朝鮮も同様の活動を行っており、同じように現地政府に取り入り、支持を取り付けようとしている。そんなアフリカのソマリアの首都モガディシュで市民のデモが反乱軍となり、あっという間に内戦状態になる。反乱軍の目的は現政府の転覆だ。各国の大使館は現政権と関係のある組織とみなされ、票集めの為に現政権に取り入ろうとしていた韓国大使館も北朝鮮大使館も当然格好の標的となる。韓国大使館は金を積み、現地警察に大使館の警備を依頼し、脱出の策を練るも、そこに中国大使館を頼ろうとするも失敗した北朝鮮の大使館員たちがやってくるのだ。

韓国としても、すでにアメリカ大使館は撤退しており選択肢は少ない。韓国も北朝鮮も、お互いを助ければ、その後祖国から糾弾されることは分かっている。それでもここから脱出するには、お互いのルートを使って何とか脱出する術を探さねばならないのだ。封鎖された首都では反乱軍が暴徒化し略奪が行われる。政府軍も反乱軍を攻撃するだけでなく、誰彼構わず銃を向ける。無法状態だ。

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内戦になる前のロビー活動での両国の駆け引きも凄い。それぞれが相手を陥れて少しでも自らの利益になるような事を作り出そうとする。韓国も北朝鮮も自分たちの票が欲しいと知っているソマリアは、両国の足元を見て自分たちの利益になる事をうまく引き出そうとする。妨害、情報操作も外交の大事な要因なのだ。綺麗事等言っていたら自分たちの利益を逸するだけだ。

内戦状況に置かれてもそれは一緒だ。同じ言葉を話し、同じ民族であっても韓国と北朝鮮は同じ方向を向いているわけではない。脱出という目的は一緒であっても、食事をする際には、北朝鮮側は毒が盛られていないかを心配し、韓国側は北朝鮮側と一緒に行動することのリスクを考えて、彼らが脱北を望んでいるように工作をしようとする。相手の常識を疑い、自分たちの身と利益を守るために相手の腹の中を探りあう。

これらをモロッコでのオールロケで30年前の出来事を描き切ろうとするその熱量も凄いが、それぞれのトップが、自分たちの命を守り、更に国からの命令に背かない、自分たちにとって一番良い方法を選び取ろうとする。そんな外交上の駆け引きも私には生々しく思える。

 


私たちのブルース 第17,18話

2022-07-02 21:26:24 | 私たちのブルース (韓国ドラマ)

木浦で暮らす息子夫婦の子どもをしばらく預かる事になる海女のチュニ。孫娘のウンギにとって父親はヒーローなのだが、孫娘のそんな様子を見る事にさえどこか微妙な感情を持つのは、彼女が子どもを育てる事に苦労してきたせいなのだろう。そんなウンギの様子から父親が事故で入院していること知るチュニ。

夫が回復することを祈る嫁と子どもらしく父親が回復することを無条件で信じる孫娘。「百個の月にお祈りすれば願いが叶う・・・」父親に教えられた事を「お父さんはうそをつかない」と信じる孫娘の言葉を『子どもの言葉だから・・・』と聞き流せばいいはずなのに、きつく当たってしまうチュニの様子を見ると、彼女が生きてきた道が厳しい道だったことが判る。ウンギに父親の言葉を信じさせてあげたい周りの大人たちの本気の行動は、それまでどんなにチュニに助けられていたかを表すものでもあるのだ。

そんな大人たちの本気の行動は、母親を顧みる事をしないトラックの移動販売を生業にするドンソクにも向けられる。自分の母を伯母さんと呼び、母の体調も気にせず邪見に扱う彼をその都度戒める市場の人々。「周りの人間は優しいおばあさんと思っているかもしれないが、それは何も知らないだけ・・・」とかたくなな態度を見せるドンソク。

何かあるとはわかってはいても、癌の手術を受ける事もせずに、自分に残った時間を悟り、身の回りの整理を始めるドンソクの母の様子を知っている周りの人々は、黙ってはいられないのだ。誰の言葉も耳に入らないドンソクの心を動かすのは「(子どもの頃、なぜあんなに自分に冷たかったのか・・・)知りたかったら尋ねればいい。今はまだ聞く事が出来るでしょ」というシンプルなソナの言葉だ。

時間が経っても消えない心の傷と、人はどんな風に向き合えばいいんだろうか・・・・


1997年7月1日

2022-07-01 21:24:03 | なんということはない日常

香港のイギリス統治最後の日、25年前の1997年6月30日、平成9年の6月30日は私にとっても忘れられない日だ。

13年間勤務していた会社をやや不本意な理由ながら辞める事になった日だからだ。
なんとなく勤務先の業績が悪いのも分かっていたので「なんとか、手に職を付けてサクッと退職しよう」と準備をしていたのだが、その準備半ばで「これ以上勤務してもらっても、配置転換を受け入れてもらうしかない。30歳も過ぎて、そんなみじめな事になるなら、その前に自分から辞めた方がいいんじゃないか・・・その方が君の為だよ」と言われたのだ。いわゆる退職勧奨だ。当時は「交渉してなんとしてもいい条件を手に入れて辞めてやる」と思う気力もなかった。結局なんの交渉もせず、他言無用と口止めをされ、自ら退職届を書き、自己都合で退職した日だったのだ。

この日は月曜日だった。週の初めの日なのに、何も知らない人達に終業後に送別会を開いて貰い「月曜日から申し訳ないな・・・」と思ったからよく覚えている。

帰宅するともう日本は7月1日になっていたのだが、香港はまだ6月30日だった。テレビでは返還のその時刻まで香港から生中継が放送されていた。中国は香港が返ってくるまで100年近くも待ち続けたけれど、本当に一国二制度は50年間キチンと続くのだろうかなどと、長い時間軸の話を考えながら、私の13年など大したことないな・・・今からやり直しだ・・・ため息をつきながら、着替えもせずに午前1時までその様子をぼーっと眺めていた。

あの時は、25年後に一国二制度がこんな事になっているとは思いもしなかった。

今でも7月1日になるたび、あの香港返還の様子と自分の社会人としての再出発の覚悟を思い出す。