今週の『ぼく勉』の感想でもちらっと書いたけど、いつの間にラブコメって、「運命の子」という展開でOKになったのだろう?
これ、結構、不思議なんだよね。
事実上、ラブコメであることを放棄しているようにしか見えない。
ラブコメというジャンルの破壊行為だよね。
主人公の男子が、舞台となっている「今」、自分を慕ってくれる女子たちとのやり取りの中で恋愛感情を育んでいく、というプロセスを全部かなぐり捨てて、とにかく、作中時間で「かつて」、幼少の頃なり、とにかく「今」よりもだいぶ以前に出会った女子に対して、運命的なものを感じ続けていて、それが、最終的な「相手の選択」に決定的な影響を及ぼす、という構図。
とんでもないくらいの「刷り込み」力。
ほとんど、生まれたての「雛」が、目の前の存在を「母」と認識するに近いくらいの、圧倒的な「刷り込み」。
『五等分』の四葉にしても、『ぼく勉』のうるかにしても、それ以外に決定打がないんだよね。
もちろん、当初から物語が、ラブコメではなく、赤い糸でつながった「運命の子を探せ」というモチーフであることが示されていたら、まぁ、こんな展開でもいいのだけど。
でも、あれこれ、「今」、何人かの女子と惹かれ合う、という描写をしておきながら、その過程で主人公の心情の移り変わりを特に描くでもなく、まさに青天の霹靂のように、いや、この子は昔であっていた運命の子だったんです!、はじめから決めていました!、というのでは、さすがに、今まで読まされて続けてきたものは何だったんだ?、って、単行本を投げ飛ばしたくもなるよね。
しかも、『五等分』であれば、それまで、もっともらしく描かれてきた「思わせぶりな」伏線としか思えないような描写を、ほとんど投げ出して、「運命」、つまりは「思い出の子」探し、という理由で片付けられてしまったら、本気で、嫌になってしまう。
・・・とまぁ、一般論で語りつつ、しかし、具体的には、単純に、四葉ば舞台に上がってたところまでは納得できるけど、まさかそれで押し通されるとは思っていなかった、という愚痴しか出てこないのがツライ。
いや、いい加減、誰か、作中で突っ込んでほしいけど、四葉って、最初、風太郎を待っているはずの部屋(=保健室)から逃げ出していたんだよ。
もしも、四葉が最終的に花嫁になる相手だったのなら、まず、あの「逃げ」は必要だったのだろうか?
別に、風太郎が訪れてから、逃げ出してもよかったんじゃないかな?
なんていうか、あのあたりから、正直なところ、四葉、というメインヒロインの心情がうまく理解できなくて。
というか、全く理解できなくて。
で、きっと、何か説明なり、風太郎と四葉の対話なりで理解できる箇所が出てくるのだろうと思っていたけど、結局、最後までそれはなかった。
多分、その納得感の欠如が、あの終幕に失望している一番の理由なんだな、と思ってきた。
まぁ、これとて繰り言なんだけどね。
だから、春場ねぎは「ネームが上手い」という、担当編集者たちの評価(よいしょ?)を聞いても、それ、あなたたちの見る目がないだけじゃない?と思ってしまう。
ほんと、なんで、あの終わり方でいいのだろう?
四葉で決定なら、115話以降、あんな中途半端な描写ではなく、ちゃんと四葉と風太郎のやり取りで終わればよかったのに。
あと、当然の礼儀として、二乃や三玖には、お断りの言葉をかけておく、とかね。
で、そういうケジメの部分が欠けているのを見ると、結局、そういう心の機微の理解が、決定的に作者に欠けていたとしか思えないのだよね。
うーん、ほんとに、残念な結末だった。
画竜点睛を欠く、とはこのこと。
終わりよければ全てよし、というのはドラマの基本だったはずなのだけど。
これ、結構、不思議なんだよね。
事実上、ラブコメであることを放棄しているようにしか見えない。
ラブコメというジャンルの破壊行為だよね。
主人公の男子が、舞台となっている「今」、自分を慕ってくれる女子たちとのやり取りの中で恋愛感情を育んでいく、というプロセスを全部かなぐり捨てて、とにかく、作中時間で「かつて」、幼少の頃なり、とにかく「今」よりもだいぶ以前に出会った女子に対して、運命的なものを感じ続けていて、それが、最終的な「相手の選択」に決定的な影響を及ぼす、という構図。
とんでもないくらいの「刷り込み」力。
ほとんど、生まれたての「雛」が、目の前の存在を「母」と認識するに近いくらいの、圧倒的な「刷り込み」。
『五等分』の四葉にしても、『ぼく勉』のうるかにしても、それ以外に決定打がないんだよね。
もちろん、当初から物語が、ラブコメではなく、赤い糸でつながった「運命の子を探せ」というモチーフであることが示されていたら、まぁ、こんな展開でもいいのだけど。
でも、あれこれ、「今」、何人かの女子と惹かれ合う、という描写をしておきながら、その過程で主人公の心情の移り変わりを特に描くでもなく、まさに青天の霹靂のように、いや、この子は昔であっていた運命の子だったんです!、はじめから決めていました!、というのでは、さすがに、今まで読まされて続けてきたものは何だったんだ?、って、単行本を投げ飛ばしたくもなるよね。
しかも、『五等分』であれば、それまで、もっともらしく描かれてきた「思わせぶりな」伏線としか思えないような描写を、ほとんど投げ出して、「運命」、つまりは「思い出の子」探し、という理由で片付けられてしまったら、本気で、嫌になってしまう。
・・・とまぁ、一般論で語りつつ、しかし、具体的には、単純に、四葉ば舞台に上がってたところまでは納得できるけど、まさかそれで押し通されるとは思っていなかった、という愚痴しか出てこないのがツライ。
いや、いい加減、誰か、作中で突っ込んでほしいけど、四葉って、最初、風太郎を待っているはずの部屋(=保健室)から逃げ出していたんだよ。
もしも、四葉が最終的に花嫁になる相手だったのなら、まず、あの「逃げ」は必要だったのだろうか?
別に、風太郎が訪れてから、逃げ出してもよかったんじゃないかな?
なんていうか、あのあたりから、正直なところ、四葉、というメインヒロインの心情がうまく理解できなくて。
というか、全く理解できなくて。
で、きっと、何か説明なり、風太郎と四葉の対話なりで理解できる箇所が出てくるのだろうと思っていたけど、結局、最後までそれはなかった。
多分、その納得感の欠如が、あの終幕に失望している一番の理由なんだな、と思ってきた。
まぁ、これとて繰り言なんだけどね。
だから、春場ねぎは「ネームが上手い」という、担当編集者たちの評価(よいしょ?)を聞いても、それ、あなたたちの見る目がないだけじゃない?と思ってしまう。
ほんと、なんで、あの終わり方でいいのだろう?
四葉で決定なら、115話以降、あんな中途半端な描写ではなく、ちゃんと四葉と風太郎のやり取りで終わればよかったのに。
あと、当然の礼儀として、二乃や三玖には、お断りの言葉をかけておく、とかね。
で、そういうケジメの部分が欠けているのを見ると、結局、そういう心の機微の理解が、決定的に作者に欠けていたとしか思えないのだよね。
うーん、ほんとに、残念な結末だった。
画竜点睛を欠く、とはこのこと。
終わりよければ全てよし、というのはドラマの基本だったはずなのだけど。