ジャレドのこの本の「第3部 進行中の危機」 の結論部分の「世界を待ち受けるもの」では、
最悪の場合、世界文明の存続を脅かすものはなにかと問うて、
世界全体に害を及ぼし得る可能性のある問題として、
次の四つ、核兵器の使用、世界的な気候変動、世界的な資源枯渇、世界的な生活水準における格差の拡大を挙げている。
ほかに、イスラム教原理主義、新種の伝染病、小惑星の衝突、大規模な生物学的絶滅をリストに付け加えるべきだという意見もあろうとしている。
さて、ジャレドの指摘する4項目の世界的危機については、殆ど異存のない周知の事実であり、展開されている知識情報なども、特に、新鮮味があるわけではなく、ジャレドの博学多識に感じるばかりである。
ただ一点だけ、教えられたのは、我々は、経済成長やGDP計算などにおいて、人口を同質なものとして、〇〇×人口で計算して、その結果で云々することが多いのだが、人口一人一人のその質なり意味は、国なり時代なり、時所などにより事情如何では、全く違っていて、時には、×人口が、問題を見誤っているということである。
これは、最後の「格差」問題での指摘で、北米、ヨーロッパ、日本、オーストラリアの先進国10億人の一人当たり平均消費率は、途上国を1とした場合、最大32であり、発展途上国に暮す残りの65億人の人々の殆どは32以下であり、大半が1に近い。
仮に、発展途上国が、先進国並みの消費量(すなわち、途上国の最大32倍)に達したとすると、その結果、世界の消費量は、11倍となり、現在の一人当たり消費量のままで、世界人口が約800億人になるのと同じだと言うのである。
猛烈なグローバル化によって、世界の生活水準の平準化と、途上国の先進国へのキャッチアップが、急速に進展しており、先進国の生活水準の擁護維持など不可能になりつつある。
したがって、ジャレドは、
手短に言って、私たちの殆どが生きている間に、先進国の国民の一人当たり消費率が、現在より低くなるのは確実だ。唯一の問題は、私たちが選択した計画や手法によってそうした結果になるのか、それとも、選択したわけではない不愉快な方法によってか、と言う事だと言う。
さて、しからば、気になるのは、
マルサスの唱えた人口論で、人口の増加が生活資源を生産する土地の能力よりも不等に大きいと主張し、人口は制限されなければ幾何級数的に増加するが生活資源は算術級数的にしか増加しないので、生活資源は必ず不足する、と説いていて、これまで、何度も危機説が展開されてきたが、人類の努力とイノベーションによって危機を乗り切ってきた。
しかし、今でも、世界中には、食糧危機にあえぐ膨大な最貧困層が存在している。
もう一つの文明への危機説は、ローマクラブの提示した「成長の限界」。
1972年に、「人口増加や環境汚染などの現在の傾向が続けば、100年以内に地球上の成長は限界に達する」と警鐘を鳴らした。
さて、これまでの人口増加は、爆発的だと言っても、人類の消費量の増加は、比較的穏健というか高度な質量的変化は見られなかったので、世界全体の消費率の増加は、比較的緩やかであったが、
今後は、発展途上国人口の急速な増加に加えて、32倍の平均消費比率格差を急速に追い上げる要因が加わると、一気に、何倍にも消費量が増加して資源を食い潰し、宇宙船地球号を丸裸にしてしまう。
ジャレドは、我々が生きている間に、消費量がダウンして生活水準が低くなるという。
すでに、差し迫っていると言う事で、人口800億人など維持するためには、地球が何個あっても足らない。
地球温暖化などの地球環境の破壊による人類消滅の危機も恐ろしいが、資源の枯渇によるネオ・マルサス論の蘇りの恐ろしさも認識しなければならないであろう。
気候変動への国際的対処について話し合う気候変動枠組条約第25回締約国会議(COP25)での問題でもそうだが、新興国や発展途上国には、これまで、地球環境を悪化させ破壊してきたのは、先進国であって、なぜ、自分たちが、経済成長や近代化、国民生活向上のために、これまで、先進国がやってきたようにしてはならないのかと言う強い憤りがある。
これと同様に、中国の強烈なアクションを見てもわかるが、新興国や発展途上国は必死で先進国へのキャッチアップを目指して邁進しており、その向上意欲を、先進国は邪魔すべきではなく、この折り合いを何処でつけるべきか、
S・ハンチントン の「文明の衝突」とはニュアンスは異なるが、既得利権を死守しようとする先進国と新しい富を追求しようとする途上国との、昔の「南北問題」を彷彿とさせる今様の「文明の衝突」が、益々、激しさを増している。
「アメリカ、ファースト」などと言うのは、愚の骨頂で、資源の限られた小さな宇宙船地球号に、同船する同胞だという認識を育まない限り、悲惨な運命が待っている。
最悪の場合、世界文明の存続を脅かすものはなにかと問うて、
世界全体に害を及ぼし得る可能性のある問題として、
次の四つ、核兵器の使用、世界的な気候変動、世界的な資源枯渇、世界的な生活水準における格差の拡大を挙げている。
ほかに、イスラム教原理主義、新種の伝染病、小惑星の衝突、大規模な生物学的絶滅をリストに付け加えるべきだという意見もあろうとしている。
さて、ジャレドの指摘する4項目の世界的危機については、殆ど異存のない周知の事実であり、展開されている知識情報なども、特に、新鮮味があるわけではなく、ジャレドの博学多識に感じるばかりである。
ただ一点だけ、教えられたのは、我々は、経済成長やGDP計算などにおいて、人口を同質なものとして、〇〇×人口で計算して、その結果で云々することが多いのだが、人口一人一人のその質なり意味は、国なり時代なり、時所などにより事情如何では、全く違っていて、時には、×人口が、問題を見誤っているということである。
これは、最後の「格差」問題での指摘で、北米、ヨーロッパ、日本、オーストラリアの先進国10億人の一人当たり平均消費率は、途上国を1とした場合、最大32であり、発展途上国に暮す残りの65億人の人々の殆どは32以下であり、大半が1に近い。
仮に、発展途上国が、先進国並みの消費量(すなわち、途上国の最大32倍)に達したとすると、その結果、世界の消費量は、11倍となり、現在の一人当たり消費量のままで、世界人口が約800億人になるのと同じだと言うのである。
猛烈なグローバル化によって、世界の生活水準の平準化と、途上国の先進国へのキャッチアップが、急速に進展しており、先進国の生活水準の擁護維持など不可能になりつつある。
したがって、ジャレドは、
手短に言って、私たちの殆どが生きている間に、先進国の国民の一人当たり消費率が、現在より低くなるのは確実だ。唯一の問題は、私たちが選択した計画や手法によってそうした結果になるのか、それとも、選択したわけではない不愉快な方法によってか、と言う事だと言う。
さて、しからば、気になるのは、
マルサスの唱えた人口論で、人口の増加が生活資源を生産する土地の能力よりも不等に大きいと主張し、人口は制限されなければ幾何級数的に増加するが生活資源は算術級数的にしか増加しないので、生活資源は必ず不足する、と説いていて、これまで、何度も危機説が展開されてきたが、人類の努力とイノベーションによって危機を乗り切ってきた。
しかし、今でも、世界中には、食糧危機にあえぐ膨大な最貧困層が存在している。
もう一つの文明への危機説は、ローマクラブの提示した「成長の限界」。
1972年に、「人口増加や環境汚染などの現在の傾向が続けば、100年以内に地球上の成長は限界に達する」と警鐘を鳴らした。
さて、これまでの人口増加は、爆発的だと言っても、人類の消費量の増加は、比較的穏健というか高度な質量的変化は見られなかったので、世界全体の消費率の増加は、比較的緩やかであったが、
今後は、発展途上国人口の急速な増加に加えて、32倍の平均消費比率格差を急速に追い上げる要因が加わると、一気に、何倍にも消費量が増加して資源を食い潰し、宇宙船地球号を丸裸にしてしまう。
ジャレドは、我々が生きている間に、消費量がダウンして生活水準が低くなるという。
すでに、差し迫っていると言う事で、人口800億人など維持するためには、地球が何個あっても足らない。
地球温暖化などの地球環境の破壊による人類消滅の危機も恐ろしいが、資源の枯渇によるネオ・マルサス論の蘇りの恐ろしさも認識しなければならないであろう。
気候変動への国際的対処について話し合う気候変動枠組条約第25回締約国会議(COP25)での問題でもそうだが、新興国や発展途上国には、これまで、地球環境を悪化させ破壊してきたのは、先進国であって、なぜ、自分たちが、経済成長や近代化、国民生活向上のために、これまで、先進国がやってきたようにしてはならないのかと言う強い憤りがある。
これと同様に、中国の強烈なアクションを見てもわかるが、新興国や発展途上国は必死で先進国へのキャッチアップを目指して邁進しており、その向上意欲を、先進国は邪魔すべきではなく、この折り合いを何処でつけるべきか、
S・ハンチントン の「文明の衝突」とはニュアンスは異なるが、既得利権を死守しようとする先進国と新しい富を追求しようとする途上国との、昔の「南北問題」を彷彿とさせる今様の「文明の衝突」が、益々、激しさを増している。
「アメリカ、ファースト」などと言うのは、愚の骨頂で、資源の限られた小さな宇宙船地球号に、同船する同胞だという認識を育まない限り、悲惨な運命が待っている。