
1月30日まで、日本橋高島屋で「平山郁夫シルクロード美術館展」が開かれている。
同じ階で、加賀100万石物産展が開かれているので、結構客が多く、パラシュート効果抜群である。
平山郁夫画伯の砂漠を行くラクダのキャラバン隊を描いた大作が2点、ほかにシルクロードの人々や仏像の絵が展示されているが、大半は、平山夫妻で収集したシルクロード縁の土地の文化遺産、仏像をはじめ多くの彫刻、美術品、土器、装飾品、織物等々バリエーションに富んだ博物展であり、確かな目で見出した歴史的な文物が展示されている。
2年前に、開館されて信州の「平山郁夫シルクロード美術館」の謂わば出開帳であろうか。
1万点以上も収集した中の一部を展示していると言うが、可なりの質とボリュームの展示会である。
1971年に、初めての収集品、テヘランのハジババと言う骨董店で買ったラスター彩植物文大皿が飾られていて、平山夫人の筆で当時の経緯が説明書きされている。
お金がなくなり帰国して送金して取得したものだと言う。平山画伯は、店の主人の絵を描き、その絵が店先にディスプレイされていた。
平山氏が気に入ったガンダーラの仏像をはじめ、東は中国の俑やインドネシアの織物から、西はシリアの装飾品に至るまで、平山夫妻の美意識を通して集められた興味深い文物が展示されていて、今まで何度も見て来た平山画伯の絵ではない美術世界の別な面が覗けて興味深かった。
昨年、三越で、「平成の洛中洛外」平山郁夫展を見たが、壮大な平安京を俯瞰した絵をはじめ、素晴しい京都や日本の風景画が展示されていて、シルクロードの終着点日本の絵を見ながら、平山画伯の日本回帰を感じた。
平山氏の絵画展には、機会があれば殆ど出かけていて、出版物も読んでいるが、私は、何故か、平山氏は、玄奘三蔵を求めて旅を続けているような気がして仕方がない。
平山氏は、広島で原爆を経験し九死に一生を得た被爆者であり、29歳の時に院展で「仏教伝来」で入賞し、2年後、やはり院展で「入涅槃幻想」で日本美術院賞・大観賞を受賞し特待に推挙されている。
焼失してしまった法隆寺の壁画の平山氏が模写した仏画を見たことがあるが、仏教との縁は極めて深く、平山氏のモチーフの中に仏教が首座を占めているような気がする。
私は、2000年に完成した薬師寺の玄奘三蔵院伽藍の平山郁夫筆の「大唐西域壁画」を見に出かけた、伽藍の壁面3面を占める壮大な絵画である。
それは、玄奘三蔵が歩いたであろう西域の峻厳な風景を壁面に再現した感動的な壁画である。
修行が深まるにつれて教えに疑問を持った玄奘三蔵は、天竺に赴き、教義の原典に接し、かの地で直接高僧論師の解義を得るほかないと決心して、鎖国政策の国禁を冒して旅に出た。
灼熱の太陽の照りつける砂漠や雪と氷に閉ざされた極寒の天山山脈を越え、何度も死に直面しながら、難行苦行の末インドについて、ナーランダー寺院で戒賢論師に師事して唯識教学を学び、インド各地の仏蹟を訪ね歩いた。
仏像・仏舎利、サンスクリット語の仏教経典657部を携えて、同じ道を再び死を賭して唐に向かった。
実に、通過した国は128カ国、3万キロ、17年の歳月を要したのである。
帰国後も気を緩めることなく、死の直前まで経典の中国語への翻訳を続けたと言う。
シルクロードと言うが、これは、ドイツ人地理学者リヒトホーフェンの造語Seidenstrassenが英訳されてSilk roadになった欧米人の概念で、中国の絹がヨーロッパに伝わった道筋であるが、日本から見ると、同じ道を逆方向にインドから西域を経て中国、日本に仏教が伝来した道・仏の道である。
ヨーロッパ人のシルクロードは交易の道であるが、玄奘三蔵の仏教の道は人類の幸せを求めた真実の道である。
平山郁夫氏のシルクロードは、祈りへの道、真実の追究への道であり、玄奘三蔵を求めての道であったのではないかと何時もそう思いながら絵を見ている。
余談ながら、薬師寺は、私にとって思い出深い寺である。
教養部の学生の頃、上野教授の美学の授業で薬師寺への美術鑑賞で出かけた時、その頃、まだ、若くて副住職であった高田好胤師が教授に教えを請うたといいながら懇切丁寧に案内してくれた。
自分は男前なので罪が深いのだと学生を煙に巻きながら、東塔の裳腰をつけた三重塔を、天武天皇と持統天皇夫妻の愛の結晶だから美しいのだと解説していたのを思い出す。
上野教授の美学の授業は、その頃、京都国立博物館で開催されていたルーブル展にも閉館後出かけるなど、楽しい授業が多くて、京都で学んだ価値は十分にあった。
宮崎市定教授の中国の歴史や湯川秀樹教授の講演など聴いていた頃である。
奈良に行くと西ノ京には必ず出かけて、薬師寺から唐招提寺への田舎道を歩いた。
今でこそ、素晴しい伽藍が立ち並んで壮大な寺院に変わっているが、その頃は貧しいお寺で、訪れる人も少なくて、国宝の仏像も暗い建物の中でくすんでいた。
西塔の柱跡の水溜りに、唯一残った東塔の景が寂しく写っていたのを思い出すが、大体、奈良の寺と言っても奈良公園近くの東大寺等一部の寺しか訪れる人が少なくて寂しかった。
もう何十年も前のこと、和辻哲郎や亀井勝一郎の古寺巡礼を持って、美術愛好家が歴史散歩を楽しんでいた頃のことである。
同じ階で、加賀100万石物産展が開かれているので、結構客が多く、パラシュート効果抜群である。
平山郁夫画伯の砂漠を行くラクダのキャラバン隊を描いた大作が2点、ほかにシルクロードの人々や仏像の絵が展示されているが、大半は、平山夫妻で収集したシルクロード縁の土地の文化遺産、仏像をはじめ多くの彫刻、美術品、土器、装飾品、織物等々バリエーションに富んだ博物展であり、確かな目で見出した歴史的な文物が展示されている。
2年前に、開館されて信州の「平山郁夫シルクロード美術館」の謂わば出開帳であろうか。
1万点以上も収集した中の一部を展示していると言うが、可なりの質とボリュームの展示会である。
1971年に、初めての収集品、テヘランのハジババと言う骨董店で買ったラスター彩植物文大皿が飾られていて、平山夫人の筆で当時の経緯が説明書きされている。
お金がなくなり帰国して送金して取得したものだと言う。平山画伯は、店の主人の絵を描き、その絵が店先にディスプレイされていた。
平山氏が気に入ったガンダーラの仏像をはじめ、東は中国の俑やインドネシアの織物から、西はシリアの装飾品に至るまで、平山夫妻の美意識を通して集められた興味深い文物が展示されていて、今まで何度も見て来た平山画伯の絵ではない美術世界の別な面が覗けて興味深かった。
昨年、三越で、「平成の洛中洛外」平山郁夫展を見たが、壮大な平安京を俯瞰した絵をはじめ、素晴しい京都や日本の風景画が展示されていて、シルクロードの終着点日本の絵を見ながら、平山画伯の日本回帰を感じた。
平山氏の絵画展には、機会があれば殆ど出かけていて、出版物も読んでいるが、私は、何故か、平山氏は、玄奘三蔵を求めて旅を続けているような気がして仕方がない。
平山氏は、広島で原爆を経験し九死に一生を得た被爆者であり、29歳の時に院展で「仏教伝来」で入賞し、2年後、やはり院展で「入涅槃幻想」で日本美術院賞・大観賞を受賞し特待に推挙されている。
焼失してしまった法隆寺の壁画の平山氏が模写した仏画を見たことがあるが、仏教との縁は極めて深く、平山氏のモチーフの中に仏教が首座を占めているような気がする。
私は、2000年に完成した薬師寺の玄奘三蔵院伽藍の平山郁夫筆の「大唐西域壁画」を見に出かけた、伽藍の壁面3面を占める壮大な絵画である。
それは、玄奘三蔵が歩いたであろう西域の峻厳な風景を壁面に再現した感動的な壁画である。
修行が深まるにつれて教えに疑問を持った玄奘三蔵は、天竺に赴き、教義の原典に接し、かの地で直接高僧論師の解義を得るほかないと決心して、鎖国政策の国禁を冒して旅に出た。
灼熱の太陽の照りつける砂漠や雪と氷に閉ざされた極寒の天山山脈を越え、何度も死に直面しながら、難行苦行の末インドについて、ナーランダー寺院で戒賢論師に師事して唯識教学を学び、インド各地の仏蹟を訪ね歩いた。
仏像・仏舎利、サンスクリット語の仏教経典657部を携えて、同じ道を再び死を賭して唐に向かった。
実に、通過した国は128カ国、3万キロ、17年の歳月を要したのである。
帰国後も気を緩めることなく、死の直前まで経典の中国語への翻訳を続けたと言う。
シルクロードと言うが、これは、ドイツ人地理学者リヒトホーフェンの造語Seidenstrassenが英訳されてSilk roadになった欧米人の概念で、中国の絹がヨーロッパに伝わった道筋であるが、日本から見ると、同じ道を逆方向にインドから西域を経て中国、日本に仏教が伝来した道・仏の道である。
ヨーロッパ人のシルクロードは交易の道であるが、玄奘三蔵の仏教の道は人類の幸せを求めた真実の道である。
平山郁夫氏のシルクロードは、祈りへの道、真実の追究への道であり、玄奘三蔵を求めての道であったのではないかと何時もそう思いながら絵を見ている。
余談ながら、薬師寺は、私にとって思い出深い寺である。
教養部の学生の頃、上野教授の美学の授業で薬師寺への美術鑑賞で出かけた時、その頃、まだ、若くて副住職であった高田好胤師が教授に教えを請うたといいながら懇切丁寧に案内してくれた。
自分は男前なので罪が深いのだと学生を煙に巻きながら、東塔の裳腰をつけた三重塔を、天武天皇と持統天皇夫妻の愛の結晶だから美しいのだと解説していたのを思い出す。
上野教授の美学の授業は、その頃、京都国立博物館で開催されていたルーブル展にも閉館後出かけるなど、楽しい授業が多くて、京都で学んだ価値は十分にあった。
宮崎市定教授の中国の歴史や湯川秀樹教授の講演など聴いていた頃である。
奈良に行くと西ノ京には必ず出かけて、薬師寺から唐招提寺への田舎道を歩いた。
今でこそ、素晴しい伽藍が立ち並んで壮大な寺院に変わっているが、その頃は貧しいお寺で、訪れる人も少なくて、国宝の仏像も暗い建物の中でくすんでいた。
西塔の柱跡の水溜りに、唯一残った東塔の景が寂しく写っていたのを思い出すが、大体、奈良の寺と言っても奈良公園近くの東大寺等一部の寺しか訪れる人が少なくて寂しかった。
もう何十年も前のこと、和辻哲郎や亀井勝一郎の古寺巡礼を持って、美術愛好家が歴史散歩を楽しんでいた頃のことである。