
10月3日から上野の東京国立博物館で「仏像 一木にこめられた祈り」展が開かれている。
12月まであるからゆっくり行こうと思っていたら、TVで滋賀県向源寺の十一面観音がお目見えしたことを知って急に思い立って出かけた。
今回の仏像展は、奈良・平安時代から円空・木喰まで一木の木だけで彫られた仏像だけで古いのは殆ど国宝と重要文化財だと言うし、それに私にはあまり縁のなかった関東や北陸・東北からの仏像が多いと聞いたので楽しみでもあった。
実際には湖北高月町の向源寺にあるのだが、私には元の渡岸寺の十一面観音で、もう15年も以上も前になるが、大阪から東名高速を抜けて北陸自動車道に入って木之本インターで下りて車で一度訪れたことがある。
イギリスに住んでいた時で、出張の途時に休暇を取って湖北の十一面観音を巡り若狭小浜の古社寺を散策する旅の時であった。
鄙びた湖北のかくれ里の小さなお堂の中にたった一体だけ、しかし、京都や奈良で拝観していた国宝の十一面観音とは一寸雰囲気は違うが、ふくよかで一種官能的で圧倒的な迫力に魅せられて長い間仰ぎ見ていた。
湖北の他のお寺も訪れたが、この辺りの十一面観音は観音信仰に篤い地元の人々が大切に管理していて、小さな御堂に安置されている。
しかし、直ぐ側には浅井長政の居城小谷城址があり、白山も近い。
今回の上野での展示では、門外不出を押しての出展で、館内の中央に一体だけでんと据えられて、四方から照明に照らされて360度何処からでも仰ぎ眺めることが出来る。台の上に安置された194センチの仏像だから近づくと仰ぎ見ることになる。
午後遅く館内に入って、この仏像の前で時間を過ごしたが、閉館間際になって又帰って来て、何度も立ち止まりながら仏像の周りを回った。
正面から見ると、顔はやや下向き加減で瞑目し、前方に曲げた左手に水瓶を持ち右手は下げて手のひらを正面に向けて、腰をやや左側にひねって右足を少し前に踏み出して立っていて、ベールに包まれたズボンをはいたような立ち姿が美しい。襷と肩にかけたベールの間に露出した締まった肢体にやや膨らんだ腹部の中央に十字が刻まれている。
頭部の十一面は実に精巧に彫られた素晴らしい彫刻であるが、素晴らしく豊かな耳の後、即ち、お顔の両側に一対ずつ小面があり、後に一面、冠様の位置には五面、そして、頂部に一面だが、この面が仏面ではなく菩薩面で、とにかく、ユニークで美しい。
向って右に回りこみ真横から見ると、左足を引いているのでぐんと身体を前方に突き出している感じで、反対側の横正面から見ると右足を踏み出しているので直立姿勢となり、正に、前に歩こうとしている御仏のムーブメントを感じる。
後から眺めると腰の括れが真ん中でキュッと引き締まって実に美しく、豊かな肩と腰の下の堂々とした佇まいが像のボリューム感を増幅し、ゆったりと垂れ下がったベールや衣装のカーブが優雅で美しい。
向ってやや右に回り込んで像を仰ぐと、衣装に引き寄せられてやや食い込んだ左腰の筋肉のへこみがゾクッとする程肉感的で、長い足の比重をやや右足に移して腰をツイストした姿などミロのヴィーナスを凌いだ美しさである。
そう思いながら頭部を見上げると、後ろ正面を見ている暴悪大笑面の凄い笑い面に目が会ってしまってばつが悪くて下を向いてしまった。
もう一つ気がついたのは、下に屈み込んで見上げれば見上げるほど、観音のお顔が神々しく美しく輝くことである。
向って斜め右側から見るよりは斜め左側から見上げる方が遥かに優しくて美しい。
左手に水瓶を持ち上げているので邪魔になるように思うが、その水瓶がやや左頬にかかる辺りから見上げるのが一番美しいと思った。
ところが、売っていた絵葉書や写真は、正面からか、或いは向って斜め左側からのものばかりで、水瓶で体が隠れないようにするのが良いアングルだと考えているようで美意識に乏しくて悲しい限りである。
能面は、能楽師が下を向けば悲しく泣いた様な顔になるし、顔を上げると笑っているように見えるが、これは文楽人形も同じで、一つの顔に色々な表情をこめたのが日本の人面や人形の特徴で、この技法が仏像に生かされているのは当然である。私は、何時もそう思って仏像を眺めており、出来るだけ色々な視点から拝観するようにしている。
もっとも、人の沢山いる前では不可能なので、今回のように閉館間際で人が少なくなってからしか駄目である。
私は、そうして、あの興福寺の阿修羅像の美しくて何とも言えない神々しいお顔を長い間楽しんでいたことがある。
十一面観音の素晴らしいさを始めて感じたのは太秦の広隆寺の観音で、近寄って下から見上げた時であった。兎に角、実に美しい。
渡岸寺の十一面観音のことばかり書いてしまったが、最初の東京国立博物館蔵のビャクダンの小さな唐時代の十一面観音から、ビックリするほど素晴らしい仏像が展示されている。国宝と重文だけで40体あり、後の大半はユニークな円空仏と木喰仏であり、これが殆ど一木彫りの仏達であり、木に魂が宿ることが良く分かる。
何れにしろ、人垣を掻き分けて拝観するのだから、時間と根気が必要だが、朝早く出かけるか閉館間際に出かけるに限る。
しかし、これだけの豪華な仏像展はまず稀有に等しいであろう。
11月5日まで展示されていた国宝の京都・宝菩提院願徳寺の菩薩半跏像をミスってしまったのがカエスガエスモ残念だったが、秋の遅い午後の2時間は実に有意義で楽しかった。
12月まであるからゆっくり行こうと思っていたら、TVで滋賀県向源寺の十一面観音がお目見えしたことを知って急に思い立って出かけた。
今回の仏像展は、奈良・平安時代から円空・木喰まで一木の木だけで彫られた仏像だけで古いのは殆ど国宝と重要文化財だと言うし、それに私にはあまり縁のなかった関東や北陸・東北からの仏像が多いと聞いたので楽しみでもあった。
実際には湖北高月町の向源寺にあるのだが、私には元の渡岸寺の十一面観音で、もう15年も以上も前になるが、大阪から東名高速を抜けて北陸自動車道に入って木之本インターで下りて車で一度訪れたことがある。
イギリスに住んでいた時で、出張の途時に休暇を取って湖北の十一面観音を巡り若狭小浜の古社寺を散策する旅の時であった。
鄙びた湖北のかくれ里の小さなお堂の中にたった一体だけ、しかし、京都や奈良で拝観していた国宝の十一面観音とは一寸雰囲気は違うが、ふくよかで一種官能的で圧倒的な迫力に魅せられて長い間仰ぎ見ていた。
湖北の他のお寺も訪れたが、この辺りの十一面観音は観音信仰に篤い地元の人々が大切に管理していて、小さな御堂に安置されている。
しかし、直ぐ側には浅井長政の居城小谷城址があり、白山も近い。
今回の上野での展示では、門外不出を押しての出展で、館内の中央に一体だけでんと据えられて、四方から照明に照らされて360度何処からでも仰ぎ眺めることが出来る。台の上に安置された194センチの仏像だから近づくと仰ぎ見ることになる。
午後遅く館内に入って、この仏像の前で時間を過ごしたが、閉館間際になって又帰って来て、何度も立ち止まりながら仏像の周りを回った。
正面から見ると、顔はやや下向き加減で瞑目し、前方に曲げた左手に水瓶を持ち右手は下げて手のひらを正面に向けて、腰をやや左側にひねって右足を少し前に踏み出して立っていて、ベールに包まれたズボンをはいたような立ち姿が美しい。襷と肩にかけたベールの間に露出した締まった肢体にやや膨らんだ腹部の中央に十字が刻まれている。
頭部の十一面は実に精巧に彫られた素晴らしい彫刻であるが、素晴らしく豊かな耳の後、即ち、お顔の両側に一対ずつ小面があり、後に一面、冠様の位置には五面、そして、頂部に一面だが、この面が仏面ではなく菩薩面で、とにかく、ユニークで美しい。
向って右に回りこみ真横から見ると、左足を引いているのでぐんと身体を前方に突き出している感じで、反対側の横正面から見ると右足を踏み出しているので直立姿勢となり、正に、前に歩こうとしている御仏のムーブメントを感じる。
後から眺めると腰の括れが真ん中でキュッと引き締まって実に美しく、豊かな肩と腰の下の堂々とした佇まいが像のボリューム感を増幅し、ゆったりと垂れ下がったベールや衣装のカーブが優雅で美しい。
向ってやや右に回り込んで像を仰ぐと、衣装に引き寄せられてやや食い込んだ左腰の筋肉のへこみがゾクッとする程肉感的で、長い足の比重をやや右足に移して腰をツイストした姿などミロのヴィーナスを凌いだ美しさである。
そう思いながら頭部を見上げると、後ろ正面を見ている暴悪大笑面の凄い笑い面に目が会ってしまってばつが悪くて下を向いてしまった。
もう一つ気がついたのは、下に屈み込んで見上げれば見上げるほど、観音のお顔が神々しく美しく輝くことである。
向って斜め右側から見るよりは斜め左側から見上げる方が遥かに優しくて美しい。
左手に水瓶を持ち上げているので邪魔になるように思うが、その水瓶がやや左頬にかかる辺りから見上げるのが一番美しいと思った。
ところが、売っていた絵葉書や写真は、正面からか、或いは向って斜め左側からのものばかりで、水瓶で体が隠れないようにするのが良いアングルだと考えているようで美意識に乏しくて悲しい限りである。
能面は、能楽師が下を向けば悲しく泣いた様な顔になるし、顔を上げると笑っているように見えるが、これは文楽人形も同じで、一つの顔に色々な表情をこめたのが日本の人面や人形の特徴で、この技法が仏像に生かされているのは当然である。私は、何時もそう思って仏像を眺めており、出来るだけ色々な視点から拝観するようにしている。
もっとも、人の沢山いる前では不可能なので、今回のように閉館間際で人が少なくなってからしか駄目である。
私は、そうして、あの興福寺の阿修羅像の美しくて何とも言えない神々しいお顔を長い間楽しんでいたことがある。
十一面観音の素晴らしいさを始めて感じたのは太秦の広隆寺の観音で、近寄って下から見上げた時であった。兎に角、実に美しい。
渡岸寺の十一面観音のことばかり書いてしまったが、最初の東京国立博物館蔵のビャクダンの小さな唐時代の十一面観音から、ビックリするほど素晴らしい仏像が展示されている。国宝と重文だけで40体あり、後の大半はユニークな円空仏と木喰仏であり、これが殆ど一木彫りの仏達であり、木に魂が宿ることが良く分かる。
何れにしろ、人垣を掻き分けて拝観するのだから、時間と根気が必要だが、朝早く出かけるか閉館間際に出かけるに限る。
しかし、これだけの豪華な仏像展はまず稀有に等しいであろう。
11月5日まで展示されていた国宝の京都・宝菩提院願徳寺の菩薩半跏像をミスってしまったのがカエスガエスモ残念だったが、秋の遅い午後の2時間は実に有意義で楽しかった。