熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

吉例顔見世大歌舞伎・・・「九段目 山科閑居」

2007年11月15日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   夜の部で、私が一番期待していたのは「仮名手本忠臣蔵」の「九段目 山科閑居」であった。
   強烈に印象に残っている舞台は、前2回の歌舞伎座の舞台で、本蔵は、仁左衛門と團十郎、戸無瀬は、両方とも玉三郎、小浪は、貫太郎と菊之助、お石は、両方とも勘三郎、由良之助は、富十郎と幸四郎、力弥が、孝太郎と海老蔵であった。
   特に、印象的だったのは、勿論、二人の本蔵役者だが、玉三郎と勘三郎の意地と義理を染め抜いた熾烈な女の戦いに圧倒されたし、玉三郎の小浪に対する義母としての切ないまでの思いやりなど実に感動的な舞台であった。

   ところが、今回の舞台はがらりと変わって、小浪の菊之助以外は、お石の魁春は2度目だが、人間国宝の芝翫のお石も、幸四郎の本蔵も、染五郎の力弥も初役なら、吉右衛門の由良之助は九段目そのものに初登場だと言う。
   勿論、初役と言っても、大ベテランの大役者揃いなので、それまでに何度も同じ役を観たように感じても全く不思議はないのだが、
   それに、何度も見ている御馴染みの九段目だが、ベートーヴェンの「英雄」や「田園」を指揮者やオーケストラを代えながら何度も聴きながら、その度毎に新鮮な感動を覚えるのと全く同じ気持ちである。

   この九段目では、やはり主役は、架空の人物加古川本蔵だが、塩屋判官が高師直刃傷に及んだ時に、後から抱き止めて殺害を失敗させた張本人と言う設定であるから、由良之助一家にとっては恨んでも恨みきれない大悪人。
   ところが、本蔵の娘・小浪と由良之助の長男・力弥とは許婚関係であり、小浪がどうしても力弥に嫁ぎたいと切望するので義母である本蔵の妻・戸無瀬が小浪を伴い山科を訪れて祝言させてくれと懇願するが、由良之助の妻・お石はケンモホロロに拒絶する。
   望み潰えて自害を決意した母娘の覚悟を知り、お石は祝言を許すのだが引き出物として本蔵の首を所望する。
   そこに、虚無僧姿に身をやつした本蔵が現われて、悪態をつき、お石と渡り合うが、助太刀に入った力弥に刺される。
   力弥に討たれる為に来た本蔵の本心を知って由良之助が登場。本蔵は、死を前にして一生の不覚を詫びて娘の祝言を願い、引きで物として高家屋敷の絵図面を差し出す。
   由良之助は、覚悟のほどを庭の五輪の塔を見せて示し、本蔵の虚無僧姿を借りて堺へ旅立つ。

   これだけの話だが、前半は女の世界、後半は男の世界に分かれているが、流れがスムーズで畳みかける様な展開で話が進むなど実に良く出来た芝居であり、仇討ち最後の緊迫感が遠く山科の地で脈打っているのが素晴らしい。
   それに、裏面史的と言うべきかお石や陰で泣く女性たちの姿がビビッドに描かれているのが非常に新鮮であり、サムライである主人と一心同体である女たちの生き様が見え隠れしていて興味深い。
   特に、お石と戸無瀬の緊迫した真剣勝負の掛け合いなど、いわば由良之助と本蔵との代理戦争であり、しっかりと武士道の魂が脈打っていて爽快でさえある。
   しかし、この代理戦争が、殺伐とした男の戦いを、限りなく人間的な情の世界に引き込んで、親子の限りなき情愛とたった一夜の契りと言う純愛を通して、人の情けや悲しさ、崇高さを、観客に叩きつける。
   
   歌舞伎ではどんな台詞だったのか知らないが、浄瑠璃では、腹に刀を突きたてたまま「相手死せずば切腹には及ぶまじ、抱き止めたは思い過ごし・・・」と本蔵が告白するが、本当は塩屋のためにと思った咄嗟の武士の情けがアダになったことになっている。
   塩屋の高師直刃傷も、ほんの一瞬の心の高揚と言うかプッツンが悲劇の導線となるのだが、現実の世界でも、一瞬の危機に直面した時にどう対応するか人間の値打ちが試されるのであろうが、案外、歴史の喜悲劇は、このような偶然の連続なのであろうと思う。

   ところで、この舞台で、ことの顛末を唯一分かっているのは、本蔵だけで、閑居の門口で尺八を吹きながら「鶴の巣篭もり」を奏する虚無僧姿から、幸四郎の世捨て人としての虚無感を漂わせた表情が実に良い。激しい心の葛藤で展開する舞台の中で、この本蔵の立ち居振る舞いだけが、水の流れのように静寂なのである。
   力弥の刀を受けて手負いとなった本蔵が、どっかりと階中央に陣取って長い述懐が始まる見せ場だが、多少の過剰気味の表現ながら幸四郎は本蔵最後の思いを激しい胸の内に押さえ込んで独白する。
   子を思う尺八の楽の音もそうだが、小浪の祝言を願う本蔵の言葉など、封建主義であった筈の江戸の歌舞伎の世界で脈っていた人間賛歌が、厳つい本蔵を通して表現されるあたり実に良い。

   菊之助の小浪は、立ち居振る舞いが美しいのみならず実に初々しく、住大夫が何度も「小浪は処女でっせ」と言っているように、力弥に添えねば死んだ方がましだと言う激しい思いと、力弥に父から預かった絵図面を渡す時の何とも言えない恥じらいの姿など天下一品である。
   こんな娘なら、この世に残す不憫さ、それに、義母の戸無瀬が死を覚悟してお石に対峙する思いも良く分かると言うものである。

   菊之助の小浪との相性は、玉三郎の舞台の方がしっくりいく感じで観ていたが、芝翫の戸無瀬は、やはり、人間国宝としての歌舞伎芸術の集大成なのであろう。私は芝翫の戸無瀬を観ていて、本蔵よりもサムライの魂を色濃く持った毅然たる姿を感じて圧倒された思いであった。
   お石に離縁すると拒絶されて義理との板ばさみで自害を決心するあたりから、小浪の死ぬのは私の方とせっつかれて小波に刀を振り上げるまでの母娘の悲劇的な舞台は、芝翫・戸無瀬の独壇場だが、あの立場に立たされたら江戸時代の家老の内儀としてそれも継母としてどう振舞うべきか、私は、歌右衛門の伝説的な舞台の思い出も十分承知の上で、芝翫が現代歌舞伎の総決算としての一世一代の芸を披露したのだと思う。
   これまでは、お石をずっと演じ続けて来ているので、逆に、戸無瀬の気持ちが痛いほど分かるのであろう、多少、台詞のテンポの遅れが気になったが、若かくて輝いている菊之助小浪を相手に、深みのある戸無瀬を見せてくれた。
   住大夫の名調子に乗せて遣う文雀の素晴らしい戸無瀬をダブらせながら魅せて貰った。

   お石の魁春は、この芝翫から教えを受けたと言う。
   スマートな立ち居振る舞いからどうしても鋭角的な対応が印象に残るのだが、この場合の魁春は、控え目ながら結構自分を主張した毅然とした威厳を備えた演技に終始していた。

   吉右衛門の由良之助は、文句なしに堂々とした重厚な演技で説得力があり、染五郎の力弥も新鮮で素晴らしかったが、如何せん、この舞台では、脇役で十分な役者としての舞台が観られないのが残念であった。   
   多くの初役で望んだ九段目だったが、実に新鮮な貴重な舞台を見せてもらったと思っている。
   
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