熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

四月大歌舞伎・・・中村福助の「狐と笛吹き」「伊勢音頭恋寝刃」

2006年04月16日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   四月の歌舞伎座の舞台で興味深かったのは、福助の舞台で、昼の部の「狐と笛吹き」のともねと、夜の部の「伊勢音頭恋寝刃」の仲居万野の二役で、全く対照的な役を、実に器用に演じていて、芸に一段と磨きがかかった様な気がして楽しんで観ていた。
   ともねは、命を助けられた母狐が、娘狐を亡妻に良く似た女に化けさせて笛吹きの許に送るが、相思相愛になるが契ると死なねばならない運命を背負った悲恋のヒロイン。仲居万野は、廓・油屋の意地の悪い仲居で実直な侍・福岡貢(片岡仁左衛門)を満座の中で恥をかかせて殺される役、とにかく、いつも健気でいい女を演じている福助がこの舞台では豹変する、その凄さが面白い。

   「狐と笛吹き」は、もう半世紀以上も前に、北条秀司が中村歌右衛門に当て書きしたと言われる歌舞伎の為の書き下ろし。
   「狐女房」については、この話の元である今昔物語にも他にあり、狐と人間との異類婚姻譚は、歌舞伎や浄瑠璃でも「葛の葉」「信太妻」などあるし、日本昔話の子供の話にも、狐の妻が農繁期に夫を助けて田植えし稲穂が良く実ると言った説話などあり、化かす狐が農業神となって親しまれてもいる。
   しかし、この「狐と笛吹き」は、笛吹き春方(中村梅玉)と相思相愛になった狐の妻が、人間と契りを結ぶと死なねばならないと言う運命を背負った悲恋物で、夫の笛吹きに迫られて「死ぬのは恐ろしくはないけれど、貴方と違った世界に行くのが悲しい」と言うくだりは実に切ない。

   宮中での笛師への選任にもれ、悲嘆にくれて苦衷に耐えかねて、一緒に死ぬ覚悟をした笛吹き春方が最後にともねを求める。死を覚悟したともねの福助の表情が実に優しく神々しく輝いていた。
   翌朝、春方は、林の中を駆け回ってともねを探すが、故郷の琵琶湖畔を描いた大切にしていた扇を残して、大きなともねの衣装から狐に戻ったともねが顔だけ覗かせて横たわっている。  
   春方は、ともね狐を抱きしめて、都に別れを告げて狐の故郷に向かって死出の旅にたつ。 
   
   最初は、春方を慰める為に身代わりになったともね狐が、二人のしっぽりした生活の中で、少しづつ春方への恋心がつのり、自分が亡妻まろやの代わりに愛されていることに苦痛になり、二人の絆の思い出の琴を焼き、ともねとして愛して欲しいと迫る。
   しかし、何時春方が掟を破って契りを迫るのか不安で仕方がない、悩み悩んで人知れず故郷へ帰る決心をするともね。
   そこへ、選にもれて絶望して酒に酔いつぶれた春方が帰ってきて、ともねが居るから生きて行けるのだとかき口説く。
   このあたりの心の変化と狂おしいばかりのともねの心情を、福助は実に繊細で細やかに、そして情感豊かに演じていて胸を打つ。

   特に、この歌舞伎の舞台が、平安王朝のゆったりとした雅と枯れた渋さを綯い混ぜにした幻想的な雰囲気を上手く醸しだしていながら、北条秀司の現代的な台詞回しがいかにもリアルでドキッとするような新鮮さを感じさせてくれて感動的である。

   春方を演じる梅玉だが、王朝風の貴公子が板についていて、正に適役である。昔の説話は、男も女も恋一筋、邪念も邪心もなく愛し続ける、梅玉も、これほど妻に恋焦がれる夫が世の中に居るのかと思わせるほど丁寧に演じていて深い余韻を残す。
   特筆すべきは、愛し合う二人の心の交流が、実に素直に真っ直ぐに表現されていて、言葉の端々、そして、ほんの僅かな立ち居振る舞いにも心憎いまでの心配りがなされていて、心地よい感動を覚えさせてくれる。

   春方の住まいは東山の真葛ガ原で、円山公園の東南・長楽寺の辺りの山の中、今でも夜になると暗くて寂しいが、悲しい悲恋の話でありながらが、鑑賞後何処か清清しい印象を与えてくれる舞台だったのは、やはり福助と梅玉の芸が素晴しかったからであろうと思っている。
   私の好みに合った舞台であったので、余計にそう思うのかもしれない。

   歌右衛門と寿海の舞台が素晴しかったと言われているが、それは私には分からない。しかし、王朝風のたおやかで優雅な、そして、どこか幻想的で、あまりにも悲しくて切ない男と女の物語を、一寸、モダンで現代的なリアル感を醸しだしたこの福助と梅玉の舞台も決定版ではなかったであろうか。

   ところで、「伊勢音頭恋寝刃」であるが、実際に伊勢古市の遊郭・油屋で医者が仲居のおまんらを殺害した事件を劇化した際物(キワモノ)芝居で、ニュース性が命の大衆迎合形、しかし、近松門左衛門の心中ものもキワモノだから人気があったのであろう。

   この万野だが、意地の悪い中年仲居を、福助は、黒い着物を着て、歯を黒く染めて顔を横に引きつらせて一寸長谷川町子の意地悪ばあさんに似たスタイルで登場、声音も完全にばあさん風にかえて話しはじめると、客席から、苦笑気味の笑いがもれる。
   この万野だが、いい男の福岡貢(片岡仁左衛門)が恋仲の油屋お紺(時蔵)に会わせて欲しいと頼むが嫌がらせをして会わせないし、追い出そうとするが、替わり妓を呼ぶと言うと手のひらを返したように愛想良くなる。
   また、貢を思うブスの油屋お鹿(東蔵)をたぶらかして偽レターで金を出させて着服し貢に罪を着せる。
   要するに、貢の主人の家宝を奪う悪者に加担するのがこの万野なんだが、この意地の悪さで貢と渡り合う丁々発止の遣り取りが実に面白い。
   福助の新境地を見たような気がするが、元々品の良すぎる福助が、遊郭の名うての悪女のやり手婆には、距離があり過ぎて無理があり、少しも憎憎しくないのだが、それだけに滑稽で面白い。

   記録を見ると、この万野を、歌右衛門や芝翫の他に、玉三郎、菊五郎、勘三郎等が演じているが、夫々に面白いであろうと興味が湧いてくる。

   この「伊勢音頭恋寝刃」だが、やわで粋な仁左衛門の貢、お鹿の東蔵、お紺の時蔵、料理人喜助の梅玉、油屋お岸の勘太郎、 芦燕、團蔵、など芸達者が面白い舞台を作り出していたことを付記しておきたい。  
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