熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

初春大歌舞伎・・・坂田藤十郎の至芸・「曽根崎心中」のお初

2006年01月16日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   藤十郎に成りきりたくて紙衣を着た坂田藤十郎の余人を持って代えがたい舞台は、やはり、近松門左衛門の「曽根崎心中」、そのお初である。
   初日が、1253回目の公演とかで、昭和28年に再演されてから、53年間、藤十郎以外には演じたことのない、正に、坂田藤十郎独壇場の世界である。
   もう、藤十郎のお初を見たくないとお客さんが言うまで演じ続けたいと言う。

   今でこそ、大阪の表玄関であるが、梅田は、元々埋めた田、その隣の曽根崎は淀川の河口の湿地帯で明治時代まで菜の花が咲いていたと言う。
   その草ぼうぼうの畑地を抜けて露の天神の鎮守の森で、醤油屋平野屋の手代徳兵衛と堂島新地天満屋のお初が心中をした。
   早速現場に駆けつけて取材した近松門左衛門が浄瑠璃に仕立てて、竹本座で竹本義太夫が語ったと言う。

   大谷晃一先生の説明によると、お初の堂島新地は手代あたりが遊びに来る下級の遊郭であったらしく、冥途の飛脚の新町の梅川や助六の揚巻と言った気位の高い太夫ではなく、お初は、下級の遊女、借金で雁字搦めに縛られた悲しい境遇の女であった。

   しかし、その境遇を肯定して、腹を括って必死に生きている。
   久しぶりに徳兵衛に会った時、主人の女房の姪との結婚を断って江戸の出店に行くことになり、もう会えないと聞くと、「来世までもと約束を交わした仲じゃによって、会われぬときは、たかが死ぬだけのこと。あの世で会うのを邪魔する人はまさかあるまい。」と言う。
   この話は、オペラでも定番であるように、たった一日で起こった出来事をドラマにしているが、心中の伏線は既にここにある。
また、一直線に心中に突き進んでしまう分別のない物語のように思えるが、実際にも、極めてテンションの高い出来事が畳み掛けるように連続すると、後先の分別を働かせる余裕がなく、普通の人生を一挙に押し流してしまうことがある。
その典型がこの物語で、藤十郎は、緊張を途切れさせないように、幕間の舞台展開ではなく回り舞台を使用して舞台をスムーズに早く展開させている。

   藤十郎のお初は、第一場の「生玉神社境内の場」で、久しぶりに徳兵衛(中村翫雀)と会って、徳兵衛が、姪との結婚を断ったのを聞いて、「ほんまか」と念を押して、手を叩いて無邪気に喜ぶ。
   そんな健気で薄幸の19歳のお初を、現在でも、何処にでもいるようなヤング・ギャルの仕種を交えて、泣き出したくなる位初々しく演じており、そのリアルさにビックリする程である。

   忘れられないのは、第二場の「北新地天満屋の場」で、忍んで来た徳兵衛を軒下に隠して、金を騙し取って徳兵衛を窮地に落とし込んだ張本人油屋九平治(中村橋之助)の悪口雑言を聞いて、徳兵衛の死ぬ覚悟と自分との心中を自分の足を使って伝え確認する所である。
   「徳さまはだまされさんしたものなれど、証拠なければ理も立たず。この上は死なねばならぬ場合じゃが、死ぬる覚悟が聞きたい。」と、持ったキセルを床に突き立てて徳兵衛に足で合図する。徳兵衛は、涙に咽びながら、足を刀に見立てて喉笛に当てる。
   「おお、そのはず、そのはず、何時まで生きても同じこと。・・・どうせ、徳さまは死ぬ覚悟、わしも一緒に死ぬるのやいぞ。」
お初も泣いていて、徳兵衛は、縁の下でお初の足を押し頂いてこがれ泣く。

   藤十郎は、死を覚悟した手負い獅子のような形相で独りごとを言うが、九平治は、恐怖を感じて浮き足立つ。
   正に、藤十郎入魂の演技で、右目から真っ直ぐに一条の涙が流れ落ちる。

   私は、藤十郎の舞台を見ていて、藤十郎が、自分の演じている人物になりきって完全に魂が乗り移っているのではないかと感じることが多い。
   芝居は芝居と言って現実と区別して器用に演じる役者もいるが、大概、馬脚は剥げ落ちるもので、その点、藤十郎には、一生懸命推敲した後の昇華された真実しかないと思って安心して楽しみに観ている。
   
   余談ながら、文楽の場合も、ほぼ同じ舞台展開で、普通、女形の人形には足がないが、この場だけは、白い足が出てきて、徳兵衛がすがり付く。
   玉男の徳兵衛と簔助のお初の舞台も、これまた素晴しい。
   昭和56年に、松竹で素晴しい映画が製作されたが、浄瑠璃の語りと三味線の音に合わせて本当に人形が生身の人間のように悲劇を演じている。
何回か観た人間国宝2人の文楽の世界とこの藤十郎の舞台とで再現される珠玉のような曽根崎心中で、近松門左衛門が現代にも生き生きと息づいている。

   第三場に「曽根崎の森の場」の終幕、心中の瞬間であるが、文楽は、派手に決定的瞬間を演じるが、藤十郎の舞台は、その直前で幕が下りる。
   襟元をつかまれながら向かい合ってジッと刀を振上げる徳兵衛を凝視していたお初藤十郎が、居住まいを正してゆっくり目を閉じて中空を仰ぐ。
   何処か崇高な感じさえするお初の最後である。

   藤十郎は、坂田藤十郎と言う大カンバンを背負って新しい自分の納得の行く歌舞伎を創り出す為に頑張りたいと言う。
   それに、関西歌舞伎の再興と言う大きな役目もある。
   アメリカナイズされて、その上、トウキョウナイズされた文化が日本を席巻していて、日本本来の古い伝統と文化を色濃く残した関西色がだんだん薄くなってきており、風前のともし火でもある。
   もう、時間は残り少なくなってきた。
   人間国宝坂田藤十郎のご健闘を、心からお祈りしたいと思っている。

   
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久しぶりの庭仕事・・・春の準備を始めた花木

2006年01月15日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   この冬は異常に寒く、昨日は、千葉にも大雨が降ったが、今日は、一転春のような陽気の良い天気になった。
   豪雪で困られている地方の皆様には申し訳ないが、久しぶりに園芸店に行き、用土や肥料を買って来て庭仕事を始めた。

   この口絵の実は、くちなし、正式にはヒトエコクチナシの実で鮮やかな黄赤色に色付いて、寂しくなった庭に彩を添えてくれている。
染料になると言う。
   私の庭に咲いている花は、白や相模等の侘助椿と秋から咲き続ける紅妙蓮寺、荒獅子、寒椿くらいであろうか、枝にはビッシリと蕾を付けているが、何時も咲いている椿が一向に咲かないのは寒い所為であろうか。

   梅や桃の芽が出ているし、シャクヤクの赤い芽も出始めた。
   水仙やスノードロップ等草花も出始めたので、春は、もうそこまで来ているのである。
   地面を触ると地熱の所為か随分温かい。

   草抜きをして地肌が見えた庭に、鳥達が飛んできて落とした種があっちこっちで芽を出している。
   一番多いのは、万両の苗木で、そして、アオキ、竜の髭や日本種のランなどで、沢山の椿の芽は私が植えたり木から落ちた種が発芽したものであろうが、もう、庭は満杯なので、生まれ出でた小さな命をどうしようか迷っている。

   椿の苗木は大小沢山あるのだが、今回は、中国りんご椿と崑崙黒、天賜(テンシ)の種だけ、苗床に植えてみた。
   崑崙黒は、宝珠咲きで、おしべもめしべも貧弱で殆ど受粉するとも思えないので、今回のように実がなることも珍しく、恐らく雑種であろうがどんな花が咲くのか興味を持ったので種まきをしたのである。
昨年も、殆ど蘂のない紅乙女椿が実を結んだが、自然の摂理は不思議である。
   いずれにしろ、種まきから開花までは、気の遠くなるほど長いので、どうなることか。

   薔薇の芽が少し動き始めたので、剪定を行った。
   最初は、薔薇は難しいと言うので、薬を調合するようにテキストを見ながら用土を準備したり、手入れも参考書どおりに注意して世話をしていたが、長くやっていると勘と経験だけで適当にやっていてもそこそこ花は咲いてくれる。

   遅植えのチューリップの球根があったので買って来て植えてみた。
1月中に植えるのなら4月に咲くと言うが、遅くても早くてもどちらでも良い。
チューリップは、オランダで花のカーペットを見ているので郡植しないとだめだと思うのだが、オランダ産の球根だし、原種チューリップの小さな球根も入っていたので、良く通ったリセの畑を思い出しながら、植えたのである。 

   チューリップは、トルコなど地中海原産のようだが、資本主義勃興期のオランダで栽培された。
特別珍しい新種が生まれると球根1個が大豪邸一軒と交換されるくらい高値になり、猫も杓子もチューリップ投機に走って、歴史上始めてのバブルを生み出した魔性の花である。
   あの頃のチューリップを描いた細密画が多いが、今でも、チューリップはオランダにとって大切な花。
   故国トルコの土壌と同じ砂地が海面下のオランダの国土に広がっていたのが悪かったのかもしれない。
   しかし、そのお陰でオランダ人は花で家を飾り、世界一の花大国になった。   オランダの家の窓は非常に大きくて外から見えるように窓辺に骨董等と共に花を飾り立てていて、田舎道などの散策が楽しい。  
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海老蔵の「信長」・・・新しい英雄像に挑戦

2006年01月14日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   日本の歴史を革命的に変えた人物が何人かいるが、織田信長は、聖徳太子等と並んで、その最右翼の1人であろう。
その信長を、市川海老蔵が、実に生き生きと感動的に、新橋演舞場で演じている。

   舞台は、うつけスタイルの信長が、小高い丘の上で舞台を背にして瞑想、「敵は本能寺にあり」と言うナレーションで始まり、同じスタイルで、「何故生まれてきたのか・・・何処へ行くのか・・・」と言う信長の独白で幕が下りる。
   父織田信秀の葬儀と一族との争いから始まり、斎藤道三と濃姫との出会い、桶狭間の合戦、地球儀を前にしたルイス・フロイスとの神や科学問答、延暦寺焼き討ち、安土城での信長等を経て本能寺の変で終わるが、これに、濃姫、お市、藤吉郎、光秀などが絡んで話が進み、正味2時間40分の華やかで美しい舞台が展開される。

   信長については諸説あるが、私は、正に革命的な異端児と言うべき為政者で、歴史的にもアレキサンダー大王やジンギスカンにも匹敵する英雄で、イタリアを統一したガルバルジーのように日本統一の端緒を開き、唐天竺を越えてローマまでを視野に置いたその凄さに圧倒される。
   
   海老蔵は、「明智光秀に殺されていなければ、日本は変わっていた。」と言っているが、この点は、スターターとしての信長の使命は既に終わっていたと思っているので、長生きしていても歴史はそう変わらなかったと思う。
   しかし、「大うつけと言われているが、当時の人が彼の考え方について行けなかっただけで、本質は衝いている。」当時の人間がその頭脳と精神を理解できなかったので、自分もそんな理解を超えた信長を演じたいと言っているのには同感である。
天才的な英雄の思想と行動は、人智を超えており、それが天才の天才たる所以であるのであるから、舞台では、感動と感激だけで十分なのである。

   父親の葬儀で、位牌をタダの板切れではないかと僧侶に詰め寄るあたり、迷信と因習どっぷりの当時にあって科学的合理的思考と精神の持ち主であった信長の面目躍如たる所であるが、これが、ポルトガル人ロイス・フロイス等バテレンに会って、西洋の科学や文化に接して、信長の合理的科学的な思考と精神が一挙に開花する。
   そして、天命を受けた選ばれし者としての自覚が、自分自らの神格化と世界への挑戦を目指させるのだが、悲しいかな、人生僅か50年、時間がなくなってしまって焦るあまりに、自分を見失い周囲を敵にまわして自滅して行く。
   選ばれし者の狂気と撞着と言うが、決してそうではない、信長には醒めた理性の裏打ちがあり、あまりにも時代に先駆けすぎた悲劇があっただけである。

   この天才的な不世出の英雄信長を、海老蔵は自己撞着しながら自分自身の限りなき情熱と思いを籠めて演じている。
   前の武蔵の時には、極めて精神性を要求されるので若い海老蔵には無理なような気がしたが、この信長は、海老蔵の等身大で行ける。
   しかし、寅さんを演じた渥美清のように、海老蔵が地で行っているようにみせかけながら、実際は、地ではない芸の深さを追求しながら新しい信長像の創造に邁進しているのである。

   海老蔵は、かって演じた祖父版ではない海老蔵自身のために書き下ろされた新作信長版で、自分自身の信長像に真っ向から挑戦した。
   海老蔵の信長は、立ち居振る舞い、その芸が実に優雅で流れるように美しい。
やはり、市川團十郎家成田屋の御曹司で、歴史と伝統、そして、日本の伝統芸術を糾合した歌舞伎での大変な精進が海老蔵の舞台に息づいていて、並みの役者の信長でないことを痛いほど感じさせてくれる。

   ところで、濃姫を演じる純名りさであるが、レ・ミゼラブルのコゼットしか見ていないので、可愛くて綺麗な舞台しか知らなかった。
しかし、今回は、流石に宝塚の大スター、可憐さとしたたかさ、正室としての風格と威厳に加えて揺れ動く儚い女の弱さ等心のひだまで演じていて新境地を開いた純名りさを観た。
   コミカルで芸達者な藤吉郎の甲本雅裕、理知的で気弱な光秀の田辺誠一、可愛くてきりっとしたお市の小田茜など脇役陣も健闘していて魅力的な舞台を作り出していた。
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イノベーションと経営(3)・・・革新を産むメディチ・インパクト その1

2006年01月13日 | イノベーションと経営
   また、ハーバード・ビジネス・スクール・プレスから、非常に面白くて興味深いイノベーションに関する本が出た。
   フランス・ヨハンソンと言うスエーデン人の異文化交流に長けた多岐に亘る分野において博識な社会学者(?)の著作で、異文化・異分野の交差点で何故革新的で豊かな発見や発明が行われるのかを克明に活写していて興味が尽きない。

   本書のタイトル”The Mediti Effect: Breakthrough Insughts at the Intersection of Ideas, Concepts, and Cultures"が、総てを上手く物語っている。
「メディチ効果:アイデア、コンセプト、そして、文化の交差点での飛躍的・画期的な進歩・発展に関する洞察」と言うことであろうか。
翻訳者幾島幸子さんは、「メディチ・インパクト:世界を変える「発明・創造性・イノベーション」は、ここから生まれる!」とタイトル付けされていて、勿論、この方が分かり易い。

    メディチは、銀行業で富を蓄積したフィレンツェの富豪の大公で、あらゆる分野の芸術家や学者・文化人を保護した為に、ダヴィンチやミケランジェロは勿論、画家や彫刻家、詩人、哲学者、建築家、実業家など多種多様な人々が沢山フィレンツェに集まり切磋琢磨しあった。
正に、フィレンツェが異文化や異分野の学問や思想の坩堝となり、新しいコンセプトやアイデアに基づく新しい文化を創造しルネサンスへの道を開いた。


   ギリシャの黄金時代のように、創造性に満ちた革新的な文化運動を巻き起こしたこのメディチ効果と同じ様な現象がインパクトとなって、人類社会の文化文明のみならず、国家や企業の発展、そして、イノベーションを引き起こす原因となっている、それを実際に検証してみようではないかと言うのが、著者の問題意識であった。
   異なる文化、領域、学問が一ヶ所に収斂する交差点で、創造性が爆発的に開花する、その現実を、ビジネス、科学、文化、医療、料理、IT等々あらゆる部門に渡ってメジチ効果を捲き起こして画期的・革新的な業績を上げている第一人者にインタヴューして纏め上げたのがこの本で、とにかく、その逸話や秘密の数々を読むだけでも、下手な推理小説よりは遥かに面白い。

   ヨハンソンは、太西洋のど真ん中アゾレス海の小さな港町オルタの「ピーター・カフェ」から話を始めている。
ここで、世界周航中のヨットマンや南米への船旅の途中の人間や生い立ちも文化も全く違った人々がめぐり会って次のような豊かな会話を交わす。
「キューバでは、マカジキを釣るのにルアーの周りにボロをまいて釣る。魚が口を突っ込むと摩擦で抜けなくなる。しかし、人には簡単にはずせるし傷もつかない。」
   この文化の結節点・交差点でランダムに飛び交うこのような多種多様なアイデアが、発展・伝播して次の新しい発想を生む。

   あの英国の保険業が、シティの小さなロイズ・コーヒー店から始まったのは有名な話であるが、とにかく、人の集まるミーティング・スポットでは、何かが起こることは歴史上でも色々経験している。
   異文化との遭遇による文化や社会の発展は、明治時代の日本の近代化が、異文化に触れて啓発された人々によって行われた事は周知の事実であり、文学だって、留学した夏目漱石や森鴎外などに先導された。
   今日の勝ち組企業のトヨタの張副会長、キヤノンの御手洗社長、松下の中村社長等のアメリカ駐在経験も、メディチ効果の一例かも知れない。

   私は、アーノルド・トインビーの「歴史の研究」を思い出した。
膨大な著作で、私は、サマベルの縮小版しか持っていないが、それでも3冊の大著で、学生時代より愛読していて、翻訳版と英語版を、海外への移転の度にも携えて持ち歩いている。
   最初に感激したのは、4大文明が、自然の厳しい不毛の土地で発生したのは、人類が厳しい自然に対する応戦によって知恵と文化文明を開化させた為だと言うことであった。
   しかし、その開花した文化文明が、辺境地帯から移って行く様をも語ってくれていて、私は、シルクロードによる文化のヨーロッパへの伝播と仏教文化やイスラム文化の東漸に興味をもってきた。
   国境でもあり辺境地帯でもある文化・文明の結節点で、異文化がぶつかり合って新しい思想とコンセプトを生み出して、それが、誘い水として新しい国家や経済社会を生み出して行く。

   さて、IT社会が進むと、異文化交流の結節点・交差点はどのように変化するのであろうか、面白い課題でもある。


   
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初春大歌舞伎・・・坂田藤十郎襲名披露

2006年01月11日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   新春の雰囲気が残っている昨日、朝11時から夜の9時過ぎまで、歌舞伎座にいて中村鴈治郎改め坂田藤十郎披露の舞台を鑑賞した。
   仮名手本忠臣蔵を通しで見たと思えば別に不思議ではないが、結構、バリエーションに富んだ演目の連続であったので、正月早々、食べ過ぎたと言う感じを拭えなかったものの、これが実に楽しかった。

   中村芝翫が病気休演したのは少し残念であったが、やはり、中村鴈治郎の満を持しての坂田藤十郎の襲名披露の舞台なので、中々、緊張の漲った意欲的な舞台展開であった。
   しかし、何がそうさせるのか知らないが、歌舞伎界にとっては大変な襲名披露の舞台の筈でありながら、結構、チケットが売れ残っていて、昨日の舞台も空席が随分あって、人気にもう一つのところがあり、大変惜しい気がした。
   京都の顔見世で襲名披露公演が始まった所為もあるかも知れないが、中村勘三郎襲名の時は、東京歌舞伎座で3ヶ月も連続襲名披露公演が行われたが、満員御礼が続いてチケットが中々取れなかった。
   最近はズット襲名披露公演には欠かさずに出かけているが、同じ関西歌舞伎と言っても片岡仁左衛門の時には、もっと人気があったし、それに、ご祝儀気分と言うか若手の襲名披露公演さえ、もう少し景気がついていたように思う。
   関西の地盤沈下と人気の凋落と言うべきか、それに、至高の芸術だけでは律しきれない人気芸能のなせる不思議な世界なのかもしれない。

   人間国宝新坂田藤十郎は74歳、高齢での襲名披露は異例中の異例かも知れないが、今回の場合は、歌舞伎草創期を経ての黄金時代を画した名優坂田藤十郎の231年ぶりの襲名であり、正に、歌舞伎のルネサンス、関西歌舞伎の復興でもあり、その重要性とニュアンスは各段にエポックメイキングである。
   それに、鴈治郎時代からの坂田藤十郎の近松門左衛門に対する思い入れとその精神の復活には並々ならないものがあり、当時の歌舞伎の原点とも言うべき関西歌舞伎の復活は、正に失われつつあるものへの回帰であり、新しい歌舞伎文化の価値創造でもあり、恐らく、それは藤十郎にしか出来ない技であろう。
   NHKのわがこころの旅で、シェイクスピア劇を訪ねてイギリスを訪問していた藤十郎を覚えているが、歌舞伎もシェイクスピアも同じ時期に産声をあげた舞台芸術で、何か、シェイクスピアと近松門左衛門の接点のような素晴しい舞台が、藤十郎によって生み出されないか、と期待している。

   今回、藤十郎は、昼の部の「夕霧名残の正月」で、藤屋伊左衛門を演じるのに初代が着た故知にならって実際の紙で織った紙衣を使用した。
2階の廊下に藤十郎の舞台写真と共に、この舞台で使用した紙衣が展示されているが、藤十郎への思い入れの一端であろう。
   この扇屋夕霧を演じた中村雀右衛門だが、ビックリするような色香と優雅さ、そして、美しさを漂わせた生身のような女を演じていて、その素晴しさに感動してしまった。
死んだ筈の夕霧が伊左衛門の夢の中に現れて逢瀬を懐かしむ、そんな設定で、すぐ舞台から消えてしまうのだが、あんなに素晴しい雀右衛門を見たことがなかった。
雀右衛門は、最近の著書で、歌舞伎の女は、この世の何処にも存在しないあだ花、幻想の世界であるから、あんなに妖しく美しいのだと言っているが、この秋の舞台で病気休演していたので、素晴しい元気な舞台を観られたのが嬉しい。
しっとりした藤十郎との息のあった舞台はやはり素晴しい見ものである。

   ところで、藤十郎は、昼の部で、近松門左衛門の「曽根崎心中」の天満屋お初を、水も滴る実に初々しい大阪女に仕立て上げ、夜の部の「伽羅先代萩」の政岡を、涙に咽び顔をくちゃくちゃにしながらシンパクの演技を見せてくれた。
   今まで、東京歌舞伎座であまり見られなかった関西歌舞伎の真髄の一端を披露してくれた、そんな素晴しい舞台であった。
それに、私には、文楽に近い舞台が楽しみでもあったし、確かにこれは大阪の舞台だと実感出来る場面が随所にあって、久しぶりに忘れていた関西人に戻ったような気になっていたのである。

   これ等の舞台については、項を改めたい。
   
   

   
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マリンスキー歌劇場管弦楽団のワーグナー・・・ギルギエフのワルキューレ

2006年01月10日 | クラシック音楽・オペラ
   昨日、所沢のミューズ アークホールで、来日中のマリンスキー歌劇場のコンサート形式のワーグナー演奏会があったので出かけた。
   ワーグナーのリングの最初の演奏会なので楽しみにしていたが、期待に違わず、素晴しいワーグナーであった。

   一昨年、ニューヨークに出かけて、メトロポリタン歌劇場で、ワレリー・ギルギエフ指揮の「ワルキューレ」を観ているので、今回は、プラシド・ドミンゴのジークムントやマーガレット・ジューン・レイのジークリンデではなく、純粋のロシア人の歌うワルキューレの第一幕が、ザンクトペテルブルグのオーケストラサウンドになると、ワーグナーがどう変わるのかに興味があった。

   始めてギルギエフを聞いたのは、随分以前に、ロンドンのプロムに来たザンクトペテルブルグ・フィル管を振った時のチャイコフスキーの交響曲であったが、以前のムラビンスキーやテルミカーノフと比べるとサウンドが大分ヨーロッパ風になった感じで殆ど差を感じなくなっていた所為もある。

   第一部は、ラインの黄金より「ヴァルハラ城への神々の入場」、
   ワルキューレより、「ワルキューレの騎行」「魔の炎の音楽」
   ジークフリートより、「森のささやき」であった。
   ワルキューレは、神々の黄昏の「ジークフリートのラインの旅」に変えての演奏であった。
   第二部が、ワルキューレの第一幕なので、第三幕の最初と最後を聞けたわけである。
ワルキューレの騎行は映画「地獄の黙示録」の激烈な場面を髣髴とさせる凄い演奏で、金管の途轍もない咆哮は、正に脅威で、ピットからの音ではないナマの直接のオーケストラからなのでその印象は強烈である。

   ワルキューレの第一幕は、
ジークムントが森の中でジークリンデに出会う。ジークリンデの夫フンディングと戦うことになるが、ジークムントが、父ヴォータンが残した剣ノートゥングを手に入れる。途中、二人が双子の兄妹であることが分かり、結ばれることを宣言して幕となる。

   ジークムントとジークムントの愛の二重唱は、まさに、トリスタンとイゾルゼの愛の二重唱を髣髴とさせる素晴しく美しい旋律で、人民芸術家テノールのアレクセイ・ステブリアンコとソプラノのムラダ・フドレイの澄み切った朗朗とした歌声が堪らなく感動を誘う。
   それに、大地を震わせるようなバスのゲンナジ・ベズズベンコフのフンディングが、これまた素晴しくて、ロシア人歌手の質の高さに、今回も圧倒された感じであった。

   ワーグナーは、ドイツ主義の権化で、ヒットラーが好んだ所為もあって一頃ユダヤやソ連で敬遠されていたが、私は、ハイテインク指揮ロイヤル・オペラのワーグナーを殆ど聴いているし、同じくユダヤ人のバレンボイムも精力的にワーグナーを演奏している。
   音楽には国境がない、と言うことであろうか。
   とにかく、ワーグナーは、麻薬のようなもので、ルートウイッヒのみならず、好きになったらのめり込んでしまう、今回のギルギエフは、まさに、これを証明したような素晴しい演奏であった。
   舞台上でタクトを振るギルギエフは、実に軽快で飄々とした感じで、マリンスキー・オーケストラを縦横無尽に大地を巻き込みうねる様な凄いサウンドで歌わせていた。
   ウイーン・フィルのように、歌劇場専属のオペラ管弦楽団とコンサート・オーケストラと両面の持つ素晴しいオーケストラである。
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環境破壊の一例・・・町内会館の桜を切って駐車場に

2006年01月09日 | 生活随想・趣味
   成田空港に近い千葉県の片田舎の某町内会の話である。
   30年ほど前に、長嶋茂雄さんの旧宅の側の駅を移動して開発された新興住宅地だったが、現在では老齢化が進んで、町内には小学校はあるが、住民の子供の数が少なくなった。

   20年ほど前に移住して来た時には、たぬきやきつねが走っている所しか店を出さないと言われたジャスコが開店したのであるから、とにかく、まだまだ田舎で、自然が充満していた。
   今でも、近くの古墳跡には、雉が棲んでいて、春には、鶯が囀る、そんな田舎であるが、最近少し景気が良くなった所為か、空き地が整地され始めて、また、建設ラッシュが起こりそうな雰囲気になってきた。

   ところで、吾等の町内会で、町内会館の敷地内に駐車場を設置する計画が進んでいる。
   会館は、町内のはずれにあって、すぐ、水田地帯に隣接する土地だが、間口50メートル、奥行き20メートル位の長方形の土地に、建坪50坪程の平屋の会館が立っていて、残りの土地は芝地で、周りに桜を中心とした植栽があり、公園のような感じになっている。
   春には桜が満開になると、餅つき大会が行われて老若男女が集って花見を楽しんだり、色々な催しが行われて賑わい、結構、町内のコミュニティの場となっている。
   
   しかし、日頃は、町内会や、子供野球や、囲碁、ダンス、手芸と言った趣味や同好の会の集まり等限られた者達が使うだけで、静であり、無関心な者にとっては殆ど意識の中にはない。
   ところが、違法な路上駐車など問題があり、トラブルが続くので、会館のヘビーユーザーから駐車場を作れと言う申し出が出てきた。

   役員会では、大勢はやりたくないが、賛否を決めかねていて、春の総会にかけるという。
   かければ、声の大きな方が勝つので駐車場建設が決まりそうだと言う。

   たった5台程度の車を止める為に、折角、30年生き続けて大きくなって、やっと、美しい花を咲かせ始めた桜の木を2~3本切って、それに、芝地を整地してしまって公園の雰囲気を完全に無くしてしまうと言う。
   予算は多くても2~3百万円だから、使わない町内会費が余っていて痛くも痒くもないと言う。
   しかし、町内会館だから、いくら遠い家でも500メートル弱だが、何故、車で来なければならないのであろうか。
   
   利便性のためだけに、ドンドン自然が破壊されてゆく。
   山紫水明の国、日本の悲しい現実である。

   さて、今までは、傍観者を決め込んでいたが、これまでに蓄積してきた経営学と交渉術を使って如何に対応するか、一度、実践してみようと思っている。
   
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イノベーションと経営(2)・・・シュンペーターの新結合

2006年01月08日 | イノベーションと経営
   イノベーションを技術革新と翻訳したことによって、日本人のイノベーションに対する考え方が、新技術の発明、開発、導入と言った技術中心に捕らえられることが多い。
   もっとも、欧米の専門書においても、技術革新に焦点を絞って描かれている本も多いので、仕方がないとしても、やはり、時にはシュンペーターの意図したイノベーションに戻って、考えてみることも有用であろう。

   シュンペーターは、大著「経済発展の理論」で、イノベーションを、非連続的で急激な変化としてとらえ、「この変化は、経済体系の内部から生ずるもので、新しい均衡点は、古い均衡点から微分的な歩みによっては到達し得ないようなもの」だとして、駅馬車から鉄道の変化を例に挙げている。

   我々が学生の頃は、イノベーションを「新結合」と言う訳語で理解していたが、シュンペーターは、イノベーションとして次の5つを挙げている。
   (1)新しい財貨の生産
   (2)新しい生産方式の導入
   (3)新しい販路の開拓
   (4)原料あるいは半製品の新しい供給源の獲得
   (5)新しい組織の実現


   このようなイノベーションによって、古い体系が創造的に破壊されて経済発展が起こるわけであるが、事業の場合は、アンテルプルヌール企業家が、リスクを冒してこのイノベーションを導入して、成功すれば創業者利潤を得ることとなる。
   この時、資金的にサポートするのが金融機関であり、経済発展を支える重要な役割を果たす。

   ドラッカーの経営学は、この広い意味での新結合をイノベーションと捉えて展開されているのでその活用は多岐にわたっているのだが、狭い意味での技術革新として理解されている為に混乱を招いているケースが結構ある。

   さて、何故シュンペーターを持ち出したかと言うの、先日のブルーオーシャン理論での「バリュー・イノベーション」を展開するには、シュンペーター流の新結合の考え方を取る方が分かり易いと思ったのである。

   自動車工業でのブルーオーシャン展開について、著者は、フォードのT型車やGMの多品種多機能車種の展開、日本の小型車、クライスラーのミニバン、SUVがブルーオーシャンを開いたとしている。
   実際に、多くの例を検証するまでもなく、この自動車産業のように、技術革新そのものによってではなく、買い手が重んじる諸要因と技術を結びつけることによってブルーオーシャンが生み出されていることが多いのである。
   言い換えれば、技術のみならず、シュンペーターの言う新結合による変化が企業にビジネスチャンスを与えて、新市場の展開を助長していると言えないこともないのである。

   バリュー・イノベーションは、イノベーションとバリューを両方を考慮して、均衡を保たなければならないと言う。
   ブルーオーシャンの根幹は、買い手にとっての価値を押し上げることであるが、イノベーションを伴わずに価値だけを高めようとしても無理であり、価値を重視せずにイノベーションだけ実現しても顧客に受け入れらない。
   イノベーションをビジネスチャンスとして活用できるかどうか、生かすも殺すもマネジメントの能力であろうか。
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イノベーションと経営(1)・・・ブルー・オーシャン戦略の千円散髪QBハウス

2006年01月07日 | イノベーションと経営
   今、書店の経営学書のコーナーで、静かなブームを巻き起こしている非常に素晴しい本がある。  
   ヨーロッパのトップ・ビジネススクールの一つINSEADのW.チャン・キムとレネ・モボルニュ両教授の「ブルー・オーシャン戦略」と言う本で、ハーバード・ビジネス・スクール・プレスの出版だが、表紙が美しいので経営学書には見えない。

   既存の市場をレッド・オーシャンと称して、そこで血みどろの戦いを繰り広げる時代はもう終わった。これからは、ブルー・オーシャン、即ち、未開拓の市場を開拓して無限の可能性を追求して行く時代だと言って、その為の経営戦略を説く。
   既存市場で限られた需要を確保する為に、差別化やコスト削減競争で勝利しても所詮はコップの中の戦い、競争のない市場空間を生み出して競争を無意味にする「ブルー・オーシャン」の創造こそが、何よりも重要な戦略的行動である、と言うのである。
   早い話が、米国500大会社の殆どは50年の社歴もない新しい企業で、現在の企業価値トップを占める会社の大半は全くの新規企業。
近代の産業社会の主役はドンドン入れ替わり新陳代謝していて、永遠のエクセレント・カンパニーなどは存在し得ない。
GMにとって良いことはアメリカにとって良いことだ、と豪語したGMが、最早、風前のともし火。
19世紀から生き永らえている大企業はGEだけだが、最早電機会社ではなく金融会社になってしまっている。
企業調査によると、新規事業の86%は生産ラインの拡張でレッドオーシャン向けだが、ブルーオーシャンを目指した残りの14%が、全体の売上高の38%を、そして、利益は全売り上げの62%をたたき出していると言う。

   新しい市場空間を切り開き需要を大きく押し上げる「戦略的打ち手」が何であるかが重要だが、その土台は「バリュー・イノベーション」だと言う。イノベーションだけ先行しても、実用性、価格、コストなどとの調和が取れていないと、折角自分達で金の卵を産み落としながら他社に孵化されてしまうので、バリューとイノベーションを等しく重視することが重要だと説いている。
   普通、競争を前提とする戦略論では、価値とコストはトレードオフ関係であり、差別化か低コスト化かで悩む。
しかし、ブルーオーシャン企業の場合は、商っているモノやサービス及びその属性を、減らす、取り除く、増やす、付け加えると言う4つのアクションを行うことによって、競争のない新しい市場空間の扉を開くので、差別化と低コストは両立するのである。

   今、JRの駅中や繁華街の街角に、ほんの2~3坪の小さなサンパツヤQBハウスがあり、頭を刈るだけだが、10分間で1000円で散髪をしてくれる。
   普通、サンパツヤに行って散髪してもらうと1時間はかかる。頭を刈って洗って髭を剃るだけではなく、念入りにマッサージまでして、時にはコーヒーまで振舞ってくれるが、QBハウスは、髪を刈るだけで剃りもしなければ洗いもせず、その後掃除機のノズルのようなエアーウオーッシャーで毛を吸い込んで、それで終わりである。
しかし、クシとタオル代わりのネックペーパーは新品で衛生には注意を払っている。

   サンパツヤに何の目的で行くのか、徹底的に分析して、削ぎ落とすべきサービスは削ぎ落とし、加えるべきものは付け加えて、在来の散髪の概念を変えてしまったのである。
   60分散髪して4~5000円の在来のサンパツヤと比べて、QBは徹底的にコスト削減出来て収入増につながり、客は早くてコスト・パーフォーマンスが高いので両方得で大流行。
街の散髪屋が店変えをしたり、1000円散髪屋に変わったり、何れにしろ、組合制度で温存されていた旧制度を破壊して散髪革命をやってしまったのである。
   もっとも、私には、シニア割引がきくので在来の散髪屋で3000円払って気持ちよく散髪して貰うほうが有難いとは思っている。

   私は、外国に長かったので、このQBシステムは、不思議でも何でもなかった。
外国では、散髪の場合は、まず、頭を刈ることが先で、その次に、頭を洗う、髭を剃る、マニキュアをする、と言ったように客の希望によってサービスが追加されて、その分料金が加算されていくのである。
   私の経験では、全部込みこみでやってくれるのは日本と中国系だけだったように思う。

   最初、アメリカに留学した時に、散髪には悩んだ。
上手く英語で指示するのは難しい。それに、分からないアメリカ人(イタリア系が多かった)に、顔にカミソリを当てられるなど考えただけでも恐ろしい。
結局、頭を刈って貰うだけで済んだので助かったが、終わると急いで寮に帰ってシャワーを浴びて頭を洗って髭を剃った。
   サンパウロでは、日系か中国系の散髪屋を探した。
   アムステルダムは、ホテル・オークラにヨネクラがあって助かった。
   ロンドンには、美容修行中の日本人若者が多くてその関連の店に行った。
   とにかく、外国では散髪が悩みの種なのである。

   懐かしい思い出だが、要するに、在来型の事業でも、いくらでも「ブルーオーシャン」があると言うことであり、如何にこの新市場を開拓できるかが、事業の盛衰を決定すると言うことであろう。   

   
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新日本フィル定期公演・・・大野和士のショスタコーヴィッチ

2006年01月06日 | クラシック音楽・オペラ
   今夜、トリフォニーで大野和士が新日本フィルを振って、ショスタコーヴィッチのピアノ協奏曲と第4交響曲、そして、江村哲二作曲~武満徹の追憶に~”地平線のクオリア”の初演を演奏した。
   今年は、ショスタコーヴィッチ生誕100年の年で、それを祝う為のプログラムだと言う。

   ピアノ独奏は、マケドニア出身の天才ピアニスト・シモン・トルプチェスキで、大野の説によると、中国のランランと双璧だとか。
ランランは、一昨年ニューヨークで、マゼール指揮ニューヨーク・フィルのチャイコフスキーの1番を聴いて度肝を抜かれたが、トルプチェスキも、実に、激しく、時には、繊細にショスタコーヴィッチの、何処かモダンで戦争前のアールデコ調の香りがする協奏曲を華麗に弾いていた。
   一転して、アンコールは、ショパンのワルツイ短調、実に優しい。

   素晴しかったのは、第4交響曲で、100人を超す大オーケストラの管と打楽器の咆哮は、大変な迫力。
   とにかく、この曲は、説明書のとおり「躁と鬱、聖と俗、単純と複雑、極大と極小、両極端への移行が瞬時に起こる表現主義芸術の典型的な巨大交響曲、音による総天然色娯楽大河スペクタクル」。
   美しくもあり、グロテスクでもあり、とにかく悪く言えばハチャメチャ、実に凄い曲で、1時間、新日本フィルは、全力投球で奏する。
   木管、金管、それに、打楽器が実に上手くなった。
   ファゴット・ソロの女性奏者など秀逸である。
   それに、ハープ、チェレスタが綺麗な音色を響かせる。

   この曲は、ナチが台頭して風雲急を告げていた1936年の作曲で、作者が発表を取りやめ、戦後1961年に、キリル・コンドラシンが初演したとか。
   その時と同じ曲なのかどうかは分からないが、あの頃の、世界の息吹を色濃く伝えているような気がした。
   当時は、アメリカやヨーロッパ文化が、どっぷり、まだ、ソ連に入っていたのである。
   それから、ソ連はスターリンの独裁体制に、世界はナチに蹂躙されて不幸な戦争の時代に突入していったが、このショスタコーヴィッチの2曲は、その平和な頃のヨーロッパ文化の香りをまだ色濃く残しているのである。

   これまでに、何度か、大野和士の指揮を聴いているが、今夜ほど、大野が大きく見えたことはなかった。
   
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殆ど役に立たない通訳による国際ビジネス・・・グローカル視点が必須

2006年01月05日 | 海外生活と旅
   口絵の写真は、イギリス・カンタベリーの住宅である。2~3百年は建っている。
   オランダにも、最上階の窓から覗くと街路を越えて川面の上に飛び出たような錯覚を起こすほど、前に大きく傾いた住宅がいくらでもあり、これが何百年の風雪に耐えて建っている。
   何処かの国の耐震強度偽装事件のような建物ではなく、いくら傾いていても倒れない。
   もっとも、自然条件や風土が違うので一概には言えないが、私がこのコラムで言いたいことは、この建物のように、国や土地が違えば、その地域での生活を統べる文化や文明、価値観が、全く違うと言うことである。

   先日のブログで、パラグアイでのビジネスについて触れ、中国のMBAについても書いたが、国際ビジネスを有効に行う為には、ホスト国の言葉や文化・文明、そして、生活、その国の人々の価値観等を十分知っていないと失敗する可能性が高いと言うことを言いたかったのである。

   いくら有能な通訳を使ってビジネス交渉を行っても、相手の国の商習慣なり、ビジネス慣行を知っていないと、まず、成功は覚束ない。
   まず、最初に、通訳の能力だが、例えば、健康保険のことで交渉するのなら、その通訳が、日本語と相手国の言葉を同等程度に理解していることが最低条件必要で、次に、両国の健康保険のことに十分な知識を持っていることである。
   良く現地に長くて言葉も生活習慣も良く知っている現地人と結婚した日本人が通訳をしていて、これを使うケースがあるが、交渉の対象の専門知識がないと結果は最悪になる。

   たとえ、これ等の条件が揃っていて、日本語に正確に通訳されても、交渉する自分自身に正しく理解できるであろうか。
   例えば、銀行だが、英米ではBANKで、ブラジルではBANCOで、通訳は、銀行と訳してくれる。
   しかし、インフレの激しかった頃のブラジルの銀行は、金利も本来の利子にゼツリオバルガス研の価値修正数値を加えたり、乞食でも小切手で支払をするなど全く日本の銀行と違っていたし、欧米の銀行だって、もっと、日本の銀行と違っている。
   通訳が銀行と通訳したので、自分の知っている三菱や住友と同じだと思って交渉すると、えらい事になる。

   建設の話であっても、ブラジルでは、地震が無いと言うことで、30階建てでも姉歯級の鉄筋の数だし壁は煉瓦積なので夫婦喧嘩で妻が壁を突き抜けて吹っ飛んだと言うアホナ噂まである。
   工事が何時終わるか分からないので、施工済みの低層階には店が開店し人が住んでいて、上層階ではコンクリートを打っている等と言うのはざらであった。
   高速道路の橋桁が細くてスパンが長すぎるので、日本人の土木技師が恐れをなしてしまった。

   しかし、幸いなことに、ブラジルには、日本人の歴史と文化を背負った優秀な日系人が沢山いて、日本企業は随分助かった筈である。

   もう少し、建築の話をしよう。
   オランダとイギリスとは隣どおしで付き合いも長い。しかし、全く違っていた。
   例えば、建築工事の契約であるが、オランダは、いくら熟知し親しい間柄でも、プロジェクト毎に、全く一から切った張ったで熾烈な交渉を繰り返す。
しかし、一度合意に達すると多少の変更があっても日本の建設会社のように文句を言わずに完全に工事を仕上げる。
   一方、イギリスは、極めて紳士的に和やかに交渉し理解のあるところを示して交渉を終える。
しかし、工事が始まれば、プロジェクト・マネージャーがクレイム・マネージャーに変身して、クレイム・クレイムで、工事費の増額を要求、仕事にならない。契約条件の不備やスペックの問題点を衝いて金にしようとするのである。
その所為か、イギリスでは、アーキテクトやエンジニアーの評価は高いが、建設業の地位は低い。
イギリスには、工事の監視役にクオンティティ・サーベイヤーが存在する所以でもある。
   もっとも、このオランダもイギリスも、一寸走れば国境を越える小国だが、数時間走れば、もう喋っている言葉も分からなくなるし、商習慣など全く違ってくる。

   国際ビジネスは、それ程難しいのである。
   まして、良き通訳を雇えれば、ビジネス交渉が上手く進むなどと言ったことはあり得ないのである。
   親会社のビジネス感覚と価値観を共有し、ローカルの商習慣を熟知しかつ現地での経験豊かな、近代経営の知識と豊かな国際感覚を持った人材を如何に育成し確保するのか、That is a question.である。
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カルチュア・ショックの連続・・・パラグアイと言うラテン・アメリカの国

2006年01月04日 | 海外生活と旅
   今日、TVを見ていたら、パラグアイで成功した日本人移民農家の話を放映していて、懐かしいアスンションの風景が写っていたので、30年前の彼の地でのことどもを思い出した。

   私が、アメリカ留学を終えて、すぐ赴任したのがブラジルのサンパウロだったが、本格的な仕事を始めたのは、隣の国パラグアイであった。
   ブラジル移民の人々が移動して来たと言うことで、比較的日本移民の多い所だが、パラグアイから日本へ国際電話(たった2本しかなかった)を架けた時、交換手が「腹具合が、悪いのですか」と応えた位に、日本では馴染みがなかった。

   世界銀行の借款による道路工事の入札に参加して、幸いにも、落札できたのだが、それからが苦難の連続であった。
   全くビジネス倫理やビジネス感覚の違う国においての国際事業が如何に困難であるかを地で行ったような、ラテン国家でのプロジェクトであった。

   まず、最初の躓きが、下請けの問題。
   入札の段階で、一番施工能力のある工兵隊に見積もりをさせたのだが、さて、工事契約の為に交渉に入ると、その金額では下請けが出来ないと言って見積りには一切責任を持たずに、足元を見て法外な工事費を要求してきた。
   以前、同じことを中国でも経験したが、結局、工兵隊の下請けを諦めて自分たち自身で施工体制を組んで施工することにした。

   一方、ブラジルへ発注したアスファルト・プラントは、待てど暮らせど、納入時期を過ぎているのに到着しない。
   契約など完全無視、アミーゴにしか約束を守らない国なので、転用してしまっていて埒が明かない。仕方なく強引に取り外して持ってきた。

   次の問題は、発注者政府道路局への対策で、要は賄賂の問題。
   月給5万円の局長が、貧しい国であるにも拘らず、車庫にはベンツが2台、玄関を開くと心地よい音楽が流れでる間口30間以上の豪邸に住んでいる国なので押して知るべしであるが、まして、世銀借款の大型工事は私利を肥やす為には千載一遇のチャンスで、この目的遂行の為にあらゆる手を打ってきた。
   まず、工事管理のコンサルタントはアメリカの会社だが当時は全く倫理観は欠如していて、道路局の言いなりになっていて建設業者を徹底的に締め上げることを指示されていたので、スペックを満たしているにも拘らず、中々OKを出さないので、何度も工事のやり直しで何倍もの工事をしたことになり、機械の消耗が激しく工事費は鰻上り。
   しかし、我々は、世界中で国際事業に参加している以上、国際的なルールの厳守と倫理観の維持は当然必須だと考えており、一切、パラグアイ流のやり方に妥協しなかったので、大変な苦労をした。
   パラグアイの別の地区で前年に米国のM社が施工した道路は、もう、既に、1年も経たない内に表層が剥がれてきていた、要するに、皆で食ってしまったのである。これが、パラグアイの道路工事の現状であった。
   世銀借款の道路工事で立派に施工して成功したのは、我々のパラグアイの道路と東名高速道路くらいではなかろうか、と思ってしまう。

   もう一つ誤算だったのは、自然現象や自然条件の違いで、彼の地は、イグアスの滝に近いジャングル地帯で、それに大地はテラロッサ、とにかく、日本人感覚で計算に入れた自然条件と全く違っていて、この克服にも悪戦苦闘した。
   最後の留保金を取り戻すまで数知れない苦労をしたが、何故か、星が降ってくるような美しい夜空や、旧漢字のホタルの様にお尻ではなく頭、即ち目玉が光る大きなホタルを見たことなどばかりを思い出す。

   私自身は、サンパウロ常駐だったので、直接にこの工事を担当していなかったが、ビジネススクールで勉強した国際ビジネスの恐さを思い知らされたプロジェクトであった。
   他にもラテンアメリカには、一切外国企業の本国の介入を許さないカルボ条項など独特な商慣習があって、それに、アミーゴ関係が総てを律していて、法律・契約等は二の次、理屈が通らないそんな国でのビジネスの苦労は筆舌に尽くし難い。  
   その意味では、日本人移民の人々の苦難と忍従、そして、その大変な努力に尊敬の念を禁じえない。

   パラグアイ人は、非常に誇りが高くて、隣のブラジル、アルゼンチン、ボリビアを敵にまわして3国戦争をしかけて、男が殆どいなくなってしまったので、一時、木から女が降って来るとまで言われたことがある。

   アルパと言う小型の独特のハープがあり、この演奏に合わせて壷を頭に載せて乙女達が優雅に踊る。
   何故か、民族音楽は、実に優雅で穏やかで美しかった。

   イグアスの滝に程近いトリニダードには、未完で廃墟になったイエズス会の巨大な教会跡がある。
   ミッションと言う映画の舞台である。
   側のチロルには、ドイツ移民のオーナーがコツコツ煉瓦を積み上げて建設した美しいチロルホテルがあり、素晴しい料理を出していた。
   この側に隠れ住んでいたナチの高官が逮捕されたのを聞いたのもこの頃であった。

   首都アスンションのパラナ川の中州に原住民のグアラニー族インディオの集落があり見に出かけたが、街の店で店員をしていた乙女がインディオの恰好をして裸で出て来たのにはビックリ、しかし、懐かしい思い出である。

   もう一つ忘れられないのは、当時パラグアイは、ラテンアメリカ唯一の自由貿易の国で、世界中の物品が自由に輸入されていた。
殆ど目ぼしい産業のない貧しい南米の小国が、言い換えれば、ラテンアメリカの密輸の貴地でもあったと言うことである。
それに、外貨の交換も自由で、交換性のない南米の通貨もドルなどのハードカレンシーに交換出来た。
正に、買い物天国で、ブラジルやアルゼンチン等から沢山客が来ていて、国境のイグアスのパラナ川を渡る橋にはトラックが犇めいていた。
   当時、後に追放される大統領の独裁政権等を含めてパラグアイ特集を記事にした穏健なナショナル・ジオグラフィック誌が発禁になった。

   ここに書いたのは30年前のパラグアイの話で、今では随分変わっていると思うが、南十字星が美しく光り輝く別天地、走馬灯のように懐かしい思い出が駆け巡る。
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中国ビジネス成功の決め手は中国人MBA(?)

2006年01月03日 | 経営・ビジネス
   BusinessWeekの電子版を見ていると、面白い記事が載っていた。
   Why Multinationals Need Chinese MBAs と言うボストン・コンサルティングのHarold Sirkin氏のコメントで、多国籍企業にとって経験豊かなローカルの有能な人材の確保が、必須であると言う。

   中国で事業を行っている米系企業の最大の関心事は、有能なローカルの人材の確保。
大抵の中国人の上級管理職は、欧米の経営技術については全くの素人なので、次善の策として、アメリカから人材を呼び寄せるが、これでは、中国事情や中国ビジネスにに疎い人間がトップになるので上手く行かない。
   この問題を解決する為に、最近では、中国においてビジネススクールが出来始めて、独自の中国製MBAが、将来の問題の解決に役立つであろうと言う。
   しかし、これは緊急の問題の解決にはならない。

   中国で一番不足している人材は、中国のビジネスの豊かな経験と欧米流の経営技術を兼ね備えたトップ・エクゼクティブ。
   米系企業に、自社内で、まず、中国でのビジネス経験者で欧米のMBA取得者を探して、有能な人材に教育せよとアドバイスしていると言う。

   しかし、理想は中国人の有能な管理職を育成して経営を任せることである。
   なぜならば、中国のインフラのシステムから、資機材・製品の輸送問題、中国企業との有効なビジネスの遂行等あらゆる問題を含めて、世界の常識や商慣習から全くかけ離れた中国で、ビジネスを上手く行う為には、中国人しか対応できない場合が沢山ある。
   世界各国で、多国籍ビジネスを展開して失敗をし続けているアメリカ企業が、このことを一番良く知っている。

   米系の多国籍企業が、ヨーロッパで事業を行った時には、INSEAD等ヨーロッパのビジネス・スクールのMBAを採用して対応していたが、やはり、ローカルのビジネス・スクールで、欧米流の経営手法なり経営学を学んだローカルのMBAの採用が一番良いと言うことであろうか。

   しかし、中国では、自前の中国人トップが果敢に欧米の多国籍企業と競争して、ローカル企業がマルティナショナル企業への道を突っ走り始めた。
   世界に冠たる商売人の国・中国が、SIRKIN氏の言うのとは、一味違ったエクゼクティブ像を作り出すかも知れない。

   さて、日本の中国で活躍する多国籍企業はどんな対応をするのであろうか。
   比較的近くにあって歴史的な繋がりも強いので、中国を良く知っている心算でいる日本企業が多いようだが、このビジネス感覚が、問題を惹起する可能性が多いのではないであろうか。

   モノ造りについては、唐津氏や橋本氏などは、日本の様な高度な技術を持っていないので、当分は、中国製造業の脅威は起こり得ないとしている。
   しかし、台北の故旧博物院に行けば、中国人の技術力が如何に図抜けて高いかを工芸品の数々を見れば思い知らされるであろう。
   景徳鎮の窯で、炎の色を見ただけで焼く具合が完全に分かると言う職人の話を聞いたが、これは、人智を超えた匠の技である。
   火薬も紙も中国で生まれた。

   日本人は、昔から匠の技に秀でた天性の職人だと思っている人が多いが、これは、主に伝統工芸や伝統技術の場合で言えても、ほんの半世紀前には、MADE IN JAPANと言えば工業製品の粗悪品の代名詞であった事を忘れている。
   今の中国と同じで、瞬く間に、欧米の製品を真似して作るが、品質が悪くて使い物にならなかった。
   現在の工業製品の高品質は、戦後の日本人が、伝統工芸と技術を駆使しながら新しい科学と技術を導入して、血の滲むような努力を重ねた結果編み出したものであることを決して忘れてはならないと思う。

   
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雑貨作り・ローテク技術なければハイテクなし・・・岡野工業の秘密

2006年01月02日 | 経営・ビジネス
   正月2日は事始め、今年真っ先に読んだ本が橋本久義氏と岡野雅行氏の座談会を主にした「町工場こそ日本の宝」と言う面白い本である。
   名物社長の岡野氏から金型及びプレスの深絞り加工物語等興味深い話を、上手く橋本氏が引き出していて、世界に冠たる日本の物作りの強さの秘密を語りかけている。

   機械を超えた「ローテクの技」が、ハイテクの技術を支えていると言う興味深い話で、昔、いくら機械でレンズを磨き上げても、手の感触で磨き上げた名人のレンズ磨きには及びもつかないと言う話を聞いたことがある。
文明や機械技術が如何に進歩しようとも、人間の名人の技には及ばない技術分野はごまんとあって、そのローテクの技術がなければ、ハイテクの高度な機械は製作不能である場合がいくらでもあるのだと言う。

   岡野氏の製作で有名な「痛くない注射針」であるが、これは、全長20ミリ、針穴の直径が80ミクロン(100分の8ミリ)、針の外形が200ミクロンで、蚊の針と同じ位の太さだから、痛くないのだと言う。
   これを、岡野氏は、金属の薄い板を丸めて、金属自身の持つスプリング力で締め付けて、液の漏れない針を作り上げ、大量生産に成功したと言う。

   最新の工作機械は装置産業なので、ハードとソフトを買って来れば良いのだが、一歩進んだ自分の創造性を生かした斬新なものは絶対にそれでは作れないと言う。
物作りの現場では、ハイテク製品は雑貨から生まれていて、折り畳み傘の骨やライター、万年筆と言ったローテクの雑貨用の金型製作技術が必須だと言うのである。
   こうして、岡野社長は、世界の誰も製作できなかった電池のケースや物を摑める割れるスプーン等ユニークなものは勿論、名だたる大企業のハイテク金型を数多く製作し続けていて、人が創れないものしか製作しない。

   金型の基本は「根気」で、打っては削り、また打っては削りの連続で、金型はまさに「まごころ」で、切る、削る、穴を開ける、磨く、と言う作業をひたすら根気良く繰り返す。
   しかし、この単純な繰り返しが、名工に、機械や科学や人智を超えた素晴しい創造力を付与し、ハイテク技術を支えている。

   昔、インカ帝国のマチュピチュを訪れた時に、カミソリ一枚入り込めない程ピッタリと精巧に積み上げられた石垣を見て感激したのを思い出した。
   何故、インカの職人がこれほど素晴しい技術を持っていたのか、聞いてみたら、一番単純な技術で、ピッタリ合うまで何度も試行錯誤を繰り返したのだと言うのである。

   岡野社長は、一切図面を描かずに金型を製作すると言う。作る毎にグレードアップして止まる所を知らない。
   新しい発想を生む為に海外に出かけると観光そっちのけで、ドイツ語や英語の技術専門書を漁って勉強すると言う。

   とにかく、途轍もない現場力と創造的な技術を追求する岡野社長の話は、多岐に渡っているが、何故、日本の製造技術力が世界一高いのかの一面を如実に物語っていて、実に興味深い。
   
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交響曲第九番「合唱つき」で元旦を迎える・・・岩城宏之ベートーヴェン全交響曲演奏会

2006年01月01日 | クラシック音楽・オペラ
   2006年の年が入れ替わった瞬間、岩城宏之のタクトが振り下ろされて、ベートーヴェンの第九の演奏が始まった。
   東京芸術劇場で、大晦日の午後3時半から開始されたベートーヴェンの全9交響曲の連続演奏会の最後の第九が、年を越した丁度深夜零時に演奏が開始されたのである。

   同じ夜に、1人の指揮者が、正味6時間のベートーヴェンの全交響曲を連続してマラソンで演奏すると言うのは、前代未聞で、昨年の大晦日に、東京文化会館で岩城宏之が初演して今年で2年目、私は、去年と同様に迷うことなく早々にチケットを手配して、観客の一人に加わった。

   オーケストラは、N響を中心とした有志によるイワキオーケストラで、水準は極めて高く、第九のソリストは、ソプラノ釜洞裕子、アルト坂本朱、テノール佐野成宏、バリトン福島明也、合唱団は晋友会合唱団である。

   昨年は、確か、1と2、3、4と5、6と7、8、9とに区分けされて間に休憩を挟んで岩城宏之氏や三枝氏の談話が挟まれていたが、今回は、1と2は連続演奏されたが、連続演奏は、1と2だけで、後は一曲毎に休憩が入り、5と6との間に長い休憩が入り、6の後に岩城氏と三枝成彰氏の交響曲談義、9の前に三枝氏と金子建志氏の第九演奏模様についての興味深い談話が行われた。
   作曲当時は、ホルンやトランペットの性能が悪くて出ない音があったのでそれを飛ばしてベートヴェンは作曲したが、それを、ワインガルトナーやフルトベングラーが補って演奏したなどと言う興味深い話や、バリトンの出だしの歌い方の変遷など面白い話を実演を交えながら語っていた。

   私が感激したのは第3番の「英雄」で素晴しい熱演であったが、聴衆の反応は、第7番と第九番の「合唱つき」で、感動した聴衆の割れるような拍手は長い間鳴り止まず大変な興奮振りであった。
   とにかく、ベートーヴェンの「英雄」「運命」「田園」「合唱」と呼称つきの交響曲を聞くだけでも大変なことだが、それが、日本でもトップクラスのアーティストよって演奏されるベートーヴェンの全交響曲を連続して聴けるのであるから、その値打ちは大変なものである。

   岩城宏之氏は、演奏中命を落としても本望だと覚悟して指揮されており、来年もやられる様子で、至ってお元気な指揮ぶりでであったが、大変な精神力と集中力だと感激している。
   晩年のアンセルメは、殆ど動かずに僅かに指揮棒を上下左右する程度であったし、オイゲン・ヨッフムもバーにもたれながら動きをセーブしていたし、元気な筈のバーンスティンが、晩年ロンドン響で「キャンディード」を指揮した時も疲れは隠せなかった、指揮台上で晩年まで飛び跳ねていたのはゲオルグ・ショルティだけであろうか、とにかく、岩城宏之氏のお元気なベートヴェン連続演奏会を聴き続けながら、毎年年越しをしたいと思っている。

   演奏会のキャッチフレーズが、『ベートヴェンは凄い』。岩城氏は、「もはや、運命」と言われている。
   これまで、随分、世界の超一流オーケストラのベートーヴェン交響曲演奏を聞いてきたが、連続して聞いてみると、その凄さに圧倒される。

   さて、演奏会の終演は、元旦の午前1時10分、成田詣での電車客に混じって家に着いたのは午前3時、それから、私の新年が始まったのである。
   
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