熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

奥山清行著「100年の価値をデザインする」

2014年02月05日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   奥山清行氏は、フェラーリ・エンツォやマセラティ・クアトロポルテを筆頭に秋田新幹線E6系スーパーこまちなどを設計した世界的な工業デザイナー(社会システム・デザイナー)で、これまでに、2回ほど講演を聞いたりTVで見たり、著書を読んだりしており、日本離れしたイノベイティブな発想に、非常に、感銘を受けている。
   この新書版の新著には、その豊かな発想法やその原点、そして、日本のものづくりの将来像など、ユニークで興味深い話題が満載で、非常に示唆に富んでいて面白い。

   まず、クリエイティビティについてだが、人には先天的にクリエイティブな能力の差など、殆どなくて、後天的なセンスと、経験から得たスキルだと言う。
   本来的にクリエイティブな人間などどこにもおらず、必要な知識と経験を身につけ、自分の能力を高める努力を続ける一方、どうすれば、更にレベルの高いものをアウトプットできるかと言う方法を理解している人が、クリエイティブな人間になって行く。のだと、自分自身の経験を通して熱っぽく語っている。

   
   そして、日本人の個人力は、もの凄く高く、本来、一匹狼の似合う人種なのであって、たった一人で世界に打って出て才能を開花させて成功している人が多い。
   従って、殻を破るためには、団体力よりも個人力を発揮すべきである。日本人は、センスのある、潜在能力の高い個人力を持った国民だが、それを引き出す仕組みが社会的に存在せず、個人がクリエイティブ力を発揮しようとすると、日本社会がその芽を摘んできた。と言う。

   その個人力をフルに発揮して成果を上げてきた著者のクリエイティビティを誘発したのは、日本人が持つ独特な方法論、本質を見極めて、使用を大胆に削ぎ落として行く伝統的な切捨て文化の精神だと言うのも非常に興味深い。
   「モダン、シンプル、タイムレス」と言うデザイン哲学を、「もっとシンプルに」と言うビニファリーナの哲学を引いて説明し、「もう何も残らない」と言うギリギリのところまで贅肉を削ぎ落した時、残った要素が強ければ強い程素晴らしいデザインになる。と説く。

   日本人の切捨て文化の原点は、室町時代だと言う。
   南北朝時代から、応仁の乱や明応の政変を経て戦国時代に突入した室町時代は、正に、戦乱の時代だが、洋の東西を問わず、戦乱の時代はそれに反発するようにして創作が花開いたと言うのである。
   室町時代が、創造的でイノベイティブな時代であったと断言できるかどうかは疑問ではあるが、シンプルの極致とも言うべき日本の誇る能楽を大成させたのは、この時代であったから、切捨てによって高度な創造性を発揮する日本人の思考哲学の原点が、この時代であったのかも知れないとは思っている。
   そして、逆に、織豊時代から徳川時代にかけて生まれ出でて元禄時代に爛熟した歌舞伎を見れば、正に、装飾過多とも言うべき積み上げの文化であって、日本文化には多様なDNAが内包されているので、奥山氏にとっては、日本のシンプリシティ哲学が効を奏したと言うことであろう。

   その他、デザインについて、色々、興味深い指摘をしている。
   デザインで重要なのは、「言葉を通してコンセプトを選び出す」作業であり、セルジオ・ビニンファリーナの例を挙げて、デザイン・コンセプトのクリエイティブな要素を誰にでも分かる簡単な言葉で説明し、強い方向性を出すこと。
   最初に言葉によるコンセプトがあって、次にそれを具現化する視覚的なものが追従して行くべきだ。と言う。
   また、日本には無駄な時間の浪費に過ぎない会議が多いのだが、イタリアの会議は、ブレーンストーミングで、別々の専門知識を持ったクリエイティブな人たちが集まって、夫々の個人が持っているアイデアよりも素晴らしいものを生み出すことが目的であり、これこそ、嗜好品やブランド品、趣味の世界の高級品などの分野で存在感を発揮するイタリア人の創造性を生む原動力である。とも指摘する。

   興味深いのは、日本のものづくりについて、顧客のニーズとウォンツについて語り、トヨタのヴィッツは、いわば、ニーズを満足させるコモディティ商品なので安ければ安い程良く、これに対して、イギリスのミニは、はるかに質が悪くて製品としてはヴィッツと較べもののならないのだが、楽しみや快楽、趣味に繋がるウォンツを満たす顧客が欲しがる自動車(著者も持っている)なので、倍以上の高い金を払ってでも買う為に利益率が高い。のだと、クリエイティビティが、差別化を促し利益を生むのだと説く。

   日本の会社は、儲からないのになぜ作り続けるのか。マーケットシェアを維持するため、囲い込んだユーザーにより上級の儲かる製品にステップアップしてもらう為だと言う。
   利益を生むべくブランド化を目指すなら、日本企業は、提供する商品群がユーザーをどのように幸せにするか、具体的なライフスタイル全体を提案して遡及すべきである。
   その為には、まず自分で使ってみて、いいなあと思って惚れ込んで売るのが成功の鍵で、作り手なり売り手が自ら使わない商品はダメにも拘わらず、最近の日本企業には、その傾向が強くなって来ている。
   国産製品に、身もだえするほど欲しいものが何かあるだろうか。クリエイティブなアイデアでライフスタイルを提案するどころか、失敗を怖がってニーズ商品、コモディティ商品ばかり作っているから、青息吐息であって、そんな企業には、未来はない。と言う。
   正に、その通りで、日本の家電メーカーなどを筆頭にして凋落への道にのめり込んで、コストカットばかりに傾注して、どんどん、活力を削いで行く企業を見ていると、何故、負け戦だと分かっている、競争力のないコモディティ生産から脱却出来ないのか、不思議で仕方がない。

   日本のホワイトカラーは世界最低で、日本が先進国でいられる理由は、ブルーカラーが強力な戦力だからだ。と著者が指摘する日本のものづくりの現場力のパワーの卓越性は良く分かる。
   しかし、著者が必須だと言う創造性豊かでイノベイティブな製品を生み出す為のアドバンスト・マーケットリサーチ、すなわち、未来の顧客の気持ち・好みを推測して先読みする未来予測を行って、誰も答えてくれない問題を、自分で材料を集めて自分で考え、自分で結論を出すと言うスティーブ・ジョブズばりの、思いがけない興奮するような傑作を生み出す能力を内包したクリエーターを、どうして育成して行くのか。
   これこそが、日本の最も重大な課題であろう。
   日本人気質から教育システムまで、根本的に換えなければならないのか、有能な若者を一匹狼として海外へ脱出させなければならないのか、それが疑問である。

   私は、クリエイティビティの創造の方に興味があったので、その方面ばかりをレビューしたのだが、この本のタイトルである、第6章の「これからの100年をデザインする――新しい社会システムを作り上げる」において、著者は、非常に意欲的で示唆に富む日本の未来像を俯瞰提案していて、感動的でさえある。
   
   

   
コメント (1)
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