アメリカでは、「原爆投下は戦争を早く終わらせ、数百万の米兵の命を救うため、トルーマンが決断した」というのが通説になっている。即ち、大統領が決断した意義ある作戦ということで、ジュネーブ条約に反し一般市民の非戦闘要員を的にして、大量殺害した事実に蓋をしていた。
1945年2月にソ連領ヤルタで、アメリカとイギリスとソビエトそれに代理として中国がそろそろ決着がつきそうな、第二次世界大戦後の勢力図を模索した。しかし、日本はソビエトとは不可侵条約を締結していて、ドイツが敗戦した後鈴木貫太郎首相が米英などとの間を取り持つように模索していた関係にあった。
その半年後の7月に、ソビエトが進駐しているベルリン郊外のポツダムに首脳が集まって日本に無条件降伏を迫ったのである。8月15日に日本は、ポツダム宣言を受け入れ無条件降伏する。ポツダム宣言はアメリカとイギリスと中国が、無条件降伏を日本に迫ったのである。
ヤルタもポツダムも場所を提供し、仕切ったのはスターリンである。ところが、ヤルタのアメリカはルーズベルト大統領、イギリスはチャーチル首相、中華民国は蒋介石(代理)であったが、ポツダムではルーズベルトは4月12日に死去、チャーチルは選挙に負けてアトレーが途中で交代している。つまり、この二つの会議はすべて、日本が和睦の仲介を依頼していたスターリンの独壇場だったのである。
ルーズベルトがしきょ急死した時に、偶然副大統領だったトルーマンが大統領に昇格した。全く国政にかかわりのなかったトルーマンに、極秘に原子爆弾を開発していたマンハッタン計画は引き継がれなかった。1942年から始まったマンハッタン計画は、22億円も注ぎ込んでいた。責任者のグローブス准将の説明で、トルーマンは原子爆弾を理解できなかった。グローブスは研究成果と原爆の効果を証明したかった。グローブスは何としても原爆使用をしたかったのである。
トルーマンも陸軍長官のスディムソンも、軍事施設への使用としてこれを認めた。グローブスからは広島や新潟や京都や小倉の軍事施設への限定使用としてトルーマンは認めたが、事実を後程知ることになる。
そこで、アメリカのスタンダードになっている原爆使用の説明が演説の原稿から外れて、「多くのアメリカ国民を救うために投下した」と説明した。これがその後のアメリカの、スタンダードになっているのである。
ルーズベルトの死去と戦後予測される東西冷戦を意識しながら、政治に全く素人のルーズベルトが大統領になったこと、それに極めて狡猾に立ち回ったスターリンの存在が、広島長崎への原爆投下の人類史上類例を見ない悲劇を生んだのである。