日々の暮らしから

「街中の案山子」「庭にいます。」から更にタイトル変更します。

亡き犬「モモ」を想う

2006-01-12 08:09:40 | その他
ピンチヒッターだったこともあり、決して良い飼い主だとは思っていなかった。
先月飼い犬「モモ」が16歳になる少し前に死んだ。
だけれども、日に1~2度、そのことが私の感覚にまだ馴染んでいないことに気付く。

寒中の今ごろは仕事から帰宅するときは、とっぷりと暗い。
ガレージに入れた車から降りるとき、「モモはいないから、待っているわけじゃないんだ」と、一呼吸している自分に気付く。

「朝からずっと留守番で悪いね。待っていた?」
「こっちも草臥れているんだから、今しばらくまっていてね」
と、無意識のうちにやり取りしていたのだろう。

そして「もう寒いの我慢することもなくなったのだから…」と、そう自分と会話している。

そこから去ったものは何も言わない。形もない。
だけれど、「モモが待っていないから、もういいんだ」なんて、自分のココロに説明している。
そういえば、ずっと「子供が夕飯を待っているから」と気が急いた時期を過ごしてきた。
「待っているから」と気が急いていたことが一つ一つ取り払われて、先月死んだモモに対するこの感覚も消えうせてしまうと、若かった月日も失せるように思ったりする。

人はわがままで、いくつもの枷(かせ)に縛られていると、その枷のあることを嘆き、枷から自由になると、必要とされていないことを嘆くようになるのだろうか。

あっ、「人」って言ってはいけませんね。「わたし」です。


コメント
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