日々の暮らしから

「街中の案山子」「庭にいます。」から更にタイトル変更します。

おもちゃ売り場に通うようになって、、、。苦笑

2016-01-19 15:49:05 | 私の雑感あれこれ
テレビでは今日は北海道から北陸にかけて吹雪いていると報じている。

ウチの地方は、風は冷たいものの青空。朝と午後に1時間余りずつ庭仕事。
ようやく、目途が立った。(前にも同じ表現したかしら?なんども反芻しているもので、ついつい、ほっとしている気分が出てきます)

孫へのプレゼントを買うためにおもちゃ売り場に縁がある人になっています。苦笑

ウン十年ぶりの印象。
プラスチック玩具が、わが子を育てていたころよりも、概して安く感じます。
きっと、製造コストが研究されていて、海外生産可能なものは安価な労働力の下で作られているのでしょう。
よく似たおもちゃも健在です。以前はもっと値が張ったはずなのに、汎用品として廉価。

でも、お値打ち価格ばかりじゃありません。
祖父母からのプレゼントを想定しているものは、立派な価格設定されているように見受けます。さすが~!


リカちゃん人形つながりで、女の子用のおもちゃ売り場の感想を書きます。

いわゆるシリーズものというのか、リカちゃん人形、こえだちゃんと木のお家シリーズ、シルバニアファミリーシリーズ、うさこちゃんシリーズ、ミッフィーの絵柄など、私が幼子を育てていた昭和50年代頃のメンバーが生き残っているのです。
びっくり、というか、おもちゃ業界、新たな売れ筋を考えるのを放棄して、2匹目のドジョウ狙いばかりしているんだ、というのが、何十年もご無沙汰していた後の初印象です。
そりゃそうでしょう。生まれてからの1歳児~4歳児の成育する段階で湧く好奇心に流行なんてないのですから。
子どもにはブランドの価値は分からない。それを買う親の方は、傍系のお人形さんより、主流の(売れ筋の)おもちゃにしておこう、という発想が沸く。
でも、十年一日では飽きられる(購買者である親に)。だから、ちょこっと趣を変えてみたり、工夫がされてチョイスしてもらおうと陳列棚に並んでいるのです。

これがかわいいのだ、という刷り込みが、幼い子に与えられ始めるスタート。
2頭身のウサギだったり、8頭身の栗毛でおめめばっちりの女の子だったり。

それにしても、30年以上もブランドイメージを保持しつつ存在し続けているって、企業努力すごいですね。新しいものがバンと出てくると面白いのに、、、とまったくの外野なので、無責任に思ったりします。

そういえば、私の幼いころは(50~60年前)はありませんでしたよ。街におもちゃ屋さんがなかった。テレビもなかった。だから、お祭りの縁日の屋台としてやってくるおもちゃ屋さんでセルロイドの人形を買ってもらえるのがどれほど嬉しかったか。
それでも、子どもは育ちます。あっはは

ということは、おもちゃって、子どものためにあるのではなく、おもちゃ屋さんのためにあるのだろうか、とそんな風にも考えてしまう天邪鬼です。


※ 大学入試問題「こくご」では、リカちゃん人形の商品形態の移り変わりを論じていた。幼い子どもの需要品としてのおもちゃが必要に迫られて変化下のではなく、買い手(親)の購買欲をいかに継続させていくか考えての変化なのに、そのことについてはなんも書かれていなかった。そっか、書き手にとって、そもそもおもちゃを需要するのは大人だという発想だからなのかしら。














コメント (2)
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夜汽車に乗った記憶。

2016-01-19 09:12:20 | 私の雑感あれこれ
前記事つながりで、遠い記憶を思い出したりしています。
(本当は、ウン十年ぶりで覗くようになったおもちゃ売り場の感想も描きたいのだけれど。それは後日)

それは昭和31年の3月。前記事と年号を揃えるとしたら、1955年だから、時代は小説の5年後ですね。
三等車というものはなく、普通車(?)とか2等車だったと思います。北陸線の最寄駅から大阪行きの夜行に乗りました。母が連れていたのは、4月から小学生の私と2歳の弟。各駅停車です。随分後になって母は「あの時は、(空いていた2席に)お前が横になって寝ていたのに、お客が載ってきて、起こされちゃってね~」と。勿論指定席ではないから、仕方がありません。母は、関西に住む妹をどうしても訪ねたかったのだろうと、今は、そこを思います。
以前にも書きましたが、父はシベリア抑留から帰ってきてから、私と弟が生まれています。妹夫婦は戦後中国からの引揚者で、故郷に引き上げて数年暮らした後、都会で事業を始めていたのです。長距離電話など贅沢な時代ですから、どれほどの連絡を取っていたものかわかりません。身一つのようなスタートを切って、ようやく目鼻がついたところだったのでしょうか。しっかり者タイプの母のことですから、妹のことが心配でならなかったのかもしれません。
私の初めての都会へ行く汽車旅でした。カーディガンを新調してもらったような記憶があります。なにせ、遠い都会へ行くのですから。そして、初めて靴下というものを履いた記憶です。親指と人差し指の間に仕切りがなくてスースーしているものだな、という感触が残っているのです。それまでは、幼稚園児でも足袋を履いていました。この感覚、若い人には理解できるかしら?足袋は破れたらつくろいながら履いていたし、こはぜ(留め具)は保存していたものだから、手作りの足袋に使いまわしたのかもしれません(私にはこの経験はありません)。
その関西のおばさん宅には、1歳年上と2歳年上のいとこがいました。もうすぐ小学校の私は、嬉しくてワクワクだったのでしょう。そこの2年生の男の子の「こくご」の教科書を読んだ記憶、話の中身も覚えています。その時の私の写真、ブックりほっぺ、ですよ。苦笑
お巡りさんが交差点の真ん中で笛を吹いて誘導していました。本に出ているのと一緒!やっぱり都会はすごいな~と思いました。もうひとつ思ったことを覚えています。国道2号線に面しているお家だったので、こんなに道路が広いと向かいのお家に遊びに行くときに困るだろうな~、どうするんだろう、ということでした。毎日の私の遊び相手は、お向かいの2歳年上の絹子ちゃん(本名書いちゃえ!今思うと名前もクラッシックですね)でしたから。
随分後になって、母から聞きました。
あの時は、片道切符だったのだと。お姑さんから、帰りの汽車賃は向こうから出してもらえといわれての大阪行きだった、と。
だから、宝塚に連れて行ってやりたくても、お金がかかるから行けなかった、と。
そんなこと不知の子供でしたから、連れて行ってもらった動物園でみたチンパンジーの仕草など何度も語り草にしたものです。
大人の事情、子知らず、ですね。

以上、すっかりセピア色した話です。

その10年後ぐらいでしょうか。
北陸の最寄駅でのシーンを覚えています。
汽車、駅つながりで記しておきます。

帰省した叔母さんが大阪に帰るのを見送りに行きました。
男兄弟はいるものの、女はふたり姉妹。その叔母さん、母の妹です。
母は、お昼に汽車の中で食べたら、と駅の売店でいくつかのパンを買っておばさんに渡しました。(注、小さな駅なので駅弁は売っていない)
叔母さんは、「姉さん、パンはいらない、お昼の心配はしなくていいの」と固辞しているのに、母はどうしても持って行けと、押し付けていました。
その頃の叔母さんの家は事業も軌道に乗りだし、従業員も使ってい羽振りもよくなっていたのでしょう。
「お昼は乗換駅で鱒の寿司を買って食べるからいらないの」と。

そこのところは、記憶に残っています。
母は、何をしてやったら妹のためになるか、自分がしてやれることはないか、と考えて、昼ごはんに困らないようにと行動したのに、社会は評判の駅弁を楽しむ世の中になっている。そのズレがなんとも、こころに触れたものでした。

きっと、私も、母の態度に叔母さん的対応をいっぱいしているのだろうな。







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