日々の暮らしから

「街中の案山子」「庭にいます。」から更にタイトル変更します。

雑感。

2016-03-26 08:30:02 | 私の雑感あれこれ
昨日は地域の保育園の卒園式に列席しました。
卒園児はピッカピカ。笑
卒園証書をひとりひとり受け取って、付添いのお母さんにひとこと、というシーンがあるのですが、お母さんのほうが胸がいっぱいの様子でした。6年間の想い出もまだ、昨日のことのようでしょうからね。


生活相談を受けたりすることもないではありません。
ご夫婦そろって80歳越えの高齢者家庭。
お子さん、といっても50代ですが、そのうちの一人が障碍者という家庭があります。
直接、ご当人と話したのではないのですが、
思うのは、50年も子供のことを気にかけ続けてこられたのだな~ということ。
周りから見ると、「ああ、障碍者の方がいるお宅」で終わってしまうけれど、
ご当人とすると、ずっと、自分の問題として抱えて生きることが、人生の大半になってこられたのだと、遠くから思うばかりです。

「ご近所と付き合うことより、障碍者を抱えた母親同士での付き合いがほとんどだったようよ」
などと小耳にはさむと、心にズシンときます。

障碍者が生まれるかどうか、なんて、まさしく、「たまたま」なのに、その「たまたま」の当事者になったとたんに、抱える事柄がすっかり変わります。
内輪に障碍者を抱える家庭がありませんでした。ご近所のお子さんのケースや子供の同級生といった場合でした。
極力応援する側をやってきました。でも、どれだけ優しく応援しても、抱える当事者の立場とは別物。到底成り変われないものだと思っています。
だから、その80歳超えの50年間障碍者の世話をし続けてきた方のお気持ち、、、、。大変だったろうな、という陳腐な言葉しか出ません。

いよいよ、自分が要支援、要介護を受ける段階になり、さて50代の障碍者の子供をどうするか。
世間では(社会的には)いろいろな案もあることでしょう。
でも、そのお母さんにとっては、どんな案でも不足で、ずっと、ずっと、自分のそばで面倒見たい、という感情がぬぐいきれないだろうと思ったりします。

一度、施設に入れたけれど、気に入らなかったから、戻した、という経緯があるそうです。
その施設が不適切だったのか、社会生活をしたことがないから、どこであってもなじめないのか、藪の中、です。

もう、親も子も施設利用せざるを得ない時が迫っているようです。

障碍者施設に隣接して高齢者介護施設が建っているところを探している、とか。

そう聞くと、ますます、いじましく思われます。

障碍者が産まれたのは、障碍者に生まれたのは
「たまたま」なだけなのに。




コメント (2)
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