司馬作品では直近に「峠」(文庫本4冊)、「歳月」(文庫本2冊)を読んでいる。いずれも出会えてよかった本です。
他の作者の本も含めて、江戸から明治にかけての時代を知るにつけ、単に自分の欲望を満たすことではないところに価値観を置く(意義を見出す)日本人の思考を育てるもとになったのは、なんだろう、と思うようになりました。
武家諸法度や禁中並びに公家諸法度というのを昔暗記したことがあるけれど、そんな各藩の名君に見られる質素を旨とする価値観が育つ基はどこからきているのだろう、とおもうようになりました。
古代ローマに戦乱がなかった幾代の皇帝の時代を「パクスロマーナ」(平和なローマ時代)というのに倣って、260年続いた江戸時代を「パクストクガワ」といういい方がされるという。
素人(わたし)的には、家康にはいいイメージ持っていないのだけれど(そもそも知らない)、幕府の開祖である家康は、戦国の混乱を再び招かぬように知恵を絞り、後継者もそれに習ったのだろうと、家人に言ったら、家康自身は独創的なタイプじゃなかったから、幼いころから辛苦をなめてきた家康は、先人のいろんなところを取り入れての政治をしていったと思うよ、と。
そうか~。・・・なにしろ素人なので、すぐに説得されてしまいます。
じゃあ、その先の時代を生きた人を書いたものを読もう、ということを考え、
たまたま、読める状態にあった
「箱根の坂」上・中と読み、今、下巻の後半です。
前置きが長くなりましたね。
この本にたどり着いた私的事情、なんです。
時代は15世紀の京都。応仁の乱のさなか。
応仁の乱は知っていても、名前と年号程度でした。
司馬解説でしょうが、詳しく述べられています。足利将軍家の相続争いが山名宗全派、細川勝元派に分かれて何年にもわたり諍い、地方から出てきた国侍たちが、京都の街に火を放ち、御所も貴族の館も焼け落ちたという。
どちら側に大義名分があるというものでもなかった。守護、地頭の姿も、読んでこそ実感が伝わってくる。地域民百姓の搾取され方のひどさったらない。
家柄がものをいう時代、伊勢家の末端の系譜につらなる、伊勢新九郎(のちの早雲)の一代記です。
孟子を何度か引き合いに出しています。
以下青字部分引用
(新九郎のちの早雲は)一つの主題を生涯保ち続ける精神的体質をもっていた。
「『孟子に』」と、かれはしばしばこの過激な書物にあるところのことばを引用した。『孟子』にあっては、悪王であった殷王紂を武王が倒したことは善であるとする。紂は王たるものがもつべき仁をわすれ義をわすれて暴虐のかぎりをつくしたために、孟子にいわせればすでに王ではなく、一夫にすぎない。周の武王がこれと戦い、牧野の一戦でこれを斬ったのは君を弑したのではなく一夫を斬っただけだ、とするために、古来、日本は中国から書籍を輸入するが、『孟子』だけは来ない。『孟子』を積んで日本に向かう船はかならず沈没するからだ、と信じられている。
早雲は、駿河の守護職今川氏の幼世継ぎを育むに当たり、願うべき守護職の役割を教えています。
駿東の地頭職になりますが、年貢徴収の4公6民を貫き、近隣の酷税に苦しむ地下((じげ)農民。この時代は農民が武器を手にして戦場に出る)からは、あこがれの領地に見られたほどになった。
地下の利益の代表者という意味では革命者ともいうべきだろう。
この時代は、
権門の座はあくまで私欲の対象であり、その座が治国平天下のためにあるなどという後世(江戸期)の思想はかけらもなかった。
古来、長らく飢餓の時代だったといわれる。まったく、生きづらさそのもの。(私たちの先祖の時代でもあるのです)
こういう時代を経て、ポリシーある指導者が出、戦がなくて食べていける時代に歩みを進めて、今日に至っていると、地味~に実感しています。
大勢の司馬遼太郎作品ファンがおられますが、私は、横入り、というか、正統派読者じゃないと思っています(苦笑)。
いわゆる戦国の武将ものは読んでいませんから。でも、司馬さんという大きな土塊を、貧弱な熊手で掻き崩そうとしている状態でしょうか。読むたびに、その土壌の肥沃さに圧倒されます。司馬さんは、この国を作ってきた日本人が好きなんだな~と感じます。こんなひともいるんだよ、と教えてもらって、感謝の連続です。
つけたし。
北条早雲はいわゆる北条氏とは関係ない人です。伊豆の北条という地域を拠点にしたときに、周りが彼をそう呼んだのであり、当人は一度も北条早雲を名乗ってはいないそうです。
他の作者の本も含めて、江戸から明治にかけての時代を知るにつけ、単に自分の欲望を満たすことではないところに価値観を置く(意義を見出す)日本人の思考を育てるもとになったのは、なんだろう、と思うようになりました。
武家諸法度や禁中並びに公家諸法度というのを昔暗記したことがあるけれど、そんな各藩の名君に見られる質素を旨とする価値観が育つ基はどこからきているのだろう、とおもうようになりました。
古代ローマに戦乱がなかった幾代の皇帝の時代を「パクスロマーナ」(平和なローマ時代)というのに倣って、260年続いた江戸時代を「パクストクガワ」といういい方がされるという。
素人(わたし)的には、家康にはいいイメージ持っていないのだけれど(そもそも知らない)、幕府の開祖である家康は、戦国の混乱を再び招かぬように知恵を絞り、後継者もそれに習ったのだろうと、家人に言ったら、家康自身は独創的なタイプじゃなかったから、幼いころから辛苦をなめてきた家康は、先人のいろんなところを取り入れての政治をしていったと思うよ、と。
そうか~。・・・なにしろ素人なので、すぐに説得されてしまいます。
じゃあ、その先の時代を生きた人を書いたものを読もう、ということを考え、
たまたま、読める状態にあった
「箱根の坂」上・中と読み、今、下巻の後半です。
前置きが長くなりましたね。
この本にたどり着いた私的事情、なんです。
時代は15世紀の京都。応仁の乱のさなか。
応仁の乱は知っていても、名前と年号程度でした。
司馬解説でしょうが、詳しく述べられています。足利将軍家の相続争いが山名宗全派、細川勝元派に分かれて何年にもわたり諍い、地方から出てきた国侍たちが、京都の街に火を放ち、御所も貴族の館も焼け落ちたという。
どちら側に大義名分があるというものでもなかった。守護、地頭の姿も、読んでこそ実感が伝わってくる。地域民百姓の搾取され方のひどさったらない。
家柄がものをいう時代、伊勢家の末端の系譜につらなる、伊勢新九郎(のちの早雲)の一代記です。
孟子を何度か引き合いに出しています。
以下青字部分引用
(新九郎のちの早雲は)一つの主題を生涯保ち続ける精神的体質をもっていた。
「『孟子に』」と、かれはしばしばこの過激な書物にあるところのことばを引用した。『孟子』にあっては、悪王であった殷王紂を武王が倒したことは善であるとする。紂は王たるものがもつべき仁をわすれ義をわすれて暴虐のかぎりをつくしたために、孟子にいわせればすでに王ではなく、一夫にすぎない。周の武王がこれと戦い、牧野の一戦でこれを斬ったのは君を弑したのではなく一夫を斬っただけだ、とするために、古来、日本は中国から書籍を輸入するが、『孟子』だけは来ない。『孟子』を積んで日本に向かう船はかならず沈没するからだ、と信じられている。
早雲は、駿河の守護職今川氏の幼世継ぎを育むに当たり、願うべき守護職の役割を教えています。
駿東の地頭職になりますが、年貢徴収の4公6民を貫き、近隣の酷税に苦しむ地下((じげ)農民。この時代は農民が武器を手にして戦場に出る)からは、あこがれの領地に見られたほどになった。
地下の利益の代表者という意味では革命者ともいうべきだろう。
この時代は、
権門の座はあくまで私欲の対象であり、その座が治国平天下のためにあるなどという後世(江戸期)の思想はかけらもなかった。
古来、長らく飢餓の時代だったといわれる。まったく、生きづらさそのもの。(私たちの先祖の時代でもあるのです)
こういう時代を経て、ポリシーある指導者が出、戦がなくて食べていける時代に歩みを進めて、今日に至っていると、地味~に実感しています。
大勢の司馬遼太郎作品ファンがおられますが、私は、横入り、というか、正統派読者じゃないと思っています(苦笑)。
いわゆる戦国の武将ものは読んでいませんから。でも、司馬さんという大きな土塊を、貧弱な熊手で掻き崩そうとしている状態でしょうか。読むたびに、その土壌の肥沃さに圧倒されます。司馬さんは、この国を作ってきた日本人が好きなんだな~と感じます。こんなひともいるんだよ、と教えてもらって、感謝の連続です。
つけたし。
北条早雲はいわゆる北条氏とは関係ない人です。伊豆の北条という地域を拠点にしたときに、周りが彼をそう呼んだのであり、当人は一度も北条早雲を名乗ってはいないそうです。