日々の暮らしから

「街中の案山子」「庭にいます。」から更にタイトル変更します。

懲りないのは ⇒ ワタシ

2019-04-01 14:10:18 | 歴史探訪・城巡り
前記事で、明日は、名古屋城の復元なった『本丸御殿』行き~~、♪♪♪

と、私、ルンルンだったでしょ。

なのに、、、、友人からのメールで、お城の正門前の集合時間を11時にしてほしい、と。
その理由が、某地下鉄駅近くの駐車場が朝10時じゃないとあかないから、と。

また~~。

前回、京都へ日帰りで向かったときは、新幹線に乗って間もなく、夫に外食させたくないから夕方5時、6時には自宅に戻りたい、て言われてゲンナリしたのに。計画いっぱい立てて、情報交換して楽しみにしていた旅だったのに。

今回は(確定じゃないけれど)どこかのスーパーの駐車場に一日無料で停めておきたいから、という理由だと思う。クソッ

彼女は、最寄駅のスーパーに一日停めておいて都心にコンサートだかに出かけていたときに、駐車場内で誰かが彼女の車にぶつかって傷つけ、その大型スーパーは管内アナウンスをしたけれど、ドライバーの彼女は館内にはおらず連絡取れなかったという経験をしているのに(私なら恥ずかしいと思う)、また、駐車料金節約作戦を取ろうとしている。そのために本丸御殿を観る時間が減ることには、関心が至らない、のです。

このメールを、久しぶりのホットヨガへ行く途中で受け取った。

朝、前記事書いたところの私は、当然 腐る。

あっ、京都の時とは別人物です。

私の友人って、興味が違うんだから、仕方がない、のでしょう。

ここは、ガマン。

弟宅で、弟嫁さんにいろいろ語ったのだから(苦笑。彼女、もと社会科の教師で、歴史旅が好き。こちらとのほうがタイプが近い)、
そう、だれとでも話が合うなんて言う贅沢は望めない。トホホ

返信するのも、ムムッだったのだけれど、帰宅してから、集合場所を変えましょう、と返信した。
たっぷり見たい人は、先に行って観る。ランチメインの人だったら、11時集合もよし、と考えることにしました。
即座に、二人から、了解、とメール。

明日は、私、たっぷり楽しみます。

大阪城の石垣を見て、名古屋城の外堀(空堀)近辺を自転車で乗り回している私としては、富山城の石垣が急ごしらえに見えて仕方がなかった。苦笑

確か、名古屋城内に加藤清正の騎馬像がありました。なんで名古屋城にと思ってそれまででしたが、今だと造営の加勢に加わっていたのだろうと考えるようになりました。





コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大阪1泊旅行。

2019-04-01 09:20:21 | 歴史探訪・城巡り
充実した旅行だった。

書き留めておきたくて、ベットの中で、あのこともこのことも、と綴りたいことを思いめぐらしていたのだけれど、1週間経過して
果て、うまく書けるかどうか。

目的は、一度は訪問したい東大阪市にある「司馬遼太郎記念館」でした。
そして、もう一つは、緒方洪庵の「適塾」。
日帰りにすると行程があわただしいからと、1泊することにしました。
都市部への旅行が好きではない夫ですが、今回は同行。車で行けるのでフットワークはよくなり、助かります。
宿は、国家公務員共済経営のKKRが1室空きアリ、ということで確保できました。
場所は大阪城のお堀の南側。高層階の窓からは、広大な外堀の石垣と大阪城正面が一望できるベストロケーション。室内はリニューアルされたばかりという快適空間でもありました。

なにしろ大都市のど真ん中なので駐車場が大変です。ホテルの駐車場が翌日12時までOKとのことで、翌朝は8時半ごろにはお城に向かいました。
お城そのものはコンクリート造りですが、大阪城の歴史紹介にたっぷり浸れるので、自称歴女(苦笑)には興味深い時間でした。
5階まで、展示物、資料を観て、解説を聴きながら階段で登っていきます。
豊臣秀吉の大阪城と夏の陣で焼け落ちた後、盛り土をして作られた徳川の大阪城はそもそも別物ということを認識できました。
天守閣のある城を初めて作ったのは、織田信長の安土城(1576年)。徳川が夏の陣の後に作った大阪城は1620年代。天守閣のある城が作られたのは、この50年間だけのことというのも、今回の大阪城行で教えられたことのひとつです。

その江戸期に徳川氏が作った大阪城は石垣造成にも丁字割といって工事区間を各藩に分担させているのです(資料が残っている)。
命じられた各藩の財政的負担はさぞかし、です。徳川幕府の中央集権を徹底させるために利用されていたんですね。
手抜きは咎められ、おおきなペナルティーがあるでしょうし、取入ろうという魂胆もうごめいているでしょう。非民主社会の構図というのはこういうものかと思いながら、見学を進めました。
そのお城も40年ほどで、落雷で焼け落ちているんです。
で、徳川の直轄ですから大阪城代は常に置かれているのだけれど、大阪城はずっと再建されないまま200年ほど経過したとのこと。知らなかった~。江戸期後半(1800年代)になって、天守閣以外の部分が復元されたそうです。(・・・後日整理したいと思っています)
でも、その復元された居城の部分も戊辰戦争で焼失。また焼け落ちたということです。

そういえば、江戸城も明暦の大火(1600年代)で焼け落ちて、天守閣はその時以来再建されていない、と去年の江戸城訪問で知りました(天守台は残っている)。経済的負担を慮って天守閣の再建はしなかった、とあった記憶です。

戦闘の時代でなくなったから必要性も薄れたのでしょう。大阪、江戸、双方で天守閣の再建をしていない、という節も私にはなんだか経済の営みの一方程式のようで興味深く感じられるのです。

大阪夏の陣の前、1610年から造営に取り掛かった大きな城があります。名古屋城です。明日、友人らとここに行く予定です。
去年復元した本丸御殿が完成しました。征夷大将軍になり江戸に徳川幕府を開いたとはいえ、まだ、大阪に豊臣秀頼がいます。その大阪への備えもあって作られた城ですから、さぞかし威を誇っていたことでしょう。名古屋城も江戸期の大阪城と同じく天下普請です(外様大名に割り振って負担させた)。現代とは格段に重機の差があるのに、よくもこのような石垣が作られたものだと、感激屋の私はひきつけられてしまいます。外堀沿いの道路から眺めるだけで城内に入ったのは2度ぐらいでしょうか。久しぶりの名古屋城も楽しみです。

アレレ、話が城話(しろばなし)にそれてしまいました。オソマツ。

司馬遼太郎記念館と適塾は、ホームページを貼っておきます。
それぞれ感想は、たっぷりあるんですけどね。苦笑











コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今の私だから気が付く。うっふふ

2019-04-01 08:55:53 | 私の雑感あれこれ
弟の運転で街中を走っていると、歩道を黒っぽい服装の男の子が小走りに行きます。
背中に『ランドセル!』
そう。3月月末。春休みのはずです。

ピーンときました。

小学校入学に備えての「練習」でしょう。

ほほえましい。

案の定、パパ風の男性の姿も後から確認できました。

娘に、この様子を見たとメールすると、折り返し、

我が家も練習しています、と。

ついでにと言って、満開の桜をバックにしたランドセル姿のピカピカさんの画像が届きました。

きっと、日本全国の初めての子を入学させる若いパパ、ママ、そして本人の緊張のシーズンでもあるのでしょう。

スムーズに小学校生活がスタートしてくれますように、ちよっと祈るような気持ちもあります。

我が家の孫、新一年生は、ちょっと独特の問題児というか、個性の持ち主。

お祝いかねて、これはと思った(偶然耳にした)、本

「教科書こくご」斉藤孝著 3月28日初版発行を予約注文しておいた。


29日に本人宛に届いたそうだが、本人は図書館から借りて帰った本を読むのに夢中で、周りからの声が届かない、とメールで。苦笑

今週末は東京行き。体力をアップさせておかないと。⇒ ワタシ




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ようやく復調。そして北陸行き。

2019-04-01 06:50:34 | 健康
久しぶりにPCの前に。
というか、「母の顔を見に」の北陸行きから戻ってきた。

金曜の夕方、ショートスティ先に迎えに行って、土日と弟夫婦たちと過ごすのだけれど、日中はベットにもいかず、夕食後も夜9時までずっと茶の間。耳が遠いので、超シンプルな話しかできないのだけれど、私たちがにこやかな語らっているところにいたいらしい。

母は息子と同居で何よりも幸せ~、の一点張りなのだけれど、私としてはいろいろ考えてしまう。

体調不良で、薬を飲んでだましだましの長旅だった。
お昼過ぎに到着。迎えに来てもらった帰りに一緒にお昼を外食するのだけれど、その時注文した「ちゃんぽんうどん」とやらも完食できずに残ってしまうほどだった。

弟嫁さんの配慮のタラ鍋(しっかりと味の沁みた白菜、なめこ、豆腐も美味しかった)とお粥で、順調に回復にむかった。  
いつもはお寿司を注文した、というバージョンなのだけれど、お寿司は食べられない、うどんぐらいがいい、と事前メールしていた。
翌日も同じメニューで、とお願いして、美味しかった~。

介護はケースバイケースとつくづく思う。
弟にずっと介護報酬相当を払う形を続けてきているけれど、それが底をついたら(苦笑)、年金内で入居できる特養ホームに行くこともあり、かな?それにしても、死ぬまで年金があるのはありがたい。

それにしても102歳まで生きるとはすごいことなのだけれど、母の金銭感覚への頭の柔らかさにも、おやっ、と思わせられてきた。
大正5年生まれ。ずいぶん昔のことで19歳年上の長男が発展家で事業家タイプだった。母は事業(タクシー会社経営)に失敗した兄の借金の返済の応援をする(仕送りをする)ところから社会人人生のスタートを切ったらしい。戦争で夫が9年間召集され、自分が姑と幼子の生活を支えなければならなかった。だから当然、節約、倹約人生だったでしょう。ところが、ケチではない。お金を使うことを弁えているっていうのでしょうか、振り返ってそれを思います。そんな母の思い切りの良さ、クヨクヨしていても時間がもったいない、という割り切り方を見させてもらった、と思っています。だから、世の中いろいろでしょうけれど、兄にもそうだったように、弟にも受け取ってくれ、とお金を抱え込みません。それが、、、、102歳まで来て、少なくなったと、、、管理している弟からの報告。
最後まで使い切るなんて、見事ではないですか。そんな思いです。お金がナイナイと愚痴って生きるのではなく(父が働いた時代の波が良かった影響もありますが)、貰ってくれ、もらってくれと言って、使い切るなんて。ビバ102歳!  です。

帰りの高速バスではすっかり体調の心配がなくなりました。
「よくも長時間(バスに)乗ってきたね~」と弟嫁さんに言われたほど、不調の陰りが残っていた。
車中で周りの人が食べるお菓子の匂いがムカムカと鼻につき、お土産に持参したシュークリームも一緒に食べることができず、状態の無理を押して挙行したのですから。

待っているだろう母の気持ちのこと、ネット予約した乗車券をキャンセルするのが?だったこと。以降次々とスケジュールが入っていること、などで、順延はしたくなかった、のです。








コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする