「池の縁」(「志賀直哉小説選、昭和六十二年五月八日発行)
こどもの様子(ことば)を活写している。連作のうち「赤帽子・青帽子」。志賀直哉は気分屋で家族が困ったらしい。それで、気分がいいときは「青帽子」、悪いときは「赤帽子」をかぶって知らせてくれればいいのに、と家族が言い合っているらしい。それを聞いた9歳になる直吉が志賀直哉の顔色をうかがいながら、きょうは「赤かな? 青かな?」と志賀直哉の顔をのぞきこむ。
そして、志賀直哉とあれこれやりとりをして、うるさがられる。
それでも、直吉はやめない。
「いまは青だが、おまえがさう煩さくすると直ぐに赤になるんだ」
「さうかな? 少し笑つてゐるぞ。眼が笑つてゐるぞ。本統に赤の時は眼が笑はないよ」
「煩さい。降りてろ。そろそろ桃色になつて来た」
「笑はなくなつたな。笑はなくても未だ青らしいぞ」
「本統によせ。さう煩くされると、青から一つぺんに赤くなるぞ」
「早く帽子を作らないから悪いんだよ。さうすれば一々訊かなくても分つて便利なんだ」
「だから口ではつきり云つてゐる」
「それが嘘だつたら、どうする?」
子供は程といふ事を知らない。
「うるさい奴だ。男はさうべたべたするものぢやない」私は邪険に直吉を膝から押して降した。母や妻が笑つた。
地の部分に、ぱっと1行書かれている「子供は程といふ事を知らない。」という1行が、非常に強い。地の部分なのだが、説明という感じがしない。それは、まるでその場にいあわせた母や妻に対して語った「大人向け」の会話のように聞こえる。声には出さなかったが、実際、志賀直哉は、母や妻に対して、そう言ったのだろう。
そういう調子がそのまま生きているので、直吉と志賀直哉の「会話」のあいだに挿入されているのに、その会話の調子を壊さないのだ。「私は邪険に直吉を膝から押して降した。母や妻が笑つた。」という文章と比較すると、その違いがとてもよくわかる。
これは、とても巧みだ。
会話と会話のあいだの説明は会話の調子を維持すると、会話を邪魔しない、ということが常識かどうか知らないが、あ、うまい。すごい。と、ただ感心する。
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