布川鴇『沈む永遠 始まりにむかって』(思潮社、2015年10月20日発行)
布川鴇『沈む永遠 始まりにむかった』のことばには不思議な「距離感」がある。
「想起のメディア ベルリン・ユダヤ博物館」という詩。第二次大戦のときの、ユダヤ人迫害の歴史を記録している博物館を描いているのだろうか。
二連目で「記憶の場所」を「記憶としての場所」と言い直している。この「言い直し」のなかに、布川の「ことばの肉体」がある。そこに「ことばの肉体」の「動き」を読むことができるかもしれない。
「記憶の場所」と「記憶としての場所」はどう違うか。
「記憶の場所」は「記憶している場所」と読むことができる。「わたし」が「記憶している場所」と読み直すことができる。しかし、そこには布川自身の「記憶(思い出/体験/歴史)」があるわけではないだろう。「わたし」の「記憶している場所」であるとしても、その「わたし」は布川ではない。
「だれか」が「記憶している場所」。「ユダヤ人」が「記憶している場所」か。しかし、「ユダヤ人」という「総称」が、その建物を「記憶している」ということはないだろう。
「記憶の場所」は「幾人ものユダヤ人の記憶が残る場所」であり、それは「ユダヤ人ひとりひとりの記憶を保存している場所」ということになる。
このとき重要なのは「場所」よりも「ひとりひとりの記憶」になる。その建物でユダヤ人に対して何かがおこなわれたのではない。「さまざまな場所」でユダヤ人ひとりひとりに対しておこなわれた。「記憶の場所」は、その「記憶」を保存している(展示している)「場所」という「意味」になるだろう。
そして、そのことは「ひとりひとりの記憶」には「ひとりひとりの場所」がある、という具合に読み替える必要もある。アウシュビッツだけで暴力がふるわれたわけではない。「記憶の場所」は「場所の記憶」でもあり、その切り離せないものが「記憶として」、その「場所」に保存されている。
私たちはそこで「場所/展示している建物」を「見る」のではなく、そこに展示・保存されている「記憶」に出会う。「記憶されている場所/ここではない場所/暴力がふるわれた場所」を見る。ひとりひとりのユダヤ人に出会う。そこには「だれのものともわからない靴音(肉体の動き)」が響いている。「肉体」の動きが「記憶」として残っている。「時間(歴史)」が残っている。そして、その「歴史の場」が残っている。
「記憶の場所」を「記憶としての場所」と言い直すのは、そういうことを明らかにするためだろう。
「薄暗い階段」は、その建物の「階段の薄暗さ」であると同時に、ユダヤ人ひとりひとりが歩かなければならなかった「薄暗い階段/階段の薄暗さ」である。布川の「靴音」は「だれのものともわからない靴音」と重なるのではなく、「薄暗さ」を歩いた(歩かされた)ユダヤ人ひとりひとりの靴音と重なるのである。ユダヤ人であるとわかっているけれど、「だれのものともわからない」と言わなければならないところに、「歴史」の残酷さがある。非情さがある。「だれのものともわからない靴音」だけれど、そのひとりひとりの足音が、押し寄せるようにして「わたしの背後」「わたしの脇」を「通る」のを布川は「肉体」で感じ取る。
そのとき。
「ユダヤ人の記憶」は「布川の記憶」そのものになる。布川は「ひとりのユダヤ人」になる。
この一種の「錯覚」が「記憶の場所」ということばを誘い出す。一瞬「わたしの記憶」と勘違いする。この「わたしの記憶」を「いのちの記憶」と言い直せば、それは「人間の記憶」に結晶していくのだが、簡単にそう言い直すには「ユダヤ人の記憶」は重すぎる。「ユダヤ人の記憶」といってしまうと、「ひとり」「ひとり」が消えてしまう。「ひとり/わたし」ではなくなってしまう。「わたしの記憶」と言ってはいけない。言い直してはいけない。「ユダヤ人の記憶」は「ユダヤ人ひとりひとりの記憶」であって、「ユダヤ人の記憶」とひとくくりにすると違ったものになってしまう。
そういう思いが、また、「記憶の場所」を「記憶としての場所」と言い直させているのだろう。「ひとりひとり」が「記憶」として、そこに「生きている場所」と言い直すべきだと布川は感じているのかもしれない。
布川は「わたしの感情」におぼれてしまわない。「わたし」を「だれのものともわからないもの」と「一体化」させない。そればかりか、「わたし」自身をも「わたし」と「一体化」させない。「わたし」は「ひとり」であるはずなのに、その「わたし」を分離して、「客観化」しようとしているように見える。
「わたし」が体験したことなのに、「わたしの体験」と「わたし」から切り離して「体験」そのものを抽象化(結晶化)し、その抽象/結晶化するという「ことばの運動(ことばの肉体)」のなかで、読者と出会おうとしている。
「記憶の場所/記憶としての場所」に引き返して言い直すと……。
ユダヤ人はナチスによって大虐殺された。それを「ユダヤ人」の問題としてではなく、「大虐殺」という「行為/事件」そのものの「動き」、だれにでも起きうる「動き」を「記憶」として残している場所、ということになるのか。「虐殺する/虐殺される」はナチス/ユダヤ人だけのあいだで起きることではなく、「いのち」のあるところで起きることである。「だれのもの」とは言えないことである。ユダヤ人という「くくり」を超えて、人類の「こと」としてとらえなおす「場所」が「ユダヤ博物館」が「大虐殺博物館」になり、また「人類(歴史)博物館」にもなる。そういう「抽象化」をいったんとおって、もう一度「ユダヤ人」に「戻る」。
「言い直し」は単なる「言い直し」ではなく、かならず「往復運動」になる。
布川は、ことばをとおして、布川自身の「体験」を「往復」している。「言い直す」ことで、そういう「往復運動」へ読者を誘っている。
ただ、その「言い直し」は「記憶の場所/記憶としての場所」のように具体的に繰り返されていないので、それが見えにくい。そのために、何か「距離感」として、読者をとおざけてしまう。私は、何か、遠ざけられているように感じてしまう。
だが、この「距離感」を私たちは布川のように往復しながら縮めていかなければならない。往復しながら自分自身の「肉体」にしなくてはならない。そういうことを要求してくる詩集である。
そういう「往復」をしたあとで、次の連を読む。
「人の名」「記憶としてだけの名」。その、もう一度繰り返される「言い直し」。そのことばにふれながら、「記憶」ということばににつまずき、「記憶としてだけの名」から「生きている人の名」への「距離」を埋めるために、ことばを鍛えなおさないといけない、と強く思う。
*
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布川鴇『沈む永遠 始まりにむかった』のことばには不思議な「距離感」がある。
「想起のメディア ベルリン・ユダヤ博物館」という詩。第二次大戦のときの、ユダヤ人迫害の歴史を記録している博物館を描いているのだろうか。
始めの一歩は地下につながる薄暗い階段だった
だれのものともわからない靴音が
集団となって下りて行く
わたしの背後から わたしの脇を通り
かれらはどこに向って進んでいるのか
わたしの想像と畏れを誘ったベルリン
記憶の場所 記憶としての場所
歴史の想起を促す巨大な建築はそこに在った
二連目で「記憶の場所」を「記憶としての場所」と言い直している。この「言い直し」のなかに、布川の「ことばの肉体」がある。そこに「ことばの肉体」の「動き」を読むことができるかもしれない。
「記憶の場所」と「記憶としての場所」はどう違うか。
「記憶の場所」は「記憶している場所」と読むことができる。「わたし」が「記憶している場所」と読み直すことができる。しかし、そこには布川自身の「記憶(思い出/体験/歴史)」があるわけではないだろう。「わたし」の「記憶している場所」であるとしても、その「わたし」は布川ではない。
「だれか」が「記憶している場所」。「ユダヤ人」が「記憶している場所」か。しかし、「ユダヤ人」という「総称」が、その建物を「記憶している」ということはないだろう。
「記憶の場所」は「幾人ものユダヤ人の記憶が残る場所」であり、それは「ユダヤ人ひとりひとりの記憶を保存している場所」ということになる。
このとき重要なのは「場所」よりも「ひとりひとりの記憶」になる。その建物でユダヤ人に対して何かがおこなわれたのではない。「さまざまな場所」でユダヤ人ひとりひとりに対しておこなわれた。「記憶の場所」は、その「記憶」を保存している(展示している)「場所」という「意味」になるだろう。
そして、そのことは「ひとりひとりの記憶」には「ひとりひとりの場所」がある、という具合に読み替える必要もある。アウシュビッツだけで暴力がふるわれたわけではない。「記憶の場所」は「場所の記憶」でもあり、その切り離せないものが「記憶として」、その「場所」に保存されている。
私たちはそこで「場所/展示している建物」を「見る」のではなく、そこに展示・保存されている「記憶」に出会う。「記憶されている場所/ここではない場所/暴力がふるわれた場所」を見る。ひとりひとりのユダヤ人に出会う。そこには「だれのものともわからない靴音(肉体の動き)」が響いている。「肉体」の動きが「記憶」として残っている。「時間(歴史)」が残っている。そして、その「歴史の場」が残っている。
「記憶の場所」を「記憶としての場所」と言い直すのは、そういうことを明らかにするためだろう。
「薄暗い階段」は、その建物の「階段の薄暗さ」であると同時に、ユダヤ人ひとりひとりが歩かなければならなかった「薄暗い階段/階段の薄暗さ」である。布川の「靴音」は「だれのものともわからない靴音」と重なるのではなく、「薄暗さ」を歩いた(歩かされた)ユダヤ人ひとりひとりの靴音と重なるのである。ユダヤ人であるとわかっているけれど、「だれのものともわからない」と言わなければならないところに、「歴史」の残酷さがある。非情さがある。「だれのものともわからない靴音」だけれど、そのひとりひとりの足音が、押し寄せるようにして「わたしの背後」「わたしの脇」を「通る」のを布川は「肉体」で感じ取る。
そのとき。
「ユダヤ人の記憶」は「布川の記憶」そのものになる。布川は「ひとりのユダヤ人」になる。
この一種の「錯覚」が「記憶の場所」ということばを誘い出す。一瞬「わたしの記憶」と勘違いする。この「わたしの記憶」を「いのちの記憶」と言い直せば、それは「人間の記憶」に結晶していくのだが、簡単にそう言い直すには「ユダヤ人の記憶」は重すぎる。「ユダヤ人の記憶」といってしまうと、「ひとり」「ひとり」が消えてしまう。「ひとり/わたし」ではなくなってしまう。「わたしの記憶」と言ってはいけない。言い直してはいけない。「ユダヤ人の記憶」は「ユダヤ人ひとりひとりの記憶」であって、「ユダヤ人の記憶」とひとくくりにすると違ったものになってしまう。
そういう思いが、また、「記憶の場所」を「記憶としての場所」と言い直させているのだろう。「ひとりひとり」が「記憶」として、そこに「生きている場所」と言い直すべきだと布川は感じているのかもしれない。
布川は「わたしの感情」におぼれてしまわない。「わたし」を「だれのものともわからないもの」と「一体化」させない。そればかりか、「わたし」自身をも「わたし」と「一体化」させない。「わたし」は「ひとり」であるはずなのに、その「わたし」を分離して、「客観化」しようとしているように見える。
「わたし」が体験したことなのに、「わたしの体験」と「わたし」から切り離して「体験」そのものを抽象化(結晶化)し、その抽象/結晶化するという「ことばの運動(ことばの肉体)」のなかで、読者と出会おうとしている。
「記憶の場所/記憶としての場所」に引き返して言い直すと……。
ユダヤ人はナチスによって大虐殺された。それを「ユダヤ人」の問題としてではなく、「大虐殺」という「行為/事件」そのものの「動き」、だれにでも起きうる「動き」を「記憶」として残している場所、ということになるのか。「虐殺する/虐殺される」はナチス/ユダヤ人だけのあいだで起きることではなく、「いのち」のあるところで起きることである。「だれのもの」とは言えないことである。ユダヤ人という「くくり」を超えて、人類の「こと」としてとらえなおす「場所」が「ユダヤ博物館」が「大虐殺博物館」になり、また「人類(歴史)博物館」にもなる。そういう「抽象化」をいったんとおって、もう一度「ユダヤ人」に「戻る」。
「言い直し」は単なる「言い直し」ではなく、かならず「往復運動」になる。
布川は、ことばをとおして、布川自身の「体験」を「往復」している。「言い直す」ことで、そういう「往復運動」へ読者を誘っている。
ただ、その「言い直し」は「記憶の場所/記憶としての場所」のように具体的に繰り返されていないので、それが見えにくい。そのために、何か「距離感」として、読者をとおざけてしまう。私は、何か、遠ざけられているように感じてしまう。
だが、この「距離感」を私たちは布川のように往復しながら縮めていかなければならない。往復しながら自分自身の「肉体」にしなくてはならない。そういうことを要求してくる詩集である。
そういう「往復」をしたあとで、次の連を読む。
壁や床を埋め尽くすおびただしい文字
読み取ることのできないほどのかすかな
人の名 記憶としてだけの名
かつて存在していたはずのものが
ただ記号になっていまそこに<居る>
ひと形の重量を失ったまま
「人の名」「記憶としてだけの名」。その、もう一度繰り返される「言い直し」。そのことばにふれながら、「記憶」ということばににつまずき、「記憶としてだけの名」から「生きている人の名」への「距離」を埋めるために、ことばを鍛えなおさないといけない、と強く思う。
沈む永遠―始まりにむかって | |
布川鴇 | |
思潮社 |
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なお、「谷川俊太郎の『こころ』を読む」(思潮社、1800円)と同時購入の場合は2000円(送料込)、「リッツォス詩選集――附:谷内修三 中井久夫の訳詩を読む」(作品社、4200円)と同時購入の場合は4300円(送料込)、上記2冊と詩集の場合は6000円(送料込)になります。
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