詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

詩はどこにあるか

2005-02-07 21:36:27 | 詩集
詩はどこにあるか(5)

西脇順三郎「イタリアの野を行く」(筑摩書房『定本西脇順三郎ⅩⅠ』)

 末尾の文章。

イタリアの夕暮もいずこも同じく美しい。貧しい家の窓から夫婦らしい男女が淋しそうに窓わくにあごをかけて夕やけをみていた。

 夕暮れの風景――風の変化、光の変化をいっさい描かない。そのかわりに、夕焼けを見ている人間を描く。
 このとき、夕焼けの描写がないのに夕焼けが見えるのはどういうわけだろうか。
 私のなかに、窓にぼんやりと体を預けて夕焼けをみた記憶――肉体の記憶があるからだろう。そして、そういう記憶は、おそらく誰にでもあるに違いない。

 視覚の記憶ではなく、あるものを見たときの肉体の記憶を揺り動かす。――ここに西脇の「詩」がある。「淋しい」ということばが西脇の文章に多く出てくるが、この「淋しさ」とは、肉体の記憶に触れるものの総称である。

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2291 Res 詩はどこにあるか(4)

 西脇順三郎「私の周辺」(筑摩書房『定本西脇順三郎ⅩⅠ』)

 都会と田舎(自然)について書いた文章の末尾。

二子たま川はまだいい。その土手に住む都会人はうらやましい。朝夕、庭の生垣に川ぎりがかかってくる。古木の梅も咲いている。そこで友人が書斎にとじこもり博士論文か何かを書いている。

 古い自然への愛着――それが「詩」なのではない。もちろんそのセンチメンタルにも詩は存在するが、あくまでそれはセンチメンタルである。「詩」はそうしたセンチメンタルと断絶した瞬間に姿をあらわす。
 昔懐かしい自然、素朴な味わい――そうしたものとは無関係に、友人は博士論文を書いている。その断絶のなかに「詩」は存在する。

 しかも、西脇の「詩」は、私がこうして書いている文章のように、あれこれ説明はしない。どんな脈絡もなく、唐突にあらわれて、消えていく。
 このスピードと軽さ。――スピードと軽さゆえの明晰さ。

 そして、それは「操作された」スピードであり、軽さであり、明晰さだ。

 これは口語そのものである。西脇は、口語で文章を書こうとした、口語のリズムを取り入れようとしていたことが、こうした短い文章の末尾からもわかる。
 この口語の感じは、次のように考えればよくわかると思う。
 人が川べりを歩いている。おしゃべりをしている。
 「ここはいいねえ。朝夕、庭の生垣には川ぎりがかかるだろう。」
 「ああ、いいねえ。古い梅の木も咲いている。」
 「あ、そうそう、この近くには友人がいるんだ。こんな風景も見ないで博士論文なんか書いているんだろうなあ、今ごろは。」
 風景と、友人の関係などない。何もない。しかし、私たちは、ふいにそういうものを思い出す。そして、おしゃべりのなかに、そうしたことばを撒き散らす。
 この瞬間、何が見えるか。
 単に、ある人が話した「友人」が見えるだけではない。友人を思い出している連れの人間そのものが見える。私たちが生きているこの瞬間、私以外の人間は私以外とは違ったことを考えているということが、唐突に、わかる。

 「他者」に触れる――その瞬間に「詩」は存在する。

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詩はどこにあるか(3)

平出隆「鳥の階段、その構想」(「現代詩手帖」2005年1月号)

 2004年11月21日に書き出して12月7日に書き終わった(らしい)ソネット。一日一行、書かない日は空白――という「構想」を「構造」にした作品である。
 「詩」は、もはやこういう領域、意識的な操作のなかにしか存在しないかもしれない。

 ことば、精神の動きをどこまで自覚するか、自覚してことばを動かすか。そうした意識の運動を端的にあらわしたのが、書き出しの3行目だろう。(一行目から引用する。)

この鳥は一日に一行を書くしぐさをして、自分の羽に日付を振る。  21.NOV.2004
一行を、昼夜のそろつた虚実の数が占めている。翌日の一行は
渡りの意識で書かれるだろう。翌々日、翼の端は断たれるだろう。

 「渡り」とは、詩における「行の渡り」である。ここでは、そのことばどおり、2行目から3行目にかけて、ことばが「渡り」構造をとっている。(ついでに書いておけば、「翌々日、翼の端は断たれるだろう。」の「翌々日」とは次の次の行のことであり、それは平出が書いているとおり「翼の断たれた」状態、つまり、鳥が飛んでいない状態――空白になっている。ソネットの「4・3・4・3」の構造を明確に浮かび上がらせる「空白」の一行となっている。

この鳥は一日に一行を書くしぐさをして、自分の羽に日付を振る。  21.NOV.2004
一行を、昼夜のそろつた虚実の数が占めている。翌日の一行は
渡りの意識で書かれるだろう。翌々日、翼の端は断たれるだろう。
一行は、深くその日の木々の姿に、枝々の揺れにつながつている。

一行なき一日なし、とはいうが、消印を捺された一行の長さには限りがない。
ただ時間と眠りとで、感情を丸め込まれたにすぎない。
素描しない一日とは、身をそのかぎりの空きとして示すことである。

 この、あくまでもことばを意識下におく、制御する。制御している自己を自覚し、なおかつことばを繰り出していく。
 ここに平出の詩の本質があるだろう。

 「詩」は感情や精神で書くのではない。「詩」はことばで感情や精神を作り出していくことである。それは一歩一歩階段を上るという行為に似ている。タイトルの「鳥の階段」にはそういう意味も含まれているだろう。

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詩はどこにあるか(2)

 西脇順三郎の『じゅんさいとすずき』(「定本 西脇順三郎全集ⅩⅠ」)に「野原を行く」という短い文章がある。年末の武蔵野を歩き、夕日の色に感じ入る。そしてセザンヌの色を思い、セザンヌ論を語り始める。
 西脇の書いているセザンヌ論は私が読んだなかでは一番気に入っている。
 私はセザンヌが大好きだが、ああ、セザンヌが好きで本当によかった――と感じる書き方である。その魅力を伝える西脇の文章に「詩」はもちろんある。ことばの全部が「詩」でるあことは間違いない。
 しかし、私が「詩」を感じるのは最後の一行だ。

  家に帰ってかがんだら、ドングリがころげおちた。

 この一行で西脇がどこを歩いてきたかが突然わかる。西脇が何をしてきたかが突然わかる。
 西脇は武蔵野歩き、ドングリを拾った。胸のポケットに入れた。きっとそのとき何かを考えた。しかし、そういうことはすっかり忘れてしまって、セザンヌについて考えた。
 ――この落差(?)の中にこそ「詩」がある。

 セザンヌの絵は美しい。セザンヌを語る西脇のことばも美しい。
 しかし、その美しさとは無関係に(非情に――と私は考える)、まったく別の世界が存在する。
 このときの、無関係な、あるいは遠いことば、遠い存在の急激な出会い、融合の中にこそ「詩」はある。


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詩はどこにあるか(1)

現代詩手帖2005年1月号
平田俊子「事件」

  睡蓮の花が咲いている
  新宿御苑の大温室
  プールの水に手をつけると
  意外なことに温かかった
  睡蓮ってお湯の中で咲くんだね

と始まるこの作品の第一連目に「詩」はあるか。あるとすれば「意外なことに」というきわめて散文的なことばのなかにある。このことばのなかでは、精神が明確に動いている。その動きが「詩」である。
 しかし、この作品の本当の詩は、実は末尾の「付記」にある。特に、その③

  ③ 「睡蓮が事件のように咲いている」という一行を入
    れたかったが、入れる場所が見つからない。入れる
    ほどのものでもないかもしれない。といいつつ、未
    練がましく一部をタイトルにつかった。

 私が「詩」を感じるのは、ここだ。
 精神が動いている。動いているが、明確な形にはならない。読者に「形」をゆだねている。読者は、その動きの中で、まだことばにならないことばに出会う。この瞬間に「詩」は姿をあらわす。



詩のほかに、日々、読んでいる詩についての感想を書き連ねます。
コメント (1)
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