飯島耕一「アメリカ」(思潮社)
二つのかけ離れた存在、たとえば人間と植物が出会う。融合するのではなく衝突する。そのとき何かが飛び散る。それはその瞬間にしか見えない。後からその何かを書きとめよう、説明しようとしても、その何かにはたどりつけない。
このたどたりつけなかったものこそが「詩」である。
だから飯島は説明しない。ただ衝突させるだけだ。
何かを衝突させたい、何かと何かをぶつけあわせたい衝動――そのなかに「詩」があると言い換えることができるかもしれない。
「詩」は存在するのではなく、「衝突」をとおして作り出されるものなのだ。
かけ離れた存在の衝突――それは「わが身」の外部においておこなわれるのではない。飯島自身の肉体の内部で、精神の内部でおこなわれる。このとき飯島の肉体、飯島の精神は善であり悪である。聖であり卑俗である。快感であり、同時に不幸でもある。
「詩」は矛盾した存在である。矛盾していなければ「詩」ではない。――矛盾とは、ある一方の立場から説明すればかならず説明しようとしたものとは違ったものが浮かび上がるということである。ある場所から別の理想の場所へ進んでいったつもりがかならず違った場所にもたどりついてしまうということである。
この、さびしい美しさ。――こうしたことばを書くために、飯島は「アメリカ」を書き始めたわけではないだろう。しかし、飯島がむきあっている現実、その「詩」から遠い現実のなかで「詩」を呼び覚ますために、さまざまなことば、たとえば「空は 欺かれる のに慣れ」というロルカの詩に似た一行(かつて飯島が書いたことば)をぶつける、そしてそのとき見えたものにしたがって突き進んでゆく。その結果、たどり着いてしまった世界。たどり着くしかできなかったさびしさ。
ここには、飯島しかいないのだ。
飯島がたどりついたアメリカは、アメリカではない。飯島はアメリカにたどり着いたが、それはアメリカではなく、飯島自身である――という矛盾。矛盾の形でしか語れないありようが、ここにある。「詩」として存在する。
そこにあるものが「詩」であるからこそ、アメリカはそれを恐れる。
「詩」の前で私たちにできること――それは恐怖に震えることである。
(「フルエテいる」という表現が、今回の詩集には何回か出て来る。震えること――震える体験をすることが「詩」であるとも飯島は語っているのかもしれない。)
人間は植物
植物は人間
馬は植物
植物は馬
男は女
女は男
樹液や 性液や 快楽の汗が
いろんな穴から したたり落ちる
(Ⅰ 陰気なマレンボ)
二つのかけ離れた存在、たとえば人間と植物が出会う。融合するのではなく衝突する。そのとき何かが飛び散る。それはその瞬間にしか見えない。後からその何かを書きとめよう、説明しようとしても、その何かにはたどりつけない。
このたどたりつけなかったものこそが「詩」である。
だから飯島は説明しない。ただ衝突させるだけだ。
何かを衝突させたい、何かと何かをぶつけあわせたい衝動――そのなかに「詩」があると言い換えることができるかもしれない。
「詩」は存在するのではなく、「衝突」をとおして作り出されるものなのだ。
何が善で 何か悪なのか
悪が善なのか 善が悪なのか
何が聖で 何か卑俗なのか
卑俗の聖 聖の卑俗
快感と 不幸の泥を
苦悩と 喜びの泥を
われとわが身に こすりつける
(「東銀座のフォト・サロンで」)
かけ離れた存在の衝突――それは「わが身」の外部においておこなわれるのではない。飯島自身の肉体の内部で、精神の内部でおこなわれる。このとき飯島の肉体、飯島の精神は善であり悪である。聖であり卑俗である。快感であり、同時に不幸でもある。
「詩」は矛盾した存在である。矛盾していなければ「詩」ではない。――矛盾とは、ある一方の立場から説明すればかならず説明しようとしたものとは違ったものが浮かび上がるということである。ある場所から別の理想の場所へ進んでいったつもりがかならず違った場所にもたどりついてしまうということである。
武器の谷のアメリカ
悲しいアメリカ
それは私だ
(「アメリカ」)
この、さびしい美しさ。――こうしたことばを書くために、飯島は「アメリカ」を書き始めたわけではないだろう。しかし、飯島がむきあっている現実、その「詩」から遠い現実のなかで「詩」を呼び覚ますために、さまざまなことば、たとえば「空は 欺かれる のに慣れ」というロルカの詩に似た一行(かつて飯島が書いたことば)をぶつける、そしてそのとき見えたものにしたがって突き進んでゆく。その結果、たどり着いてしまった世界。たどり着くしかできなかったさびしさ。
ここには、飯島しかいないのだ。
武器の谷のアメリカ
悲しいアメリカ
それは私だ
私から癒えようとするアメリカ けっして私にはなれない
私を恐がっている
(「アメリカ」)
飯島がたどりついたアメリカは、アメリカではない。飯島はアメリカにたどり着いたが、それはアメリカではなく、飯島自身である――という矛盾。矛盾の形でしか語れないありようが、ここにある。「詩」として存在する。
そこにあるものが「詩」であるからこそ、アメリカはそれを恐れる。
「詩」の前で私たちにできること――それは恐怖に震えることである。
(「フルエテいる」という表現が、今回の詩集には何回か出て来る。震えること――震える体験をすることが「詩」であるとも飯島は語っているのかもしれない。)