詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

詩はどこにあるか(8)

2005-02-14 21:46:12 | 詩集
西脇順三郎「じゅんさいとすずき」の「あとがき」(筑摩書房『定本西脇順三郎ⅩⅠ』)

 九月の中頃私は小田急の線路の柵の外を走る小路を憂鬱な思いで家路を急いだ。するとその柵に沿ってアカザとヨモギが密生している。それで私は漢文をよくするある若い英文学者に電話した。ただ遊びにこないかといった。実はそれを見せたかったのだが、それを見に来たまえというとあまりにセンチメンタルに思われるのがなさけなかったからである。

 この文章の「なさけなかった」に「詩」がある。「恥ずかしい」でも「気後れ」でもない。「なさけない」――この口語の不思議な響き、「NA・SA・KE・NA・I」ということばのなかにある「あ」の音の繰り返しの美しさ。「なさけなかったからである」と発音するとさらにその音が広がる。
 西脇のことばには、意味以上に音楽の美しさ、音楽としての「詩」がある。

 この文章にはつづきがある。

しかし彼は用があってこられなかった。(略)一週間ほどたってから、またその道を行くと、もうその藪のしげみが綺麗にかりとられていた。線路係の工夫が義務としてそうしたのだが、私にとっては残念なことだ。なにかその藪にいた虫が知らしたのか電話をかけたのであった。

 「義務」ということばのつかいかたもおもしろいが、最後の「虫の知らせ」のつかいかたがとてもおもしろい。ユーモアがある。
 西脇のことばのつかいかたには、あれ、そのつかいかたはちょっと違うぞと感じさせるものがある。普通はそんなふうにはつかわない。わかっていて、わざとずらしてつかう。
 このとき「虫の知らせ」という、感覚的であいまいなものが、実にリアルなものにかわる。そして不思議な快感――笑いにつながる快感を覚える。

 これは「意味」を骨抜きにする笑いだ。
 ここにも西脇特有の「詩」がある。
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「グランド・フィナーレ」を読む

2005-02-14 21:44:08 | 詩集
阿部和重「グランド・フィナーレ」(文芸春秋2005年3月号)第132回芥川賞受賞作。

 文章が非常に幼稚だと感じた。こんな文章が本当に芥川賞なのだろうか、と疑問に感じた。

 「午後三時半頃に、二、三年生くらいの女児二人が一〇枚入りの折り紙セットをお買い上げになったあとは、文房具店の時間は完全に止まり、学校の脇道を行き交う通行人さえいなくなってしまった。」

 この「お買い上げになった」とはなんという日本語だろう。客に対する「敬語」のつもりだろうか。そうだとしても、小説の描写にこういう表現はないだろう。単に「買った」「買っていった」が自然だろう。
 「行き交う通行人」もひどい表現である。通行人は行き交う人のことである。「行く人」「歩く人」で十分だろう。だいたい、学校の脇道などを人が行き交うことすら現実には少ないだろう。学校の脇道は登下校のときにこどもが通るものと決まっている。
 
 文章がずさんすぎる。こうした文章が編集者の目をすり抜けて「文学」として発表されることに疑問すら感じる。

 また、この小説には現実の世界の事件が登場人物の会話の形で取り上げられている。その取り上げ方は、登場人物のものの見方の浅薄さをあらわしているといえばあらわしているのだろうが、現実の捉え方にリアルさがない。
 さまざまな事件には現実の危険が潜んでいる。それを事件としてではなく日常として文章に定着させなくては小説とはいえないだろう。日常に潜む危険を、肉体に伝わるように書かなければ小説とはいえないだろう。



 一か所、「コーラの炭酸がすっかり抜けてしまうと、闇夜の海が波も立てずにしーんと静まり返ったかのような終末感をちっちゃく漂わすが、わたしの暮らしぶりも大体あんな感じだった。」という文章だけがおもしろく感じられた。
 この小説の登場人物(主人公)にとっての「終末」とはコーラの炭酸が抜けた状態とつながっている。そういう卑小な感じがなまなましく伝わって来る。
 そうした文章がもっと綿々とつづくとおもしろい小説になるだろうとは思う。
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