詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

詩はどこにあるか(7)

2005-02-11 21:42:50 | 詩集
西脇順三郎「伊太利紀行」(筑摩書房『定本西脇順三郎ⅩⅠ』)

 西脇の文章は口語で書かれている。リズムが口語である。詩も口語で書かれているが、文章の方がそのリズムが口語であることがわかりやすい。
 たとえば

或る星の晩、このフラスカーテイの山腹にある料亭へ行くとき、まっくらな小路を通った。そうすると、その小路は香水をまきちらしたように薫っている。それはその料亭の入口をおおっているスイカズラの花であった。

 「星の晩」「小路」「香水」「薫る」――こうしたことばはいかにも詩っぽい。ロマンチックな雰囲気をかもしだす。しかし、そうしたもののなかには詩はない。詩と俗に思われている、その「俗」だけがある。西脇は、こうした俗をまきちらしながら、リズムそのものを「詩」に変えていく。
 つづけて書けば、というか、そうしたことばを緊密な関係の中で書いてしまえば、文体が「俗」に染まってしまう。
 西脇はそういうリズムを拒否し、肉体が発見したものを、発見した順序のまま、ただ並べていく。

 文語は、発見したものをいったん頭の中で整理し、読者にわかりやすいように構成したことばで書かれる。口語は、そうした手数を踏まない。ただ、今、目の前にあるもの、純粋な体験を、純粋なまま(整理せずに)発し続ける。
 このリズムの中に「詩」がある。西脇の書こうとしたもの、あるいは書き続けた「詩」がある。
 ことばは、唐突である。唐突に変化し、その変化がおわるたびに世界が次々に広がる。その変化のリズムの「詩」がある。
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