池井昌樹「だれ」(現代詩手帖2005年1月号)
池井の最近の詩には漢字が少ない。漢語はもっと少ない。池井は漢字、漢語をつかわずに詩を書いている。ひらがなで書いている。このことに何かしらの意味はあるのか。ある、と私は思う。
この詩で「だれ」と呼ばれている「ひと」は実は「ちいさなちいさなこ」である。「小さな小さな子」であるなら、「だれなのかしらあの小さな子は」というのが普通だろう。私たちは普通、「人」と「子」を区別して考えている。「人」とは対等な関係にあるが「子」に対しては対等ではない。「子」に対しておとなはいつでも優位に立っている。
この詩が「だれなのかしらあの人は」と書き出されていたら、その「人」が実は「子」であったとわかったとき非常に違和感があると思う。
ひらがなには、何か概念を溶かしてしまって、透明な情感が流れる、その流れの中に読者を誘い込む力がある。ある気持ち(感情を含む概念)を、感情や概念からときほぐし、気持ちそのものに返してしまう力がある。
池井は、この詩では感情を書いているのではない。気持ちを書いているのだ。気持ちを書くためにひらがなを選んでいるのだ。
「ひと」と「こ」は「人」と「子」と書いたときに比べると、ずいぶん印象が違う。(私だけかもしれないが。)「ひと」と「こ」は溶け合うが「人」と「子」は溶け合わない。象形文字(漢字)の持つ象徴性が、気持ちではなく感情、観念をかってにつくりあげてしまうのだろう。
池井は、気持ちが感情(とりわけ概念)になってしまう前の世界へ入っていこうとしている。気持ちが気持ちのままにある状態で、放心し、そこからもう一度気持ちそのものとして立ち上がろうとしている。
現代はいろいろな便利なことば(概念)にあふれている。そして私たちはたぶん概念で現実を理解し(あるいは単に説明し)何かがわかったと勘違いしている。便利な概念にあわせる形で私たちの思考や感情を整理している。
池井はそうした作業に反旗を翻している。
奥深いところに生きている気持ち、ふわふわしていて説明できない生の気持ち、とらえどころのないものへと手探りで接近し、そこに流れている透明な思い、いつの世もかわらない気持ち、親が子を思いはらはらするような気持ち、はらはらしながら見守られ安心する子供の気持ち――その交流のようなものをつかみとってくる。
そのつかみとりかたに「詩」がある。
池井の最近の詩には漢字が少ない。漢語はもっと少ない。池井は漢字、漢語をつかわずに詩を書いている。ひらがなで書いている。このことに何かしらの意味はあるのか。ある、と私は思う。
だれなのかしらあのひとは
あんなにかなしいおそろしい
あんなにつかれたかおをして
わたしをじっとみるひとの
そのめがあんまりかなしくて
あんまりあんまりさびしくて
まばたきひとつできません
なきだすこともできません
ひとさしゆびをくちにいれ
おもちゃもごはんもそっちのけ
ちいさなちいさなこがひとり
わたしをじっとみています
だれなのかしらあのひとは
この詩で「だれ」と呼ばれている「ひと」は実は「ちいさなちいさなこ」である。「小さな小さな子」であるなら、「だれなのかしらあの小さな子は」というのが普通だろう。私たちは普通、「人」と「子」を区別して考えている。「人」とは対等な関係にあるが「子」に対しては対等ではない。「子」に対しておとなはいつでも優位に立っている。
この詩が「だれなのかしらあの人は」と書き出されていたら、その「人」が実は「子」であったとわかったとき非常に違和感があると思う。
ひらがなには、何か概念を溶かしてしまって、透明な情感が流れる、その流れの中に読者を誘い込む力がある。ある気持ち(感情を含む概念)を、感情や概念からときほぐし、気持ちそのものに返してしまう力がある。
池井は、この詩では感情を書いているのではない。気持ちを書いているのだ。気持ちを書くためにひらがなを選んでいるのだ。
「ひと」と「こ」は「人」と「子」と書いたときに比べると、ずいぶん印象が違う。(私だけかもしれないが。)「ひと」と「こ」は溶け合うが「人」と「子」は溶け合わない。象形文字(漢字)の持つ象徴性が、気持ちではなく感情、観念をかってにつくりあげてしまうのだろう。
池井は、気持ちが感情(とりわけ概念)になってしまう前の世界へ入っていこうとしている。気持ちが気持ちのままにある状態で、放心し、そこからもう一度気持ちそのものとして立ち上がろうとしている。
現代はいろいろな便利なことば(概念)にあふれている。そして私たちはたぶん概念で現実を理解し(あるいは単に説明し)何かがわかったと勘違いしている。便利な概念にあわせる形で私たちの思考や感情を整理している。
池井はそうした作業に反旗を翻している。
奥深いところに生きている気持ち、ふわふわしていて説明できない生の気持ち、とらえどころのないものへと手探りで接近し、そこに流れている透明な思い、いつの世もかわらない気持ち、親が子を思いはらはらするような気持ち、はらはらしながら見守られ安心する子供の気持ち――その交流のようなものをつかみとってくる。
そのつかみとりかたに「詩」がある。