鈴木忠志演出の「酒の神デュオニュソス」を見た。(2月13日、北九州劇場)驚くほど洗練された舞台である。舞台装置は小さな椅子と壁だけ。音楽はシンプル。そして役者は能役者のように最小限の動きしかしない。ほう、と溜息が洩れてしまう。
しかし、感動するかといえば、私は感動しない。鈴木忠志が狙っている「ことば」を肉体として立ち上がらせる、その屹立することばと肉体を極限において出合わせるという手法は見ていて心地良い。確かにそこに鈴木の狙った「劇」はある。しかしそれは「芸術」としての劇に過ぎない。
私はもっと乱暴なものを見たい。かつて白石加代子はたくあんをかじりながら、あるいは吐き出しながらせりふを言った。包丁を客席のそばまで放り投げ、観客がぎょっとするのを見て、にたーっと笑ってからせりふを言った。ぎょっとさせ、同時に陶酔に引き込んでいく魔力が消えてしまっている。
富山の合掌造りの村の、古い古い農家。その古い家の構造のなかで役者の肉体がすり足で静かに動く。そして、その肉体の奥から声が立ち上って来る。しかもギリシャ悲劇のことばが立ち上って来る。そのいかがわしさのなかに、洗練とは対極にある「劇」の特権、見せてしまえば勝ちという力業というものがあった、と懐かしく思うのは私だけだろうか。
しかし、感動するかといえば、私は感動しない。鈴木忠志が狙っている「ことば」を肉体として立ち上がらせる、その屹立することばと肉体を極限において出合わせるという手法は見ていて心地良い。確かにそこに鈴木の狙った「劇」はある。しかしそれは「芸術」としての劇に過ぎない。
私はもっと乱暴なものを見たい。かつて白石加代子はたくあんをかじりながら、あるいは吐き出しながらせりふを言った。包丁を客席のそばまで放り投げ、観客がぎょっとするのを見て、にたーっと笑ってからせりふを言った。ぎょっとさせ、同時に陶酔に引き込んでいく魔力が消えてしまっている。
富山の合掌造りの村の、古い古い農家。その古い家の構造のなかで役者の肉体がすり足で静かに動く。そして、その肉体の奥から声が立ち上って来る。しかもギリシャ悲劇のことばが立ち上って来る。そのいかがわしさのなかに、洗練とは対極にある「劇」の特権、見せてしまえば勝ちという力業というものがあった、と懐かしく思うのは私だけだろうか。