詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

詩はどこにあるか(14)

2005-02-28 15:02:19 | 詩集
西脇順三郎「肩車」(筑摩書房『定本西脇順三郎Ⅰ』)

 西脇の詩の文体は破壊されている。日本語本来の文体とは異なっている。これは、「詩はどこにあるか(13)」で触れた森鴎外の文体と大きく異なる点である。

昨夜は噴水のあまりにやかましいので
睡眠不足になつたことを悲しみ合つた

 この文体が奇妙に感じられるのは、文体が奇妙にねじれている印象があるからだ。そして、その原因の一つに「悲しみ合つた」という表現が影響している。普通は「悲しみ合つた」とは書かず「互いに悲しんだ」と書くだろう。「喜び合った」は不自然ではないが、「悲しみ合つた」が不自然に感じるのは、たぶん、悲しみというのは人間が一人で受け止めるべきものだという思いがどこかにあるからだろう。

 西脇が書いていることを、普通はどう書くか。私なら「噴水の音がやかましく聞こえたので昨夜はよく眠れなかったと互いに愚痴をこぼしあった。」と語順を整理し「悲しみ合つた」という表現も変えるだろう。
 ところが、私の書いた文章では「詩」は消えてしまう。
 ここが「詩」の不思議なところである。

 西脇は、私たちが普通に書いてしまうことがらを、わざとごつごつした文体に変えて書く。このとき、西脇は西脇で、日本語の文題を非常に意識している。鴎外が伝統を吸収して、それにのっとって書いたのに対し、西脇は、伝統を破壊しながら書く。
 そのとき、ことばが互いに独立する。無意識につながる世界からことばが独立する。独立しながら、互いにぶつかり合う。そうすることで読者の意識を組み立て直す。
 その瞬間に「詩」がたちあわられてくる。

 こうした効果に「やかましい」という口語が占めている位置は大きい。「うるさい」と比較すると「やかましい」は肉体に深く響いて来る。直接的な印象がある。そうしたことばが、「寝不足」ではなく「睡眠不足」ということばと結びつくとき、私の意識は少しくすぐったくなる。揺さぶられる。そして、それに念押しするように「悲しみ合つた」ということばがつづく。

 「よい文章」(名文)というのは、鴎外の文章のように、伝統に根ざし、知らず知らずに読者の意識を美しい芳香へ到達させる文章のことだろう。
 西脇は、文章ではなく、ことばひとつひとつを独立させようとしている。
 ことばが独立することが「詩」である。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

詩はどこにあるか(13)

2005-02-28 14:38:40 | 詩集
森鴎外「うたかたの記」(「鴎外選集」第一巻 岩波書店)

雨弥々劇しくなりて、湖水のかたを見わたせば、吹寄する風一陣々、濃淡の竪縞おり出して、濃き処には雨白く、淡き処には風黒し。

 末尾の「濃き処には雨白く、淡き処には風黒し」はまるで漢詩の対句を読むような感じだ。実際に、ここには漢詩の伝統が反映されている。
 描写が漢詩風だから、そこに「詩」があるというのではない。
 伝統を踏まえる、様式を踏まえるというところに「詩」がある。

 鴎外の文章を読むとき、単に鴎外の文章を読んでいるのではない。鴎外のなかに生きている漢詩の伝統を読んでいる。
 こうした呼吸のなかに「詩」がある。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする