詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

詩はどこにあるか(17)

2005-03-03 23:36:31 | 詩集
西脇順三郎「旅人かへらず」(筑摩書房『定本西脇順三郎Ⅰ』)

三八
窓に欅の枯葉が溜まる頃
旅に出て
路ばたにいらくさが咲く頃
帰つて来た
かみそりが錆びてゐた

 「かみそりが錆びてゐた」に「詩」がある。欅、いらくさという自然の情景(季節)に人間の生活をぶつける。人間の日常をぶつける。しかも、鉱物であるかみそりにも、草木のように時間の変化を感じさせるものがあるという現実をぶつける。

 このとき「詩」が生まれる。「詩」はいつでも思いがけないものの出会いだ。そして、いつでも納得できる出会いだ。
 私たちはいつでも自己中心的な時間を生きる。たとえば欅を見る、いらくさを見る。そのときは草木の変化の中に季節を見るという時間を生きている。そういう視点で世界をみている。
 ところが世界をつくっているのは、草木だけの時間ではない。鉱物にも時間があるのだ。
 
 この発見の中に「詩」がある。新しい精神の運動のなかに「詩」がある。
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詩はどこにあるか(16)

2005-03-03 22:38:23 | 詩集

月下獨酌  李白

花間一壷酒
獨酌無相親
挙杯迎明月   (「迎」は表示できないので、意味上あてた文字です)
対影成三人

花間(かかん) 一壷(こ)の酒
独り酌んで相親しむもの無し
杯を挙げて名月を迎えて
影に対して三人と成る
         (「唐詩三百首 1」東洋文庫)


 「成る」が「詩」である。
 月と影と私。それは「人」ではない。しかし、「人」ととらえ、「三人」と見る。そして、それを「成る」と書く。
 本当は三人ではないけれど、それを三人にしてしまう。そうした精神の動きのなかに「詩」がある。
 
 「成る」ではなく、「なす」のである。そうした積極的な精神の動き、今までなかったものをつくりだす――そこに「詩」がある。「詩」を生み出す精神の動きがある。


醒時同交歓
酔後各分散
永結無情遊
相期遥雲漢   (「遥」は意味上あてた文字です)

醒むる時 同(とも)に交歓し
酔うて後 各(おのおの)分散す
永く無情の遊びを結び
相期す雲漢遥かなるに

 「無情」とは人間の情とは無関係ということである。
 人間の情とは無関係なものを、一瞬の内に結びつける。そのときの劇的な運動の中に「詩」がある。
 「成る」にも、そうした劇的な運動がある。

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詩はどこにあるか(15)

2005-03-03 00:11:51 | 詩集
西脇順三郎「旅人かへらず」(筑摩書房『定本西脇順三郎Ⅰ』)

旅人は待てよ
このかすかな泉に
舌を濡らす前に
考へよ人生の旅人
汝もまた岩間からしみ出た
水霊にすぎない
この考へる水も永劫には流れない
永劫の或時にひからびる
ああかけすが鳴いてやかましい
時々この水の中から
花をかざした幻影の人が出る

 「ああかけすが鳴いてやかましい」の一行を読むたびに「詩」を感じる。「詩」とは唐突にあらわれる現実である。しかも肉体に直接響いてくる現実である。
 「永劫」などという概念をあざわらうかのように、そうした概念に頭が灰色になってしまうのを笑うかのように、カケスの声に現実に引き戻される。
 人があることを考えている。しかし、自然(カケス)はそういうことを配慮しない。西脇が何を考えていようが、そんなことは気にしない。鳴きたいから鳴く。自然と人間とは「情」のつながりがない。「無情・非情」の世界が、唐突にあらわれる。ここに「詩」がある。

 多くの詩があるが、私は、この西脇の一行にもっとも「詩」を感じる。
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