詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

詩はどこにあるか(28)

2005-03-17 23:34:40 | 詩集
西脇順三郎「近代の寓話」(「定本西脇順三郎全集Ⅰ」筑摩書房)


考える故に存在はなくなる
人間の存在は死後にあるのだ
人間でなくなる時に最大な存在
に合流するのだ私はいま
あまり多くを語りたくない
ただ罌粟の家の人々と
形而上学的神話をやつている人々と
ワサビののびる落合でお湯にはいるだけだ

 形而上学的な問題(人間の存在は死後にある云々)と「お湯にはいる」こととが同じ次元で語られる。この唐突なことばの出会いに「詩」がある。
 また「お湯にはいる」はきわめて肉体的な感覚である。
 形而上学と肉体との出会いが唐突で楽しい。

 この詩は、

アンドロメダのことを私はひそかに思う
向うの家ではたおやめが横になり
女同士で碁をうつている

とつづくが、この「たおやめ」から「女同士で碁をうつている」という展開も楽しい。女性が横になって(くつろいだ感じで)碁を打つ――碁というのは、多くの人にとって男がやるものだろう。それを女性が横になって打っている、というのは刺激的だ。
 こうしたことばが引き起こす乱気流のようなものにも、西脇の「詩」がある。
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詩はどこにあるか(27)

2005-03-17 11:47:33 | 詩集
ナボコフ「翼の一撃」(「ナボコフ短篇全集Ⅰ」作品社)

 主人公カーンがイザベルとダンスをしている。別の若者があらわれ、パートナーを交換する。今は、カーンは若い娘と踊っている。踊りながらカーンはふと思う。

音楽家の一人が白い口ひげをつけたのだが、カーンにはなぜだかそれが恥ずかしく思えた。

 この唐突な一行が「詩」である。
 カーンは若い娘と踊りながら若い娘のことを考えていない。イザベルのことを考えているのだが、そのことをそのまま書いてしまっては「詩」にはならない。単なる未練に、情緒にまみれたつまらないものになってしまう。
 イザベルの欠如――それを埋めようとするカーンの精神、肉体の彷徨いが、ダンス音楽を演奏しているミュージシャンに向けられる。そこにどんな迷路があるのかわからない。わからないけれど、その迷路を通り抜けたこころが唐突に口ひげをつける行為を恥ずかしいと感じる。

 この距離の遠さ、あるいは濃密な密着感――矛盾したどちらのことばでも受け入れる何物か。そこに「詩」がある。

 「詩」は気まぐれである。私たちの意図とは関係なしにやってくる。やってきて、立ち去っていく。その瞬間にだけ「詩」は浮かび上がる。
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