森鴎外「電車の窓」(岩波書店「鴎外選集」第2巻)
電車には、また別の男達も乗って来る。そして「鏡花の女」を見る。ある駅につくと主人公は鏡花の女を残して降りる。別の男達も降りていく。
この末尾に「詩」がある。
男達は何について話したのか。それは書いていない。しかし、それが何であるかは誰でもわかる。男達が実際に何を語ったかは問題ではない。その男達の姿、肘でつつきあうようす――それが主人公に語りかけるものがある。そして、それは、鏡花の女が目で「言ふ」のと同じように、肘でつつきあう姿をとおして主人公に言うのである。
その「言う」たものを語らないのは語ってもしようがないからである。読者が想像するとおりのものである。読者が想像できないならそれだけのことである。
「詩」と「余韻」はこのとき同じものになる。どちらも動かしがたく、くっきりと存在するものである。あいまいではなく、明確でありすぎるために、それまでのことばではとらえきれない(書いてしまえば嘘が混じる)存在が「詩」であり「余韻」である。
電車には、また別の男達も乗って来る。そして「鏡花の女」を見る。ある駅につくと主人公は鏡花の女を残して降りる。別の男達も降りていく。
廂髪の二人もここで降りたが、互に肘で突つ突き合つて囁いて、それから声高に笑ひながら、忽ち人込みに隠れてしまつた。
この末尾に「詩」がある。
男達は何について話したのか。それは書いていない。しかし、それが何であるかは誰でもわかる。男達が実際に何を語ったかは問題ではない。その男達の姿、肘でつつきあうようす――それが主人公に語りかけるものがある。そして、それは、鏡花の女が目で「言ふ」のと同じように、肘でつつきあう姿をとおして主人公に言うのである。
その「言う」たものを語らないのは語ってもしようがないからである。読者が想像するとおりのものである。読者が想像できないならそれだけのことである。
「詩」と「余韻」はこのとき同じものになる。どちらも動かしがたく、くっきりと存在するものである。あいまいではなく、明確でありすぎるために、それまでのことばではとらえきれない(書いてしまえば嘘が混じる)存在が「詩」であり「余韻」である。